倉田 莉奈 (くらた りな) 28歳
アパレル企業のプレス。三年付き合った恋人にプロポーズされ、婚約したばかり。
明るく素直な性格で幸福感に満ちている。
金曜の夜。
倉田莉奈は、まだ夢見心地だった。
(プロポーズ、されちゃった)
丸の内の高層階にあるレストランで、付き合って三年になる彼から差し出された小さな箱。
その記憶を反芻するだけで胸がきゅっとなって、にやけそうになるのを必死でこらえる。
プロポーズの幸福な余韻に浸って、二人は東京駅近くの小さなバーで祝杯をあげた。
「もう一杯だけ」が気づけば二杯、三杯と重なり、結婚式の話や新居の話で盛り上がっているうちに、時間はあっという間に過ぎていた。
バーを出てシャッターが半分閉まった駅の入り口で、二人は顔を見合わせて苦笑いするしかない。
「ごめん、俺も飲んじゃったから車出せないし……」と、婚約者になったばかりの彼が申し訳なさそうに眉を下げる。
その困った顔すら愛おしく、莉奈は幸福のあまり膨らんだ心で軽やかに笑った。
「ううん、平気!今の私、幸せだから。タクシーで飛んで帰るよ!」
彼女はそう言って、彼の心配を吹き飛ばすように手を振った。
名残惜しそうに唇を重ね、二人はそれぞれの帰路につくため、大通りで別れた。
夜の空気に混じる都会の喧騒の中、一台の古めかしいセダンが彼女の前で静かに停車した。
少し迷ったが、一刻も早くこの幸せを抱きしめて眠りたかった莉奈は躊躇なく後部座席のドアを開ける。
ドアが閉まると芳香剤の匂いがツンと鼻につく。
(うわ、なんか変な匂い…)
少し眉をひそめたが、左手の薬指で輝くリングに目を落とすと、そんな些細なことはすぐにどうでもよくなった。
「小田原まで、お願いします。東名で」
莉奈は弾む声で目的地を告げた。
運転手は「はい」とだけぶっきらぼうに答える。
まあ、いっか。
今の莉奈は世界中のすべてを許せる気分だった。
最初の赤信号で、その運転手が「サービスです」と言って、個包装の洋菓子を差し出してきた。
(え、くれるんだ)
普段なら警戒するかもしれない。
でも、幸福感で満たされた莉奈の心には、疑うという選択肢はなかった。
「わ、ありがとうございます!」
満面の笑みでそれを受け取り、幸せを噛みしめるように口に含んだ。
濃厚なクリームの甘さが口いっぱいに広がり、それは美味しかった。
タクシーは首都高速に入り、やがて東名高速道路へと合流する。
オレンジ色の光が規則正しく窓の外を流れていく。
莉奈は彼とのLINEを読み返し、友達に送る報告のメッセージを考え、これから始まる新しい生活を想像して、時折くすくすと笑っていた。
異変が起きたのは乗車してから一時間が経とうかという頃だった。
厚木インターを過ぎ、小田原厚木道路に入った付近。
胃のあたりが、きりりと痛んだ。
(あれ…? なんか、お腹痛いかも)
最初はディナーで食べすぎたせいだと思った。
だが、その痛みはすぐに、もっと下腹部の深い場所で腸が絞られるような強烈な痙攣に変わった。
脂汗がじわりと額に滲む。
(うそ、なんで? こんな時に…)
波のように寄せては返す激痛に莉奈の思考は少しずつ混乱し始めた。
一度痛みが引いたかと思うと、次の瞬間にはさらに強烈な痛みとなって彼女を襲う。
そして莉奈は気づいてしまった。これは、ただの腹痛じゃない。
もっと切実で、抗いがたい便意だと。
(ヤバい、ヤバいヤバい、これ絶対ヤバいやつだ!)
幸福に染まっていた顔は恐怖と苦痛で青ざめ、莉奈は必死の思いで運転席の背中に向かって懇願した。
「すみません! お腹がすごく痛くて…! 次のパーキングで停まってください! お願いします!」
声は情けなく震えていた。
バックミラー越しに運転手の冷たい目が莉奈を映す。
「大丈夫ですか? でも、この先はもう降り口まで何もありませんよ」
その言葉は救いのない宣告のように莉奈の耳に響き、タクシーは速度を一切緩めることなく闇の中を突き進んでいく。
しばらく停車できる場所はないという冷酷な現実に莉奈の心は絶望の淵に突き落とされた。
そして、まるでその絶望を嘲笑うかのように、さらに強大になった便意の波が彼女の下腹部を内側から破壊しようと猛り狂う。
ダムが決壊する寸前のような圧倒的な圧力が肛門の一点に集中していた。
もはや体裁を気にすることなど不可能だった。
莉奈は体をエビのように丸め、履いていたストッキングの上から両手で自身のお尻のあたりを必死に押さえる。
肛門を塞ぐという、人間としての尊厳を放棄した極限の抵抗。
だが、その抵抗でさえ、かなわず、身体が制御を失っていくのがわかった。
(いやだ、いやだいやだ、こんなの絶対いやだ!)
そして、ついにその時が来た。
にゅるり、という生々しくも温かい感触が、固く閉ざしていたはずの場所をこじ開けて押し出される。
一度決壊してしまえば、どうすることもできない。
熱い泥のようなものが、ブチュ、ブチュブチュッ、と断続的に下着の中に溢れ出し、おぞましい感触がストッキングを伝って太ももに広がり、そして車のシートにじわりと染み込んでいく。
腐敗したような強烈な悪臭が芳香剤の匂いを駆逐して狭い車内に一瞬で充満した。
莉奈は、あまりの屈辱と絶望に声も出せず、ただ静かに熱い涙を流した。
数時間前まで世界で一番幸せだったはずの自分が、今や汚物にまみれた獣に成り下がってしまった。
滲む視界の中で、左手の薬指で輝く指輪だけが、残酷なほどに美しかった。
自宅マンションに着くまで、莉奈は死んだように動かなかった。
タクシーが静かに停車する。
運転手は忌々しそうに鼻に深い皺を寄せると、無言でダッシュボードから取り出した懐中電灯を点け、後部座席を執拗に照らし出した。
光の輪が莉奈が座っていた場所に広がった、おぞましい茶色い染みを残酷に浮かび上がらせる。
「ひでえな、こりゃ。シートの張り替えと特別清掃代、5万円いただきますよ」
男の声は何の感情も含まない、ただ事実を告げるだけの事務的な響きだった。
莉奈にはもう、何も聞こえていなかった。
震える手で、クレジットカードを取りだし、言われた通りの金額を支払う。
車から降りた後も、どうやって自分の部屋までたどり着いたのか、全く覚えていなかった。
ただ、部屋の鍵を閉めた瞬間、玄関に崩れ落ち、赤ん坊のように泣きじゃくった。
幸せの絶頂から地獄の底へ。
たった一時間あまりの出来事だった。