※この作品はR-18です。

そのタクシー、下り方面   作:たちばなさとし

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10犯人像 下り方面

 水曜の深夜。

 小田切は回送プレートを出したセドリックをアパートへと走らせていた。

 今日の最後の客、システムエンジニアの女を降ろした後、彼の心は奇妙なほど静かだった。

 長年、彼の心の大部分を占めていた、あのどす黒い情熱が燃え尽きた後の灰のように、静かに、冷たくなっている。

 

 もう、やめだ。

 

 そう決めた瞬間、鎖のように絡みついていた何かが、ふっと消え失せたような気がした。

 それは解放感と呼ぶにはあまりに虚しく、自由と呼ぶにはあまりに退屈な感覚だった。

 

 車内に染みついた芳香剤と、消しきれない微かなアンモニアの匂い。

 かつては、これから始まる儀式を前に、彼の興奮を掻き立てたこの匂いが、今ではただの古びた仕事場の匂いでしかなかった。

 

 明日からは何をすればいいのだろう。

 ただ客を乗せ、メーターを倒し、金を受け取る。そんな、色のない、意味のない毎日が死ぬまで続いていくだけなのか。

 その考えは彼の心に鉛のような重さでのしかかってきた。

 

 アパートまで、あと数キロ。その時だった。

 繁華街の裏通りで、手を挙げる二人組の若者が目に入った。

 安物のジャージに、だらしないサンダル履き。

 社会の底辺にいる、取るに足らない連中だ。

 いつもなら無視して通り過ぎる。

 だが今夜は、なぜかブレーキに足が伸びた。

 この、がらんどうになった心を、ただの「運転」という作業で埋めたかったのかもしれない。

 

「…どこまで」

 ドアを開け、ぶっきらぼうに尋ねる。

 

「新木場の、埠頭のほう。一番奥の倉庫まで」

 若者の一人が、やけに馴れ馴れしい口調で言った。

 

 小田切は眉一つ動かさず、アクセルを踏んだ。

 後部座席で若者たちの品のない会話が聞こえてくる。

 「マジでやべえって」「今日のヤマはデカいぞ」。

 

(チンピラの小遣い稼ぎか)

 小田切は心の中で彼らを完全に見下していた。

 俺がやってきたこととは次元が違う。あれは芸術だった。

 こいつらのような単純な暴力や窃盗とは違う。

 彼は自分が捕食者であり、目の前の獲物は、その格付けにすら値しない、ただの虫けらだと信じて疑わなかった。

 

 車は、やがて、潮の匂いが立ち込める、人気のない埠頭エリアへと入っていく。

 指定された錆びついた倉庫の前で、小田切はセドリックを停めた。

 

「着きましたよ。一万三千円」

 彼が振り返りもせずにそう告げた、その瞬間だった。

 

 首筋に冷たい金属の感触。

 そして、耳元で、先ほどまでとは全く違う、ドスの利いた声が囁いた。

「金、出せや。あるだけ、全部」

 

 ナイフだ。

 タクシー強盗。

 小田切の思考が、一瞬、停止した。

 ありえない。この俺が?  獲物になる?

 彼の心に、屈辱よりも先に純粋な驚きと、理解不能な現実への怒りが込み上げてきた。

 彼は、いつものように相手を支配しようとした。

 長年、女たちを絶望させてきた、あの絶対的な捕食者の声で。

 

「…やめとけ。ドライブレコーダーで、全部録画されてるぞ」

 それは彼の最強の武器のはずだった。

 

 だが、若者は鼻で笑った。

「だから、どうした?」

 

 その言葉は小田切が築き上げてきた、歪んだ世界のすべてを根底から破壊した。

 彼のルールは、彼の美学は、彼の支配は、純粋な暴力の前では何の意味も持たなかったのだ。

 

「てめえ…!」

 プライドを傷つけられた小田切は咄嗟に抵抗しようと、身をよじった。

 それが最後の過ちだった。

 腹部に熱い、焼け付くような痛みが走る。

 一度。二度。

 

「う、ぐ…っ」

 声にならない呻きが漏れ、力が抜けていく。

 

「ちっ、面倒かけさせやがって」

 

 若者たちは小田切のポケットから財布を抜き取ると、彼を運転席から引きずり出した。

 

「おい、これ、エンジンかかったままだぜ。ラッキーじゃん」

 

「マジだ。じゃあ、これで逃げようぜ」

 若者たちは、小田切をゴミ袋でも放り込むかのように、後部座席へと蹴り込んだ。

 

 じわり、と背中に長年の汚れが染み込んだ、あのファブリックの感触が広がる。

 芳香剤と、アンモニアと、そして今、自分の血の匂いが混じり合う。

 そこは、彼が、何人もの女を辱めてきた彼の聖域であり、舞台だったはずの場所。

 薄れゆく意識の中、小田切の目に最後に映ったもの。

 それはルームミラーの横で、変わらずに点滅し続ける、ドライブレコーダーの無機質な緑色の光だった。

 彼の最も醜悪で、最も惨めな最期の瞬間を、それは、ただ、黙って記録し続けていた。

 

 翌朝、埠頭の片隅に乗り捨てられたタクシーが発見された。

 通報を受けて駆けつけた警察官は、後部座席で絶命している男の姿を確認する。

 強盗殺人事件。

 捜査官の一人が、何か手がかりはないかと車内のドライブレコーダーのSDカードを抜き取り、再生した。

 そこに記録されていたのは、世間を騒がせるような、数々の陵辱の記録ではなかった。

 ただ、一人の哀れな男が、誰に知られることもなく、名も知らぬ若者に命を奪われ、自分が汚したシートの上で、無様に死んでいく、数時間の映像だけだった。

 

 そのタクシーは、いつものように、ただ、下り方面へと走っていた。

 そして、終着駅で、その主を降ろしただけだった。

 永遠に続く、下り方面の、その先へ。

 

― 完 ―

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