◇若狭 精華(わかさせいか)
女性 十七歳(二年生)
聖水常用者。執行部からよく雑用を頼まれている。
◇イヴ
女性 二十八歳(執行部)
謎多き執行部の修道女。
◇大岩 大(おおいわまさる)
男性 三十六歳(用務員)
新人の用務員。
左右を鬱蒼と茂った木々に覆われた一本道。
濛々と立ち込めた濃霧の中を一台の黒いセダンが軽やかに飛ばす。
車の中から窓の外を覗けば、
そこには時の流れを感じさせない真っ白な世界が広がっている。
そこは聖リトリス女学院をとりまく広大な霧の森だ。
「しかし、すごい霧、ですね。」
新人用務員・大岩大(おおいわまさる)が助手席で心細そうに呟く。
「その、こんなにスピードを出して、大丈夫なんですか?」
不安が言葉を続けさせる。
フロントガラス越しにほぼ何も見えない状況であるにもかかわらず、
一切スピードを緩めることなく、この車は走り続けている。
ふと速度メーターに目をやれば、時速――60km。
いつ事故を起こすのではないかと、生きた心地がしないのも無理はない。
「クス……大丈夫ですよ、大岩さん。
ちゃんと見えていますから。」
大の不安も意に介さずにそう答えるのは、
運転席に座る黒衣の修道女・イヴ。
顔の上半分を覆い隠す白い半仮面と、
その上から覗く透明感のあるブロンドヘアーは
芸術的にすら感じられる完璧なルックスを演出している。
こうして新しく赴任する用務員を学院まで送り届けるのも、
彼女たち聖リトリス女学院・執行部メンバーの負う役目だった。
「それより、大岩さん。
先程、車にお乗せする際も少し確認しましたが。
――本当に、この職場でよろしかったのですか?」
抑揚なく語り掛けられるイヴの声色。
それは清らかで心地よいものだがどこか生気が感じられず、
聞く者の心に安心感と不安感――そして得も言われぬ背徳感を同時に沁み込ませる。
「もう、ここまで来たら引き返せませんよ?」
数々の謎と噂を内包する“生ける都市伝説”――聖リトリス女学院。
そこは牡の本能を刺激される淫靡な退廃的な空間であり、
一度赴任したら永久に魂を囚われて二度と現世には帰れない。
時折、魔都ネット上に出される職員の募集要項。
それは魅入られし者の目にしか映らず、
また見つけた者は誘われるように必ず応募し、現世から永遠に姿を眩ます。
まことしやかに囁かれる噂の一つだ。
「わかっています。面接でも何度も問われましたから。
『当職場は永久就職ですが、本当によろしいですか?』ってね。」
だが返答を返す大の顔色からは、何故か不安より自嘲的な苦笑が見て取れた。
「イヴさん。僕は先日、三十六歳になったんですが……
これまでやってきた仕事は……スーパーでのバイト店員なんです。」
「……」
「高校を出て大学に行けずに専門学校へと上がり……
そこを出ても職につけず、仕方なく始めたバイトがそれでして……
そのまま今の今まで、ずるずると続けてきたんです。」
頭を項垂れ、虚空を見つめながら大は『わかりますか?』と繋げる。
「――僕は人生の落後者なんです。
生きていても死んでいても周りからは何とも思われない、そんな存在なんです。
だから、社会から消えるなんて、全然怖くないんですよ。」
震える声でそれだけ言うと、
今にもくしゃくしゃになりそうな顔面を両手で覆う。
そんな告白を修道女の前でする光景は教会の告解室を思わせた。
「クス……まるで罪の告白ですね。
いえ、失礼。大岩さんからすれば、それこそ己の罪、なのでしょうね。」
小さく頷く大を横目でちらりと見やると、イヴはこう続ける。
「ですが。
もしそうなのであれば――大岩さん?
きっと貴方の求める許しがこの先にありますよ。」
「え……?」
「ただし、それを与えるのは我々執行部の役目ではありません。
我々より若く可憐なリトリスの乙女たちが、
必ずや貴方を許してくれるでしょう。」
そんなことを話していると、やがて霧の向こうに大きな門が浮かび上がってくる。
黒いセダンは漸くスピードを落とし、小さな異世界へと入ってゆくのだった。
◆
あのあと、敷地内の大きな駐車場で車を降りた大は
霧の中をイヴに連れられ学院エリアまでやってきていた。
校門を抜けて緑に包まれた道なりに行くとすぐに校舎が見えてくる。
そこで校舎沿いに折れて更に進んでゆく道すがら、
ちらほらとすれ違う女生徒の何人かはイヴを見かけると挨拶をしてくる。
「ごきげんよう、執行部のお姉さま。」
「はい、こんにちは。」
そんな可憐で礼儀正しい女生徒たちの姿を見るたびに大の心は踊った。
聖リトリス女学院と言えば魔都を代表する有名女子校。
そんな名門に通う、大からすればやんごとなき身分のお嬢様方に囲まれ、
今後は用務員としてだが仕事をしてゆける。
もしかしたら自分も、挨拶ぐらいはしてもらえる関係になれるかもしれない。
ただ、そう考えるだけで沈んでいた気持ちが華やぐ気がした。
「……ずいぶんと、綺麗な子たちばかりですね……」
大の口から自然と本音が零れる。
それを先導するイヴは振り向くことなくクスリと笑った。
「そうでしょう。
我が校が誇るリトリスの乙女たち。
貴方に許しを与える存在とは――彼女たちのことですよ。」
「ぇ……えっ? どういうことですか?」
「クスクス……さあ、こちらです、大岩さん。
この霧ですから、私からあまり離れないようご注意くださいね。」
大の疑問には答えられることのないまま、
校舎本館の正面玄関に面したロータリーまでやってくる。
聖者リトリスの像が中央に立つ円形の島に沿ってグルリと回ると、
そこには校舎本館とは違う建物がもう一つ見えている。
イヴはその前で足を止めた。
「こちらが我々の勤務する執行部棟になります。
大岩さんには、いくつか書いていただきたい書類がありますので……」
そんなことを言いつつ大を中へ招き入れると、
『こちらでしばらくお待ちください』と二階への階段を上ってゆくイヴ。
執行部棟の一階は広々としたロビーとなっている。
掲示板には執行部からの連絡事項が貼り出され、
また複数備え付けられた大きな長椅子の傍らには
生徒用のパンフレット類がケースに入って置かれている。
今、周囲には人の気配はない。
ポツンと一人取り残される形となった大は、
長椅子に腰を下ろすと段々立てかけ式のレターケースに向き合った。
段々に置かれた各種パンフレットのタイトルになんとなく目を通してゆく。
『聖者リトリスの教え』
『当学院の生徒としての心構え』
『執行部のお仕事』
『学院内の各施設』
『名札の取り扱い』
『聖水の取り扱い』
『おつとめ』
次々と目に飛び込んでくるタイトル群。
それはパッと見で内容がある程度わかりそうなものから
そうでないものまで多岐に渡る。
そんな中、一つ、強烈に大の興味を引くものが混ざっていた。
『もし妊娠したら…』
自然と目が釘付けとなる。
(に、妊娠……って。)
(どういうことだ?
女子校で……妊娠??)
(こんな内容のパンフレットが……
さっきの綺麗な子たちのために用意されているのか?)
思わず手を伸ばそうとして、ふと止める。
もしこんなパンフレットを読み込んでいる最中に誰かが来たら、
イヴが戻ってきたら、一体どんな目で見られるのだろう。
そんな考えがすんでのところで
『見たい・知りたい』という誘惑に抗っているのだ。
一度思考をリセットするため、
視線を外すと背もたれによりかかり一つ溜息をつく。
(どういう……ことだろう。)
だが、無駄。
頭の中は誘惑で満たされたままだ。
(女生徒が妊娠するってことは……
当然、相手の男性が必要だよな?)
(でも、ここは女子校、男子なんていないし……
男がいるとしても教師か用務員くらいじゃないのか?)
(どうしよう……やっぱりこのパンフ、中身を見てみたい……
けれど……)
ちらりと階段の方を見やるが、イヴは未だ姿を現さない。
――まだ時間がかかるのだろうか?
――パンフレットをサッと見て、すぐに戻せば大丈夫だろうか?
ふとそんな風に考えてパンフレットに手を伸ばした、その時だった。
「――ごきげんよう、お兄さま。」
視界の死角からかかる小さな声。
思わずビクリとした大の目の前を、
プリントの束を抱いた女生徒が一人、頭を下げながら通り抜けてゆく。
「……あっ、こ、こんッ――」
動揺からどもってしまった大が『こんにちは』という言葉を絞り出す前に、
その女生徒とは声をかけるには大きすぎる距離が開いてしまう。
すぐにその後姿は階段を下りて行ってしまった。
(ああ、僕の馬鹿。
あの子、せっかく挨拶してくれたのに……)
(でも、すごく綺麗な子だったな……)
そんなほんの一瞬の出来事。
口は仕事をしなかったが、目と鼻は大いに仕事をしていた。
魔都の姫君らしい少々控えめの愛らしいプロポーションに
しっとりと濡れたようなミディアムヘア。
胸元に光る緑色のラインの名札。
見る者を引き込み溶かすかのような光なき漆黒の瞳。
そして、どこかで嗅いだことがあるような、
心地よさに気が遠くなるほどの甘ったるい香り。
総合すると清楚というよりは妖艶という言葉の方がしっくりくる
男の視線を大いに誘引するタイプだ。
(あんな子が、妊娠するようなコト、しているんだろうか……?)
(でもでも、どこか男好きするような感じにも見えたしなぁ。
うーーーーーん……)
そうしてしばらく大が悶々としていると、
今度こそ階段から書類を持ったイヴが現れる。
「大岩さん、大変お待たせしました。
地下の応接室へ向かいますので、こちらへ。」
「あっ、はい。」
慌てて立ち上がり、階段前でイヴと合流。
そのまま、今度は階段を下りてゆく。
やってきたのは執行部棟――地下エリア。
そこは蛍光灯の明かりで十分に照らされてこそいるものの、
まるで外の濃霧がそのまま闇に置き換わったかのように
不思議と精神的な薄暗さを感じる空間だ。
「イヴお姉さま。ごきげんよう。」
そこでふと闇の奥から声がかかる。
先程、大に挨拶をした女生徒が溶け出すように姿を現した。
「あら、精華さん。今日も何かお手伝いをしてくださっていたのですか?」
「はい。保健室のハンナお姉さままでクラスのプリントを届けに。」
「そうですか。いつもありがとうございます。」
穏やかに言葉を交わし合う年の離れた麗人二人。
しばしその風景に見惚れていた大だったが、
ふと思い出したように女生徒の胸元を見る。
すると先程は学年カラーしかわからなかった名札に、
若狭精華(わかさせいか)とあるのが見えた。
(この子、若狭さんっていうのかぁ……
可愛いなあ……❤)
出会ってからまだほんの数分とはいえ、気になっていた異性だ。
その名前を知ることが大にはとても嬉しいことに感じられる。
その思いが通じたのだろうか。
漆黒の瞳もいつの間にか大に向けられていた。
「ところでイヴお姉さま。
そちらのお兄さまは、また新しい用務員の方ですか?」
「ええ、こちら新任用務員の大岩大さんです。」
「あっ……えと、大岩です。
さっきはせっかく挨拶してくれたのに、咄嗟に返せなくてごめんね。」
「いえ、お気になさらず。
私、二年生の若狭精華と申します。どうぞお見知りおきを。」
スカートの両裾をそっとつまみ、
軽く腰を落とすだけの控えめなカーテシー。
そんな小さな仕草一つに感嘆の溜息を漏らす大を見て、
イヴは半仮面の下にニタリとした笑みを浮かべる。
「あっ、いけない。
そろそろ昼休みが終わってしまいますので、私はこれで。」
ひらりと身を翻し、階段へ抜けてゆこうとする精華の背中をイヴが呼び止める。
「精華さん。今日は午後の授業は出る必要はありません。
それより、もう一つお願いを聞いてはもらえませんか?」
「はい、なんでしょうか?」
「本日の大岩さんの案内。私の補佐を貴方に頼みたいのです。」
「お兄さまの案内……?」
精華の目が僅かに見開かれる。
「それは、おつとめの……最初のご案内ということでしょうか?」
「その通りです。」
イヴの声はどこか楽しげだった。
「彼のような方にとって、最初の相手は非常に重要ですから。
精華さんほど適任な方はいません。」
「ふむ、たしかに私のような聖水を使っている子の方がスムーズですものね。」
「ええ。」
イヴの指先が虚空をなぞる。
「大岩さんに早くここに慣れていただくためにも、
実際におつとめを体験し、まずその喜びを知るのが一番なのです。」
イマイチ話についていけず首を傾げる大の前で精華はしばらく黙考し、
やがて小さく息をついた。
「わかりました。お引き受けいたします。」