小田切 敦夫 (おだぎり あつお) 48歳
白タクの運転手(深夜専門)
都内近郊の古いアパートで一人暮らし
――月が雲に隠れた湿気の多い夜だった。
小田切は月極駐車場の隅に停めたセドリックの後部座席のドアを開け放つ。
車内灯がぼんやりと照らすシートに、まだ人の体温のような気配が残っている。
川崎まで乗せた若い女——が腰を下ろしていた場所。
小田切は膝立ちになって後部座席に乗り込み、ドアを閉めた。
外の音が遮断され、車内はまるで別世界のように静かになった。
彼はゆっくりと腰を落ち着けると、顔をシートに近づけた。
鼻先が布地に触れそうな距離で息を潜めた。
湿った布に混じる、まだ消えていない温もりと、かすかに残る女の体臭。
強い芳香剤の下から微かに漂う甘い汗の匂い。
小田切は目を閉じ、それだけを味わうようにゆっくりと吸い込んだ。
三秒間、世界が止まった。
外の風も虫の声も遠のき、鼓動だけが耳に響いた。
彼は指を伸ばし、女が座っていた辺りをそっと撫でた。
布地の上に残る、ほんのりとした湿り気。指先にそれが移る。
小田切はその指を口元に運び、舌で軽く舐めた。
塩味と、どこか懐かしいような——そんな気がしただけだった。
小田切は満足したような笑みを浮かべ、いったん車を降りた。
そして、助手席の足元から業務用クリーナーのボトルを取り出し、後部座席の清掃を開始する。
スプレーの先を染みに向け、音を立てて何度も吹きかける。
白い泡が布に広がり、すぐに消えていく。
雑巾で円を描くように拭き上げるが、その動きは決まった手順のようで、汚れを落とすこと自体に執着しているようには見えなかった。
作業を終えて、アパートに戻ると、部屋は相変わらずの散らかりようだった。
食べ終わったコンビニ弁当の容器が床に転がり、灰皿は山のように吸い殻で溢れている。
埃が立ち込めて空気が重い。
小田切は靴を脱ぎ散らかしたまま、部屋の奥にある古びたデスクの前に座った。
ドライブレコーダーの映像。女が漏らす場面を何度も繰り返し再生し続けた。
――月が良く見える風の強い夜だった。
コンビニ弁当の容器と吸い殻が散乱する埃っぽいワンルーム。
モニターの電源を入れると、青白い光が小田切の顔を照らした。
ドライブレコーダーから取り出したSDカードを指先でくるくる回してからスロットに差し込む。
画面にファイル一覧が表示される。
彼は迷うことなく、その日付のファイルをダブルクリックした。
画面に映し出されたのは世田谷まで乗せた女の姿だ。
小田切はヘッドホンを装着した。
映像の序盤、女がパソコンを叩いている場面を無表情に早送りする。
彼が動きを止めたのは、女が初めて助けを求める声を上げた場面だった。
そこからは、何度も、執拗に同じ場面を再生した。
女がビニール袋に排尿する場面。
アングル的に行為そのものははっきりと映っていない。
小田切は再生ソフトの音声トラックの波形が表示される部分を拡大する。
生々しい放尿の音と女の屈辱に歪む顔、押し殺した嗚咽。
その部分だけを繰り返し、繰り返し、再生する。
ヘッドホンから漏れる音に合わせて、彼の呼吸が次第に荒くなっていく。
モニターの光に照らされたまま、ズボンのジッパーを下ろし、ゆっくりと腰を動かし始めた。
行為を終えた後も、小田切は椅子に座ったままだった。
しかし、その目には満足の色はなく、むしろ、渇ききったような物足りなげな光が宿っていた。
彼は映像ファイルを閉じると、パソコンの横にある引き出しに手を伸ばした。
中には錠剤の利尿剤が入った箱と、液状の下剤が入った小さな瓶が並んでいる。
利尿剤の箱を一度手に取るが、つまらなそうにいちべつすると、無造作に引き出しの奥へ放り投げた。
次に下剤の小瓶を手に取る。
それを目の高さに掲げ、中の液体を揺らしながら、じっくりと眺める。
その口元には新たな獲物を見つけたかのような、ゆっくりとした残酷な笑みが広がっていった。
棚からクリームが注入されたタイプの個包装の洋菓子を一つ取り出す。
引き出しの奥から滅菌パックに入った新品の注射器を取り出した。
手慣れた様子で下剤の液体を注射器に吸い上げる。
そして菓子の包装の上から、中身のクリームめがけてゆっくりと針を突き刺し、透明の液体を慎重に、すべて注入した。
準備を終えた菓子を他の菓子が並んだ箱の中に何食わぬ顔で戻す。
モニターの光だけが満足げに歪む彼の横顔を青白く照らしていた。