※この作品はR-18です。

そのタクシー、下り方面   作:たちばなさとし

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事件簿04 汚された器

 中村 恵 (なかむら めぐみ) 32歳

 パートタイマーの主婦。五歳になる息子がいる。

 少し心配性だが愛情深く、家族を何よりも大切にしている。

 

 土曜の夜。

 恵の頭の中は熱で赤い顔をして眠る息子のことでいっぱいだった。

『熱、38度5分。少し落ち着いて寝てるよ』

 夫からのメッセージを何度も読み返す。

 昼過ぎからぐずり始めた息子を一日中看病し、夜になってようやく帰宅した夫と交代できた。

 どうしても必要な薬があり、恵は少し離れた夜間救急病院の薬局まで取りにいったのだ。

 

(早く帰ってあげなきゃ…)

 焦る気持ちで病院のロータリーからタクシーに乗り込んだ。

 古びたセダン。

 ドアが閉まると強い芳香剤の匂いがした。

 

「八王子方面まで、中央道でお願いします」

 

 運転手は「はい」と短く答える。

 その無愛想な態度を気にする余裕は今の恵にはなかった。

 

 最初の赤信号で車が停まった時、バックミラー越しに運転手の目がちらりとこちらを向いた。

 そして彼は「サービスです」という事務的な声と共に個包装された小さな洋菓子を後部座席へと差し出した。

 クリームが挟まれた、どこにでもありそうな焼き菓子だった。

 

 一日中、息子の看病にかかりきりで、自分はろくに食事も摂っていなかった。

 疲れ果て、ささくれだった神経に、その甘そうな菓子は一瞬だけ魅力的に映った。

 

「あ、すみません。いただきます」

 深く考えずに受け取り、口に入れる。

 優しい甘さが、ささくれた神経に少しだけ染みた。

 

 タクシーは首都高速に乗り、やがて中央自動車道へと合流する。

 恵は窓の外に視線を向けながらも、その心は八王子の自宅、息子の眠るベッドのそばにあった。

 夫はちゃんと対応できているだろうか。

 また熱が上がったりしていないだろうか。不安が胸の中で渦を巻く。

 

 乗車してから、一時間が過ぎようとしていた。

 八王子インターが近づき、もうすぐこの息の詰まる空間から解放される、そう思った矢先だった。

 胃の奥の方が、ぎゅるり、と今まで聞いたことのないような嫌な音を立てた。

 

(…え?)

 声にならない声が漏れる。

 その直後、まるで内側から熱い鉄の棒で抉られるような、腸が雑巾のように絞られる強烈な痛みが下腹部を襲った。

 じわり、と脂汗がこめかみから流れ落ちるのを感じる。

 

(うそ、お腹…?  なんで、今、こんな時に…)

 

 痛みは一度引くと見せかけて、すぐに何倍にもなって返ってくる。

 そして恵は悟った。これは普通の腹痛じゃない。

 ダムの水位が限界を超え、今にもすべてを押し流そうとしているような圧倒的な便意だった。

 

(どうしよう、どうしよう…!)

 

 パニックに陥りそうな頭で、それでも母としての理性が必死に声を絞り出させた。

「すみません!  あの、すごく、お腹が痛くて…!  どこか、停まれるところで停まってください!  お願いします!」

 懇願する声は自分でも情けなくなるほど震えていた。

 

 バックミラー越しに、運転手の冷たい目が値踏みするように恵を一瞥する。

 

「大丈夫ですか?  でも高速道路ですからねえ…。この先はもう降り口まで何もありませんよ」

 その声には一片の同情も焦りもなく、ただ淡々と事実を告げるだけだった。

 救いのない宣告が彼女の最後の希望を打ち砕く。

 タクシーは速度を一切緩めることなく、闇に溶け込んだアスファルトの上を滑り続ける。

 絶望が彼女の心を冷たく濡らしていく。

 

 そして、まるでその絶望を煽るかのように、さらに強大になった便意の波が、内側から彼女の身体を破壊しようと猛り狂った。

 肛門の一点に、ありったけの圧力が集中する。

 もはや体裁を保つことなど不可能だった。

 

「お願いです!  もう、もう我慢できなくて…!」

 涙声で再び訴えるが、運転手は困ったように首を捻るだけだ。

 

「いやあ、困りましたねえ」

 

 その時、運転手は何かを思いついたように、助手席の下を片手で漁り始めた。

 そして、埃をかぶったプラスチック製の黄色い洗面器を取り出した。

 

「お客さん、具合が悪くて吐きそうですか? だったら、これ使ってください。吐しゃ物用なんでね」

 

 無感情な声で、彼はその洗面器を後部座席にいる恵の方へ差し出そうとする。

 洗面器。吐しゃ物用。

 その言葉の意味を理解した瞬間、恵の頭は真っ白になった。

 吐くわけじゃない。

 これから自分の体から排出されるのは、もっと汚くて、もっと惨めで、人間としての尊厳を根こそぎ奪い去るものだ。

 この男は、それを分かっている。分かっていて、わざとこの器を差し出しているのだ。

 

 恐怖と屈辱で震える視界の隅で、ルームミラーの横に設置されたドライブレコーダーの、小さな緑色のランプが点滅しているのが目に入った。

 記録されている。この状況のすべてが、この屈辱的なやり取りが、そしてこれから起ころうとしている、想像するだに悍ましい光景が、すべて。

 

 その事実が恵の心の中でかろうじて保たれていた最後の何かを、ぷつりと断ち切った。

 押し寄せる便意はもはや人間の意志でコントロールできるレベルを超えている。

 ここでするしかない。

 この男の目の前で、この汚れた洗面器の中に、すべてをぶちまけるしかないのだ。

 

(わかったわよ。やってやろうじゃないの…)

 

 諦めと、自暴自棄に近い怒りがないまぜになった感情が彼女を支配した。

 涙でぐしょぐしょになりながら、恵は震える手で、その黄色いプラスチックの洗面器を受け取った。

 

 持っていたコートでどうにか体を隠すようにして、スカートの裾をゆっくりとまくり上げる。

 下着とストッキングを必死で下ろし、冷たくて硬いプラスチックの縁が、熱を持った肌に触れた。

 その屈辱的な感触に、また涙が溢れ出す。

 

 限界を迎えた便意に、この屈辱を受け入れるしかなかった。

 涙でぐしょぐしょになりながら恵はその洗面器を受け取った。

 

 びちびち、ぶりゅっ、と水っぽい破裂音が静まり返った車内に生々しく響き渡った。

 腐敗したような強烈な悪臭が、芳香剤の匂いを一瞬で駆逐し、地獄のような異臭となって狭い空間に充満する。

 恵は、ただ声を殺して泣き続けた。

 自分の体から熱い泥のようなものが排出され続ける感覚に耐えながら。

 

 行為を終えた後、そのおぞましい中身の入った洗面器をどうすることもできず、恵はそれを自分の足元のフロアマットに、そっと置くしかなかった。

 

 これで悪夢は終わったはずだった。だが、本当の地獄はまだ始まったばかりだった。

 十分ほど走った頃だろうか。

 一度は静まったはずの下腹部が再び内側から抉られるような激痛に襲われた。

 

(うそ…まだ、出るの…?)

 

 信じられないという思いと、深い絶望が彼女を襲う。

 一度終わったはずの悪夢が、より残酷な形で再び繰り返されようとしていた。

 恵は魂が抜けたような顔で、足元から忌まわしい洗面器を、もう一度拾い上げた。

 

 二度目の行為は一度目よりもさらに深く、彼女の人間としての尊厳を木っ端微塵に破壊した。

 ただ機械的に汚物を排泄するだけの肉塊になったような気分だった。

 

 自宅マンションの前に着くまで、恵は完全に魂が抜けたように、ただ前を向いて動かなかった。

 彼女の足元には、おぞましい汚物が入った黄色い器が、その存在を主張するように置かれたままだ。

 

 タクシーが静かに停車する。

 運転手は足元の洗面器を一瞥し、忌々しげに顔をしかめながら言った。

 

「まあ、シートは汚れずに済みましたが、この匂いと、この汚物の処理もありますんでね。手間賃として、二万円いただきます」

 

 恵は、ほとんど無意識のまま、震える手で財布から二万円を取り出し、男に渡した。

 その行為に何の感情も思考も伴わなかった。

 

 車を降り、夜の冷たい空気を吸い込んでも、まだ悪夢から覚めた気はしなかった。

 ふらつく足でマンションのエントランスを抜け、自宅のドアを開ける。

 

「おかえり! 大変だったな」

 心配していた夫が優しい声で出迎えてくれる。

 その日常の、あまりに優しい声が、非日常の地獄をくぐり抜けてきた恵の心の何かを完全に破壊した。

 

 彼女は玄関に崩れ落ち、まるで子供のように、ただ声を上げて泣きじゃくった。

 何が起こったのか分からず呆然と立ち尽くす夫の姿が涙で滲む視界の向こうで揺れていた。

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