藤井 静香 (ふじい しずか) 30歳
私立高校の英語教師。
真面目で責任感が強く、生徒や同僚からの信頼も厚い。
プライベートをあまり明かさない用心深い性格。
木曜の夜。
都心で開かれた教育関係者の研修会は有意義ではあったが、ひどく疲れた。
静香は人付き合いがあまり得意ではない。
頭痛をこめかみに感じながら帰路についた。
相模原の自宅までは電車を乗り継いで一時間以上かかる。
満員電車に揺られる気力はなく、静香は今夜もタクシー乗り場へと向かった。
乗り込んだのは古びたセドリックだった。
ドアが閉まると強い芳香剤の匂いがする。
「相模原方面まで、中央道でお願いします」
行き先を簡潔に告げると、運転席のがっしりとした体躯の男はバックミラー越しにちらりと視線を寄越しただけで「はい」と短く不愛想に答えた。
それ以上の会話は生まれず、静香はむしろその沈黙に安堵しながら、ハンドバッグを隣に置き、疲れた体を深くシートに預けた。
目を閉じれば、今日の研修会の騒々しさが遠のいていく。
車が首都高に乗る手前の交差点で、長い赤信号に捕まった。
その時だった、運転手が「サービスです」と言って、ペットボトルのお茶を差し出してきたのは。
ちょうど喉が渇いていたし、頭痛薬を飲むのに水が欲しかった。
封の切られていない、ごく普通のペットボトルだ。
「すみません、助かります」
彼女は礼儀正しくそう述べると、ボトルを受け取った。
キャップを捻る軽快な音。
薬を口に放り込み、冷たいお茶を数口、喉へと流し込む。
液体が食道を通って胃に落ちていく感覚が妙にはっきりと感じられた。
車が高速道路に入り、単調な景色が続く。
薬が効いてきたのか、頭痛が和らぐと同時に強い眠気が襲ってきた。
(疲れてるんだな…)
研修会では、ずっと神経を張り詰めていたからだろう。
静香は抗いがたい眠気に身を任せ、ゆっくりと意識を手放した。
ふと、意識が水面へと浮上する感覚があった。どれほどの時間が経ったのだろうか。
重く怠い瞼をこじ開けると、車の窓の外には見慣れた高速道路の出口を示す緑色の標識が、すぐそこまで迫っていた。
(もう着くのか…)
頭がぼうっとして、思考がうまくまとまらない。
薬のせいだろうか、それともただの寝不足か。
体を起こそうとした、その時だった。
腰のあたりに、じっとりとした不快な湿り気と冷たさを感じたのは。
まさか、と嫌な予感が背筋を駆け上る。
自分の体を見下ろした静香は息を呑んだ。
履いていた上品なグレーのスラックスの股間部分が、中心からぐっしょりと濡れて、濃い色の染みを作っている。
それは後部座席のシートの上にも無惨な痕跡として広がっていた。
ツン、と鼻をつくアンモニア臭が芳香剤の甘い香りの奥から確かに立ち上ってくる。
(…私が? 眠っている間にもらしたっていうの?)
血の気が引いていくのがわかった。
パニックに陥りかけた視界の隅に、足元に転がっている空になったお茶のペットボトルが映る。
運転手がよこした『サービス』のお茶。
点と点が繋がり、恐ろしい線を描き出す。これは、ただのお茶ではなかったのだ。
(どうしよう。どうすればいい?)
混乱する頭で静香は必死に冷静さを取り繕おうとした。
ここで騒ぎ立てても状況は悪化するだけだ。
静香は、せめてもの抵抗として、持っていたコートを膝の上に広げ、染みを隠した。
布地一枚隔てただけの、あまりにも無力な防御だった。
やがてタクシーは彼女が住む見慣れたマンションのエントランス前に静かに停車した。
料金メーターに表示された数字が現実を突きつけてくる。
屈辱と羞恥に指先まで震えながら、料金を払うために隣に置いたハンドバッグへ手を伸ばした、
まさにその瞬間、静香はさらなる異常に気づいた。
確かに閉めてあったはずの金属製の留め金が、無造作に外されていたのだ。
心臓が、まるで氷の塊を無理やり押し込まれたかのように痛みを伴って冷たく収縮した。
急いでバッグの口を開き、中身を確認する。
長財布、スマートフォン、化粧ポーチ…盗られたものは何もないように見える。
金目のものが目的ではなかった?
安堵しかけた静香の目は、財布の中のカード入れの異変を捉えてしまった。
いつも一番手前の、すぐに取り出せる場所に入れている運転免許証が、なぜか札入れの方に移動させられている。
そして手帳型のスマートフォンケースに挟んでいた高校の『職員証』。それも僅かに差し込む向きが変わっていた。
見られた。漁られたのだ。
意識を失っている間に、この男は私のバッグを開け、中身を検分した。
名前、住所、生年月日、そして勤務先。静香の個人情報の全てを。
静香の背筋を凍てつくような恐怖が駆け上った。
「…お客さん?」
運転手の感情のない声に静香はびくりと肩を震わせた。
静香は無言で財布から紙幣を取り出し、トレーの上に置く。
お釣りを受け取り、静香は逃げるように車から転がり出た。
ドアが閉まる無機質な音を背後で聞きながら、エントランスの自動ドアへと早足で向かう。
オートロックを抜け、エレベーターに乗り、自室のドアに鍵を差し込むまで、一度も振り返ることはできなかった。
部屋に駆け込み、内側からチェーンを掛けた瞬間、ようやく張り詰めていた糸が切れ、静香はその場に崩れ落ちた。
床に散らばったハンドバッグの中身を前に、彼女は自身に起こった出来事を、ひとつひとつ反芻する。
薬物を盛られ、意識を失わされ、その間に排泄の尊厳を奪われた。
それだけではない。
バッグの中の個人情報は、あの男の手に渡った。
免許証、職員証…。住所も、勤務先も、顔も名前も、すべて知られてしまった。
そしておそらく、あの車に設置されていたであろうドライブレコーダーには、自分が失禁し、無様に眠りこけていた醜態の一部始終が克明に記録されているに違いない。
それは、これからの彼女の人生に、永遠に消すことのできない、粘ついた影を落とすだろうことを暗示していた。
警察に届ける? どうやって? 薬物の証拠は? 失禁したという事実を、どう説明する?
そして何より、自分のすべてを知る男を相手に、これ以上刺激するリスクを冒せるだろうか。
静香は床に散らばった自分自身を定義するカード類をただ見つめ、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。