新田 莉子 (にった りこ) 23歳
渋谷のセレクトショップに勤めるアパレル店員。
明るく活発で、少し気が強い性格。
金曜日の夜がもたらす解放感は渋谷の街全体を巨大な祝祭の会場へと変えていた。
ネオンの洪水がアスファルトを濡らし、週末へと向かう人々の喧騒が熱気を帯びた渦を作る。
新田莉子はその渦の中心で、友人たちとの笑い声に身を委ねていた。
セレクトショップでの一週間の激務を洗い流すビールは格別で、上機嫌という言葉が生ぬるく感じるほど、彼女の心は軽やかに弾んでいた。
「じゃ、また来週ね!」
同僚たちに手を振り、夜風が心地よい道玄坂を少し下る。
スマートフォンのアプリでタクシーを呼ぶこともできたが、今夜は偶然の出会いに任せてみたかった。
すぐに一台の古びたセダンが彼女の前に滑るように停車した。
日産のセドリック。その角張ったフォルムは流線形の現代車が溢れるこの街では、まるで時代錯誤の遺物のようだった。
ドアが開き、莉子は躊躇なく後部座席に身を滑り込ませた。
瞬間、安っぽい芳香剤の匂いが鼻をついた。
森林系と謳いながら、その奥に拭いきれていない雑巾のような、微かなアンモニア臭が混じっている。
ほんの少し眉をひそめたが、アルコールによる心地よい疲労感が、そのわずかな不快感をすぐに思考の隅へと追いやった。
「厚木までお願いします。ルートは首都高から東名に乗ってください」
「はい、かしこまりました」
運転席の男はルームミラー越しに一瞥しただけで、短い返事を返した。
がっしりとした体格に無精髭。
何かを値踏みするような鋭い目つきが、莉子の肌をかすかに粟立たせたが、それも気のせいだろうと自分に言い聞かせた。
早く家に帰って、暖かいシャワーを浴びたい。その一心だった。
車は渋谷の喧騒を抜け、首都高速の入り口へと滑らかに吸い込まれていく。
街の光が遠ざかり、規則的なオレンジ色の照明が車内を幻のように照らし始めた。
赤信号で停車した時、運転手が静かに口を開いた。
「金曜の夜ですし、お疲れでしょう。よろしければ、お水をどうぞ」
彼はそう言って、助手席に置いてあったペットボトルのミネラルウォーターをこともなげに差し出した。一見、どこにでもある市販品で、キャップもきちんと閉まっている。未開封のようだ。
「あ、すみません。ありがとうございます」
飲み会でさんざん喋ったせいで喉は確かに渇いていた。
莉子は礼を言ってそれを受け取ると、何の疑いもなくキャップをひねった。
カチリ、という小気味よい音がして封が切れる。
彼女はそのままボトルに口をつけ、冷たい水を半分ほど一気に飲み干した。
東名高速に入り、タクシーは一定の速度で闇の中を走り始めた。
窓の外を流れていく景色は単調で、アルコールの心地よさとエンジンの単調なリズムが莉子を微睡みへと誘う。
あと三十分もすれば見慣れた厚木のインターチェンジにたどり着くはずだ。
そう思った矢先、体の内部で奇妙な変化が起きていることに気づいた。
下腹部に、じんわりとした圧力が生まれ始めている。
(あれ……? さっきトイレ行ったはずなのに)
最初は気のせいだと思っていた。
しかし、その圧力は無視できないほど急速に勢力を増していく。
五分も経たないうちに、それはもはや単なる尿意ではなく、膀胱が内側から悲鳴を上げているかのような、明確な「痛み」を伴う感覚へと変わっていた。
体の芯が熱を持ち、冷や汗がじっとりと額に滲む。
「……っ」
莉子は固く唇を噛み、両膝を強く閉じた。
クッションに深くもたれかかり、どうにかして圧力を逃がそうと体勢を変えてみるが無駄だった。
波のように押し寄せる切迫感は彼女の理性を容赦なく削り取っていく。
アパレル店員として人前に立つ仕事柄、プライドは高い方だと自負していた。
しかし、この原始的で圧倒的な生理現象の前では、どんな自尊心も無力だった。
(だめ、もう、無理……!)
限界だった。
羞恥心と焦燥感が頭の中で渦を巻き、視界がちかちかする。
このままでは最悪の事態が起きてしまう。
彼女は意を決し、震える声で運転席の背中に向かって叫んだ。
「すみません! トイレ行きたいんで、次のパーキングで停めてください!」
自分でも驚くほど、その声は苛立ちに満ちていた。
プライドをかなぐり捨てた懇願は、ほとんど命令に近い響きを帯びていた。
一瞬の沈黙。
莉子の心臓が早鐘を打つ。断られたらどうしよう。
高速道路の上で、逃げ場のないこの密室で、一体どうすればいいのか。
絶望的な想像が頭をよぎった、その時。
「はい、わかりました」
運転手はルームミラーで莉子の苦悶に歪む顔を一瞥すると平坦な声で答えた。
その声には何の感情も含まれていないように聞こえたが、続く言葉は彼女にとってまさに天からの助け舟だった。
「すぐ先の港北に寄りましょう。あと数分で着きますから」
港北パーキングエリア。
その名前を聞いた瞬間、莉子の全身から強張っていた力がふっと抜けていくのを感じた。
よかった。助かった。
その安堵感はあまりにも大きく、彼女は思わず深いため息をついた。
「……ありがとうございます。お願いします」
か細い声で礼を言うのが精一杯だった。
早く、早く着いてほしい。
彼女は固く目を閉じ、両手で下腹部を強く押さえつけながら、その「数分」が過ぎ去るのを神に祈るような気持ちで待ち続けた。
祈りが通じたかのように数分後、前方に緑色の大きな案内標識が浮かび上がった。
「港北PA 1km」。
その文字が、まるで後光が差しているかのように莉子の目には映った。
タクシーはウインカーを出し、本線の喧騒から離れるように減速しながら左の分岐路へと滑らかに吸い込まれていく。
パーキングエリアの敷地内に入ると、夜とは思えないほど眩い照明が車内を白く照らし出した。
目の前にはトラックや乗用車が整然と並ぶ広大な駐車スペースが広がっている。
そして、その奥。
ひときわ明るく照らされた建物の壁に「トイレ」と書かれた巨大なピクトグラムが、これ以上ないほどはっきりと見えた。
(助かった……本当に、助かった……!)
全身の細胞が歓喜の声を上げるのがわかった。
もはや限界寸前だった膀胱の痛みさえ、希望の光を前にすれば耐えられるものに思えた。
早く、早くあの建物の前で停めてほしい。
莉子は身を乗り出すようにして、ガラス越しに救いの象徴であるトイレの建物を見つめていた。
しかし、タクシーは莉子の期待を裏切り、トイレの建物の前を通り過ぎても、一向に速度を落とす気配を見せなかった。
「あれ……?」
最も停めやすいはずの建物正面の駐車スペースはがら空きだった。
なのに車はそこを無視して、ゆっくりと駐車エリアの奥へと進んでいく。
「すみません、空いてる場所を探しますね」
運転手が独り言のようにぽつりと呟いた。
莉子は一瞬戸惑ったが、まあ、運転手なりのこだわりがあるのかもしれない、と無理やり自分を納得させた。
とにかく、この敷地内にいる限り、もう安心だ。そう、高を括っていた。
車は最も奥の駐車スペースまで進むと大きくUターンし、再び入り口の方向へと向かい始めた。
一周目。
莉子の尿意はもはや痛みを通り越し、下腹部全体が破裂しそうなほどの圧迫感に変わっていた。
(なにしてんのよ、早く停めてよ……!)
焦りと苛立ちが募る。
膝をすり合わせ奥歯を強く噛みしめる。
それでも声に出すのは堪えた。ここで下手に騒いで機嫌を損ねられても困る。
ただひたすらに、次の角を曲がったところで停まってくれることを祈った。
やがて車は先ほど通り過ぎたトイレの建物の前に再びさしかかった。
今度こそ。
しかし、莉子の期待は、またしても裏切られた。
タクシーはほんの少し速度を落としたかと思うと、何事もなかったかのように、またしても建物の前をゆっくりと通り過ぎていく。
ここで、莉子はさすがにおかしいと感じ始めた。
何かがおかしい。
空いている場所はいくらでもあるのに、なぜ停めない?
「あの!」
思わず声が漏れた。
「そこでいいんですけど! そこ、停められますよね!?」
しかし、小田切はルームミラーに冷たい視線を一瞬向けただけで何の返事もしない。
それどころか、わざとらしく呟いた。
「いや、あそこは狭いんでね。もう少し広いところを探しましょう」
その口調は、どこまでも冷静で事務的だった。
だが、その言葉に全く説得力がないことを莉子は本能的に悟った。
ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
これは、ただの気まぐれや意地悪ではない。もっと悪質で計画的な何かだ。
三周目。
タクシーは、まるで巨大な水槽の中を回遊する鮫のように、同じ軌道を正確に、そして絶望的なほどゆっくりとトレースし始める。
もはや、莉子の頭に「なぜ?」という疑問はなかった。
あるのは、これが意図的な「拷問」であるという揺るぎない確信だけだった。
窓の外。
他の車から降り立ったカップルが、楽しそうに笑いながらトイレの建物へと歩いていく。
トラックの運転手が、自販機で買ったコーヒーを片手に一服している。
日常の、ありふれた平和な光景。
すぐそこにある救い。
手を伸ばせば届きそうな場所で、人々は当たり前のようにその恩恵を享受している。
なのに、自分だけが。
自分だけが、このガラス張りの動く密室に閉じ込められ、すぐそこにあるはずの「当たり前」から、無慈悲に隔絶されている。
「ふざけないでっ!!」
莉子の喉から絶叫が迸った。
それはもはや懇願ではなかった。怒りと恐怖と絶望が入り混じった獣の咆哮に近かった。
「停めなさいよ! いい加減にしろ! 降ろせ!!」
彼女は後部座席から身を乗り出し、運転席のシートを何度も叩いた。
しかし運転手は微動だにしない。
彼は無言だった。
ただ前を見据え、ハンドルを握り、ゆっくりと、ゆっくりと、この悪夢の周回軌道をなぞり続けるだけだった。
(何よこれ? 何なのよ!)
もはや、莉子の身体に「我慢」という選択肢は残されていなかった。
膀胱の筋肉は痙攣を繰り返し、意思の力ではどうにもならない、身体そのものの降伏信号を発し続けている。
せり上がってくる熱い液体の塊を、彼女は最後の力を振り絞って内腿に力を込めることで、かろうじて堰き止めていた。
(いや……いやだ、こんな……こんなところで……)
涙が視界を滲ませる。
目の前には、三度目、いや、四度目だろうか、ライトアップされた「トイレ」の看板が、悪意に満ちた記念碑のようにそびえ立っていた。
あのドアの向こうには白い陶器の便器が、清らかな水が、救いがある。
たった数十メートルの距離。
歩けば、数十秒の世界。そのあまりにも近くて、あまりにも遠い場所を、彼女は囚人として、ただ眺めることしか許されない。
「お願い……します……もう、むり……だから……」
声は嗚咽に途切れ、意味をなさなかった。
絶叫する力さえ、もう残っていない。
その、あまりにも惨めで屈辱的な懇願が運転手の耳に届いたのかはわからない。
車が四度目となるトイレの建物の真横を最もゆっくりとした速度で通過する、その瞬間だった。
ぷつん、と、張り詰めていた最後の糸が切れた。
「あ……っ」
熱い奔流が堰を切ったように彼女の体内から溢れ出すのを、莉子はなすすべもなく感じた。
じょぼじょぼじょぼ……。
布地のシートが熱い液体を貪欲に吸い込んでいく、絶望的な音。
後部座席に敷かれたフロアマットにまで染み出し、跳ねる水音。
その全てがスローモーションのように彼女の鼓膜に焼き付いた。
一度始まった決壊は、もう止めようがなかった。
熱い雫が彼女のプライドを、尊厳を、人間としての最後の砦を洗い流していく。
暖かな液体がシートに広がる不快な感触と、自分の身体から発せられる生々しいアンモニア臭が、彼女の意識を打ちのめした。
運転手は、その瞬間を待っていたかのようにルームミラーで後部座席の惨状を満足げに確認すると、ゆっくりと、そして滑らかに車をパーキングエリアの出口へと向かわせた。
厚木の住宅街にある、莉子のアパート前に車が停まった時、彼女は抜け殻のようになっていた。
「いやあ、パーキング、随分と混んでましたねえ」
運転手はエンジンを止め、平然とした口調で言った。
その声は、ついさっきまでの狂気の支配者とは思えないほど、平凡なタクシー運転手のものだった。
彼はゆっくりと車を降りると、後部座席のドアを開け、中の惨状を一瞥した。
「おっと、これは……盛大にやっちゃいましたね。クリーニングと消臭作業、特別料金になりますけど、よろしいですかね。まあ、三万ってとこでどうです?」
莉子は怒りと屈辱で言葉も出なかった。
唇がわななき、何かを言い返そうとしても、ただ空気が漏れるだけだった。
この男に何を言っても無駄だ。
抵抗すれば何をされるかわからない。その恐怖が怒りよりも先に立っていた。
彼女は震える手で鞄から財布を取り出し、クレジットカードを差し出した。
運転手は慣れた手つきで携帯端末を操作し決済を完了させる。
「はい、どうも。お大事に」
その無神経な言葉を背中に浴びながら、莉子はよろよろと車を降り、自分の部屋へと駆け込んだ。
ドアに鍵をかけ、内側からチェーンを掛けた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
すぐそこに、すぐそこに救いはあったのだ。
なのに自分は何もできなかった。
あの密室の中で、ただ弄ばれ、尊厳を踏みにじられるだけだった。
あの男の感情のない冷たい目。
全てを計算し、自分の絶望を楽しんでいた、あの残酷さ。
その全てが脳裏に焼き付いて離れない。
「う……あああああああああっ!」
莉子は床に崩れ落ち、声を上げて泣きじゃくった。
それは、ただ悲しいだけの涙ではなかった。
自分の無力さに対する怒りと、消えることのない屈辱が、彼女の魂を内側から引き裂くような、絶望の慟哭だった。