木下 紗江 (きのした さえ) 28歳
デザイン事務所の経理担当。真面目でルーティンを大切にする、少し地味で目立たない性格。
川崎市麻生区の古いアパートで一人暮らし。
深夜の静寂。
小田切敦夫のアパートでは古新聞が発する乾いた音と、彼自身の息遣いによってのみ破られていた。
部屋の隅に積まれた雑誌の塔が、まるで墓標のように影を落とす中、彼はテーブルの上で、油性インクの染みが滲んだ一冊の手帳をゆっくりとめくっていた。
それは単なる乗車記録ではない。
彼の歪んだ欲望を記録し、分類し、陳列した、秘密の標本図鑑だった。
指先が過去の獲物たちの名前と住所、そして特徴を記したページを、まるで品定めするかのように撫でていく。
今、彼の頭にあるのは「完璧な人形遊び」ができる獲物と舞台を選ぶこと。
それは、一人暮らしの女の部屋、そのものだった。
指が、あるページでぴたりと止まった。
『木下紗江。中目黒、デザイン事務所。川崎市麻生区、百合ヶ丘、〇〇荘201号室』
彼の脳裏に、地味で、おとなしそうな女の顔が蘇る。
長い髪を一つに束ね、俯き加減で後部座席に乗り込んできた印象の薄い女。
感情の起伏が少なく、会話もほとんどなかった。だが、彼女には特筆すべき「価値」があった。
手帳の隅には彼が書き留めたメモがある。『月末金曜、残業後、必ず利用』。
それは捕食者にとって、獲物の周回ルートを完全に把握したにも等しい情報だった。
小田切は壁に掛かった安物のカレンダーに目をやった。
今日の日付を赤いマジックで囲った円が、まるで的の中心のように見えた。
今日が、まさにその「月末の金曜日」だった。
完璧な標的、完璧な状況設定。
彼の口元が暗闇の中でゆっくりと歪み、捕食者のそれへと変わっていく。
中目黒の夜は、まだ若い喧騒を酔いどれの呼気と共に吐き出していたが、大通りから一本入ったオフィス街は、すでに深い沈黙に包まれていた。
小田切は黒鉄の塊のようなセドリックをデザイン事務所が入るビルの対面に寄せ、エンジンを切った。
闇に溶け込むようにして、彼は運転席でただひたすらに待つ。
獲物を待つ蜘蛛のように身じろぎもせず。
一時間が経過しただろうか。
ビルのエントランスの照明が、不意に一人の人影を浮かび上がらせた。
細身のシルエット、疲れた足取り。木下紗江だった。
彼女は、まるで一日の全てのエネルギーを使い果たしたかのように、重い足取りで大通りへ向かい、所在なげに腕を上げてタクシーを探し始めた。
金曜の夜だ、流しのタクシーはすぐには捕まらない。
小田切は、まるで舞台役者が登場の合図を待つかのように、完璧なタイミングを計った。
数台の車が彼女の前を通り過ぎ、紗江が諦めと焦燥の入り混じった表情を浮かべた、まさにその瞬間。
彼はキーを捻り、エンジンを始動させた。
セドリックは、音もなく闇から滑り出すと、吸い寄せられるように彼女の目の前でぴたりと停止した。
後部座席のドアが自動で開く。
紗江は、それが以前乗ったことのあるタクシーだとは微塵も気づかず、安堵の息を漏らしながら、その身を車内へと滑り込ませた。
「百合ヶ丘の、〇〇荘までお願いします」
短く、そして力なく告げられた行き先。
小田切はバックミラー越しに彼女を一瞥し、無言で頷いた。
車は滑らかに発進し、都会の光の洪水の中へと合流していく。
しばらく無言の時間が流れた後、最初の赤信号で車が停まった。
小田切は、この瞬間のために用意していたセリフを、実に穏やかな口調で紡ぎ出した。
「お客さん、月末でお疲れでしょう。これ、サービスですけど、よかったら」
彼は、あらかじめコンソールのカップホルダーに置いていた栄養ドリンクの小瓶を、後ろを振り返りもせずに差し出した。
一見すれば、どこにでも売っている、ごく普通の製品だ。
しかし、その茶色い液体の中には、彼が自室で丹念に砕き、調合した純白の粉末――強力な睡眠導入剤と、彼の嗜虐心を満たすための利尿剤が、完璧な比率で溶け込んでいる。
「え……あ、すみません、ありがとうございます」
紗江は一瞬戸惑ったが、全身を支配する鉛のような疲労が、彼女の正常な判断力を麻痺させていた。
見知らぬ運転手からの厚意。
普段なら断っていたかもしれないその申し出を彼女は素直な感謝と共に受け取った。
キャップを捻る乾いた音。
こくり、と喉を鳴らして液体を飲み干す。
ほんのりと甘い、人工的なフレーバー。
それが、地獄への招待状だとは知る由もなかった。
首都高速道路に乗る頃には、車窓を流れるオレンジ色の光は、紗江の瞳の中でゆっくりと滲み、像を結ばなくなっていた。
栄養ドリンクに仕込まれた薬品が、彼女の血流に乗って脳へと達し、その意識を確実かつ静かに刈り取っていく。
最初に訪れたのは、心地よい浮遊感。そして、抗いがたい眠気。
彼女は、シートに深くもたれたまま、音もなく深い眠りの底へと沈んでいった。
小田切はバックミラーに映る彼女の姿を確認した。
ぐったりと首を傾け、規則正しい寝息さえ聞こえない。完全に「落ちた」。
彼は満足げに口角を上げると、アクセルを緩め、法定速度を守って夜の高速道路を走り続けた。
やがてセドリックは高速を降り、見慣れた住宅街の細い道へと入っていく。
目的地である古いアパート『〇〇荘』の前に車を停め、小田切はエンジンを切った。
周囲は寝静まり、物音ひとつしない。
彼は運転席から降りると、静かに後部座席のドアを開けた。
そして、彼自身も後部座席に乗り込む。
眠り続ける紗江の隣に座り、彼女が床に落としていたハンドバッグを無造作に手に取った。
開かれたバッグの中には女性らしい小物と共に、一日の生活の痕跡が詰まっている。
彼は獲物の腹を割く解剖医のように、冷静に、そして手際よく中身を検分し始めた。
化粧ポーチ、社員証の入ったカードケース、くしゃくしゃになったレシート。
そして、彼の指が冷たい金属の束に触れた。
家の鍵、自転車の鍵、そして小さなキーホルダー。これだ。
彼は目的のものを慎重に指でつまみ上げると、それを自らのポケットにしまい込んだ。
小田切は、まるで壊れ物を扱うかのように紗江の体を座席に横たえさせると、静かに車を降りた。
そして、少し離れた場所にセドリックを移動させ、再びアパートへと戻る。
盗み出した鍵を201号室のドアノブに差し込み、ゆっくりと回す。
カチリ、という小さな金属音が夜の静寂に吸い込まれていった。
ドアを開けると、微かに柔軟剤の匂いが混じった、生活感のある空気が彼を迎えた。
彼は音を立てないように中へ滑り込むと、背後で静かにドアを閉めた。
小田切は眠り続ける紗江を、まるで米袋でも運ぶかのように軽々と担ぎ上げ、部屋の中へと運び込んだ。
古いが、きちんと整頓された、女の一人暮らしの部屋。
その中央に置かれたベッドの上に、彼は紗江の体を静かに横たえた。
彼女はぴくりとも動かない。ただの肉塊だ。
彼は満足げに部屋全体を見回すと、上着のポケットから、マッチ箱ほどの大きさの黒い塊――小型のアクションカメラを取り出した。
そして、部屋の隅にある本棚、その一番上の段、分厚い専門書とぬいぐるみの陰に、カメラを巧みに設置する。
レンズがベッドの中央を正確に捉えていることを確認すると、録画開始のボタンを押した。
小さな赤いランプが、冷たく点滅を始める。
それが、この惨劇の唯一の目撃者だった。
準備は整った。
小田切はベッドの縁に腰を下ろし、眠る紗江のブラウスのボタンに、ゆっくりと指をかけた。
一つ、また一つとボタンを外していく。
彼の指の動きには、一切の躊躇いも、興奮もない。
ただ、決められた手順をこなす職人のように、淡々としている。
ブラウスが剥がされ、スカートが脱がされ、下着が取り払われていく。
一枚一枚、彼女を社会的な存在として包んでいた記号が取り除かれるたびに、彼女は「木下紗江」という個人から、単なる「裸の女」へと還元されていく。
やがて、彼女の柔らかな肌が部屋の青白い蛍光灯の下に完全に晒された。
小田切は、その無防備な体を頭のてっぺんから爪先に至るまで、隅々と、執拗に、値踏みするように眺め回した。
しばらくその姿を鑑賞した後、彼は本棚からアクションカメラを手に取った。
そして、ベッドに近づき、眠る紗江の体にレンズを向ける。
まるで昆虫標本を観察するかのように、閉じた瞼、わずかに開いた唇、穏やかな起伏を描く胸、そして、女性器の無防備な形状を、執拗なまでの接写で撮影していく。
彼のファインダーの中では彼女はもはや人間ではない。
ただの、美しい曲線と陰影を持つ、肉のオブジェだった。
撮影を終えると、彼は再びカメラを本棚の元の位置に戻した。
そして、部屋の隅にあった椅子を引き寄せ、そこに深く腰掛ける。
腕を組み、脚を組み、まるで観客席の王のように、ベッドの上で眠り続ける「人形」を見下ろした。
あとは、最後の仕上げを待つだけだ。
彼の仕掛けたもう一つの薬品、利尿剤が、その効果を発揮するのを。
時間は静かに、そして確実に流れた。
やがて、小田切が待ち望んでいた「現象」が始まった。
眠ったままの紗江の意思とは全く無関係に、彼女の体から、生暖かい液体が流れ出し始めたのだ。
それは、ゆっくりと、しかし確実にシーツへと広がり、濃い色の染みを作っていく。
人間の尊厳が、生理現象という抗いようのない力によって、静かに、そして完全に汚されていく光景。
小田切は、その光景を、ただ黙って、表情一つ変えずに見つめていた。
その瞳には熱狂も興奮もない。
ただ、自らの計画が完璧に遂行されたことに対する、満足感だけが浮かんでいた。
夜明け前の最も深い闇の中、小田切は全ての「作業」を終えた。
彼は紗江のハンドバッグにアパートの鍵をそっと戻し、まるで最初から誰もいなかったかのように、静かに部屋を立ち去った。
翌朝。
頭蓋骨の内側を鈍器で殴られたかのような激しい痛み。
紗江は、うめき声と共に目を覚ました。
視界が定まらない。自分がどこにいるのか、今がいつなのか、すぐには理解できなかった。
だが、それよりも先に奇妙な違和感が彼女を襲った。
肌に触れる、シーツの冷たい感触。
そして、何よりも、自分の体に何も纏っていないという事実。
「……っ、ひゃっ!」
自分の裸の姿を認識した瞬間、声にならない悲鳴が喉から迸った。
何が? どうして?
混乱する頭で必死に記憶を辿ろうとするが、昨夜のことは、まるで濃い霧に覆われたかのように、何も思い出せない。
会社を出て、疲れていたこと。
そこまでは確かに覚えている。しかし、そこから先が完全に空白だった。
パニックに陥りながら身を起こそうとした彼女は、さらなる絶望に突き落とされた。
自分の寝ていた場所のシーツが、ぐっしょりと濡れている。
鼻をつく、微かなアンモニア臭。
それが何を意味するのかを理解した瞬間、彼女の全身から血の気が引いていく。
タクシーに乗ったのだろうか。
誰かと一緒に帰ってきたのだろうか。
この部屋に自分以外の誰かがいたのだろうか。
自分の身に一体何が起きたのか。
目の前にある、自分の体に起きた惨状という「結果」と、そこに至るまでの記憶という「原因」が、全く繋がらない。
その断絶された事実だけが、彼女を底知れぬ恐怖の淵へと突き落としていた。
紗江は濡れたシーツの上で、ただ、なすすべもなく震えることしかできなかった。