趣味の釣りといえど、この時期に吹く風はかなり堪える。この地域は雪があまり降らないようで、その分よく冷えた風が体に痛いほど染み入る。
「やはり寒いですね。もう少し厚着すればよかったかもしれません。」
「…あの、一応、カイロ持ってきたんだけど、使う?」
「曙。ナイスです。」
「もう!私たちがいないとほんっとだめなんだから!」
「ははは。お恥ずかしいかぎりです。」
その後も特に成果物はなく、お互いボウズのまま昼になる。
「うーん。今日はいったん引き上げます?穏やかな波なだけに少々惜しいですが。」
「もう少しだけ!ね?ほら、間宮さんからおにぎり握ってもらったの!だから…」
「そこまで言うなら、もう少しやりましょうか。」
二人並んでおにぎりを口に運ぶ。おにぎり自体に塩分はそれほど多くはないものの、そこを海からの潮風でちょうどよい塩梅となっている。さすがは間宮さん、といったところか。
「午後の部に入りましたね、今までで一番長くなりそうです。新記録樹立なりますかね?」
「今までの分全部記録してるの?」
「まさか。今までそんなことをしたことはありません。気の向いたとき、気の向くままに海に来て、ただじっくり糸を垂らす。気が済んだならば、引き上げて陸に向かってかえる。そういう釣りが一番気楽で、一番楽しい。私はそう思います。」
「なんかうまいこと言ったみたいな顔してるわね。」
「そんなことはありません。思ったことを思ったままに伝えているんです。」
「ふうん。」
暫くの静寂ののち、二人同時にかかる。
「む、なかなかの引きですね。」
「こっちもよ!」
二人ともほぼ同じタイミングで竿を引き上げる。曙は立派なイカを、かくいう私はまたもや深海棲艦を釣っていた。
「本当に多いですね…しかも私にばかり。さすがに傷つきますよ。」
「まあまあ、元気出しなさいよ。いったん竿おいてさ。」
まさか曙にも同情されるほどとは。しかし、ここに身を置いてから3回連続で深海棲艦の残骸を釣り上げている。何度もボウズは経験した。しかしそれはただ運が悪いだけ。こんなにも不可解なことが連続して起こるなど初めてだった。
「そうしてみますかね。」
竿を地面に寝かせ、海の動きすべてに感覚を預ける。チリンチリンと鈴はなり続ける。
「やはり寒いですね。もう少し厚着すればよかったかもしれません。」
突然そんなことを呟くので反射的に身を震わせてしまう。
「…あの、一応、カイロ持ってきたんだけど、使う?」
とりえずの予備で持ってきたカイロ。使う予定はなかったが、こんなところで役立つとは。
「曙。ナイスです。」
また自分を肯定される発言が来る。このような発言が来るたび、心臓の動きが跳ねるように速くなり、顔に火が付いたように熱くなる。防寒具のおかげで顔が多少隠れているからばれることはないと思う。
「もう!私たちがいないとほんっとだめなんだから!」
またきつい発言をしてしまう。本当に思っているわけではないのに。初めて会った時からずっと、彼のことをクソ提督と呼んでいる。出会った当初からずっとだ。彼に謝りたい。でも、今更呼び方を改めるなんて無理な話だ。
「ははは。お恥ずかしいかぎりです。」
こうやっていつも優しく受け流したり、受け止めてくれる。そんな彼のやさしさにいつまでも甘えるのは良くないことだとわかっている。彼がこちらに歩み寄るたびにこちらがその分下がっている感じがする。
「うーん。今日はいったん引き上げます?穏やかな波なだけに少々惜しいですが。」
そんな。この時間が終わってしまう。まだ終わらせたくない。まだ二人でいたい。どうしよう、何か引き留められるもの…あ。
「もう少しだけ!ね?ほら、間宮さんからおにぎり握ってもらったの!だから…」
間宮さんが親切で握ってくれたおにぎりをだしに引き留めようとする自分は何とも滑稽で、醜いものだと思った。そんなことはもうとうに過ぎてしまっている。
「そこまで言うなら、もう少しやりましょうか。」
彼のやさしさは底なしなのだろうか。少し困ったような顔でこちらを見て、少し大きいほうを手に取り口に運ぶ。それに続くように残った小さめのおにぎりを口に運ぶ。あまりに緊張しているせいかちょっぴり塩辛い。でも、2人で並んで2人で同じものをほぼ同じペースで食べる。幸せだ。先ほどまでの自己嫌悪の気持ちは消え失せ、今感じられる幸せをかみしめている。
「午後の部に入りましたね、今までで一番長くなりそうです。新記録樹立なりますかね?」
「今までの分全部記録してるの?」
この発言は純粋に疑問に思ったから。もっと彼のことを知りたかったから。
「まさか。今までそんなことをしたことはありません。気の向いたとき、気の向くままに海に来て、ただじっくり糸を垂らす。気が済んだならば、引き上げて陸に向かってかえる。そういう釣りが一番気楽で、一番楽しい。私はそう思います。」
非常に彼らしい発言。安心する。彼の気性をよく表している。おそらく、新記録と言ったのは、場を和ませようと冗談気味に言ってくれたのだろう。
「なんかうまいこと言ったみたいな顔してるわね。」
心にもないことを勝手に口が発する。別にそんなこと思ってない。あなたらしくてすごくいいと思う。でも口では肯定や賛同の言葉は出てこず、代わりに彼を否定する言葉が出てくる。
「そんなことはありません。思ったことを思ったままに伝えているんです。」
なんだか今の自分の心の内を見透かされているような言葉だった。
「ふうん。」
発する言葉をこれ以上に見つけられない。紡ぐことができない。ただずっと時が流れていくのを遅くなった感覚で待つことしか許されない。たった数分のはずでも、今ではそれが1時間にも1日にも感じる。次第に動機が速まる。彼に失望されたかもしれない。嫌われたかもしれない。心ではそんなことないと思いながらも体がどうしても震える。そんな私を手助けするかのように再び竿が動き出した。
「む、なかなかの引きですね。」
「こっちもよ!」
一気に思考がクリアになる。釣り上げたものは、肉付きの良いイカ。彼はまたも深海棲艦の残骸だった。
「本当に多いですね…しかも私にばかり。さすがに傷つきますよ。」
珍しく彼の顔が曇る。そんな顔はしてほしくない。彼にはいつでも笑顔でいてほしい。
「まあまあ、元気出しなさいよ。いったん竿おいてさ。」
尚も彼をここに縛り付けようとしている。こんな自分は嫌い。でも、彼が私を置いてあそこに帰ろうとするのはもっと嫌。だから、意地でもここに引き留める。
「そうしてみますかね。」
彼が竿を地面に置いた拍子に、髪を止めている鈴がチリン、と鳴る。彼は最初のようにじっと海に向かって、目を閉じ、何かに思いを馳せている。私はそれを見ながら、水面ぎりぎりに釣り針を垂らし、これ以上魚にこの時間を邪魔されまいとする。海の向こうでまた鯨の背が見えた。