松本 千夏 (まつもと ちなつ) 29歳
システムエンジニア。物静かで、あまり感情を表に出さない。
水曜の深夜。
小田切は、もはや獲物を探すという意識もなく、ただぼんやりと新宿のオフィス街を流していた。
かつて、この時間帯は心を昂らせる狩りの時間だった。
だが今、彼の目に映る夜の街は、ただの色褪せた風景でしかなかった。
一台のタクシーを若い女性が見送っている。その後ろで別の女性が手を上げた。
小田切は、ゆっくりとセドリックを路肩に寄せる。
乗り込んできたのは、静かで、どこか影のある女だった。
「埼玉の、大宮まで」
その女はシステムエンジニアで、今夜も大規模なシステム障害の対応で、こんな時間になったのだと、淡々と語った。
小田切は、これが最後だと、心の中で決めていた。
赤信号で停まった時、彼は、もはや儀式と化した動作で、グローブボックスから下剤を仕込んだチョコレートブラウニーを取り出した。
「サービスです」
千夏は疲労から思考が鈍っているのか、会釈だけしてそれを受け取ると、ゆっくりと口に運んだ。
タクシーが東北自動車道に入り、一時間が過ぎようとしていた。
千夏は、それまで黙って窓の外を眺めていたが、ふと、その身をこわばらせた。
彼女の顔が、みるみるうちに蒼白になり、脂汗が噴き出す。
腹部を押さえ、必死に痛みに耐えているのがバックミラー越しにもわかった。
小田切は、その様子を眺める。だが、彼の心は凪のように静かだった。
美しい絵画も毎日見ていれば飽きる。それと同じだった。
かつてあれほど求めてやまなかった苦痛に歪む女の顔。それが今では何の感慨ももたらさない。
やがて、千夏は耐えきれず、か細く、しかしはっきりとした口調で言った。
「…すみません。お手洗いに行きたいです。次のサービスエリアで停めてください」
その懇願を聞いた瞬間、小田切の心に浮かんだのはサディスティックな愉悦ではなかった。
(ああ、やっぱりこうなるのか。面倒だな。臭くなるし、掃除もしなくちゃならない)
純粋な、億劫さだった。
彼は大きなため息を一つ、隠すこともせずにつくと、言った。
「…わかりました。次の蓮田に入ります」
小田切の返答に千夏は安堵の表情を浮かべた。
数分後、タクシーは蓮田サービスエリアに停車する。
千夏は「申し訳ありません」と一言だけ告げ、よろめくように車から降り、トイレへと駆け込んでいった。
小田切は、その姿をぼんやりと見送り、煙草に火をつけた。煙が虚しく車内に広がる。
数分後、青ざめた顔で車に戻ってきた千夏は後部座席に座ると、深く頭を下げた。
「申し訳ありません…。シートは汚していませんが、少し、下着を…」
小田切は車内に漂い始めた微かな匂いに顔をしかめる。
そして、心の中で、はっきりと決意した。
(もう、やめだ。こんなことは、もうしなくてもいい)
やり尽くした。飽きてしまった。
この行為は、もはや自分に何の興奮ももたらさない。ただ面倒な後始末が残るだけだ。
小田切は千夏をさいたま市の自宅まで送り届けた。
彼はクリーニング代を請求することはなかった。
千夏を降ろした後、彼は「空車」のプレートを、ぱたり、と音を立てて「回送」に切り替えた。
今日の営業は、もう終わりだ。
いや、この「仕事」そのものが、もう、終わりなのだ。
彼の心は長年続けた趣味に自ら終止符を打った。
奇妙な解放感と、がらんどうになったような虚しさで満たされていた。
彼はアパートへの帰路につきながら、明日からは、どんな退屈な毎日が待っているのだろうと、ぼんやり考えていた。