清水 詩織 (しみず しおり) 25歳
私立保育園に勤める保育士。
穏やかで心優しく、やや内気な性格。子供たちの笑顔が日々の喜び。
土曜の夜。
池袋の高層ビル群が放つ光は地上に降り注ぐ頃には力尽き、アスファルトを気怠く濡らしていた。
清水詩織は一日がかりの保育士研修を終え、くたくたに疲れた心を重い足取りで引きずるようにして、タクシー乗り場の列に並んだ。
むっとする排気ガスと酔客たちの喧騒が、ただでさえ、すり減った彼女の神経をさらに削っていく。
早く、静かで清潔な自分の部屋に帰りたい。その一心だった。
やがて順番が来て、彼女の前に停まったのは、一世代前の古びた濃紺のセドリックだった。
ドアが開くと、安っぽい森林系の芳香剤の匂いがむわりと鼻をつく。
詩織は一瞬ためらったが、背後から迫る次の客の気配に押されるように、その分厚い布地のシートに身を沈めた。
「千葉の松戸まで、お願いします」
そう告げると、運転手はバックミラー越しに彼女を値踏みするように一瞥し、「はい」とだけ短く答えた。
車は滑るように発進し、都会のネオンの川を抜けていく。
赤信号で停まった時、その運転手が「長距離ですから、どうぞ」と言って、ペットボトルのお茶と、クリームの入ったパンを差し出してきた。
「え、いいんですか? すみません、ありがとうございます」
人の善意を疑うことを知らない詩織は、その親切を素直に受け取った。
空腹と喉の渇きを覚えていたこともあり、お茶を飲み、パンをゆっくりと口に運んだ。
タクシーが高速道路に入ってから、およそ三十分が過ぎた頃だった。
それまで心地よい揺れに身を任せていた詩織は下腹部に違和感を感じ始めた。
最初は下腹部の微かな張り。
それが次第に無視できない明確な圧力を伴った「尿意」という名の焦燥へと変わっていった。
まだ我慢できる。
そう自分に言い聞かせるが、その感覚は波のように寄せては返し、戻ってくるたびに水位を上げてくる。
シートの上で無意識に身じろぎをし、膝を固く閉じる。
内気な彼女にとって、見知らぬ男性運転手に生理現象を訴えるのは途方もなく勇気がいることだった。
しかし、膀胱が内側から悲鳴を上げるような感覚は羞恥心をじりじりと焼き尽くしていく。
「あ、あの……すみません……っ」
か細く震える声で、詩織はようやく運転手に話しかけた。
「お手洗いに行きたいので、どこか……パーキングエリアとかで、停まっていただけませんか……?」
懇願する彼女の言葉に運転手は悪びれる様子もなく、平然と言い放った。
バックミラーに映るその目は何の感情も映していない。
「ああ、この先はしばらくパーキングないんですよ。次の出口まで、まだ結構かかりますね」
その言葉は冷たい鉄の扉が閉まる音のように詩織の耳に響いた。
「そ、そんな……でも、本当に、もう……」
「ですから、高速道路の上なんでねえ。急には停まれませんよ」
機械的な口調で切り捨てられ、詩織の頭は真っ白になった。
パニックが全身を駆け巡る。
どうしよう。どうしよう。漏らしてしまう。こんな密室で、他人の車の中で。
その考えが、さらなる尿意を刺激した。
下腹部は風船のように張り詰め、今にも破裂しそうな痛みが走り始める。
「うぅ……っ」
とうとう堪えきれずに嗚咽が漏れた。
涙で視界が滲む。
そのパニックに陥った哀れな小動物のような彼女の様子を運転手はバックミラーで満足げに観察していた。
そして、追い打ちをかけるように静かな声で言った。
「お客さん、どうしても我慢できないなら、足元の容器、使いますか?」
男が顎で示したのは助手席との間、後部座席の足元に無造作に置かれた半透明のプラスチック容器だった。
スーパーの特売コーナーで売っているような、1リットル程度の容量の何の変哲もないタッパーだ。
「……それに、してください」
その言葉の意味を理解した瞬間、詩織の全身から血の気が引いた。
冗談でしょう? 悪夢だ。これは悪い夢に違いない。
しかし、下腹部から突き上げてくる切実な痛みと、運転手の冷酷な視線が、これが紛れもない現実なのだと突きつけてくる。
シートを汚すことだけは絶対に避けなければならない。その一心だった。
綺麗好きな彼女の性格が、この屈辱的な選択を後押しした。
「……っ、……はい……」
蚊の鳴くような声で返事をすると、詩織は震える手でそのタッパーを拾い上げた。
ひんやりとしたプラスチックの感触が絶望の冷たさそのもののように感じられた。
泣きながら、それでも彼女はスカートの裾をたくし上げ、その狭い空間の中で誰にも見られていないことを祈りながら下着をずらした。
小さな容器の口に自分の体の熱い部分を合わせる。
こぼしてはいけない。一滴たりとも。
その強迫観念が彼女の全神経を支配した。
息を止め、固く閉じていた体の力をほんの少しだけ緩める。
チョロ……チョロチョロ……。
熱い液体がプラスチックの壁を叩く、か細く、しかしおそろしく明瞭な音が車内に響いた。
それは彼女の尊厳が崩れ落ちていく音だった。
詩織は目を固く閉じた。
涙が次から次へと溢れ、頬を伝って顎から滴り落ちる。
尿は、まるで堰を切ったように勢いを増して流れ出した。
生き物のように熱い奔流が小さな器を満たしていく。
もう限界だ。溢れる。
その恐怖に体が竦むが、一度始まった生理現象は彼女の意志とは無関係に続いていく。
やがて最後の一滴が絞り出されると、詩織は虚脱感の中で大きく息を吐いた。
タッパーの中では彼女の体から排出されたばかりの黄色い液体が、縁のギリギリまでなみなみと揺れている。
震える手で細心の注意を払いながら蓋を探し、ぱちん、と音がするまで固く閉めた。
それを膝の上に、まるで壊れ物のように抱える。
温かい。生温かい重みがスカートの生地を通してじわりと伝わってくる。
安堵と底なしの屈辱。
二つの相反する感情に引き裂かれ、詩織は声を殺して泣き続けた。
もう何も考えたくなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
涙も枯れ果て、膝の上の容器の生温かさにも慣れ始めた頃、詩織の体内で、新たな、そして比較にならないほど凶悪な異変が起こり始めていた。
腸がまるで雑巾のように、ぎりぎりとねじ上げられるような激痛。
ごぽり、と内臓が不穏な音を立てる。
先ほどの尿意が静かな洪水だとしたら、今度のは灼熱のマグマが地表を目指して突き上げてくるような、暴力的で抗いがたい衝動だった。
「ひ……っ」
冷たい汗が額や背中から一斉に噴き出す。
詩織は、ここでようやく全ての点と線が繋がったことに気づいた。
お茶。そしてパン。
これは事故などではない。
初めからすべて、この瞬間のために仕組まれた周到で悪質な罠だったのだ。
「……あ……ああ……っ」
絶望が今度こそ彼女の心を完全に侵食した。
運転手は相変わらず何も言わない。
ただ、バックミラー越しに静かに獲物が苦しむ様を眺めている。
逃げ場のない高速道路。助けを呼ぶこともできない密室。
そして彼女の目の前には、たった今自分が排出した尿で満たされた、一つの小さな容器しかない。
考えている時間はなかった。
肛門の括約筋が意志に反してびくびくと痙攣を始め、すぐにも決壊しそうなのだ。
「……もう、無理……」
詩織は壊れた人形のようにぎこちない動きで、膝の上のタッパーの蓋に手をかけた。
指先が氷のように冷え切り、震えが止まらない。
一度、二度、爪が滑る。
三度目に、ようやく蓋の縁に指がかかった。
ぱちん。
先ほどとは比べ物にならないほど重く、絶望的な響きを伴って蓋が開いた。
アンモニアのツンとした匂いが、凝縮された屈辱となって彼女の顔に立ち上る。
なみなみと揺れる黄色い液体。
その水面に涙で歪んだ自分の顔がぼんやりと映っている。
「いや……いやぁ……っ!」
声にならない悲鳴を上げながら、詩織はそれでも、その容器の上に再び腰をずらした。
他に選択肢など、どこにもなかった。
激痛に耐えきれず、彼女は呻きながら腹に力を込める。
ぶりゅっ……。
鈍く、湿った音と共に固形の塊が熱い液体の中に投下された。
黄色い水面が大きく揺れ、茶褐色の汚物がその中でゆっくりと溶け、混じり合っていく。
だが、器の容量は、その一撃で既に限界を超えていた。
次の瞬間だった。
「……あ……」
決壊したダムのように尿と混じり合った汚物が、タッパーの縁からどろりと溢れ出した。
それはまず、容器を支えていた詩織の手に、べったりとまとわりついた。
熱いのか冷たいのかもわからない、ただおぞましいとしか言いようのない感触。
そして、その汚れた手から、白いブラウスの袖へ、スカートへ、そして分厚い布地のシートへと、無慈悲に染みを広げていく。
ぶじゅるじゅる……ッ!
一度壊れたタガは、もう戻らない。
詩織の体は、ただひたすらに内なる汚物を排出し続けた。
溢れた汚物は後部座席の床に溜まりを作り、車内には瞬く間に息もできないほどの強烈な悪臭が充満した。
詩織は、その惨状の中心で、ただ呆然と自分の汚れた手を見つめていた。
何が起きているのか、もう理解できなかった。
思考は停止し、ただ視覚と嗅覚と触覚が伝える地獄のような情報だけが感覚を麻痺させていく。
意識が遠くなる。
どれほどの時間が流れたのか、もはやわからなかった。
タクシーが速度を落とし、見慣れた松戸の住宅街の景色が窓の外に流れた時、詩織の意識はかろうじて現実につなぎ止められていた。
車は彼女のアパートの前で静かに停車した。
エンジンが止まると運転手はゆっくりと振り返り、後部座席の惨状を、まるで芸術作品でも検分するかのように満足げに見回した。そして、吐き捨てるように言った。
「これはひどいな。シート、全交換しないとダメだ。匂いも染みついてるし」
彼はメーターを指さして言った運賃とは別に、スマートフォンを取り出して電卓アプリを起動した。
「クリーニング代、特別料金で10万円。払ってもらいます」
法外な金額。しかし、今の詩織には、それに抗議する気力など微塵も残っていなかった。
壊れた人形のように彼女はバッグから財布を取り出し、言われるがままにクレジットカードを差し出した。
運転手は携帯端末で手際よく決済を済ませると「領収書です」と言ってレシートを彼女に押し付けた。
ドアが開き、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
詩織は汚れた服のまま、ふらつく足取りで車を降りた。
自分が歩いているという感覚すらなかった。
アパートの鍵を開け、部屋に転がり込む。
ドアを閉めた瞬間、支えていた全ての糸が切れた。
詩織は玄関の冷たい床に崩れ落ち、声を殺し、ただひたすらに泣き続けた。
汚れた手で顔を覆うこともできず、ただ床に額を押し付けて、嗚咽を漏らし続けた。