※この作品はR-18です。

そのタクシー、下り方面   作:たちばなさとし

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事件簿14 届かないトイレ

 佐伯 美優 (さえき みゆ) 19歳

 地方から上京してきたばかりの大学一年生。

 都会に慣れておらず、人を信じやすい純粋な性格。

 

 土曜日の夜が新宿を飲み込んでいた。

 巨大な生き物のように街は呼吸し、吐き出されるネオンの光と人々の熱気がコンクリートの谷間を飽和させる。

 佐伯美優はその奔流の中で小さな木の葉のように翻弄されていた。

 サークルの飲み会の後、友人たちとはぐれてしまったのだ。

 地方から上京してまだ数ヶ月。

 人の波はそれぞれが意思を持った壁のようで、ただ立ち尽くす彼女を無慈悲に押し流していく。

 スマートフォンのバッテリーはとうの昔に切れ、土地勘のないこの場所で、唯一の頼りだった学生寮への帰路も完全に断たれていた。

 心細さと焦りで視界が滲んでくる。

 半泣き状態で、ほとんど祈るように、彼女は空車表示の赤い光を探して手を上げた。

 

 やがて、一台の古びたセダンがアスファルトを滑り、彼女の目の前で静かに停止した。

 黒に近い濃紺の角張った車体は、まるで時代の流れから取り残された遺物のようだ。

 自動で開いた後部ドアの向こう、運転席に座る男の強面の横顔が見え、美優は一瞬、体を強張らせた。

 短く刈り込んだ髪、無精髭、そして何かを値踏みするような鋭い目つき。

 しかし、この巨大な迷宮から脱出するためには選り好みしている余裕などなかった。

 彼女は意を決して車内に身を滑り込ませると、シートに深く沈み込みながら震える声で行き先を告げた。

 

「神奈川の秦野までお願いします。学生寮なんですけど……」

 

 その長距離の行き先に、運転手はどんな反応を示すだろうか。

 露骨に嫌な顔をされるかもしれない。そんな不安が胸をよぎった。

 だが、男はルームミラー越しに美優の不安げな顔を一瞥すると予想外の言葉を口にした。

 

「秦野ですか。それは遠いのに、大変でしたね、こんな時間まで」

 

 その声は低く、淡々としていたが、確かに労りの響きが籠っていた。

 予期せぬ優しさに、張り詰めていた美優の心の糸がふっと緩む。

 この人は見た目とは裏腹に、きっと良い人に違いない。単純だが、そう信じるには十分な一言だった。

 安堵感が全身に広がり、さっきまでの恐怖が嘘のように消えていく。

 

「はい……友達と、はぐれちゃって……」

 

「そうでしたか。まあ、もう安心ですよ。ちゃんと寮までお送りしますから」

 

 車は新宿の喧騒を背に滑らかに走り出した。

 赤信号で停車した時、運転手が不意に助手席に手を伸ばした。

 

「もしよかったら、どうぞ。サービスです」

 

 彼が差し出したのは透明なフィルムで個包装された、少し高級そうなチョコレートブラウニーだった。

 濃厚なカカオの香りが安っぽい芳香剤の匂いを打ち消すようにふわりと漂う。

 

「え、いいんですか?」

 

「ええ。長距離のお客さんには、時々ですけどね」

 

 そのぶっきらぼうな優しさが美優の心を完全に解きほぐした。

 空腹も手伝って、彼女は何の疑いも抱かずに満面の笑みを浮かべた。

 

「わあ、ありがとうございます!  いただきます!」

 

 フィルムを破り、しっとりとしたチョコレートの塊を一口ほおばる。

 濃厚な甘さが疲れ切った身体にじんわりと染み渡っていくようだった。

 この親切な運転手に出会えた偶然に彼女は心の底から感謝していた。

 

 タクシーが東名高速道路の滑らかなアスファルトの上を走り始めてから、一時間が経とうとしていた。

 窓の外を規則的に流れ去るオレンジ色の光が心地よい眠気を誘う。

 都会の喧騒は遠く霞み、美優は安堵感に包まれながら、あと少しでたどり着くであろう自室のベッドを思い浮かべていた。

 厚木インターを過ぎ、車が秦野へと向かう標識が見え始める頃だった。

 

 突如、彼女の下腹部に鋭い痛みが走った。

 

「……っ!」

 

 思わず息を呑み、腹部を押さえる。

 最初は気のせいかと思った。しかし、その痛みは一瞬で勢いを増し、まるで腸が固くねじ上げられていくかのような、耐え難い激痛へと変わっていく。

 尋常ではない。

 冷や汗がこめかみを伝い、背筋を流れ落ちるのがわかった。

 そして、その激痛は、さらに性質の悪い、ある明確な生理的欲求の波へと姿を変えた。

 強烈な便意。

 それはもはや「行きたい」というレベルではなく、腹の中で何かが決壊寸前になっているという、身体からの危険信号だった。

 

(うそ……なんで、今……!)

 

 純粋で真面目な性格の彼女にとって、タクシーの車内でこのような事態に陥ること自体が想像を絶する失態だった。

 パニックが思考を支配する。

 顔から血の気が引き、呼吸が浅くなる。

 どうしよう。どうすればいい。

 礼儀を欠くことへの恐怖と生理現象の圧倒的な暴力との間で、彼女の心は引き裂かれそうになっていた。

 しかし、羞恥心を理性で抑え込むには腹部の圧力はあまりにも強大すぎた。

 

「あ、あの……ご、ごめんなさいっ!」

 もはや限界だった。

 涙声で、ほとんど悲鳴に近い声を上げる。

 

「お腹が、すごく、痛くて……! トイレに……行きたいです!」

 懇願は嗚咽に途切れ、運転席の背中に向かって、ただただ無様に助けを求めることしかできなかった。

 

 その必死の訴えに対し、運転手は驚くほど穏やかな声で応えた。

 それはパニックに陥る子供をなだめるような、落ち着き払った声音だった。

 

「大丈夫ですよ。落ち着いてください」

 ルームミラー越しに見える彼の目は憐れみすら浮かべているように見えた。

 

「すぐ先に海老名サービスエリアがあります。ああ、よかった。ちょうどいいタイミングでしたね。あそこは日本一大きいサービスエリアだから、トイレもすごく綺麗でたくさんあるんですよ。すぐに寄りましょう」

 

 海老名サービスエリア。

 日本一大きい。トイレも綺麗でたくさんある。

 その具体的で優しさに満ちた言葉の一つ一つが、絶望の淵にいた美優の心に聖なる光のように降り注いだ。

 暗闇の中に差し込んだ、一本の蜘蛛の糸。

 彼女はそれを掴むように何度も何度も頷いた。

 

「ほ、本当ですか!? よかった……ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます!」

 心の底からの安堵が涙となって溢れ出す。

 助かった。

 この地獄のような苦しみから解放される。

 感謝の念で胸がいっぱいになり、彼女はこの運転手を神様のように思った。

 気付けば痛みで強張っていた身体から少しだけ力が抜けていた。

 

 祈るような数分が過ぎ、前方に緑色の巨大な案内標識が浮かび上がった。

 「海老名SA 2km」。

 その文字が美優の目には後光が差しているかのように見えた。

 タクシーは予告通りに左のウインカーを出し、本線の流れから離脱してサービスエリアへと続く導入路へと滑らかに吸い込まれていく。

 

 広大な敷地に入った瞬間、煌々と輝く照明が夜の闇を白昼のように照らし出した。

 目の前にはレストランや土産物屋の看板が並び、週末を楽しむ家族連れやカップルの姿が見える。

 活気に満ちた平和な光景。

 そして何よりも美優の目を釘付けにしたのは建物の壁に大きく掲げられた「トイレ」という文字と、巨大なピクトグラムだった。

 救いの象徴。

 彼女は完全に信じきっていた。もう大丈夫だ、と。

 

 しかし、タクシーは美優の切なる願いを裏切り、トイレの建物の前を通過しても、一向に速度を落とす気配を見せなかった。

 一番停めやすいはずの建物正面の駐車スペースは、がら空きだというのに。

 

「いやあ、土曜の夜は混んでますねえ」

 運転手が、あくまで親切な口調で独り言のように呟いた。

 

「停めやすい場所を探しますから、もうちょっとだけ我慢してくださいね」

 

 その言葉に美優はわずかな違和感を覚えながらも、まだ彼の善意を信じようとしていた。

 

「は、はい……!」

 

 健気に頷き、固く奥歯を噛みしめる。

 両手で下腹部を圧迫し、肛門にありったけの力を込めて、内側から押し寄せる汚物の塊を必死に堪えた。

 

 車は駐車エリアの最も奥まで進むと大きくUターンし、再び入り口の方向へと向かい始めた。

 

 一周目。

 美優の額には脂汗が玉のように浮かんでいる。

 腹部の痛みはもはや断続的ではなく、絶え間ない激痛となって彼女の意識を蝕んでいた。

 

(お願い、早く……早く停めて……)

 

 祈りは声にならなかった。

 やがて車は先ほど通り過ぎたトイレの建物の前に再びさしかかった。

 今度こそ。美優は身を乗り出すようにして駐車スペースに吸い込まれるのを待った。

 しかし、タクシーはまたしても、ほんの少し速度を落としただけで、何事もなかったかのように建物の前をゆっくりと通り過ぎていく。

 

 二周目。

 ここで美優はさすがにおかしいと感じ始めた。

 なぜ? どうして停めないの? 空いている場所は、いくらでもあるじゃないか。

 

「あ、あの……もう、どこでも……どこでもいいんですけど……」

 か細い、すがるような声で訴える。

 しかし、運転手はハンドルを握ったまま、優しく諭すように言った。

 

「危ないですからね、ちゃんと白線の中に停めないと。他のお客さんの迷惑になりますから」

 

 正論だった。

 しかし、その正論が、今はじわじわと彼女の首を絞めるロープのように感じられた。

 ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。この優しさは何かが違う。

 

 そして運命の三周目。

 タクシーは、まるで獲物をいたぶる捕食者のように同じ軌道を正確に、そして絶望的なほどゆっくりとトレースし始めた。

 その時、美優は、すべてを悟った。

 この親切な運転手の仮面の下にある底知れない悪意を。

 これは意地悪などではない。計画的な残酷な拷問なのだ、と。

 

 窓の外ではミニバンから降りた家族連れが、楽しそうに談笑しながらトイレの建物へと歩いていくのが見えた。

 小さな子供が母親の手を引いて駆け出していく。

 すぐそこにある当たり前の光景。すぐそこにある救い。

 手を伸ばせば届きそうな場所で、人々は当たり前のようにその恩恵を享受している。

 なのに自分だけが。

 自分だけが、このガラス張りの動く牢獄に囚われ、すぐそこにあるはずの「当たり前」から、無慈悲に隔絶されている。

 

「お、降ろしてくださいっ! お願いしますっ! ここでいいから!!」

 彼女の喉から絶叫が迸った。

 それはもはや懇願ではなかった。

 恐怖と屈辱に歪んだ獣の咆哮に近かった。

 シートを叩き、ドアノブに手をかけるが、ロックがかかっている。

 

 しかし運転手は聞こえないふりをしているのか、あるいはその絶叫を楽しんでいるのか、ただ無言で前を見据え、ゆっくりと、ゆっくりと、この地獄の周回軌道をなぞり続けるだけだった。

 

 もはや、美優の身体に「我慢」という選択肢は残されていなかった。

 せり上がってくる熱い泥の塊が、最後の砦をこじ開けようとしていた。

 

(いや……いやだ、こんなところで、こんな……)

 

 涙で視界が歪む。

 目の前には四度目となるトイレの建物が、悪意に満ちた記念碑のようにそびえ立っていた。

 その明るい光がすぐそこに見える、最も屈辱的な場所で、車が最もゆっくりと通過する、その瞬間だった。

 

「あ……ぁ……っ」

 

 熱い奔流が、堰を切ったように彼女の体内から溢れ出すのを美優はなすすべもなく感じた。

 

 ぶちゅ、びちゃびちゃびちゃ……!

 布地のシートに熱い泥が叩きつけられ、染み込んでいく絶望的な音。

 自分の意思とは無関係に次々と排出される汚物の感触。

 強烈な腐臭が、一瞬にして換気の悪い車内に充満した。

 

 それは、ただの失禁ではなかった。

 彼女の純粋さが、人を信じる心が、上京したばかりの夢が、すべて汚泥にまみれて崩れ落ちていく音だった。

 

 運転手は、その瞬間を待っていたかのようにルームミラーで後部座席の惨状を満足げに確認した。

 そして、まるで何事もなかったかのように、ゆっくりと、かつ滑らかに車をサービスエリアの出口へと向かわせた。

 

 秦野市の閑静な住宅街にある学生寮の前に車が停まった時、美優は完全に抜け殻のようになっていた。虚ろな目で、ただ前方の暗闇を見つめている。

 

「いやあ、結局いい場所が見つかりませんでしたねえ」

 

 エンジンを止めた運転手が、平然とした口調で言った。

 その声は、ついさっきまでの狂気の支配者とは思えないほど、平凡なタクシー運転手のものだった。

 

 彼はゆっくりと車を降りると、後部座席のドアを開け、中の惨状を大げさに顔をしかめて一瞥した。

 

「おっと、これは……ひどいなあ。シートだけじゃなくて、フロアまでいっちゃってますね。特別清掃代、かかりますけど、よろしいですかね。まあ、五万ってとこでどうでしょう」

 

 怒りも、悲しみも、もはや湧いてこなかった。

 ただ、深く、冷たい虚無が彼女を支配していた。

 震える手で鞄から財布を取り出し、父親に持たされたクレジットカードを差し出す。

 男は慣れた手つきで携帯端末を操作し、決済を完了させた。

 

 レシートを無造作に手渡され、美優はよろよろと車を降りた。

 

 自分の部屋に駆け込み、ドアに鍵をかけた瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。

 彼女は床に崩れ落ち、声を殺して泣いた。

 

 上京して初めて感じた人の「優しさ」。

 それが、これ以上なく残酷で、計算され尽くした悪意だったという事実。

 その絶望が彼女の心を回復不能なまでに深く、深く、蝕んでいた。

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