水曜の深夜。
小田切は回送プレートを出したセドリックをアパートへと走らせていた。
今日の最後の客、システムエンジニアの女を降ろした後、彼の心は奇妙なほど静かだった。
長年、彼の心の大部分を占めていた、あのどす黒い情熱が燃え尽きた後の灰のように、静かに、冷たくなっている。
もう、やめだ。
そう決めた瞬間、鎖のように絡みついていた何かが、ふっと消え失せたような気がした。
それは解放感と呼ぶにはあまりに虚しく、自由と呼ぶにはあまりに退屈な感覚だった。
車内に染みついた芳香剤と、消しきれない微かなアンモニアの匂い。
かつては、これから始まる儀式を前に、彼の興奮を掻き立てたこの匂いが、今ではただの古びた仕事場の匂いでしかなかった。
明日からは何をすればいいのだろう。
ただ客を乗せ、メーターを倒し、金を受け取る。そんな、色のない、意味のない毎日が死ぬまで続いていくだけなのか。
その考えは彼の心に鉛のような重さでのしかかってきた。
アパートまで、あと数キロ。その時だった。
繁華街の裏通りで、手を挙げる二人組の若者が目に入った。
安物のジャージに、だらしないサンダル履き。
社会の底辺にいる、取るに足らない連中だ。
いつもなら無視して通り過ぎる。
だが今夜は、なぜかブレーキに足が伸びた。
この、がらんどうになった心を、ただの「運転」という作業で埋めたかったのかもしれない。
「…どこまで」
ドアを開け、ぶっきらぼうに尋ねる。
「新木場の、埠頭のほう。一番奥の倉庫まで」
若者の一人が、やけに馴れ馴れしい口調で言った。
小田切は眉一つ動かさず、アクセルを踏んだ。
後部座席で若者たちの品のない会話が聞こえてくる。
「マジでやべえって」「今日のヤマはデカいぞ」。
(チンピラの小遣い稼ぎか)
小田切は心の中で彼らを完全に見下していた。
俺がやってきたこととは次元が違う。あれは芸術だった。
こいつらのような単純な暴力や窃盗とは違う。
彼は自分が捕食者であり、目の前の獲物は、その格付けにすら値しない、ただの虫けらだと信じて疑わなかった。
車は、やがて、潮の匂いが立ち込める、人気のない埠頭エリアへと入っていく。
指定された錆びついた倉庫の前で、小田切はセドリックを停めた。
「着きましたよ。一万三千円」
彼が振り返りもせずにそう告げた、その瞬間だった。
首筋に冷たい金属の感触。
そして、耳元で、先ほどまでとは全く違う、ドスの利いた声が囁いた。
「金、出せや。あるだけ、全部」
ナイフだ。
タクシー強盗。
小田切の思考が、一瞬、停止した。
ありえない。この俺が? 獲物になる?
彼の心に、屈辱よりも先に純粋な驚きと、理解不能な現実への怒りが込み上げてきた。
彼は、いつものように相手を支配しようとした。
長年、女たちを絶望させてきた、あの絶対的な捕食者の声で。
「…やめとけ。ドライブレコーダーで、全部録画されてるぞ」
それは彼の最強の武器のはずだった。
だが、若者は鼻で笑った。
「だから、どうした?」
その言葉は小田切が築き上げてきた、歪んだ世界のすべてを根底から破壊した。
彼のルールは、彼の美学は、彼の支配は、純粋な暴力の前では何の意味も持たなかったのだ。
「てめえ…!」
プライドを傷つけられた小田切は咄嗟に抵抗しようと、身をよじった。
それが最後の過ちだった。
腹部に熱い、焼け付くような痛みが走る。
一度。二度。
「う、ぐ…っ」
声にならない呻きが漏れ、力が抜けていく。
「ちっ、面倒かけさせやがって」
若者たちは小田切のポケットから財布を抜き取ると、彼を運転席から引きずり出した。
「おい、これ、エンジンかかったままだぜ。ラッキーじゃん」
「マジだ。じゃあ、これで逃げようぜ」
若者たちは、小田切をゴミ袋でも放り込むかのように、後部座席へと蹴り込んだ。
じわり、と背中に長年の汚れが染み込んだ、あのファブリックの感触が広がる。
芳香剤と、アンモニアと、そして今、自分の血の匂いが混じり合う。
そこは、彼が、何人もの女を辱めてきた彼の聖域であり、舞台だったはずの場所。
薄れゆく意識の中、小田切の目に最後に映ったもの。
それはルームミラーの横で、変わらずに点滅し続ける、ドライブレコーダーの無機質な緑色の光だった。
彼の最も醜悪で、最も惨めな最期の瞬間を、それは、ただ、黙って記録し続けていた。
翌朝、埠頭の片隅に乗り捨てられたタクシーが発見された。
通報を受けて駆けつけた警察官は、後部座席で絶命している男の姿を確認する。
強盗殺人事件。
捜査官の一人が、何か手がかりはないかと車内のドライブレコーダーのSDカードを抜き取り、再生した。
そこに記録されていたのは、世間を騒がせるような、数々の陵辱の記録ではなかった。
ただ、一人の哀れな男が、誰に知られることもなく、名も知らぬ若者に命を奪われ、自分が汚したシートの上で、無様に死んでいく、数時間の映像だけだった。
そのタクシーは、いつものように、ただ、下り方面へと走っていた。
そして、終着駅で、その主を降ろしただけだった。
永遠に続く、下り方面の、その先へ。
― 完 ―