部屋を支配するのはパソコンのモニターが放つ冷たい光と、ハードディスクが時折立てるかすかな駆動音だけだった。
小田切敦夫は古いパイプ椅子に深く身を沈め、スクリーンに映し出される映像を無心で眺めている。
それは先日、渋谷から乗車した女の映像だった。
映像は港北パーキングエリアの悪夢の周回から始まる。
運転席のヘッドレストに隠された小型カメラは後部座席で苦悶する女の横顔を克明に捉えていた。
最初はまだ、苛立ちと焦りが混じっただけの気の強い女の表情。
それが、トイレの建物を一度、また一度と通り過ぎるうちに、みるみる余裕を失っていく。
眉間に刻まれた皺が深くなり、固く結ばれていた唇が震え始め、やがて懇願の形に開かれる。
「お願い……します……もう、むり……だから……」
音声は意図的に絞ってある。
だが、その嗚咽に途切れる声が、屈辱に震える唇の動きが、小田切の鼓膜の奥で完璧に再生された。
彼はマウスを操作し、特に気に入っている場面を繰り返し再生する。
それは女が車窓の外に、楽しそうに談笑しながらトイレへと向かうカップルを見つけた瞬間だった。
自分の置かれた絶望的な状況と、すぐそこにある幸福な日常との、あまりにも残酷な対比。
そのコントラストを認識した女の顔から血の気が引いていく。
希望が苦痛に、そして完全な絶望へと変質する、その刹那。
小田切は再生速度を五十パーセントに落とし、ゆっくりと歪んでいく彼女の表情の、筋肉一つ一つの微細な動きまでを堪能した。
目尻に浮かんだ涙の粒が頬を伝う前に、重力に逆らうように一瞬だけ留まる。
その完璧な一瞬に彼は満足げに、そして深く頷いた。
次に彼が呼び出したのは、新宿から乗せた女の記録だった。
新宿の雑踏で途方に暮れていた彼女が、自分の差し出した偽りの優しさを、一点の曇りもない目で信じきっていく様は、何度見ても飽きることがなかった。
「わあ、ありがとうございます!」。チョコレートブラウニーを受け取った時の、あの屈託のない笑顔。
それが、海老名サービスエリアでの悪夢の中で、いかに汚され、踏みにじられていったか。
小田切はその過程を反芻した。
純粋な信頼が、裏切られた瞬間に絶望へと反転する。
その落差こそが彼の嗜虐心を最も強く刺激する媚薬だった。
しかし、映像を止め、真っ暗になったスクリーンに映る自分の顔を見つめた時、小田切の表情には完全な満足感はなかった。
そこにあるのは獲物を食らい尽くした後の満腹感ではなく、より強い刺激を求める、飢えに似た渇望だった。
女達の絶望も、屈辱も、間違いなく一級品だった。
最高の仕上がりだと思った。
だが、何かが足りない。
(最高の表情だ。だが、これを見ていたのが俺だけ、というのがもったいない)
小田切は静かに目を閉じた。
脳裏に、苦痛に歪む女たちの顔が浮かび上がる。
そして、ある確信にたどり着いた。
(女の羞恥というものは誰かに『見られる』ことで完成する。そうだ『観客』がいれば、この舞台はもっと盛り上がるはずだ)
その思考は、まるで長い間探していたパズルの最後のピースがはまったかのような、鮮烈な快感を彼にもたらした。
そうだ。これまでは自分と被害者だけの閉ざされた二人芝居だった。
だが、そこに第三者の視線、無関係な「観客」という要素を加えることで、この芸術はさらなる高みへと昇華するに違いない。
被害者の羞恥心は無作為の他者の目に晒されることで、何倍にも増幅されるだろう。
それは彼の支配欲を、そして性的興奮を、未知の領域へと導くに違いなかった。
アイデアが閃光のように頭を貫いた瞬間、小田切は椅子から立ち上がった。
彼は無言で机の一番下の引き出しを開け、中から一つの物体を取り出した。
何の変哲もない、プラスチック製の白い洗面器。
犯行後に薬品で入念に洗浄され、何の痕跡も残っていない。
彼はその滑らかな表面を、まるで愛しい女の肌を撫でるかのように、指先でゆっくりと確かめた。
これが、次の舞台で使う重要な小道具になるだろう。
再びパソコンの前に戻ると、彼はブラウザを立ち上げ、いつものように閲覧している道路交通情報サイトを開いた。
完璧な舞台を演出するためには入念な下調べが不可欠だ。
彼は週末の夜、特に土曜の深夜帯に首都高速道路のどの区間が慢性的な渋滞を引き起こすかを調べ始めた。
彼が探しているのは単なる渋滞ではない。
片側二車線で道幅が狭く、一度ハマると数十分、あるいは一時間以上、隣の車とほとんど同じ速度で並走せざるを得なくなる区間。そこが新たな脚本の舞台となるのだ。
いくつかの候補の中から彼は都心環状線の特定のカーブ区間に目をつけた。
データは金曜と土曜の夜十時以降、ここでほぼ確実に時速五キロ以下のノロノロ運転か、完全な停止状態が発生することを示している。
完璧だ。
小田切は満足げに口角を歪めると、そっと目を閉じた。
彼の頭の中で新たな脚本の第一稿が、鮮やかな映像となって立ち上がり始めた。
その完璧な構図を想像しただけで、小田切の呼吸は荒くなった。
喉がカラカラに渇き、心臓が早鐘を打つ。
最高の脚本だ。至高の芸術が生まれるだろう。
彼は椅子の上で身じろぎし、硬くなった股間を意識しながら、暗い部屋の中で一人、荒い息を繰り返した。