星野翼(ほしのつばさ) 24歳
都内のダンスカンパニーに所属するダンサー。
明るくエネルギッシュな性格。日々のトレーニングを欠かさず、自身の肉体とパフォーマンスに誇りを持っている。
土曜の夜。
スポットライトの熱と鳴りやまない拍手の感触が、まだ翼の全身に残っていた。
新作公演の千秋楽。
最高の出来だった。
アドレナリンで体は火照り、心地よい疲労が手足を支配している。
(あー、マジ最高だった! 打ち上げのビール、絶対うまいやつ!)
楽屋で仲間たちと興奮気味に健闘を称え合った後、翼は一人、劇場近くの大通りでタクシーを拾った。
横浜市青葉区の自宅までは少し遠いが、この高揚感を電車で消費したくはなかった。
乗り込んだのは古びたセダンだった。
ドアが閉まると強めの芳香剤の匂いがする。
「青葉区の方まで、東名でお願いします」
運転手は「はい」と短く答える。
翼は気にせずシートに深く体を預け、疲れた足を伸ばした。
高速に乗る前の赤信号で、運転手が「サービスです」と言って、ペットボトルのお茶を差し出してきた。
公演で汗をかききった体はカラカラに乾ききっている。
渡されたのが、よく知っているメーカーの、封の切られていない緑茶だったこともあり、翼は何の警戒心も抱かなかった。
「え、いいんですか?やった、ありがとうございます!」
満面の笑みで受け取り、キャップを捻る。
乾いた喉に冷たいお茶が染み渡るのがわかった。
半分ほど一気に飲み干し、翼は満足げに息をついた。
車が高速に乗ってからも、しばらくは仲間とのグループチャットで盛り上がっていた。
公演の動画をチェックし、ダメ出しをしたり、褒め合ったり。
異変に気づいたのは乗車してから三十分ほどが過ぎた頃だった。
(あれ…なんか、急に眠い…?)
舞台後の疲労感とは明らかに違う、抗いがたい眠気。
頭が鉛になったように、がくり、と揺れる。
(やば、タクシーで寝ちゃうとか、ないわー…)
翼は窓を少し開けて、冷たい夜風を顔に当てた。
だが眠気は少しも飛ばない。
それどころか思考そのものが、ゆっくりと霧の中に沈んでいくようだ。
スマートフォンの画面が、もうまともに見えない。指先が痺れていく。
(なに、これ、おかしい…)
それが彼女の最後の、はっきりとした思考だった。
翼は、ゆっくりと意識の底から浮上した。
頭がひどく重い。ぼんやりとした視界に映ったのは見慣れない薄暗い天井。
(…ここ、どこ?)
違う。天井じゃない。タクシーの車内だ。
記憶が、ゆっくりと蘇る。
そうだ、公演の帰りにタクシーに乗って…。
翼は体を起こそうとして異変に気づいた。
足の付け根のあたりが、じっとりと濡れて冷たい。
まさか、と思って自分の体を見下ろし、そして絶句した。
履いていた黒のレギンスが、股間のあたりを中心に、ぐっしょりと濡れて色が変わっている。
シートにも黒い染みが広がっていた。
ツン、と鼻をつくアンモニア臭。
(…うそでしょ?)
眠っている間におもらし?
ありえない。
子供の頃だって、おねしょなんてしたことないのに。
パニックに陥る頭で床に転がっている空のお茶のペットボトルが目に入った。
あの運転手がくれたお茶。
まさか。
さらに翼は気づいてしまった。
着ていたジャージのジッパーが胸のあたりまで、少しだけ開いている。
Tシャツのボタンも、一番上のものが一つ外れていた。
誰かに触られた…?
全身の血がサーッと引いていく。
その時、運転席のドアが開き、運転手が乗り込んできた。
彼は何も言わずエンジンをかけると、再び車を走らせ始めた。
翼は恐怖で体が動かなかった。
声も出ない。
ただ、外されたボタンを震える手で留め、ジッパーを一番上まで引き上げることしかできなかった。
自宅マンションに着くまで、どれくらいの時間が経ったのか、全くわからなかった。
料金を告げられ、震える手で支払いを済ませる。
車から逃げ出すように降りようとした、その時だった。
「お客さん」
運転手が感情のこもらない声で言った。
「スマホ、忘れてますよ。よく、確認した方がいい」
シートに置かれた自分のスマートフォンを、ひったくるように掴み、翼は車から転がり出た。
部屋に駆け込み、鍵をかけた瞬間、その場にへたり込む。
運転手の最後の言葉が頭の中で反響していた。
『よく、確認した方がいい』
震える指でスマートフォンを操作する。
そして息を呑んだ。
開かれていたのは写真フォルダだった。
一番最後に保存されている数枚の写真。
それはタクシーの中で意識を失い、無防備に眠る自分自身の姿だった。
胸元がはだけ、そして股間がぐっしょりと濡れている様が、克明に記録されていた。
「あ…あ…」
声にならない悲鳴が喉から漏れた。
これは、ただの失禁じゃない。
自分が眠っている間に、この男は自分を辱め、その証拠を自分自身に突きつけてきたのだ。
翼はただ、嗚咽を漏らし続けた。