桜井 莉緒 (さくらい りお) 26歳
銀座の化粧品メーカーに勤める美容部員。
容姿に自信があり、人からどう見られているかを常に意識している。
プライドが高く、みっともない姿を晒すことを何よりも嫌う。
金曜の夜がもたらす熱気は銀座の洗練された街並みさえも湿らせていた。
アスファルトから立ち上る陽炎がショーウィンドウの豪奢な光を歪ませる。
桜井莉緒はその気怠い空気の中をハイヒールで切り裂くように歩いていた。
百貨店の化粧品フロアでの一日。
笑顔という名の仮面を被り続け、ひっきりなしに訪れる客の欲望と虚栄心に応え続けた肉体は鉛のように重かった。
彼女が纏うのは会社の制服である、体のラインがくっきりと浮かび上がるシルクのブラウスと、膝上まで大胆に切り詰められたタイトスカート。
それは商品である化粧品と同様、莉緒自身をも「美」の象徴として見せるための戦闘服だった。
しかし勤務を終えた今、その窮屈な布地は汗で肌に張り付き、不快指数をじりじりと上げていく。
羽織るもの一つなく、持っているのは商売道具とスマートフォンが収まるだけの小さなハンドバッグのみ。
一刻も早く、この鎧を脱ぎ捨てて解放されたかった。
大通りで手を上げると、すぐに一台の古びたセダンが彼女の前に滑るように停車した。
角張った濃紺のボディを持つ、日産のセドリック。
流麗なフォルムの高級車が行き交うこの街では、まるで時代に取り残された化石のようにも見えた。
ドアが開き、莉緒は躊躇なく後部座席に身を滑り込ませた。
瞬間、安っぽい森林系の芳香剤の匂いが鼻をついたが、その奥に隠しきれていない雑巾のような生乾きの臭いが混じっている。
莉緒は無意識に眉をひそめたが、一日中立ちっぱなしだった脚の痛みと、早く家に帰りたいという焦燥感が、そのわずかな不快感を思考の彼方へと追いやった。
「さいたま市の自宅までお願いします。首都高から」
「はい、かしこまりました」
運転席の男はルームミラー越しに一瞥しただけで、短い返事を返した。
短く刈り込んだ髪に無精髭。何かを値踏みするような鋭い目つき。
その視線に一瞬肌を撫でられたような不快感を覚えたが、疲労のせいだろうと自分に言い聞かせた。
車は銀座の華やかなネオンを背に滑らかに走り出す。
赤信号で停車した時、運転手が静かに口を開いた。
「金曜の夜ですし、お疲れでしょう。よろしければ、お水をどうぞ」
彼はそう言って、助手席に置いてあったペットボトルのミネラルウォーターをこともなげに差し出した。一見、どこにでもある市販品で、キャップもきちんと閉まっている。未開封のようだ。
「あら、すみません。ありがとうございます」
美容部員として、常に肌の潤いを保つために水分補給を欠かさないのが莉緒の信条だった。
この親切な申し出を断る理由はどこにもない。
彼女はにこやかに礼を言うと、ためらうことなくそれを受け取り、キャップをひねった。
カチリ、という小気味よい音とともに封が切れる。
彼女はそのままボトルに口をつけ、喉の渇きを潤すように、冷たい水を一気に半分ほど飲み干した。
タクシーが首都高速の入り口を抜け、コンクリートの壁に囲まれた人工の峡谷へと吸い込まれていく。
オレンジ色の照明が等間隔で流れ去り、車内を幻のように照らしては消える。
その単調な光景は莉緒の意識を微睡みの淵へと誘った。
三十分が経過した頃だろうか。
車が山手トンネルの長い直線区間に差し掛かった、その時だった。
体の内部で奇妙な変化が起きていることに彼女は気づいた。
下腹部に、じんわりと、しかし無視できない圧力が生まれ始めている。
(あれ……? お店を出る前にトイレは済ませたはずなのに)
最初は気のせいだと思っていた。
しかし、その圧力はもはや「気のせい」では済まされないほど、急速に勢力を増していく。
五分も経たないうちに、それは単なる尿意ではなく、膀胱が内側から悲鳴を上げているかのような、明確な「痛み」を伴う感覚へと変わっていた。
体の芯が熱を持ち、冷や汗がじっとりと額に滲む。
(まずい、これは、ちょっと……)
莉緒は固く唇を噛み、膝と膝を強く押し付けた。
人前でみっともない姿を晒すこと。それは彼女が最も嫌悪し、恐れていることだった。
美容部員として、常に完璧で優雅な自分を演じてきた。
そのプライドが、この原始的で圧倒的な生理現象の前で、今、もろくも崩れ去ろうとしている。
波のように押し寄せる切迫感は彼女の理性を容赦なく削り取っていく。
しかし、ここで取り乱すわけにはいかない。
彼女は深呼吸を一つすると、必死に平静を装い、あくまで冷静で客観的な事実を伝えるかのような口調を保って運転席の背中に向かって声をかけた。
「すみません、急で申し訳ないのですが、お手洗いに行きたいので、次のパーキングエリアで停めていただけますか」
一瞬の沈黙。断られたらどうしよう。
この逃げ場のないトンネルの中で、一体どうすればいいのか。
絶望的な想像が頭をよぎった、その時だった。
「ああ、それはお困りでしょう。ですが……」
運転手は心底申し訳なさそうな声で答えた。
その声には同情の色さえ滲んでいるように聞こえた。
「申し訳ありません、お客さん。この先、事故渋滞が始まってましてね。ラジオがずっとそう言ってるんです。見てください、もう車の流れが……。トンネルの中なのでパーキングもしばらくありませんし、これでは身動きが取れません」
その言葉を裏付けるかのように、それまで順調に流れていた車の速度が急激に落ち、数分も経たないうちに、完全に停止してしまった。
莉緒が窓の外に目をやると、前方も後方も、そして隣の車線も、赤いテールランプの鎖で埋め尽くされている。
まるで巨大な駐車場に閉じ込められてしまったかのようだ。
絶望という言葉が、これほどまでに具体的な形を持って彼女の前に現れたことはなかった。
「そんな……」
か細い声が漏れた。
プライドも冷静さも、もはや吹き飛んでいた。
下腹部の痛みは限界に達し、意思とは無関係に体が小刻みに震え始める。
その絶望に打ちひしがれる彼女の様子をルームミラーで確認すると、運転手は待っていましたとばかりに、座席の下からあるものを取り出した。
白く、何の変哲もないプラスチック製の洗面器だった。
「お客さん」
彼は事務的な口調で、しかし有無を言わせぬ響きを込めて言った。
「シートを汚されると本当に困るんですよ。クリーニング代も高くつきますしね。……どうしても我慢できないなら、これでお願いします」
そう言って、彼はその白い洗面器を後部座席にいる莉緒の方へ、無造作に差し出した。
莉緒は、その白いプラスチックの塊を目の前に突きつけられ、一瞬、思考が停止した。
(な……に、を……言ってるの、この人……?)
洗面器。これで、しろと? この、車の中で?
ありえない。屈辱的すぎる。人間としての尊厳を根こそぎ奪うような提案だった。
しかし、反論の言葉は喉の奥で詰まり、音にならなかった。
なぜなら彼女の体はもう限界だったからだ。
膀胱は今にも破裂しそうで、一刻の猶予もなかった。
そして、この完全に停止した車の列の中で、他に選択肢などどこにも存在しなかった。
「……っ」
涙が一筋、静かにこぼれ落ちた。
それは悲しみや怒りの涙ではなかった。
自分の無力さと、これから行わなければならない行為に対する絶望的な屈辱の涙だった。
震える手で、彼女はその忌まわしい洗面器を受け取った。
プラスチックの冷たい感触が彼女の絶望をさらに際立たせる。
(どうやって……隠せっていうのよ……)
彼女が履いているのは膝上までしかない、タイトなスカート。
身を屈めても、脚を閉じても、何かで覆おうとしても、この短い布切れでは何も隠しようがない。
持っているのは化粧ポーチ程度の大きさのハンドバッグだけ。
それで股間を隠したところで気休めにしかならない。
ルームミラー越しに運転手の冷たい視線が突き刺さるのを感じる。
彼は、この一部始終を特等席で観察するつもりなのだ。
莉緒は泣きながら、それでも最後の抵抗として、小さなハンドバッグで必死に股間のあたりを隠した。
そして意を決して、スカートの中で下着をずらし、プラスチックの冷たい縁に、恐る恐る肌を寄せた。
ぷつん、と、心の奥で何かが切れる音がした。
次の瞬間、熱い奔流が堰を切ったように彼女の体から溢れ出した。
ぴちゃ……ぴちゃぴちゃ……。
静まり返った車内に信じられないほど生々しい排尿音が響き渡る。
それはまるで彼女のプライドが、尊厳が、築き上げてきた「桜井莉緒」という人間そのものが、汚れた水となって流れ落ちていく音のようだった。
跳ね返った熱い飛沫が太ももにかかる。
自分の体から発せられる生々しいアンモニア臭。
その全てが彼女の意識を容赦なく打ちのめしていく。
まさに彼女がすべてを失い、最も無防備な姿を晒している、その最中だった。
すぐ隣の車線に一台のミニバンが音もなく並んで停止した。
何気なく、莉緒はそのミニバンに目を向けた。そして、見てしまったのだ。
後部座席の窓から、退屈そうに外を眺めていた小学校低学年くらいの女の子が、莉緒の乗るタクシーを不思議そうに見つめ、何かを発見したように隣に座る母親の袖を引いた。
「ママ、見て。あの人、車の中でおしっこしてる」
子供の無邪気な声は聞こえない。だが、その唇の動きは莉緒にはっきりとそう読めた。
怪訝な顔で振り向いた母親の視線が莉緒のタクシーに向けられる。
そして車内で起きている異様な光景――短いスカートの女が何かを股に挟み、苦悶と羞恥に顔を歪めている姿――を完璧に捉えた。
母親の顔から、すっと表情が消えた。
そして次の瞬間、その顔は信じられないものを見たかのような驚きと、汚物を見るかのような軽蔑と、そして隠しようのない嫌悪感が入り混じった残酷な表情へと変わった。
見られた。
見られてしまった。
この最も無防備で、最も醜く、最もみじめな姿を全くの赤の他人に。
これまで莉緒が人生をかけて守り、磨き上げてきた「美しく、完璧な自分」という虚像が、その母親のたった一瞥によって、木っ端微塵に粉砕された。
その瞬間、莉緒の中で何かが音を立てて完全に折れた。
羞恥心は限界を超え、感情の回路が焼き切れたかのように、涙さえも枯れ果てた。
彼女はただ、人形のように固まったまま、プラスチックの容器が尿で満たされていく重みを虚ろに感じているだけだった。
一時間にも及んだ地獄の渋滞が嘘のように解消された。
タクシーは再び滑るように走り出し、やがて、さいたま市の閑静な住宅街にある莉緒のマンションの前に到着した。
運転手はエンジンを止めると、後部座席に溜まった汚物の惨状には一瞥もくれることなく、平然とした口調で言い放った。
「いやあ、ひどい渋滞でしたね。ところで、この汚物の処理代として、きりのいいところで一万円、いただけますかね」
「汚物」。その言葉が虚ろな莉緒の鼓膜に鈍い痛みとともに突き刺さった。
彼女は何も言わなかった。
抵抗する気力も、怒りを感じる感情さえも、もはや残っていなかった。
ただ、言われるがままにハンドバッグからクレジットカードを取り出し、震える手で彼に差し出した。
自室のドアを開け、内側から鍵をかけた瞬間、彼女は崩れるようにその場にへたり込んだ。
ふらふらと洗面所へ向かい、鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、もはや、プライドが高く、自信に満ち溢れた美しい自分ではなかった。
ただ、汚物を見るような冷たい目で見られた、惨めで、汚らわしい、抜け殻のような女がいるだけだった。