カビと埃の匂いが混じり合う、四畳半のアパートの一室。
万年床の脇にはコンビニ弁当の空き容器と、吸い殻で山になった灰皿が転がっていた。
その薄暗がりの中心で、古いデスクトップパソコンのモニターだけが、青白い光を放っている。
小田切敦夫は、その光に無精髭の生えた顔を照らされながら、キーボードを叩いていた。
その指先は、まるでぬめりのある生き物を扱うかのように、ねっとりと動く。
検索窓に打ち込んだ名前は「神崎 麗奈」。先日の客だ。
あの女が泥のように眠りこけている隙に、バッグから抜き取った財布の中の運転免許証をスマートフォンで静かに撮影しておいた。
Enterキーを押すと、いくつかの検索結果が並ぶ。
その中の一つ、ウェブマガジンの特集記事のリンクをクリックした。
「…いい顔だ」
小田切はモニターの中のすました女の顔を値踏みするように見つめた。
その完璧に整えられた表情と数日前の記憶が脳内で重なり合う。
薬で意識を混濁させ、後部座席でぐったりと身を預けていた無防備な姿。
目を覚まし、自らの下半身に起きた惨状に気づいた瞬間の、あの信じられないといった絶望と混乱に歪んだ顔。
アンモニアのツンとした匂い。
黒いシートにじっとりと広がっていく、人間の尊厳が漏れ出した染み。
それらが鮮明に蘇り、小田切の体の芯をじわりと熱くさせた。
そうだ、この顔だ。
このプライドの高そうな女が自分の仕掛けた単純な罠にはまり、抗いようのない生理現象の前に無様に屈服する。
その過程を支配し、結果を目の当たりにすることこそが、小田切にとって何物にも代えがたい興奮をもたらすのだ。
彼は記事の文章など一行も読まず、ただその写真だけを凝視しながら、あの時の女の表情を反芻していた。
自分の掌の上で、女の理性が、プライドが、ゆっくりと溶けて崩れていく感覚。
その記憶だけで、体の奥底から得も言われぬ満足感が湧き上がってきた。
一度味わった蜜の味は、さらなる渇きを呼ぶ。
小田切はディスプレイのウィンドウを閉じると、デスクトップ上の「記録」と名付けられたフォルダをダブルクリックした。
中には日付と行き先で名付けられた動画ファイルが並んでいる。
彼はその中から「藤沢」と記されたファイルを探し出し、再生した。
すぐに、あの濃紺の夜の車内がモニターに映し出される。
ダッシュボードに固定されたドライブレコーダーの映像だ。
小田切は再生バーを操作し、記憶にある時間まで映像を飛ばした。
東名高速の単調な景色が流れていく。
やがて、後部座席からドスの利いた女の声が聞こえてきた。
『おい、アンタ』。小田切は口の端をわずかに歪めた。
威勢のいい女だ。こういうタイプほど、堕ちた時の様は面白い。
『悪いけど、次のパーキングで停めて。具合が悪い』
切羽詰まった声に小田切は映像の中の自分が冷静に応対するのを見た。
「ですから、高速なんでねえ」。
その直後だった。画面の外から、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、赤と青の光がめまぐるしく車内を明滅させる。パトカーだ。
『お客さん、大丈夫ですか? なんだか、顔色が悪いようですけど』
警官の問いかけ。絶好の機会だ。今ここで助けを求めれば、この状況から逃れられるかもしれない。
だが、女はそうしなかった。言えるはずがないのだ。
『…大丈夫、です。ちょっと、酔ってるだけなんで』
絞り出すような声で嘘をつく女の顔を見て、小田切は声もなく笑った。
腹の底から冷たく静かな笑いが込み上げてくる。
お前はもう、俺の支配下だ。
お前は自分で、その首輪を選んだのだ。
警官の前で見せる最後の虚勢。
その裏側で、女の肉体と尊厳が刻一刻と限界に近づいている様を想像すると、たまらない愉悦が背筋を駆け上った。
映像の中のパトカーが遠ざかり、車内に再び静寂が訪れる。
そして、その静寂を破るように鈍く湿った音が小さく響いた。
女が息を呑む気配。
あとはもう、ただ絶望に身を任せるだけの時間だ。
小田切は映像の最後まで、その一部始終をじっくりと眺めた。
藤沢の住宅街で車を降りる女の後ろ姿まで見届けると、彼は満足のため息を一つ漏らした。
カチリ、とマウスをクリックし、再生ウィンドウを閉じる。
そして、デスクトップ画面の右下隅にあるシャットダウンボタンを押し、パソコンの電源を切った。
ファンが回転を止める音がして、モニターの青白い光がふっと消える。
部屋は再び、カビと埃の匂いが支配する、もとの薄暗がりに戻った。
もはや彼を脅かすものなど、この世には存在しない。
その絶対的な確信が小田切の全身を満たしていた。
彼は椅子から立ち上がると、部屋の隅に置いてある、鍵のかかった小さな工具箱を開けた。
中から、彼が「仕事道具」と呼ぶものが次々と取り出されていく。
数種類の薬剤の箱。
新品の注射器。
菓子の袋を再び密封するための小さなシーラー。
そして、様々な種類の個包装の菓子やペットボトル飲料。
彼はそれらを机の上に、まるで外科医が手術道具を並べるかのように、整然とカテゴリーごとに並べていく。
一つ一つの道具を埃を払うように丁寧に布で拭き上げる。
すべての準備が整った。
小田切は腕を組み、机の上に並べられた材料たちを満足げに見下ろした。
これまでの犯行が、すべて自分の思い通りに進んできたことへの絶対的な自信。
その自画自賛の念が彼の口元を醜く歪ませる。
だが満足だけではなかった。
もっと。
もっと、次の女をこれまで以上に、ぐちゃぐちゃに辱めてやりたい。
次は、どんな手を使おうか。
どんな顔をさせてやろうか。
それを想像するだけで、彼の体の奥底から、新たな興奮が、ずくり、と込み上げてくるのがわかった。
込み上げてくる愉悦に彼は思わず喉を鳴らした。