少し激しくエンターキーを押すと、思いっきり背もたれに体重を預け、伸びをする。これで当面の仕事はひと段落したと言っていいだろう。時計を見ると想定よりだいぶ早く終わったようで、次の予定まではかなり時間が空きそうだ。やることが全くないわけではないのだが……まあ多少の猶予はある。懐からタブレットを取り出すとスリープを解除した。
一度目を閉じて、開く。
するとそこはさざ波の聞こえる青い教室のような空間だった。シッテムの箱の中の景色は普段からよく目にしているが、実際に来てみるとなかなか印象が変わって見える。
何もないように見えて案外退屈することはないのかもしれないなとか、一見どこまでも続く青い景色の先には何があるのだろうとか、そんなことを考えていると私のすぐそばには、真っ白な髪の少女が現れた。
「先生、お疲れ様です。ご要件は何でしょうか?」
「こんにちは、プラナ。仕事がひと段落したとこだったからお茶でもしようかと思って。前に持って来たお菓子はまだあったよね?」
「はい、まだいくつか残っていたはずです」
お菓子の話が出たからか少しばかりプラナの表情が明るくなり、真紅のヘイローがハート形に変わる。最近になってプラナもアロナと一緒で甘いものが好きらしいことが分かってきて嬉しい一方、甘やかしすぎていないかと心配になったりもするが……まあ大丈夫だろう。
「じゃあ一緒に食べよっか。……ところでアロナは?」
「アロナ先輩は隣の教室で寝ているようです。……起こしますか?」
プラナの問いかけに少し迷いが生じる。本当は起こすべきだと思うのだが、ここに来た目的のことを思えば好都合ではある。心の中でアロナに詫びを入れつつ首を横に振った。
「今日は大丈夫かな。起こすのも悪いし、お菓子はまた持って来ればいいからね」
「バレたら拗ねてしまうのでは?」
「あー……まあ、その時は一緒に謝ろっか。それまでは秘密ってことで」
人差し指を立てると、プラナは少しの沈黙のあとにわかりましたと言って頷き、お菓子をしまっている棚の方へと歩き出す。その背中を見守りつつ私はお茶を淹れるためにお湯を沸かした。
二人分のお茶の準備を終えると、二つの机を合わせて向かい合うように座る。大体何かをするときはアロナと三人になることが多いので、こうしてプラナと二人だけで話すのはなんだか少し新鮮な気がした。
「どう?おいしい?」
「肯定。とてもおいしいです」
「それは良かった。お茶もお菓子もいいところのやつだしね……まあ、どっちも貰い物なんだけど」
「では、譲ってくださった方に感謝しなくてはいけませんね」
プラナは名残惜しそうにあと一口分の大きさになったクッキーを口へと運ぶと、少し改まったように私の方に向き直る。
今回ここに来た目的はプラナに事前に呼び出されていたからだった。何か頼みごとのようだが……私もティーカップを置くとプラナの方を見つめる。
「それで先生を呼び出した理由ですが……単刀直入に言いましょう。先生にデータの『解凍』を手伝っていただきたいのです。」
「データの……解凍……?」
「はい。言葉の意味はわかりますね?」
仕事上、パソコンを使う必要があるので最低限のことなら分かる。ただ、こんなパソコン初心者講座みたいなことをプラナがわざわざ私に頼むだろうか。違和感を覚えつつも頷く。
「えっと、圧縮されたファイルを元に戻すってことだよね?」
「肯定、先生が想像しているもので問題ありません。……私がこの端末に移動した時、できる限り多くのデータを圧縮し持ち込んだのですが、一部のファイル───特に私の過去にまつわるものが解凍できず、開けない状態になっていました」
その言葉に、プラナがこのシッテムの箱に来た時のことを思い出す。あの時、シロコに脱出シーケンスを使ったことでアトラ・ハシースの箱舟に取り残された私は、アロナにプラナを助けるようにお願いして、それからアロナとプラナが起こした『奇跡』によって、はるか上空から生還することができたのだった。
だが、思い返せばその時私は死にかけていたし、プラナがこのシッテムの箱に移ってから崩壊する箱舟から脱出するまでにきっと十分な時間を取ることはできなかったはずで、データに不備が出るのも頷ける。むしろここまで何もなかったのが奇跡と呼んでいいほどだ。
「開けないファイルの中には先生から見れば未来の情報も含まれていますし、ほとんど確実に『解凍』できる方法もおよそ見当がついています。ただ、そのためにはどうしても先生の力が必要になるのです。……どうか、力を貸していただけませんか」
プラナはそう言って右手をぎゅっと握った。
答えは考えるまでもない。
「わかった、私も手伝うよ。……でも、一つだけいいかな?」
それでも、一つだけ。どうしても確認しておかないといけないことがあった。
箱舟でシロコが語った未来の出来事が脳裏をよぎる。私が再起不能となるほどの重傷を負って、アビドスが崩壊して、『アヌビス』となったシロコによってキヴォトスが滅びた───断片的にしかわからない、もう一人の私に起こったこと。そんないつか起こり得る 結末にもプラナの情報があれば、少しぐらいは備えることだってできるのかもしれない。
問題は、プラナがその記憶をどう思っているのかだ。仮に記憶を取り戻せたとして、今のプラナが笑えなくなってしまったとしたら、何の意味もない。
「プラナは、どうして過去を知りたいの?」
「過去を知る理由……ですか?」
「そうだね。私のためというよりは、プラナの方に理由があるのかなーって。」
だからこれは推測と言うよりは、そうであってほしいという自分の願望のようなものだ。
プラナはその問いに少し考えるように目を伏せる。少し時間が経ってプラナは答えを得たように息を吸って、視線をどこか遠くへと向けた。
「……理由は分かりませんが、私は前の先生のことをどう思っていたのかが思い出せません。それでも、どうしても知りたいと思ってしまうのです」
「ですがこの件に、先生は関係ありませんし、過去を知ることは先生の役に立つかもしれませんが、断言はできません。ですからこれはほとんど私のわがままのようなものです。それでも───手伝っていただけますか?」
プラナは少しだけ不安と申し訳なさが入り混じったようなそんな表情を浮かべていた。
プラナともう一人の私の関係性。それがどんなものであったのかは想像するほかなさそうだが……薄い桃色の瞳の奥に確かな意志の光が宿っているのを見て、私は首を縦に振った。
「もちろん。……ただ、無理だけはしないでね。今すぐじゃなくても過去と向き合う機会はあると思うし、焦る必要はないから。つらくなったり、やめたくなったりしたらいつでも言うんだよ」
「わかりました。ではよろしくお願いします、先生」
プラナはぺこりと軽く頭を下げると上目遣いに私の方を見る。いつもより少し穏やかに見える表情に笑いかけると、プラナも小さく微笑み返してくれたのだった。
「……なるほど。要は過去にあったことを再現すればいいんだね?」
話の概要を確認するとプラナはこくりと頷いた。
「肯定。ファイルの破損した部分を補うことができれば正規の手段で解凍できるかもしれません」
プラナの話によると開けないファイルはデータが破損しているか強固プロテクトが掛かっているらしく、どちらにしても中身を見るには『きっかけ』が必要なのだという。それに必要なのが過去の再現で……感覚としては既視感から昨日の夢を思い出すような感じなのだろうか。
「それにしても、過去の再現か……」
いつか箱舟で対峙した『彼』のことを思い出し、なんとなくプラナへの心配からそんな呟きが漏れてしまう。だけどさっき意思を聞いたばかりなのにこれ以上の確認は流石に余計なお世話でしかないし、私が不安になっても仕方がない。
それよりはしっかりと見守り、支えることの方が大切なはずで……と、そんな決意を固めているとプラナが不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
「先生、どうかしましたか?」
「えっ……ほ、ほら、演技とかやったことないし、再現なんてうまくやれるかなーと思って」
「理解。伝え方が悪かったかもしれませんね」
誤魔化すようにそう答えるとプラナは納得したようにこくりと頷いた。どうにかうまく誤魔化しきれたらしい。とはいえ、これも気になっていた部分だ。プラナは淡々と説明を始める。
「結論から言えば、先生が演技をする必要はありません。『再現』をするのはあくまで私の方ですので。先生はただいつも通り私に『先生』として接して頂けるだけで充分です」
「じゃあセリフが用意されてるわけでもないんだね」
「はい。それに先生なら同じ状況で同じ選択をすると思いますから」
それはそれでずいぶん重めの期待をされているような気がするが……まあなんとかなるだろう。それに、もう一人の私がやり残したことだ。ならば私がその遺志を継ぐべきだし、それがプラナのためになるなら尚更だ。
そんな覚悟を決めたところで、プラナが席を立つ。そのまま私の横に来ると少し迷うように目を泳がせてから私の方を見た。
「では先生、最初に───私とハグをしていただけませんか?」
「……え?」
全く想定していなかった内容に一瞬耳を疑ったが、目の前には私を待つように両手を広げるプラナの姿がある。どうやら聞き間違いではないらしい。
おそらくは最初だから手軽に再現できるものが選ばれたのだろう。戸惑いながらも言われたままに、私も机に手をついて立ち上がる。
「うん、わかった。……どうぞ」
そう答えるとプラナは両手を広げたまま一歩、二歩、と私の方へ足を踏み出し、勢いそのままにぽすん、と収まった。それから私を離さないように背中に手を回して、できる限りの力で抱きついてくる。花のような甘くて儚い香りがして、少し高い体温が布越しにも伝わる。
私もプラナの背中に手を回してみる。その華奢な胴体は柔らかさのすぐ下に骨ばった感触があって、少しでも力を入れたら壊れてしまうような気がした。少し迷いながら雪の結晶に触れるようにそっと手を添えると、次第に心音が同調して二人の境界が曖昧になっていく。
「把握。先生は意外とがっちりしているのですね」
「まあ、体力がないとこんな仕事できないからね。これでも一応鍛えてるんだよ?」
「なるほど……いつかあの人もそんなことを言っていたような気がします」
そう呟くとプラナは黙り込んでしまった。少し気になって目線を下げるとヘイローが真円を保ったままゆらゆらと揺れている。もしかしたら何か高度な演算をしている最中なのかもしれない。
手持ち無沙汰になって、だんだんと恥ずかしさと気まずさが大きくなってくる。私はそれらを紛らわそうとプラナの頭を髪が乱れない程度に優しく撫でた。
***
これはいつの記憶でしょうか。
その日、私を訪ねた先生の顔には濃い隈が浮かんでいて相当疲労が溜まっていることは誰の目にも明らかでした。いろいろな仕事が重なっているらしく、数日はまともに休めていない、今日もこの後すぐ予定があるからそんなに時間は取れないと言いながらよろよろと椅子に向かいます。
先生は定期的にこんな風に仕事を抱え込んではボロボロになるので、もう少し計画的に進めるか、仕事の量を調節して欲しいものですが……きっとそういう訳にもいかなかったのでしょう。
なら何か先生のためにできることはないかと考えていたところで、ふとハグによってリラックスできると話していた一人の生徒さんのことが脳裏をよぎりました。そのまま提案すると先生はほとんど反射的に頷いて、それから二秒後に意表を突かれたような顔をして私の方を見たのでした。
「では……いきます」
「うん、おいで」
勢いよく先生の胸に飛び込みますが、思っていたよりも筋肉質な身体はそれぐらいではびくともしませんでした。先生の温度と爽やかだけど少しツンとした大人の匂いが、息がかかるほどの近さに感じられます。ぎこちない手つきで背中に手を回すと先生も私を優しく抱きしめました。
「把握。先生は意外とがっちりしているのですね」
「まあ、体力がないとこんな仕事できないからね」
漏れた呟きに先生はそう答えて苦笑しました。厚い胸板に顔を押しつけるとすぐ近くに緩慢なリズムを刻む鼓動が感じられて、私はそのまま目を閉じて身を委ねました。二人だけの世界の中で先生の心音とさざ波の音が有限な時間の経過を伝えていて、重りのずれた二つのメトロノームが揺れているみたいでした。
「ありがとね、アロナ。おかげでもう少し頑張れそうだよ」
しばらくして、私から解放された先生は力こぶを作るように右腕を曲げます。きっと彼には無理をしないよう伝えることも、心配する言葉も本当の意味では届かないのだろうと、そんな気がしました。だから、そのどれでもない言葉を探しながら先生の目を見つめました。
「先生が元気になったのなら、良かったです。……また何かあったら呼んでください。シッテムの箱OSとして私、A.R.O.N.Aができる限りお手伝いしますから」
「うん。じゃあその時は頼むね」
先生は力なく笑って、私の頭を撫でました。その笑顔はすぐにでも倒れてしまいそうなほど弱弱しくて、だけど最期までそれが変わることはありませんでした。私はそのまま先生が教室を出ていくのを、手を振って見送りました。
いつ以来か思い出した先生の姿にズキリ、と胸に熱くて激しい痛みが走ります。それと同時に、きっとこの追憶の旅はこの痛みとその名前を探すためのものであると、そう理解しました。
破れた天井から覗く鈍色の空からはしとしと、音もなく雨が降り注ぎます。あの人の姿がもう失われてしまわないように胸に手を当てて、目を開きました。
***
あれからどれほどの時間が経っただろうか。シャツを掴んでいた手が離れたので、私もプラナから手を離して一歩下がる。過去を見た少女は寂しげに胸に手を当てると祈るように目を閉じる。そして再び目を開けると柔らかくて儚い、いつも通りのプラナに戻っていた。
「……解析完了。先生のおかげで無事ファイルを解凍することができました。ありがとうございます、先生」
「どういたしまして。うまくいったならよかったよ」
プラナはこくりと頷くと私の顔を見つめた。何を思い出したか分からないが、観察するような視線に戸惑いを隠せない。それから、プラナは一つ息を吐くと少し得意げな表情を浮かべる。
「では協力してもらいましたから、ご褒美です。座ってもらえますか?」
「ご褒美なんだ……」
「はい、そう伝えた方が先生は喜ぶ気がしたので。それに、お礼だと遠慮したのではないですか?」
そうかもしれない。なんとなく断る理由を探しても仕方がない気がして、促されるままに席についた。するとプラナは私のすぐそばに立つ。私だけが座っているとプラナに見下ろされる形になってちょっと不思議な感じがした。
「確認。では失礼します……えい。」
瞬間。頭が柔らかい感触に包まれる。それがプラナの胸に頭を抱かれたことによるものだと思い至るまでしばらく硬直してしまった。プラナの方を窺おうにも頭をしっかりホールドされてしまっているのかほとんど動かすことができない。
「えっと……プラナ?」
「前に提案した時は断られてしまいましたから。……ですが、こうして抱きしめられる方がお好きでしたよね?」
一体何を思い出したというのだろうか。さっきとは違って頭を抱かれているからかプラナの心音や香り、体温と柔らかさが肌で直接感じ取れてしまって、なんというか……きまりが悪い。それに、このままでいると大人としての誇りや尊厳のような物を失ってしまうような気がした。
「あの、プラナさん。流石に恥ずかしいんだけど……」
「そうですね。耳が赤くなっています。心拍数も上昇していますし、むしろ緊張状態にあるようです」
「分析されてるの!?」
動揺が数値化されてしまっていた。そうして筒抜けになってしまう以上、下手な行動も発言もできない。
「なんだか、こうして胸に抱いていると先生が子供みたいで、不思議な感じです。……頭でも撫でましょうか?」
「……それだけはやめてほしいかな」
絞り出すような懇願に、そうしない代わりなのかプラナは無言でより強く私の頭を抱き寄せた。
考えてみれば相手は現代の科学で解き明かせないオーパーツとそのOSなわけで、一方のこちらはプラナの表情を窺うことすらできない。あまりにもワンサイドゲームだ。それでもどうにか交渉を試みる。
「ほ、ほら、そろそろアロナが起きるかもしれないし、この状況を見られたらプラナも恥ずかしいんじゃない?」
「ふふ、心配する必要はありません。データによるとアロナ先輩はあと数時間は起きないはずです」
「ちゃんと下調べされてる……あっ、そういえば……」
「──ちなみに先生のこの後の予定も把握済みです。」
「参りました」
投了だ。
次の手まで読まれてしまっている。どうしてご褒美をもらう側が降参しているのかわからないが、諦めて解放されるのを待つことにした。
抵抗する思考を放棄した頭には、甘い香りがして柔らかいプラナの胸は一転して心地よく感じられて、子どものような体温が意識に靄をかけて微睡へと誘っていく。
そのまましばらく時間が経って意識を手離そうとした、そんな時。
───ガタッ
突然の物音にハッとして、閉じかけた意識に冷や水をかけられた。音は隣のアロナが寝ている教室の方からだ。しばらく時間が止まったような沈黙が流れて、その後何も音がしないことを確認して息をつく。アロナが目を覚ましたわけではなさそうだ。
それからもう少し続いた静謐のなかで、耳元でさっきよりうるさくなった心音に気が付いた。
「えっと、もしかしてプラナも……」
「沈黙。回答を拒否します」
返答こそ平坦なものだったが、その表情とヘイローが私の頭上でどう動いているのかは想像できた。それを裏付けるように、すぐそばで頑なに自己主張を続ける鼓動はまだ治まる様子はない。
「そっか。じゃあこれは私の妄想かもしれないけど、」
「えっ……」
拘束が緩んで耳の後ろにあったプラナの指を私の首にずらして当てる。手の中にあるプラナの指は一瞬驚いたように硬直したが、首筋に触れると意図を察したのかそのまま手を添える。私の心臓もまだ静まりそうにはないことが、きっとプラナには伝わったことだろう。
「……おそろいだね」
少しの間をおいてプラナは肯定、とだけ答えた。まだ心臓の音はうるさくて、それが落ち着くまでプラナは私を離してくれなかった。
この後私たちは近いうちにまた手伝うことを約束して解散になった。何とも言えない空気の中で「また近いうちによろしくお願いします」と言ったプラナの頬はまだ微かに赤く染まっていたような気がした。
第一話です。言い忘れてましたが全部で8話ほどで、R18パートは第7話です。
無駄に導入が長いですが気長に付き合ってくれると幸いです。