横山 奈緒 (よこやま なお) 24歳
雑貨店の店員。少しおっちょこちょいだが、明るく前向きな性格。
金曜の深夜。
歌舞伎町のネオンが雨上がりのアスファルトにじっとりと反射している。
小田切は客待ちのタクシーの列から少し離れた場所にセドリックを停め、無感動にその光景を眺めていた。
数日前、自室のモニター越しに確認した、あの完璧な「作品」たち。
意識のない人形を意のままに汚し、記録する行為は彼の歪んだ欲望の頂点だった。
すべてを支配し、すべてを弄んだ。
だが、その絶対的な達成感の後に残ったのは燃え殻のような虚しさだけだった。
最高の料理を腹一杯食べた後の、あの気怠い飽食感。
もはや、彼を昂らせるものは何もなかった。
その時、こんこん、と後部座席の窓が叩かれた。
「すみませーん、乗れますか?」
ガラスの向こうで若い女が屈託のない笑顔を向けていた。
小田切は、ゆっくりと自動ドアを開ける。
女は「わ、ありがとうございます!」と言いながら、元気よく乗り込んできた。
「埼玉の所沢まで、お願いします!」
その女は雑貨店の店員で、今日は店の棚卸しで遅くなったのだと、聞いてもいないのにぺらぺらと喋った。
その明るさが小田切の澱んだ心には、ひどく耳障りだった。
赤信号で停まった時、小田切は、もはや長年の習慣と化した動作で、グローブボックスから個包装のクッキーを取り出した。
「サービスです」
その言葉も、もはやテープを再生するかのように何の感情もこもっていなかった。
「え、いいんですか? わあ、ラッキー! ありがとうございます!」
奈緒は、その親切を素直に喜び、何の疑いもなくクッキーの包装を破った。
タクシーが関越自動車道に入り、三十分ほどが過ぎた頃。
奈緒の脳天気なおしゃべりが、ふと途切れた。
(…ん? あれ、なんか…)
下腹部の奥に確かな圧迫感。
それは急速に強まり、冷や汗が噴き出すほどの切実な尿意へと変わった。
(ヤバい、ヤバいヤバい! なんで急に!?)
さっきまでそんな素振りは一切なかったのに。
自分の体の突然の裏切りに奈緒はパニックになる。
「あ、あの、運転手さん! すみません! 本当にすみません!」
「…何です?」
「トイレ! トイレに行きたいです! もう、なんか、我慢できなくて…!」
奈緒は必死に懇願した。
小田切はバックミラー越しに、その慌てふためく様子を眺める。
かつてなら、その表情の変化にサディスティックな愉悦を感じたはずだった。
だが、今の彼の心に湧き上がってきたのは何の興奮でもなかった。
(…面倒くさい)
ただ、それだけだった。
泣き喚かれ、後始末のことを考え、またあの記録を自室で確認する。
そのすべての工程が色褪せた映画の再上映のように、ひどく退屈なものに思えた。
彼は自分でも驚くほど静かな声で、こう答えた。
「…わかりました。次の三芳パーキングに入りましょう」
その言葉に奈緒は「ほ、本当ですか!? あ、ありがとうございます!」と、涙声で何度も頭を下げた。
数分後、タクシーは煌々と明かりが灯る三芳パーキングエリアに滑り込む。
小田切がトイレの建物のすぐ近くに車を停めると、奈緒は「すぐ戻ります!」と叫び、転がるように車から飛び出していった。
夜風に当たりながら、小田切はトイレの方向へと全力で走っていく奈緒の後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。何の感情も湧いてこなかった。
やがて、奈緒は顔を真っ赤にしながら、申し訳なさそうに車に戻ってきた。
後部座席に座ると、消え入りそうな声で、こう言った。
「ご、ごめんなさい…。シートは汚してないと思うんですけど、あの、降りる時に、ほんの少しだけ…ちびっちゃって…」
彼女は、これから請求されるであろう、高額なクリーニング代に怯えているようだった。
小田切は、その姿をバックミラーで一瞥する。
そして、ため息を隠すこともせず、短く答えた。
「いいですよ、別に。気にしないでください」
「え…」
「いいから、出しますよ」
彼は驚く奈緒を無視して、再び無言で車を発進させた。
もはや、この行為は彼に何の興奮も、満足ももたらさない。ただの、虚しい作業でしかなかった。
その事実だけが深夜の高速道路の静寂の中に重く沈んでいた。