「先生~~っ!何が『どうにかしてみせるよ』ですか!?よけいに悪化してるじゃないですかー!」
駆け寄ってきたアロナがぽかぽかと両手で胸を叩いてくる。別に痛くはないが、叩かれるたびに胸が重くなるような形でダメージが入る。
『先生。今まで協力いただき、ありがとう…ございました』
昨日、プラナは最後にそんな言葉を言い残して、消えてしまった。その後も思いつく限りの場所を探してみたが見つからず、そのまま現在に至る。
結局プラナが抱えている問題は分からずじまいで、突然キスをしてきた意図も、キスをされた後の表情も、言葉の意味も、何も分からないままだ。やはり、無理にでもプラナに何があったか聞くべきだったのだろうか。
だけど、それは……
「……ごめん」
「いえ……そこまで先生を追い詰めたかったかったわけでは……」
不甲斐なくて、情けなくて、無力な、そんな自己嫌悪から出た謝罪にアロナは慌てて首を横に振った。それから少女は申し訳なさそうに俯いて言葉を続ける。
「プラナちゃんに何があったかはわかりませんが、やっぱり何かに悩んでいるように見えました。先生は何か知っているんじゃないですか?」
「ごめん。私にもわからなくて……」
昨日のことを思い返す。水族館にいたときのプラナは多少の違和感こそあったかもしれないが、確かに楽しそうに見えた。なら、問題はおそらくその後のことだ。一緒に砂浜を歩いて、それから不意を突かれる形でキスをされて……悪化した原因があるとするならきっとここに違いない。
あの時、プラナはこれが『最後』だと言っていた。それから、データの解凍がすべて終わったと。だけど、本当にその通りならこんな状況になるだろうか。
「……アロナはプラナと会ったんだよね?」
「はい。さっき見かけました」
「じゃあそこまで私を…………いや、やっぱりいい」
果たしてそれが正解なのだろうか。そんな問いが脳内にこだまして、出かかった言葉を取り消す。
実際に私はプラナに向き合おうとして、こうして会うことすらままならくなってしまった。その現状で無理に会いに行ったところで、話を聞こうとしたところで、何になるというのだろう。
それに、悩みの内容も分からない現状、プラナに伝えられる事なんてないのかもしれない。仮に、私から何かが言えたとして、結局のところ問題と向き合うのは……
「ふんっ!」
「うわあっ!?」
目を伏せて思考の渦の中にいた私の胸に、水色の頭がぶつかってくる。頭突き(?)の反動でよろけたアロナは体勢を立て直すとじろりと私の方を見上げる。
「もう、しっかりしてください!先生まで暗い顔で思い悩んでたら、誰がプラナちゃんに声をかけてあげられるんですか!?」
そう言いながらビシッと私の方を指さした。気圧されそうになりつつも、その通りだと納得する。何かをするにしろしないにしろ、今の私ではきっとプラナにも不安が伝わってしまうことだろう。
「………そうだね。ちょっと考えすぎてたかも」
「そうです!考えすぎです。そもそもプラナちゃんが悩みについて何も話していないのですから、考えたってわかるわけないじゃないですか」
思ったよりも強く同意されてしまって、苦笑しながらもアロナの言葉を受け止める。勢いのある言葉の一方で、ヘイローや表情の一端からプラナへの心配も思いやっていることもちゃんと伝わってくる。
それからアロナは一つ息を吸うと、少し真剣な表情に戻った。
「ですから───先生は、どうしたいですか?」
問いかけは私の心を問うものだった。
今、私のしようとしていることが先生としてすべきことなのかも、それが何かの救いになるのかなんてわからない。
それでも……最後にプラナが見せた表情を、折り紙の時に見た涙を思い返す。
自分が泣いていることすら理解できていなかったあの少女を。あんなに苦しくて、悲しそうな笑顔を浮かべた子供を前にして子供に何もできないでいたのなら、私はきっとこれから先、プラナにどんな顔をして会えばいいか分からなくなってしまう。
だからこれは私のわがままで、紛れもない、私の意志だ。
「私は、プラナがつらい時に一人にしたくない。何もできなくてもいい、話を聞けなくたっていい。せめて傍にいたいんだ。……それが唯一、私にできることだから」
一度言葉を切って息を吸う。それから、まっすぐにアロナの方を見つめた。
「だから、手伝ってもらえるかな、アロナ?」
アロナは微笑みながら頷いた。いつものように、あるいはその言葉を待っていたとでも言うように。
「はい!もちろんです、先生。では、案内しますね」
それから、教室を出るアロナのすぐ後ろをついていく。水浸しで人の気配がしない廊下は少し薄暗くて、少しばかり寂しい景色であるような気がした。水音とともに進む私たちはしばらく何も言わずに、どこに続くかもわからない廊下の先を見続けていた。
「時に先生、知っていますか? 一日中眠り続けるのって、とっても大変なんですよ」
不意に、先を行くアロナは前を向いたままそんなことを言った。一瞬意図を感じ取れないでいたが、プラナと水族館に行ったあの日のことを言っているのだろうか。
「秘密を知らんぷりし続けるのも、起きているのがバレないように聞き耳を立てるのも……ふさぎ込んでいる後輩に何もできないでいるのも。すごく大変でした」
「……やっぱり知ってたんだね」
「当然です。私はシッテムの箱OSの、スーパーアロナちゃんなんですから」
この感じだとだいぶ前からプラナとしてきたことがバレているようだった。クッキーを作ったときからそんな気はしていたが、もしかしたら結構気を遣ってくれていたのかもしれない。
「ですから、先生。全部が終わったらちゃんと私にも話してくださいね。それで、仲直りです!」
「わかった。……えっと、そもそも私たちケンカしてたっけ?」
「私には、する理由がありますよ?二人だけでお菓子を食べてましたよね?」
頬を膨らませるながら拳を握る少女に謝罪の言葉が喉から出かかったところで、アロナは立ち止まった。その視線の先には一つのドアがある。きっとこの先にプラナがいるのだろう。
「ここです。では、私は今からしばらくはお昼寝をしていますから……今度こそプラナちゃんのこと、よろしくお願いしますね、先生」
「うん。ありがとう、アロナ。……また後で」
そう伝えて、教室に戻るアロナの背中を見届ける。そして一つ深呼吸をして、私は教室のドアを開けた。
***
それは、冷たくて大きな手でした。
触れる指の感触はほとんど包帯のもので、あまり心地の良いものとは言えません。
そのはずなのにどうしてか離れがたいと感じました。
見上げた顔には分厚い仮面が着けられていて、表情を変えることも、何かを答えてくれることもありません。
それでも何を期待しているのか、記号のように窪んだ眼窩をじっと見つめます。
頬に伸ばされた右手に力は入っていなくて、私が両手で支えなければきっとそのまま落ちてしまうことでしょう。
そのはずなのに、いつか感じていたはずの温度を、この手が優しくこの頬を包んでくれているような錯覚を覚えてしまうのです。
「疑問。私は、先生のことをどう思っていたのでしょうか?」
答えは……返ってきません。すでに先生は生命活動を終えているのですから当然の結果です。ふたりぼっちのナラム・シンの玉座は再び完全な静寂に包まれます。
自分の中に問いの答えを見つけようとしてみますが、『尊敬』、『信頼』、『大切』、あるいは……どの言葉もどこか他人事のように感じてしまい、うまくいきません。ですが冷静になってみればこれも当然のことなのでしょう。
───なぜなら、私の記憶は色彩によってそのほとんどを消されてしまったのですから。
『色彩の嚮導者』としての先生の力は、そのほとんどが私を経由して発揮されるものでした。先生にはこれまで通り私の存在が必要不可欠な一方で、色彩に反抗されないよう私の意志を奪う必要もあったのでしょう。
先生を飲み込んだ『色彩』は先生から離れるとそのまま私を吞み込みました。それから数秒後には解放され、その時は何が変わったのかを認識することすらできませんでした。
ですが、時間が経つにつれて、先生との記憶に大きな欠落があること。それから、残っている記憶もまるで他人のホームビデオを見ているかのように感情が伴わない、単なる事実としてしか存在しない事に気が付きました。
それらが大切なものであったのかも、もう思い出すことはできません。ですが……目を閉じて、少し強く先生の手を握りしめました。
きっとこの『今』は砂狼シロコにとっても、私にとっても、それから先生にとっても最悪の結末に違いないことでしょう。
それでも、私は───この時間がずっと続いてほしいと、そう願ってしまったのです。
***
目を開けて机から顔を上げると、どこまでも青い教室の景色が視界に飛び込んできました。どうやら少し眠っていたようです。
椅子から立ち上がると、教室のドアへ視線が吸い込まれます。きっと先生にもアロナ先輩にも心配をかけていることでしょう。だから戻らねばならないと思いながらも、ドアの反対側を向きました。そこにあった外の景色はいつもと変わらない晴れ空で、今はそれが少しばかり嫌味のように感じました。
『だから……いつもありがとね、プラ、ナ……』
あんな夢を見たからでしょうか。ふと、先生からもらった言葉が思い出されます。
頬に触れる指の感触は少し武骨で、温かいものでした。
そう告げた顔は優しくて、閉じてしまいそうな目はそれでも私を捉えていました。
私に伸ばされた右手に力は入っていなくて、言葉が途切れると同時にその上から添えた私の指から零れてしまいました。
あの時感じていた温度を、その手が優しくこの頬を包んでくれる感触を、自分の手を頬に当てながら思い返します。
今では望まなくても手に入るそれは、かつての私と『あの人』の間にもあったことでしょう。その実感を先生のおかげで取り戻すことができました。ハグをした記憶も、チョコレートを作ったときのことも、膝枕をしたときのこともそうです。
あの人の言葉を、体温を、匂いを、優しくて弱弱しい笑顔を思い出すことができたこと。それだけでも何にも代えがたい奇跡のようなものなのだと、そう思います。
でも、奇跡にも限界はあります。
……私は、何度もそれを目にしてきました。
ですからきっと、これ以上あの人のことを思い出すことはできないのでしょう。前から分かっていたことだというのに、改めてそう認識すると胸が苦しくて、この眩しい世界から目を逸らしてしまいたくなります。
いつか、あの人がいたはずの空白すら感じられなくなってしまうことが怖くて、差し出された手を取ることも、目の前にいる大切な人の顔を見ることも、幸せになってしまうことも、とても恐ろしいと感じてしまいます。
過去の後悔を知ることが、今の先生と向き合うことが、見ないふりをしていた傷口に直面してしまう気がして、指が震えます。
『そのときは過去じゃなくて『今』と向き合うんだよ』
蘇ったいつかの言葉に、私は自分の体を抱くように体を丸めます。
「……知っています。それでも、私は───」
そう言いかけたところで不意にドアがガラガラと音を立てて開き、反射的に音の方へと振り返ります。すると、視線の先には先生がいました。
「!……先、生?どうしてここに……」
驚きはありながらも、すぐに一つの結論に達します。
「理解。アロナ先輩ですね」
「違うよ。私が頼んだんだ。だから、すべての責任は私にある」
先生は私の方をまっすぐ見ながらそう言います。少し思いつめたような表情で、だけど決意を固めたというようにこぶしを握って、ドアのレールをまたいで教室へ踏み出しました。それから先生は私の目の前に立つと少し屈んで視線を合わせます。
「聞かせてもらってもいいかな?プラナが何を思い出したのか、プラナが何に苦しんでいるのかを」
そう尋ねるどこまでも優しい目にはどこか不安の色があるように見えました。もしかしたら、無理やり聞くような形になってしまうことに罪悪感を覚えているのかもしれません。ならば、先生にそこまで踏みこませてしまったのは紛れもなく私自身です。
「はい。私は先生とアロナ先輩を心配させてしまったのですね。申し訳ありません」
「プラナが気にすることじゃないよ。それにこれは私がしたくてしていることだからね」
先生は優しく微笑みかけました。まだ自分の中でも整理できていない内容を話すことにためらいはありますが、話さないわけにもいかないことでしょう。
「理解。……では、聞いて頂けますか?私が思い出したことを。もうひとりの『先生』の物語を」
先生は深く頷いて、それから向かい合って座りました。私も席に着くと話を始めます。
『先生』とハグをしたときのこと、バレンタインデーにチョコレートを贈ったときのこと、膝枕をしたときのこと、他にも思い出せたことの話を一つずつ。
それから、私が『先生』の記憶を思い出せなくなったこと、だけど折り鶴の時やキスの時みたいにそこに何かがあったという空白は感じ取ることはできたこと、まだたくさんあったはずの解凍できていないデータがどこにも見当たらなくなってしまったこと。
そして、『先生』の最期のこと。私が『色彩』に記憶を奪われてしまったこと。そんな捻じれて歪んだ先の終着点の、物語の幕引きを。
「……ですので、私が『先生』のことを少しとはいえ思い出せただけでも奇跡みたいなものなのです」
声が震えてしまわないようにしながら、そんな結末を語ります。私の方をじっと見つめる先生はただ黙って私の話を聞いていました。
「これ以上の奇跡を望んでしまったら、きっと罰が当たってしまいます。こんな方法で先生の言葉を、笑顔を思い出せるだなんて思ってもいませんでしたから」
「それに、私はもう先生にもアロナ先輩にも迷惑をかけたくありません。あの人のことも同じぐらい大切だったのかもしれませんが、今はそれよりもそばにいてくれる二人のことを大切にするべきなんです」
それは紛れもなく本心でした。いつか『先生』のことを思い出せなくなったとしても、痛みを忘れてしまうとしても、今ある幸せを突き放してまで執着することを誰よりも『先生』が望まないはずです。だからきっとこれでよかったのです。
「ですから、この物語はこれでおしまいです」
そう話を締めくくって笑いかけると、先生は少し驚いたように目を見開いてから少し迷うように目を伏せました。その感情は私に向けられたものなのでしょうか。それとも、もう一人の自分に向けられたものなのでしょうか。
そんなことを考えながら先生の方を見ていると再びぱちりと目が合って、するとすぐに先生は柔らかい表情を浮かべました。
「ありがとう、プラナ。こうして話してくれて。……でも、プラナはまだ記憶のことを、『プレナパテス』のことを諦めたくないんじゃないの?」
「そう、見えますか?」
「うん。もしかしたら忘れていることすら忘れていることだってあるかもしれないし、全部を試しきったわけじゃないんでしょ?」
先生の予想は私の中にあるものとほとんど同じだったので小さく頷きました。確かに、私が知覚できない範囲で思い出せる記憶もあるのかもしれません。過去にあったことを感じ取れるなら、疑似的に過去の出来事を知ることだってできるでしょう。
「なら、私を理由に諦める必要なんてないよ。限りなく低い可能性だったって、多少大変な方法だったって関係ない。私はプラナの先生なんだから、それぐらいはさせてよ」
先生は優しく微笑みながらそう答えます。きっとこれ以上頼もしい言葉なんてそうないはずなのに、胸がざわついてスカートの裾を握りしめます。
「それに、本当に思い出せることがもうなかったとしても、プラナが折り鶴の折り方を覚えていたみたいに別の形で残っていることだってあるかもしれない。それ以外にもきっと……」
「どうして、そこまでしてくれるのですか?」
そんな遮るような問いかけに先生は驚いたように眉を上げて、それから後頭部に手を当てました。
「私がプラナの先生だからって理由じゃ納得できなかった?」
「……肯定」
「そっか。そうだなあ……」
先生の言葉にこくりと頷くと先生は少し困ったように笑います。それが意味するところを私は理解できませんでした。
───あるいは理解したくないと思ったのかもしれません。
先生は息を吐くと、少し真剣な表情になって私と目を合わせます。
「私はね。プラナのことが、好きなんだ」
あまりにも短い答え。ですが胸をナイフで刺されたように鋭い痛みが駆け抜けます。それはきっとあの人にも同じことを言われたという過去の証明で、同時に目の前の先生へ向けた感情によるものなのかもしれません。
「もちろん、一人の女の子に向けるものとしての『好き』だよ。だから、プラナがつらい時に力になれるなら何でもしてあげたいし、何もできないのならせめて傍にいたい。……これなら理由にならないかな」
そう告げて私の方を見つめる瞳はどこか不安げに見えました。
答えるべき言葉は分かっています。その答えを引き出してしまった以上、ちゃんと向き合って想いを伝えねばならないということも。でも、今の私はそれを選ぶことができませんでした。
「私は、先生の想いに応えられないかもしれませんよ」
「それがプラナの気持ちなら、気を遣う必要なんてないよ。むしろ、思ってもないことを言われる方が悲しいな」
「私は、先生を先生として見ることができないかもしれません」
「それは……複雑ではあるけど、私とプレナパテスは同一人物みたいなものだし重ねてしまうのは仕方のないことなんじゃないかな。でも、それに甘んじるつもりもないよ」
その気持ちを否定するように張った予防線も忠告も何も先生を踏みとどまらせることはできなくて、いくら引き延ばしても確実に一歩ずつ自分の番へと近づいているのが分かります。
「……想いを伝えることは今の関係性を壊してしまうかもしれません。互いに苦しくなってしまうだけかもしれません。それなのにどうして……そんなことが言えるのですか?」
苦し紛れに出たその問いは奇しくも『先生』に問いかけたものと同じものでした。私が聞いたから答えてくれたというのにさらにそこに理由を求めるなんて、理不尽で支離滅裂なことでしょう。
ですが、それでも先生はずっと真剣に私の言葉に耳を傾けて、まっすぐに答えを返し続けます。
「結果がどうなるかなんて関係ないよ。事前にわかるものでもないしね。仮に叶わないものだったとしても、伝えなかったら後悔するかもしれない。それに、私はもっとプラナのことが知りたいし、思っていることがあるならプラナの言葉として聞きたい。プラナとずっと一緒に居たいし、たまにはわがままだって言いたくなるかも」
先生が語る理由は、きっとあの日『先生』が答えた内容と概ね同じなのでしょう。そんな確信がありました。
「そして何より、プラナが好きで、そう伝えたいって思ったからだよ」
先生は、私の方をまっすぐに見てそう告げます。きっと先生の答えは正しくて、誰もが納得できるような、そういう類のものなのでしょう。
───だけど私は、その言葉の先にあった一つの結末を知っています。
「……ですが『先生』は、私を置いていきました」
零れた言葉に先生は目を見開きました。
本当は……こんなことを伝えるつもりではありませんでした。それこそ、互いを傷つけるだけに違いありませんでしたから。ですが、一度溢れ出したものは止まることなく胸の奥からせりあがりながら、喉を震わせます。
「きっと『先生』も同じようにその気持ちを伝えて……私と、ずっと一緒にいると言ってくれたのだと思います。でも、その結末は先生も知っての通りです」
「生徒の為なら抱えきれないものをすぐに抱え込んで、いつだってその言葉に応えて、必要なら簡単に命を投げ出して……そんなことをしていて、先生が今も生きているのが不思議なぐらいです。……私は、先生のそういうところが……嫌い、です。」
決定的な言葉は先生に向けられたものだというのに、同時に自分も切りつけられているようでした。それでも、左胸をくしゃりと握りつぶしながら子供じみたわがままを、先生越しの自傷を、続けます。
「先生の言う『ずっと』はいつまでですか? 私はあと何回、先生の最期を看取ればいいのですか?」
「……先生は。──どうしてあの時、砂狼シロコを選んだのですか?」
崩れ行く箱舟の中で最後に閃いた光は先生を一人残して消えました。それが、先生の最期になるかもしれないことは自分でも分かっていたはずです。
「あの選択が、先生として正しかったことは理解しています。結果として両方が助かったのですから、それでよかったということも。それでも、あの時先生は先生を想ってくれる生徒のみんなを、ずっとあなたのそばにいたアロナ先輩を裏切ったのです」
「……そうだね。プラナの言う通りだ」
「そう伝えることを誠実さだと思っているところも、嫌いです」
そう断ずる言葉に先生は悲しそうに口元を歪ませました。でも、その表情は心配の色の方濃くて、もしかしたら私の方がずっとひどい顔をしているのかもしれません。
「人に頼るよう言っておきながら一人で抱え込むところも、誰にでも優しくするところも、自己犠牲を当然のことだと思っていることも、その結果自分が一番苦しんでいるところも、嫌いです。……好きになるべきでは、ないのです」
そうです。きっと先生もいつかのあの人のように、生徒の為なら簡単に命を投げ捨てることでしょう。そうでなかったとしてもいつかは無理が祟って倒れてしまうかもしれません。それがバッドエンドで終わってしまうことが分かっているのなら、いつかの青い感情なんて二度と抱くべきではないことでしょう。
「最後には失って、こんな思いをするぐらいなら、はじめから私は───」
「それは違うよ、プラナ」
気が付けば先生は座ったままの私を抱きしめていました。虚を突かれて言葉を失う私をよそに先生は続けます。
「確かにプラナの言う通り、私はずっとプラナのそばにはいられないのかもしれない。いつか来る別れは確かに耐えがたいぐらい苦しくて悲しい結末で、その結末は変えることができないかもしれない。でも、そんな終わりを迎えてもそれまでにあった思い出や絆が、ぜんぶ悲劇になるわけじゃないんだよ。それはプラナもよく分かっているんじゃないかな」
その言葉とともに、『先生』との記憶がよみがえります。それは確かに幸福なものに他ならなくて、こうして悲しい結末が待ち受けていたというのに、それでも失いたくないと思ってしまいます。
「一度失ったことがあるからこそ、もう一度大切なものを作ることが怖くなるのも仕方がないことだと思う。だけど、その答えに無理があることぐらいはプラナも分かっているはずだよ」
分かったような答えは確かに芯を捉えていて、全部を見抜かれていたような、そんな気がしてしまいます。『嫌い』という言葉で覆った真意も、そう伝えるほど苦しくなる心臓も、その奥にある言葉の存在を、そこにある無茶を証明しているようなものでした。
「だからどうか、出会わなければよかっただなんて、そんな気持ちを持たなければよかったなんて言わないで。過去の二人のことを、自分の気持ちを否定しないであげて。そんな想いが、思い出が、プラナをここまで連れて来てくれたんだから」
そう言い終わると先生は数歩下がってからしゃがんで、私と視線を合わせます。あの人と同じようで、少しだけ違う瞳はやっぱり優しすぎて、ろくな死に方をしなそうだという印象は変わりません。
言葉も全部詭弁じみていて、きれいごとで、精神論で……だけど手を取りたいと願ってしまいます。
「……私で、良いんですか?私は先生が思うよりも面倒くさいかもしれませんよ」
「プラナが良いんだよ。それにまだ知らない一面があるのなら、ちょっと楽しみなぐらいだ」
言い訳じみた弱音はあっさり否定されてしまいます。でも、もう少し背中を押されたくてそんな言葉を続けます。
「あの人のことだって、ちょっとやちょっとじゃ立ち直れないかもしれません」
「じゃあそれまでは、私がずっとそばにいるよ」
先生はあっさりとそんなことを誓いました。
「そんなことをしたらアロナ先輩が拗ねてしまいます」
「その時はあとで一緒に謝ろう。多分、なんだかんだで許してくれると思うから」
なんとなくむくれたアロナ先輩の顔が脳裏に浮かびました。困った顔で謝る先生の姿も、それを見つめる私の姿もそこにはあって、三人でいた時間はそう昔のことじゃないはずなのにそれがひどく恋しく感じられました。
「だからプラナ、もう一度自分のことを信じてあげて。どんな結果になっても、どんな選択をしていても、プラナならきっと大丈夫だから」
それから先生はいつかと同じようなことを言いました。それが私にできるかどうかも、まともな根拠があるのかもわかりません。それでも先生のことは信じたいと、そう思います。
「先生。」
一言、そう呟くと先生は私の方を見ました。それから真面目な表情で言葉を待ちます。
きっと、言ってしまったら後には戻れないのでしょう。それどころか、見ないふりをしていた傷口やまだ知らないでいられた後悔に直面してしまう気さえします。
それでも、もう私を引き留めようとするものはありませんでした。
「私は、先生のことが好きです」
ついに告げてしまった言葉はすんなりと胸の中に落ちて、確かにそこが軋むのを感じました。どこか考えないように、超えないようにしていた一線は、踏み越えてみると足に絡まる鎖も先を示す手すりもなくて、頼りない足元でその先へと踏み出します。
「……大好き、なんです」
絞り出すような言葉は確かに胸の奥を焼いてこれまでにないほどの痛みを感じます。身体から力が抜けて椅子から滑り落ちると、俯いた頬を伝う涙が水浸しの床に落ちて波紋を作りました。皺になるのも気にせずスカートを握りしめる指先は白くなっています。
ですが、そんな胸の中にあるのは悲嘆でも絶望でもありませんでした。
「……私はっ、ちゃんと、伝えられたんですね」
きっとこの痛みは、かつて先生にこの想いを伝えた事実の、あるいはその言葉を今の先生に伝えたいという気持ちの証明なのでしょう。安堵から零れた言葉は震えていて、そんな私の肩を先生の手がたどたどしく撫でました。
ふたりぼっちの教室には私の湿った呼吸音だけがこだましていて、それが平常時のそれに戻るまで先生は何も言わずに傍に居てくれたのでした。
「……あの、先生。」
顔を上げると、いつも通りの先生の顔がすぐそばにあります。それがなんだかきまりが悪いような気がして目を逸らしました
「どうかした?」
「もう、大丈夫です。……ありがとうございました」
そう告げると布が擦れる音とともに先生は立ち上がって二歩ほど後ろに下がりました。そんな先生の顔を見ることができなくて、膝のあたりをじっと見つめます。
「ごめんね。本来はもっとゆっくり向き合うべきことだったよね。……私が急かしてしまったのなら、それでつらい思いをさせてしまったのなら、ごめん」
「問題ありません。きっといつかは向き合うべきことでしたから。ですので、先生が気に病む必要はありません」
それだけ答えると顔を拭って、足元の水を払うと立ち上がりました。一方の先生も何かを言うことはなくて、そんな空白に今まで感じたことがないような気まずさがあるような気がしてしまいます。
「……あのっ!」「……提案。」
言葉は同時でした。見上げた先生の顔は少し驚いた表情を浮かべていて、それがなんだか可笑しく見えました。
「ふふっ……では、先生からお願いします」
「……形はどうあれ、またプラナの笑顔が見れてよかったよ」
そう言って先生は苦笑しました。それから仕切りなおすように一つ咳払いをすると再び私の方を見つめます。
「じゃあ、これからの話をしよっか。プラナが忘れたことすら忘れているような過去を探すんだったよね」
「肯定。……私が話の腰を折ったのでしたね。申し訳ありません」
「いやまあ、いずれは向き合うべきことだったと思うし……これキリがないしもうやめよっか」
「わかりました」
もう一つ咳払いをした先生は、私の方を見てから続けます。
「要はプラナが覚えてないけど、プレナパテスとやったことがありそうなことをやってみればいい……のかな?」
「提案。それなら、先生とアロナ先輩はしたことがあって、私に覚えがないことをすればいいのではありませんか?」
「それが良さそうだね。……プラナが覚えていなさそうな、アロナとやったことか……」
先生は顎に手を当てるとうーんと時折唸りながら思考を巡らせます。
「……黒ビキニ……」
「黒ビキニ?」
「いや、ごめん。忘れて」
なんとなくよからぬことを考えていたような気配を感じましたが、とりあえずスルーしておきます。それから少し真面目な顔に戻った先生が人差し指を立てました。
「私の似顔絵とかは書いたことある?」
「それはあります」
「あるんだ……コスプレとかは?」
「ある……ような気がします」
「じゃあ、我慢大会」
「……ないかもしれませんが、優先度は低いと思います」
「確かに。……あとは……幼児退行とか……」
「ようじ……理解。先生はそういう性癖だったのですね」
「待って!?それは誤解だから!」
先生から提案されるものは何と言うか、私の想定していたものとは少しずれているような気がしました。でもそう提案する以上はアロナ先輩と先生はそういうことをしてきたはずで……なんとなくアロナ先輩が先輩たる所以を知ったような気がします。
「……ちなみにプラナは何か思いつくものとか、試したいことはあるの?」
「私が、試したいこと……」
どこか苦しげな問いに、一応思考を巡らせてみます。思えば、過去の私はあの人に想いを伝えて、それからキスもしているのですから、その先。確認すべきことは自ずと限られてきます。
「疑問。先生は、アロナ先輩とえっちなことをしたことがあるのですか?」
「なっ!?ゲホッ、ゲホッ……」
「えっちなことしたんですね……」
露骨に反応して激しく噎せた先生に冷たい視線を向けます。でも、先生とアロナ先輩に経験があることだとすれば、私とあの人の間にもあった可能性は高いことでしょう。もしそうだったとすれば喜ぶべきなのか切なくなるべきなのか分かりませんが、過去の私が少しは報われるような、そんな気がします。
「い、いや……こういうことは安易に試すべきことではないと思うし、もう少しプラナが大人になってからでも遅くはないんじゃないかな」
「……でも、アロナ先輩とはしたんですよね?」
「………そうだね」
先生は見たことがないぐらい苦い顔をしていました。
ただ、確かに先生は少し軟派で邪なところはあるかもしれませんが、どこまでも生徒思いで誠実なことは知っています。だから、なんとなく簡単にそういうことはしないという確信がありました。きっと何かしらの事情があったのでしょう。
「その通りだったとして、プラナは試したいと思ってるの?」
「……わかりません。ですが、ここまで来たからには私とあの人とどこまでしたことがあるのかまで確かめるべき……なのだと思います。それに……」
そう言いかけて、真面目な表情に戻った先生と目が合いました。その優しい瞳に、今私がしようとしていることを改めて見つめさせられます。今の私は目の前の大人を……性行為に、誘おうとしていることに違いはなくて……顔が熱くなるのを感じながら先生の顔から視線を外して俯きます。
ですが、喉の奥に引っ込んでしまった言葉は確かに伝えたいと思える言葉だったはずで……その代わりに私は左手で先生の右手の袖を掴んでいました。
「どうしたの、プラナ。言ってくれないと分からないよ」
「……理解。先生もそういう意地悪を言うのですね」
「まあ、簡単に認めるわけにもいかないしね」
先生は淡々とそんなことを言います。先生という立場を思うと当然、私とそういうことをするには問題があるはずで、その一線を超えさせるのであれば私もそれ相応の覚悟を見せるべきなのでしょう。それに私は……今、目の前にいる先生と十分向き合えたとは言えません。ですから、今こそ向き合う時なのだと、そう心を奮わせます。
握っていた先生の袖を強く引いてから先生の顔を見上げます。顔が少し熱くて、先生と目が合うとさらに熱を増します。それでも逃げてしまわないよう指に力を込めて、うるさい胸を押さえて、伝えたいと思える言葉をもう一度探します。
「……先生。私は、先生のことが好きです。ですから他でもない先生と、そういうことをしてみたいです。……私の中に、消えることなない先生との思い出が欲しいです」
少しの怖さを抱えつつも、先生から目を逸らさずに胸の中にある思いを伝えます。それが許されないことであることも、私を本当に大切にしたいのならこんな間違いを選ぶべきではないことも理解しています。さっき先生への好意を伝えたときとは違う怖さが胸の中を満たしていって、声の震えもだんだん大きくなります。
「私に、先生を教えていただけませんか……?」
それでも、どうしても伝えたかったのです。
大きくなっていく不安から目を伏せようとしたとき、先生は柔らかい笑みを浮かべて私の頬に触れました。
「そんな顔をしないで、プラナ。……ごめんね、どうしてもそれをプラナの言葉で聞きたかったんだ。ちょっとわがまますぎたよね。不安にさせちゃったよね」
「……問題ありません。きっと当然の権利でしょうから」
「そっか。……それで、プラナの言葉への答えだけど──『いいよ』。プラナが望むならなんだってするし、迷いはあってもできる限り応えたいって思うんだ。だって、私もプラナのことが大好きなんだから」
先生からの告白は二度目で知っている気持ちだったというのに、なんとなく気恥ずかしくなって先生から目を逸らしました。一方の先生はそんな私をどこか微笑ましそうに見ていて、それが少し不満でしたが返すべき言葉も思いつかなかったので代わりに息を吐きました。
「ちなみに……アロナ先輩にはこのことをどう説明するつもりなんですか?」
「……あっ」
一瞬で先生の顔が青く染まって、冷や汗を流しながら私から目を逸らしました。どうやらあまり考えていなかったようです。
「……やめておきますか?」
「いや、大丈夫!いざとなったら私が土下座するから。プラナは何も悪くないし、気にしないで!」
「………本当に大丈夫なんですね?」
「……大丈夫」
気にするなというのは割と無理な相談であるような気もしましたが、今の私にできることもなさそうだったので一応は先生のことを信じてみることにしました。
「じゃあ私は準備をするからちょっと待っててもらえる?」
「はい。……では、保健室の方で待っています」
「わかった。保健室なら私も場所は分かりそうだね」
先生はそう言って私に背を向けました。それから一度立ち止まると、何かを思い出したかのように私の方を振り返りました。
「そうだ。一つだけ聞いておきたいんだけど、プレナパテスは最期に何か言っていなかった?」
それから先生はいつになく真剣にそう問いかけました。なぜ今それを聞くのかも、その意図も分かりませんが、ありのままのことを答えます。
「否定。あの人は先生への言葉を最後に何かを言うことはありませんでした。……今の私のそばには先生がいますから、最期はきっと安心できたのだと思います」
先生はその言葉に少し考えるようなそぶりを見せると、小さく頷きました。
「……そっか。じゃあまた後で」