部屋の空気は吸い殻の酸っぱい匂いと、拭き忘れた液体が発酵したような微かな甘さが混じり合い、まるで小田切敦夫という男の内面をそのまま具現化したかのように淀んでいる。
彼はその中心で、使い古されたパイプ椅子に深く腰掛け、パソコンの画面だけを唯一の光源として、世界の全てから隔絶されていた。
カタ、とエンターキーを叩く乾いた音が部屋に響く。
画面に映し出されたのは数日前の記録映像。
湾岸線のオレンジ色の光が無機質に流れ去っていく。
後部座席で美しい顔を苦悶に歪ませる女。
小田切はマウスのホイールをゆっくりと回し、動画のシークバーを慎重に操作する。
彼が求めるのは特定の「瞬間」だった。
【再生】
隣の車線にミニバンが並ぶ。
後部座席の少女が驚いたように女を指さす。
そして、その母親が、汚物でも見るかのように顔をゆがませる。
その冷たく残酷な軽蔑の一瞥が、女の顔に突き刺さった、まさにそのフレーム。
女の表情から、一瞬にして全ての感情が抜け落ちる。
驚きも、羞恥も、苦痛さえも消え去り、ただ、壊れた人形のような虚無だけが残る。
プライドという名の、彼女を支えていた最後の背骨が完璧に粉砕された音。
小田切は、その瞬間を何度も、何度も繰り返し再生した。
スローモーションで、コマ送りで、その表情筋の微細な痙攣、瞳から光が消え失せる刹那を、まるで偉大な芸術作品を鑑賞するかのように執拗に吟味する。
「……く、くくっ」
喉の奥から押し殺したような笑いが漏れた。
「最高だ。最高の仕上がりだ」
独り言が埃っぽい空気に溶けていく。
第三者という「観客」。
それは閉ざされた空間での単なる屈辱を、公開処刑へと昇華させるための完璧なスパイスだった。
ただ恥をかかせるだけではない。
その人間が最も大切にしている社会的尊厳を赤の他人の前で引き裂き、踏みにじる。
その残酷な構図こそが、彼の嗜虐心を最高潮に満たしたのだ。
彼は満足げに頷くと、ファイルを閉じ、すぐに次のフォルダを開いた。
画面が切り替わる。
今度は恵比寿の夜景を背に楽しそうに笑い合う二人の若い女が映し出された。
小田切は再びシークバーを操作するが、彼が注目するのは、女が失禁する阿鼻叫喚の場面ではなかった。
彼の指が止まったのは、その後の、全てが終わった後の、地獄のような沈黙の中だった。
【再生】
悪臭が充満する車内。
虚ろな目で抜け殻のように座り込む女と、どうすることもできずに硬直し、わずかに距離を取って座る友人。
友人を助けたいという思いと、生理的な嫌悪感との間で引き裂かれ、戸惑いと恐怖に染まった女の表情。小田切は、その顔をこそ、丹念に観察した。
そして、場面はマンションのエントランス前に移る。
女が、壊れてしまった友人を支えようと、おずおずと伸ばした手。
その手が触れる寸前、女がびくりと体を震わせ、拒絶するように身をかわす瞬間。
見えない。しかし、確実に存在する。
友情という名の、人間が拠り所にする、か細くも強固な絆。
それが、ぷつりと断ち切れる音。
小田切には、その音がはっきりと聞こえた。
二人の間に生まれた修復不可能な亀裂。
冷たく、深い溝。
彼は、その目に見えないものを自らの手で完璧に破壊したのだ。
「……傑作だ」
それは先程の自画自賛とは質の違う、静かで、荘厳な響きを帯びた呟きだった。
物理的な支配ではない。
人間の心、その最も根源的で最も繊細な関係性そのものを掌握し、破壊する。
それは、彼に全能感を与えた。
彼はゆっくりとマウスを操作し、「傑作選」と名付けたフォルダに、そのファイルをドラッグ&ドロップした。
二つの完璧な成功体験。最高の「作品」たち。
しかし、その達成感は彼の乾ききった心を潤すどころか、さらなる渇望の種を芽生えさせていた。
彼は再生を止め、パソコンの電源を落とした。
唯一の光源が消え、部屋は完全な暗闇と沈黙に包まれる。
パイプ椅子がきしむ音を立て、彼は深く背もたれに体重を預けた。
暗闇の中で天井の染みをぼんやりと見つめる。
(最高の羞恥を与えてやった。プライドも、友情も、俺の手で壊してやった)
達成感はある。だが、何かが足りない。
(次は、趣向を変えてみるか)
彼の思考は、より冷たく、より純粋な領域へと沈んでいく。
(抵抗する意識、もがく自我、それすらも、初めから奪い去ってみるか。泣きもせず、喚きもせず、ただ、されるがままになっているだけの無抵抗の女。完全に意識を失い、ただの『肉の器』になった女を好きなように辱め、汚し、弄ぶ)
それは、もはやコミュニケーションですらない、一方的な陵辱。
人間を完全に「物」として扱うという思想。
その冷酷な計画が脳内で形になった瞬間、彼の口元に暗闇の中でもわかるほどの歪んだ笑みが浮かんだ。
小田切は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
そして、部屋の隅に置かれた鍵付きの小さなジュラルミンケースへと向かう。
ダイヤルを合わせ蓋を開けると、中には様々な薬品の瓶や分包紙が几帳面に整理されて並んでいた。
彼はその中から、数種類の錠剤が入った瓶を取り出した。ラベルには、専門的な薬品名が記されている。
彼は慣れた手つきで乳鉢と乳棒を取り出すと、それぞれの瓶から決められた数の錠剤を慎重に取り出した。
静まり返った部屋に、ゴリ、ゴリ、という硬質な音だけが響き始める。
彼が乳棒に力を込めるたびに、色とりどりの錠剤が砕け、混ざり合い、真っ白な、きめ細かい粉末へと姿を変えていく。
その様は、まるで毒薬を調合する錬金術師のようだった。
彼の顔には何の感情もない。
ただ、次なる「人形遊び」のための道具を準備する、職人のような無表情があるだけだった。