※この作品はR-18です。

練習中作品置き場   作:芒月杯

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リクエスト内容

女性
純朴だったけど、彼への重いが暴走してしまい狂気を孕んでしまった、ゆるふわ系お姉さん

男性
一見チャラそうに見えるが根はしっかり者の、コミ力◎のお気楽なナイスガイ


呪縛

高層ビルが乱立し巨大な影を落とすオフィス街。そのコンクリートジャングルの外れ、バー「ホワイトナイト」は四階建て雑居ビルの地下一階に、その小洒落た姿を埋没させていた。

 

古びたブラックボート看板の案内に従い段差のある階段を降りて格子窓の扉を開けると、手狭な店内にカウンター席が五つ並んでおり、白熱電球の暖かい光が店内を照らしている。今時八十年代の洋画でしか見ないような、バックバー(注:カウンターの後ろにある酒棚の事)に並ぶ酒瓶と同じくらい年代物の内装だ。

 

良く言うなら格式高い、悪く言うなら古臭いバーだったが、月宮樹は従業員の一人としてこの店の事を気に入っていた。ベンチャーだのスタートアップだの横文字達が幅を利かせるこの街に構えながらも、時代の流れに迎合せずに昔ながらの様式を貫く姿勢には好感が持てる。

 

バーは特に会員制という訳ではなかったが、客は大体決まっていて言わば形式なき会員制が存在していた。樹がここで働き始めてもう少しで三年になるが、今となっては常連達の顔名前は勿論の事、お気に入りの一杯のレシピまで丸々頭に入っている。

 

「流石にマスターの方が美味いな」

 

スーツ姿の老紳士がそう言って、カクテルグラスを静かに置いた。注文はマティーニ。無色透明のカクテル。ジンとベルモットをステアし、オリーブを添えてレモンピールで香り付け。至ってシンプルなレシピだが、それ故バーテンダー事の実力が如実に現れる。ステアにもたつけば酒の冷え方にムラが出来てしまうし、香り付けも材料の多い少ないで風味は随分と変わってくる。

 

この老人は決まって金曜日に来た。マスターがいない事にぶつくさ言いながら——常連だから、金曜はマスターがいない事を知っているはずなのに——キープしているボトルのウィスキーをオン・ザ・ロックで二、三杯飲み、最後に腕試しと言わんばかりにマティーニを頼むのだ。

 

「ま、この調子で頑張りな」

 

彼は長財布から紙幣を一枚抜くと、グラスの下に置いて店から去っていった。手厳しい事を言われたが空になったグラスを見るに、少なくとも残す程の味では無かったらしい。それに、彼が置いていった代金はカクテル一杯分にしては少し多いように感じた。

 

「……精進します」

 

軋んだ音を立てて閉じたドアを横目に、呟くように言葉を紡ぐ。あの老人の耳には入っていないだろうが、それで良かった。彼が求めているのは先週よりも美味い酒であって、薄っぺらい言葉ではないのは樹も理解しているつもりだ。

 

そうしてまた店内は静かになった。樹は少し長い金髪を後ろで一つにまとめているヘアゴムを外すと、少し伸びをしてからグラスを洗い始めた。髪を縛るのが自分なりのスイッチの入れ方だった。何も積み重ねてこなかった男が少しでも己を良く見せようと背伸びをする。こうしてカウンターに立っている以上客は完璧な一杯を求めるし、グラスの底に沈む人生観を見定めようとしてくる。

 

しかし張りつめ続けた弓の弦はいずれ切れてしまうように、中身の伴わない虚勢を張り続けていてもいずれボロが出る。故に客がいない時はこうしてヘアゴムを外し、プロのバーテンダーから年相応の若者に戻るのだ。酒の席で常連の話し相手を務め彼らの人生の欠片を拾い集めていると、まるで自分まで成長したような錯覚を覚えるが、それは全くの欺瞞、驕りも良い所なのである。酒造りと同じく聞きかじりでは進歩は望めず、ただ鍛錬を重ねた日々だけが人を作り上げる。こうして髪をほどきグラスを洗っている時、たまに目にかかる前髪がその現実を教えてくれる。

 

壁に掛けられたアンティークの針時計を見ると、夜の九時だった。閉店までたっぷり六時間あったが、樹の記憶する限り金曜日のこの時間帯に来る常連は、あの老人だけだ。夜も更ければぽつぽつと客も増えるだろうが、あと一時間は飛び込みでも来ない限りは暇だろう。どれ、今日はビルドの練習でもするとしよう。確か、練習に使って良い酒があったはずだ——

 

「いつきく~ん。飲み直しに来たよ~」

 

かドアベルの音を追いかけるかのようにそう言って、彼女はカウンターに座った。セミロングの茶髪に柔らかなウェーブをかけた、パンツスーツ姿の女だ。古びたバーには場違いとも言える若さで、クラブの方が似合いそうな雰囲気を身に纏っている。頬を赤くし口元を緩ませ、何がおかしいのか時折ふへへと笑い声を漏らしている。

 

「……随分飲まれたようですが、酔い覚ましをご用意しましょうか?」

「いらな~い。それよりも甘いやつ、作って~。ビール沢山のんだから、炭酸はなしで」

 

甘口で炭酸以外。既に飲んでいるなら度数が低めの物が良いだろう。それならリキュールだ。氷を入れたタンブラーグラスにアドヴォカートをとライム・ジュースを少し入れ、オレンジクリーム色になるようレモネードで割る。最後にスライスオレンジとチェリーを縁に飾れば完成だ。

 

「ゆっくり飲んでくださいね」

「え~? なにこれ~? 始めて見るな~」

「スノーボール。アドヴォカートの——卵のリキュールのカクテルです」

「卵?」

「ブランデーに卵黄とバニラを入れて熟成させるんですよ」

初めて聞くカクテルに慄いたのか、彼女は中々手を付けようとはしなかった。まず色を見て、手で仰いで香りを嗅ぎ、ついに舐めるように一すすりし——どうやらお気に召したようで一息で飲み干してしまった。

 

「これおいしー! おかわりー!」

「早いです」

 

紺野雅。二十七歳で樹の三つ上。このオフィス街の何処かに務めている会社員。それ以上の事は良く知らない。半年前、ちょうど今と同じぐらい酔っぱらった彼女がバーにやってきて、バレンシアを一杯飲んで泥酔し樹がタクシーを呼ぶ事になった。その一杯がよほど口に合ったのかは知らないが、以来彼女はこの店の常連だ。

 

「この曜日に来るのは珍しいですね」

 

おかわりを作りながら、それとなく聞いてみる。今度はリキュールを少なめにして、酔いが回り過ぎないように。常連が来る曜日と時間帯は殆ど覚えた樹だったが、こと雅のことだけは未だ読めずにいる。毎日のように来る週もあれば一回しか来ない週もあり、まだ開店準備をしてる最中に押し入って来る日もあれば、閉店ギリギリに一杯ひっかけて帰るだけの日もある。この半年で彼女について分かった事と言えば、ブランデーベースの甘口カクテルが好きな事ぐらいだ。

 

「いや? 来る気は無かったんだよ? 今日は会社の飲み会があったから、一次会だけ出てさっさと家に帰るつもりだったんだ~。このバー、土日でも空いてるし」

「いつでもお客様をおもてなしできるのが、ここの魅力とも言えるかもしれませんね」

「うん。いつもガラガラで良いね~。今時落ち着いてお酒飲めるのここぐらいだよ」

 

雅の物言いに思う事が無い訳ではなかったが、事実彼女の言う通り「ホワイトナイト」は連日大繁盛と言うわけでも無かった。マスターがテレビや動画配信者の取材を頑なに断り続けているせいで、いつもひっそりとしている。カクテル一杯がレストランのディナー代になるレベルの高級店という訳でもない。だが、棚に並ぶ酒は毎月のように増えているし、樹も都内での一人暮らしが出来る程度の給料は貰っている。バーを始める時、マスターはビルの地下一室を買い取ったらしく家賃はタダらしいが、それでもどうやって採算を出しているか見当も付かなかった。

 

「それでね~? 同期の馬鹿が、後輩を潰してお持ち帰りしようとしてたんだよ。その子の教育係の私の前で、よくそんな真似が出来たよね~? こういう甘いお酒って、スイスイいっちゃうから怖いよね。ジュース感覚で飲めちゃうからさ」

「うちにはそんな不埒な客はまず来ませんが、他のバーではたまに聞きますね。度数の高いお酒を飲ませる以外にも、相手が少しトイレに行った隙に薬を混ぜるとか」

「お酒に薬って、そんなのすぐバレちゃいそうだけど?」

「ええ。無色透明なお酒だったらまずバレます。睡眠薬は水気に振れると青く変色するんです。だから青いカクテルで誤魔化すのだとか。ですから、誰かの奢りで飲むときは青いお酒に気を付けてくださいね。はい、おかわりどうぞ」

 

カウンターに置いたグラスを雅は待ちきれないという勢いで手に取ったが、すぐに落ち着いて少しずつ飲み始めた。

 

「その後はその後で酔った上司にダル絡みされちゃってさー? やれ結婚はしないのかだの、男はいないのかだのね~。仕事は出来る人なんだよ? 尊敬もしてる。でもこう言う一面も見せられちゃうと、幻滅しちゃうよね~」

「お酒はその人自身も知らない暗部をも暴いてしまいますからね。ただ、仕事で尊敬しているのであれば、見なかったことにするのも手では? 何もカクテル片手に仕事しているという訳でもないでしょう」

「いや~、勿論分かってるよ? 一緒に仕事するなら、ある程度は割り切って考えるのも必要ってことぐらい。そりゃ勿論、伊達に社会人五年生って訳じゃありませんから。それでも表向きはいかにも良識ある大人ですよってふるまっている人が心の奥底ではそんな事を考えていると思うと、ちょっと気持ちが悪いと思っちゃうんだ」

 

潔癖なのかな? 私。雅はそう付け加えてまたスノーボールを一口飲んだ。静かにグラスを傾けてバーテンダーと頷き合ったり、独り言のようにぽつぽつ漏らす常連が多い中で、雅は珍しくお喋りな客だった。それが悪いという訳ではない。他に客がいるなら控えてもらうが、今は二人きりだ。

 

「だからイケメンで口なおしに来たってワケ。それで、樹くんはどう思う? 二十七歳彼氏無しの社会人は」

「どう思うも、今時そんな事を基準に人を判断したりはしませんよ。そんな時代じゃありませんから」

「君がどう思うかを知りたいんだけどな~?」

 

そういって彼女はタンブラーを振って中の氷をからころ鳴らした。中身はまだ半分残っていた。バーテンダーとして一杯を客に出したなら、グラスが空になるまでは相手をする義務がある……と言うのはマスターの受け売りだ。カクテルの値段に含まれているのは、何も酒の原価だけと言う訳ではない。

 

「僕が休みの日に何をしていると思います? マスターと一緒に買出しに駆り出されているか、家でカクテル作りの練習をしているかのどちらかです」

「それって休日って言えるの~? 仕事してんじゃん」

「彼女がいない男なんてそんな物です。それに休むと腕が鈍りますから。特に不満はありませんし、むしろ楽しんでますよ」

 

二杯目のスノーボールは長く持った。こうして会話のラリーが数往復続く程度には。空になったグラスを洗い場に置く。

 

「もう一杯頂戴。大きいサイズで。それと、結局どう思うのか聞かせてよ」

 

しかし雅はまだ満足していない様子で、お代わりをご所望だった。空いたグラスがまた酒と義務で満たされる。出来る事ならこのままのらりくらりとかわし、とっとと潰してしまいたいが、彼女の肝臓が鋼鉄製だという事は樹も良く分かっている。どうしてこう、よりにもよって男女の話題なのだ。他の話ならばいくらでも相手が出来るのに……。

 

「恋人に限った話ではありませんが、近くに親しい人がいるのは悪い物ではないと思います」

「というと?」

「樹さんは休日もお化粧をしますか?」

「勿論バッチリ決めてるよ~? ……ウソウソ、外に出ない休みの日なんて目元描いて終わり。服装も適当に羽織っておしまい。パジャマのままの日もあるね」

「僕も一緒ですよ。髪も縛りませんし、服装も適当。家で引きこもってお酒造りの勉強をする時はそんな物です。ただ、これが誰かと一緒に過ごしたり何処かに出かけたりとなるとまた違ってくる」

 

新しいタンブラーを出し氷を入れ、先程と同じ材料を入れる。今度は酒を多めにして。

 

「面倒でも相手に恥を欠かせないよう見た目を整え、興味の無い場所でも相手の遊びに付き合う。苦痛に感じる時も勿論あるでしょう。だがそうして見た目を整えれば自信も付き、遊びに付き合えば新たな発見もある」

 

マドラーで音を立てないようステアし、コースターの上にグラスを置く。

 

「休みの日、仕事の疲れが残っていてまだ眠っていたいのに、布団を剥いで無理矢理にでも何処かに連れ出してくれる人がいるのは、まったく良い物です」

 

雅はグラスを手に取り、口を付けた。だがその細められた視線は波打つ酒の水面ではなく、樹の瞳に向けられていた。しまった、話し過ぎた。己の行いを恥じ下唇を噛むが、既に紡いでしまった言葉を口の中に吸い込むことも出来ない。もっと相槌を打つだけの壁に徹するべきだった。一体自分の言葉に何の価値があるというのだ。何を偉そうに語っている。

 

「……やっぱ良いね。樹くんは」

「……はい?」

「枯れてないみたいで安心したよ~。これで恋愛なんて興味がありませ~んなんて年下のコに言われたら、お姉さん恥ずかしくなっちゃうからさ~」

 

幸い、語り過ぎた言葉は彼女の機嫌を損ねずに済んだようだった……その逆のようにも見えた。雅は鼻歌交じりに酒を進めながら、アルコールが回って蕩けた上目遣いで樹の事を見据えている。

 

「ねえ、例えばこんな子は好き? 休みの日に恋人を朝早くからたたき起こしてきてあちこち連れ回した後、夜も更けてから古びたバーで一緒にゆっくりお酒を飲む……年上のお姉さんは」

 

少し暑いと独り言のように呟きながら、雅はスーツのジャケットを脱いだ。ワイシャツに抑えつけられた双丘は、今にもボタンを弾き飛ばしてまろび出てしまうのではないかと思える程、豊かに実り張りつめている。気が付けばあっという間に空になっていたグラスを彼女はカウンターに戻して、何がおかしいのか口元を綻ばせてへらへらと笑っていた。

 

目の毒だ。反射的に目を伏せる。彼女の言動の意図をまるで理解できない朴念仁だったらどれほど楽だったろうか。だが人間二十四年も生きていれば、人が暗に伝えようとしている事など少しは読み取れるようになる。例えそれがまともな社会から夜闇に逃げ、引きこもり続けた小僧でもだ。

 

「ねえ、どうかな〜? これでもお金は持ってる方だよ?」

 

雅の言葉が見栄でも何でもない、ただの事実であることは樹も良く分かっていた。週に何度もバーに通い詰め、高級店レベルではないにしろ決して安くはないカクテルを何杯も飲む。そんな生活を送れる程の安定した収入がある。

 

「自分で言うのも何だけどさ、私、顔も悪くはないと思うんだよね? 体は、その……若いコと比べるとお肉ついちゃってるけど……」

 

……だからと言って、人生の半分を預ける気にはならない。雅がこうして樹を相手に好き放題していられるのは、客とバーテンダーの関係に過ぎないからだ。酒場というある種の密室を出れば、また他人同士に戻れるからだ。

 

しかして、もしこれ以上彼女と近しい関係になれば、今のように裏表無く話し合う関係では無くなるだろう。それこそ面倒でも相手に恥を欠かせないよう見た目を整え、興味の無い場所でも相手の遊びに付き合うような、互いに本心を覆い隠すような仲になる。友人や恋人は良いものだ。それは全くもって良く知っている。だが、もう一度欲しいとは思わないし、作ってはいけない。

 

「さっきまでのおしゃべりさんは何処に行っちゃったの〜?」

 

沈黙を少しでも誤魔化すため、空になったグラスを洗おうとカウンターに伸ばした手を、雅にするりと掴まれた。殆ど反射的に振り解こうとしてしまったが、絡め取られた腕は殆ど動かない。

 

「……雅さん?」

「どうかな〜って聞いてるじゃん? 私、最近年下もアリだなって思ってるんだよね?」

「飲み過ぎですよ」

「あは〜? そりゃ確かにそりゃシラフじゃないよ? でも酔った勢いの戯言扱いされるのはちょっと傷ついちゃうな〜」

 

今度は指を絡められ恋人繋ぎのようにされてしまった。へらついていた雅の口元からはいつのまにか笑いが失せており、ただ真っ直ぐに樹の事を見据えている。鼻歌もいつの間にか聞こえなくなっていた。

 

「……冗談や軽口で、こんな事言う訳ないでしょ」

 

お仕置き、そう言って彼女は樹の手の甲に口付けをした。狙いを定めるように一度唇を落とし、リップが付いた所にもう一度。今度は軽く吸い付くように。

 

そうして出来た作品に満足したのか、雅は手を離して頬杖を付き、またにへらと笑った。だが細められた目の奥底は、未だ樹の事を捉えて離さなかった。

 

「じゃ、私帰るね〜 答えはまた今度聞かせて〜?」

 

そう言って雅は財布から万札をカウンターに一枚置き、バーから去っていった。しばらく呆然と立ち尽くしていた樹だったが、やがて次の客が来るまでに店を整えておこうと不意に思い、彼女の温もりが未だ残るグラスを洗い始めた。だが、本当に洗い流したかったのはまた別の物だったのかも知れない。

 

幸いリップは直ぐに流水で落ちたが、手の甲に残った唇の感触はしばらく離れて行ってはくれなかった。

 

 

◇◇

 

 

「起きろ、樹。休日だ。付き合え」

 

夜勤明けの休日。合鍵を使って自宅のアパートに乗り込んできた上司に布団を剥ぎ取られ、無理矢理叩き起こされた月宮樹は、霞がかった意識の中でブラックコーヒーを啜っていた。喫茶店「つばめ」は今時珍しい全席喫煙可の店で、都条例の改正により行き場を失ったヘビースモーカーの溜まり場になっている。レトロな雰囲気の店内にはあちこちから紫煙が立ち上り、コーヒーや紅茶の匂いと混ざりあって何とも形容しがたい香りが漂っている。

 

「何だ、まだ眠いのか。もう十一時だぞ」

 

眠気の元凶はそう語りかけて来る。ショートホープの灰を指で落としながら、囁くようなハスキーな声で。

 

「十九時から翌日の三時まで仕事。家に帰って寝るのは四時半。そんな昼夜逆転生活を三年続けてる人間にとっては、十一時は充分早朝ですよ」

「私より一回り若い癖して何を言う」

 

宝条晶は「ホワイトナイト」のマスターだがバーコートを着ていない時は何処かのバンドマンにしか見えない風貌をしていて、とても客商売をしているようには見えない。黒いキャミソールの上にジャケットを引っかけるようにして羽織り、ダメージの入ったデニムパンツからは惜しげもなく生脚を晒している。

 

「一息ついたら買い出しだ。それまでに頭をたたき起こしておけ」

 

換気のために開けられた窓から風が入り、ウルフカットの黒髪を揺らして店内を通り抜けていった。何だマスター、またインナーカラーを変えたのか。先月は暗めの赤だったはずだが、今度は青か。ウッディ系の香水の匂いが煙と一緒に風に乗って、鼻をくすぐる。

 

「……いつか労働基準法違反で訴えてやる」

 

樹が彼女の下で働いてから三年になるが、未だまともな休日を与えられた事はない。休みの日だろうと勝手に作った合鍵を使って上がり込んではこうして人を連れ回すか、枕元で煙草をふかしては飯を作れだの酒を作れだの好き放題言うかのどちらかだった。

 

「通勤で睡眠時間が削られているなら、私の家に来るか? お前の家よりは幾らかバーに近いだろ」

「二十四時間三百六十五日仕事させるつもりですか?」

「家賃の節約にもなるぞ」

「無駄と必要経費を履き違えています」

 

自己中心的で無茶苦茶な言動が目立つ晶だが樹の恩人である事は確かだし、幾ら古い建物とは言え都ビルの一室を買い上げ、経営しているバーを六年近く持たせているのもまた事実だ。こうして私生活を脅かすのが趣味だろうと、軽い愚痴を吐けば流せる程度には尊敬している。

 

ところで晶は自分の店を持つまでの何年かの間他のバーで腕を磨いたらしく、そこに「ホワイトナイト」を開いてからの年数を足してみると最低でも三十路には入っているはずだ。

 

張りのある肌や露出度の高い服装、夜勤明けに部下を遊びに連れ出せる体力と良い、にわかには信じがたいがそうでなければ計算が合わない。愛飲しているジャック・ダニエルに老化を防ぐ効果でもあるのだろうか? ともあれ、あの「常連」と同じか、それ以上に謎の多い人物なのだ。

 

ふと、あの日手の甲に落とされた唇の感触を思い出した。不意に手を絡め取られて付けられたキスマーク。リップは水に流れて直ぐに消えていったが、虫刺されのような赤い跡はその夜ずっと消える事は無かった。そして柔らかく吸い付いてきた口付けの感触は未だ樹の中に残っていて、時折彼女の甘い香りと共に蘇る。化粧と香水、飲みかけのカクテルが混ざり合った、やけに甘ったるい香りだ。

 

答えはまた今度聞かせて。時限爆弾のような雅の言葉を思い出す。タイマーは金曜に始まり、土日を挟んで週明け月曜を迎え、定休日の火曜日になったが未だ爆発せず樹の手元にあった。あの日以来、彼女は店に来ていないのである。他の常連と比べてはるかに気まぐれな事は良く知っていたが、こうも焦らされては心が落ち着かない。

 

「……樹?」

 

本当ならばこんな爆弾さっさと投げ捨ててしまいたいが、何も手を付けずに突き返そうものなら辺り一面を吹き飛ばす事に容易に想像がついた。慎重に解体しなければならないが、どのコードから手をつければ良いのか分からないのである。

 

「樹?」

 

ここで厄介なのは樹は決して雅の事を嫌っている訳では無く、その自由奔放な姿に控えめながらも好意を持っていると言う事だ。だがそれはあくまで、バーテンダーと客という互いに一歩引いた関係から産まれた物に過ぎないのである。それを彼女は今、踏み越えようとしている。

 

「おい、樹? 大丈夫か?」

 

晶に肩を揺さぶられ、沈みかけていた意識が現実へと引き戻された。鼻にこびりついていた甘ったるい匂いは、煙草の紫煙に上書きされて消えて行く。

 

「……すみません、考え事をしていました」

「もしかして睡眠不足か? その、体調悪いのに連れ出して悪かったよ。もう帰るか?」

「大丈夫、大丈夫ですから」

 

カップに注がれたコーヒーはとうに冷めていたが、わざわざ店員を呼んでまで熱いのが欲しいという訳でも無かった。残りを胃の中に捨てるようにして流し込む。あまりの苦さに反射的に額を抑えると、汗でじっとりと濡れていた。

 

「長年客と顔突き合わせる仕事をしているとな、相手が何を求めているのか嫌でも分かるようになる。どうだ、少しは分かるようになって来ただろ?」

「ええ、まあ。多少は」

「とまあ、そういう訳だから、隠すのは諦めてさっさと吐き出せ。樹、お前はあまりにも分かりやす過ぎる」

「……すみません」

「何で謝るんだ? 表向きは愛想を振り撒きながらも、腹の底では何考えているか分からないやつより、はるかに可愛げがあるってもんだ」

「いえ、気を使わせてしまった事は確かですから」

 

晶は心底信じられない物を見たという顔をした後、鼻で笑って短くなった煙草を灰皿に捨てた。

 

「部下の気を遣うのも仕事の内だ。それで? 聞かせてみろ」

「ありがとうございます……異性の友人がいる。いると、しましょうか。僕は彼女の事が嫌いじゃありません。ですがそれはあくまで友人としてであっての話です」

「へえ?」

「しかし、相手はそれ以上の関係を求めている。その気持ちは出来れば大切にしたいけれど、どう受け止めれば良いのかと言う感じです」

「……思ったより七面倒な悩みだな」晶はジャケットから煙草の箱を取り出すと、最後の一本を口に加えた。「仕事の悩みとかなら楽で良かったんだが」

 

「男女の友情は成立しうる。だがそれは非常に脆いものだ。どちらかが相手を異性としてみた時、その関係は零か百かのどちらかになる。消えるか、続くかだ。昔組んでたバンドも始めは仲睦まじかったけど、最後はセックスで解散したよ」

「私服がそれっぽいとは思っていましたが、結局何をしていたんです?」

「キーボードだ。ピアノをやってたからな。バンドをやって学んだ事と言えば、ライブハウスとスタジオ代は学生身分にはそこそこ重いって事と、ベースとボーカルはクソだという事だ」

「……前々から気になっていたんですけど、晶さんって一体いくつなんです?」

「永遠の十七歳だ」

「十七足すいくつなんです?」

「十七足すそんなに気になるなら入籍して確かめてみろ歳だ」

 

箱マッチを片手で回しながら、晶は務めて平坦にそう言った。切れ長の目が細められる。次の瞬間、樹は不意打ち気味に煙を吹きかけられ、酷くむせそうになった。三年も付き合っている内に匂いにはもう慣れたが、どうも煙だけは苦手なままだった。

 

「私の事はどうだって良い。話を戻すぞ。ともかくそう言う目で見られたなら、どちらかを選べ。これからも仲良くお友達でいましょうってのは、相手の思いを踏みにじった勝手なモノだ」

「……それでも僕は、今のままでいたいですよ」

「そんな事を聞く時点で、答えはもう決まっているんだろ? ただ、最後に一つだけ教えてやる。そうして拒絶する方を選ぶのなら、その友人とやらはもう二度とお前の元には現れない事も覚悟しておけ」

 

言葉一つ一つが楔となって心を貫く。晶の言う通り樹の中で答えはもう決まっていのだ。恐らく、問われたその瞬間にはもう既に。ただ、その場で口に出す勇気が無かっただけだ。

 

彼女が……雅が客として二度と来なくなることが、ただひたすらに恐ろしくて逃げたのだ。

 

重い木のドアが開き、スーツ姿の男女ペアが入って来た。入り口近くの席だったから、床材が軋む音まで聞こえた。白髪を綺麗な七三分けにした壮年の男性と、眼鏡をかけた茶髪の若い女性だ。いかにも仕事の出来るビジネスマンといった姿、上司と部下だろうか? いずれにせよ、こんな煙草の匂いが服に移りそうな場所に会社勤めが来るとは珍しい——

 

「……雅さん?」

 

反射的にそう口に出してしまったのは、確信が持てなかったからだ。今店に入って来たスーツ姿の知的そうな女性が、普段自分の前で飲んだくれている常連と同一人物だとはにわかには信じがたかったが、他人の空似と言うには服装も髪色も何もかもが一致し過ぎている。

 

九割九分の疑念を十割の確信にするために出来る事なら声をかけたかったが、僅かに残った理性がその衝動を押さえ込んだ。相手は仕事中だぞ。邪魔をしてどうする。それに、こんな男と関わりがあると勤め先の人間に知られたら、彼女にどんな不利益があるか分かった物じゃない。

 

樹には自覚が無かったが、側から見れば殆ど凝視に近かったのだろう。やがて彼女も視線に気がついたようで、眼鏡のレンズ越しに目が合った。

 

彼女は唇に人差し指を一本当てると——その時、店内に立ち込めるコーヒーと煙を掻い潜って鼻をくすぐった香水の甘い匂いで、彼女が雅だと言う確信が持てた——あの夜、樹の手の甲に口付けをした時のような笑みを浮かべた。

 

それは本当に短い間の出来事だった。次にまばたきをした時、雅は樹から視線を逸らして、上司と思わしき男と話をしていた。笑ってこそいたが、それは社会人が相手の警戒を説くためにするような微笑に過ぎなかった。場末のバーで店員に絡む酔っ払いが作るにしては真面目な表情で、それが酷く不気味に思えた。

 

「……今のが件の友人か?」

「ええ」樹は片手で眉間を押さえて息を吐いた。「今、ふんきりがつきました」

 

一体何を勘違いしていたと言うのだろう。そもそも樹と雅は済む世界が最初から違う。輪郭が曖昧になる夜闇の中で、人生がほんの一瞬重なり合ったにすぎないのだ。彼女が見せた僅かな一面で全てを知った気になっていたが、こうして日の光の下に戻ってみると、自分がいかに何も見ていなかったのかを思い知らされ嫌になる。

 

「その割には悲しそうじゃないか?」

「甘いお酒が大好きな、少し様子がおかしい人だと思っていました。でもそんな人も、昼間は真っ当に働いているんですよね。僕達とちがって。その当たり前の事実を再度認識しただけです」

「……人肌が恋しくなったら言え、慰めてやるぐらいは出来る」

「年頃の男を勘違いさせないでください……本気にしますよ」

「一回り年下の相手をタダ出来るなら役得も良い所だがな。どれ、口開けろ」

 

促されるままに、口を少しだけ開く。その次の瞬間、晶は手に持っていた吸いかけの煙草をくるりと半回転させ、オレンジ色のフィルター部分を樹の唇に押し込み咥えさせた。あまりに唐突な事だったので、酷くむせてしまう。他の客が冷ややかな眼差しを向けて来る。

 

「急に何させるんですか!?」

「禁煙中か?」

「そもそも吸いませんよ……」

「じゃあこれが記念すべき一本目だな。喜べ、私が誰かに煙草をタダでやる事は少ないんだ」

「タダって、晶さんの吸いかけじゃないですか」

「口の中に煙を留めるな。肺に落とせ」

 

始めて吸った煙草の味は酷い物で、呼吸するたびに苦いタールと煙の味が口一杯に広がって吐き出しそうになった。晶が普段から吸っている銘柄は煙草の中でも相当にきついもので、喫煙初心者が手を出すものではないらしい。そうしている内に吸いかけの煙草は徐々に灰と化して短くなっていき、やがてフィルターまであと数センチの所で樹の唇から引き抜かれた。

 

「ほら、落ち着いただろ」

「どっちかと言うとびっくりしましたよ。苦いし煙たいし、酷い気分でした……何に悩んでたか忘れるぐらい」

「これで吸えるようになったんだし、次からは付き合えよ」

 

晶の勝手な物言いに半ば呆れながらも、そんな無茶苦茶な上司から貰ったおさがりの腕時計に視線を落とす。十一時四十五分。買出し先の酒屋に向かうにはまだ余裕があったが、コーヒー一杯で粘るには店に申し訳ないのでケーキセットを二人分注文する事にした。

 

「人の金だと思いやがって」

「自分の分ぐらい払いますよ。それだけの給料は頂いていますから」

「いや、別にいい。お前が頼まなきゃ私が頼んでた」

「では、ありがたくご馳走になります」

 

それから四十分後、会計の時になって晶が財布を家に忘れたことが判明し、結局樹が全額支払う事になった。

 

◇◇

 

休み明けの水曜日。その日は珍しく客足が途切れない日で、五つしかない「ホワイトナイト」のカウンター席は常に一杯だった。

 

マスコミは嫌いだとメディアの取材は断る晶だが、時たま一部の若い客がいいね目当てで店内の様子をSNSにあげるせいで、突発的に店が混むと言う事は以前にもあり、今回も例に漏れず著名なインフルエンサーの投稿から火がついたようだった。

 

「私の休憩時間を潰したことは高く付くぞ」

「普段から人の休日を潰しておいて……!」

 

普段は晶と交代しながらワンオペで店を回している樹だったが、あまりにも客が多く一人ではどうしようもなかったので、バックヤードで仮眠を取っていた彼女を叩き起こしバーコートに着替えさせて今に至る。

 

SNSでの拡散故の混雑らしく、カウンターに座る客は普段から通っている常連達よりも遥かに若く、中には樹と同い年かそれ以下の者もいた。

 

そういう若い客はレトロなレコードプレイヤーだの鮮やかなカクテルだの店内の一つ一つが目新しいらしく、ありとあらゆるものにスマートフォンのレンズを向けるせいで、普段は心落ち着くジャズにも常にシャッター音がノイズとして混ざった。

 

「写真を撮ってもいいですかぐらい聞けないのか……」

 

晶が小声でそう毒付く。カメラレンズが自分に向いた時、彼女は露骨に嫌そうな顔をして始めの方が客を睨んだり注意していたが、それでも隠し撮りしようとする奴が居なくならないので諦めたらしく、ただ淡々と客の注文を取ってはカクテルを作るだけの機械になっていた。

 

「……おいそこの、こいつを撮っていいとは一言も言ってないぞ」

「別に僕は気にしませんよ」

「私が気にするんだよ」

 

血の気の多いマスターをどうにか抑えながらも店を回し、ようやく店が落ち着いた時には午前一時を回っていた。晶は二人で並ぶには手狭なカウンターから客席に移ると、ショットグラスにウィスキーを入れ一息で煽った。

 

「あいつら、二度と来ないといいな」

「どうでしょうね。二割ぐらいはまた来るかもしれませんよ? 始めははしゃいでいただけの客も、カクテルを飲んだ瞬間に目の色を変えてましたから」

「おいおい……追っかけは今更もういらないぞ」

 

その時、からころとドアベルが鳴った。

 

「今日は閉店だよ」

「勝手に閉めないでください。あと一時間はありますよ。万が一常連だったらどうするんですか——」

 

その客はふらふらと千鳥足で店内を歩き、晶の横に座ると机の上に突っ伏して寝息を建て始めた。よほど酔っぱらっているらしく、酒の匂いがカウンターに立っていながらも漂ってくる。声をかけても起きる様子はなく、ぶつぶつと意味をなさない言葉の羅列を繰り返している。

 

「常連だな」

「常連です、ね。タクシーを呼びます」

「一杯も飲んで無い奴にそんな事をしてやる義理は無いんだがな……私が送るよ」

「彼女の家を知らないでしょう。僕が行きます」

「……そうか。じゃあ、今日は直帰で良いぞ。店の片付けは私がしておく」

 

雅だ。彼女がこんな風に既に酔っぱらった状態でここに来るのはよくある事なのだが、こんな風に言葉も交わさず眠ってしまうのは殆ど無かった……それこそ、半年前始めて出会った時以来記憶に無い。確かあの日もこんな風に、顔を赤くして潰れてしまっていたはずだ。

 

「お体失礼します。帰りますよ、雅さん」

 

いくら眠らない街と言えど、この時間帯のタクシー運転手は流石に暇を持て余しているらしく、電話をかけてから十分もせずに店前に着いたと連絡がきた。酔っ払いを車内に押し込み、彼女の住むマンションの住所を伝える。雅の家はバーからさほど離れておらず、少しうたた寝をしている間には到着していた。料金を支払い、領収書を出してもらう。

 

雅に肩を貸しながらエレベーターに乗り、四階へ。表札に「紺野」と書かれた部屋、四〇三号室の前で立ち止まって彼女を起こす。

 

「鍵はどこですか?」

「うんにゃあ?」

「鍵です。鍵を出してください」

「ん~。上着のポケットぉ~」

「失礼します」

「や~ん。えっち~」

 

酔っ払いの絡みを無視しながらマンションのドアを開け、リビングへ。部屋の中は以前来た時よりも随分と片付いていて、まるで不動産屋の内見に来たような気分になったが、すぐに部屋の一つを物置代わりに色々詰め込んでいるだけだと気が付いた。閉じ切っていないドアの隙間から、荒れ放題の部屋の様子が目に入る。急な来客がある時にする誤魔化し方だ。

 

未だ夢の中にいる雅をリビングのソファに座らせた時、ふと、違和感に気が付いた。何故一人暮らしだというのに、彼女は部屋を片付けていたのだろうか。以前にもこうして潰れた彼女を家まで送り届けたことはあるが、綺麗好きだとはお世辞にも言えない有様だった。そんな彼女が、形だけとはいえど家を整えている。まるで、何者かの来客を予期していたかのように。

 

「……この前の答え、聞かせて欲しいな?」

 

頭に芽生えた疑念は、囁き声に搔き消されてしまった。熟睡していたと思っていた雅だったが、いつの間にかうっすらと目を開いて樹の事を見据えていた。微妙に呂律が回っていなかった話し方も、しっかりとしたものに変わっていた。

 

「答え、ですか」

「そう。素面じゃ無理ならお酒でも用意しようか。誰かさんのおかげで、家で飲むのも好きになったんだ~」

「もしよければ何か作りましょうか?」

「いいよ~。時間外労働させるのも、あれだしね」

 

そう言って雅はソファから腰を上げた。おぼつかない足取りで店に入って来た事を思い出し反射的に支えようとしたが、彼女は特にふらつく様子もなくキッチンに向かっていった。差し伸べた手が空を切る。

 

「始めて私が店に来た時の事、覚えている?」

「……ええ」

「今思うと本当にみっともなかったよね~? ベロベロに酔っぱらってぎゃんぎゃん泣きわめいちゃってさ。コツコツ進めて来たプロジェクトがお流れになったぐらいで、何を落ち込んでたんだか……」

「ぐらい、というのは落ち着いた今だからこそ言える事でしょう。それに悔しくて泣くほど真剣に仕事に向き合って来た人を、みっともないとは思いませんよ」

「そうそう、あの時も似たような事を言って慰めてくれたよね~。それからは仕事で行き詰った時にふらっと寄るようになって……その内、何でもない日にも飲みに行くようになってさ、楽しかったよ。でもね、ある日こう思っちゃったんだ~?」

 

シェイカーを振る音が聞こえた後、雅がシャンパングラスを両手に持ってキッチンから戻って来た。澄み切った青い酒に、チェリーとオレンジが飾られたカクテル。受け取って匂いを嗅いでみると、アルコールに混じってレモンジュースの香りが僅かにした。きっとこれはブルー・ラグーン。パリのバーテンダーが作ったウォッカベースのカクテルだ。

 

「樹くんはお客さん達の悩みを聞いているけど、樹くんの悩みは誰が聞いてくれるの?」

 

そう言って雅はにこりと笑みを浮かべた。バーで酔っ払った時にするような緩み切った物ではなく、休日で喫茶店で見た社会人としての微笑だった。ああ、これが普段の彼女の姿なのか。住む世界がそもそも違う事をまた認識し、胸が痛む。

 

「お客さんがぽろりと溢す悩みを聞く事もまた、バーテンダーの仕事の内です」

「うん、そうだね。だから今夜は私がバーテンダーになってあげる。樹くんって口数は多いけど、一体どんな人生を送ってきたのかまるで分からないもの……わざと隠してるみたい」

「語るような物でもないですよ」

「私にとっては違うかも? ささ、飲んでみてよ。ソファ座ってさ。そりゃ本職の人と比べたら微妙かもしれないけど、頑張って作ったんだよ?」

 

促されるままに青く澄んだカクテルを一口飲む。冷たい酒の味。遅れてレモンの香りがやってくる。スライスされたオレンジが厚すぎるだの、シェイクが上手く出来てないせいで味にムラがあるだの、バーテンダーとして指摘出来る点は幾らでもあった。だが、他人が自分のためだけに作ってくれた一杯だと思うと、樹にとってこれ以上贅沢な酒は存在し得なかった。

 

カクテルは度数が高い物ばかりだ。一口も飲めばすぐに舌が軽くなる。一度読めば題名すら忘れられるような、三文小説のようなつまらない人生も恥ずかしげもなく語れるぐらいに……物語の終着点はとっくに決まっている。後はどう繋げていくかだ。

 

「……大学生だった頃、付き合っていた彼女がいました」

「うん」

「彼女とはたまたま履修科目が被っていて、講習開始ギリギリで滑り込んだ時に空いている席が、たまたま彼女の隣でした。それが出会いです」

「へえ?」

「本当に興味あります?」

「ああ、ごめんごめん〜。私って人の話を集中して聞く時、相槌打つのが急に下手になるんだよね〜」

 

カクテルをもう一口飲み、足の低いリビングのテーブル上に置く。これは麻酔だ。アルコールで脳の作用を鈍らせ、古傷を抉る痛みに耐えるための物だ。

 

「始めの内は本人の事よりも、彼女がまとめていたノートの方が目当てでした。レポート課題で内容の半分も書き写せば、Bマイナスぐらい楽に取れましたからね。今思うと、そんな理由で彼女に近づいた自分が許せませんが」

「それって悪い事なの?」

「はい?」

「人が人を評価したり好きになるのって、結局その人の能力じゃない?

「……彼女を道具みたいに見た昔の自分が、今では許せないって話です」

雅は肩をすくめ、自分のカクテルを一口分進めた。「真面目さんだね〜」

 

「ノートのコピーを貰う度、学食を奢っていました。彼女は別にいいよと言っていましたが、僕が罪悪感を覚えないようにするために勝手にやっていた事でした。以来、学食でたまたま一人でいる所を見かけたら、向かい側に座るようになりました」

「……どんな話をしていたの?」

「別に何も話していませんでしたよ。始めの内は。無言で互いに食事をしていただけです。ただ、無駄な時間だとは思いませんでした」

 

封じたつもりの思い出が、鈍い痛みと共に蘇る。

 

「それからしばらくして、同じ授業を履修している学生同士での飲み会があったんです。彼女、お酒は慣れていないらしいのに、その場の雰囲気に飲み込まれたのか、無茶な飲み方をしたんです。そんな彼女を、僕は何もせずに家まで送り届けました。後から知ったんですが、酒に酔わせてお持ち帰りを狙ってる同級生がわざと強いお酒を飲ませたそうです」

「でも樹くんは手を出さなかった訳だ。紳士だね」

「別にそんなつもりはありません。ただ、彼女に何かあれば僕が困るってだけです」

「それでもやった行動は立派だと思うよ」

「それが彼女を勘違いさせてしまう結果になったとしても?」

 

グラスの中身はあと半分。物語もそろそろ折り返し地点。

 

「その内彼女は、ノートを貸すだけでなく僕に直接勉強を教えるようになりました。酷く退屈な時間でしたが、課題や試験の評価は確かに上がりました。少しすると僕を遊びに誘うようになりました。彼女は美術館を巡るのが好きでした。古くてひび割れた絵の何が良いのかさっぱりわかりませんでしたが、彼女が楽しそうにしているのを見るのは嫌いじゃありませんでした。彼女の話に合わせるために、大学の図書館で絵画の本を借りるようになりました」

「続けて?」

「横に並んで彼女の趣味に付き合っている内に、知的で思慮深い所が、好きな物に対して真摯に向き合う姿が、時折見せる不器用な笑顔が好きになりました。なってしまいました。これまで築き上げた関係が全て無くなってしまっても、この気持ちが伝える事が出来ればそれで良いと思えるぐらい……今思えば、この時に振られていれば良かったんです」

「でも、付き合えちゃった訳だ。振られていれば良かったとは言うけど、無理だと思うよ? まるで興味が無い事でも付き合ってくれる上に、少しでも歩み寄ろうと勉強してくれる人なんて、私だったら絶対に手放さないもん。でも、今はその彼女さんとの縁は切れちゃってる……って事は、樹くんから振ったってことなのかな? それで、どう終わっちゃったの?」

 

そんなことまで聞くのかと樹は手元のカクテルから視線を上げたが、自分の事を見つめ返してくる雅の顔からはいつの間にか笑みが消えており、無言の圧を彼にかけていた。バーテンダーと客。このロールプレイは、彼女を満足させるまで終わらないのだろう。

 

「大学三年生、就活の時期です。試験やレポートは彼女の力をいくらでも借りられましたが、これだけは自分の力だけで進めなきゃいけませんでした。ただ、主体性もなく彼女の後をふらふらついていっただけの男を、欲しがる場所はどこにもありませんでした。その時、彼女が大手メーカーの内定を得て——」

 

樹は空になったグラスを静かに置くと、両手で顔を押さえて息を吐いた。

 

「……口でこそおめでとうと言えましたが、心の底から喜ぶ事は出来ませんでした。それから半月後に、彼女に別れ話を告げました。僕は君とは釣り合わないから、もっといい人を探してくれと。でも本当は彼女の事なんで微塵も考えていませんでした。ただ僕が勝手に劣等感を感じて去っていっただけです」

 

……あまりにも早いペースで飲み過ぎた。悪い方向に酔いが回って頭がくらくらし始め、心拍数が上がり呼吸が荒くなる。ここが自宅なら今すぐにベッドにダイブしている所だが、まだ雅に答えを伝えていない。それまでは意識を保ち続けなければ。

 

「雅さん。僕はあなたとは付き合えません。あなたは積み重ね続けて来た大人ですが、僕はただ流され続けて来ただけです。そもそも住む世界が違うんですよ。あなたは日の当たる場所で、幸せを探してください」

「そっか」

隣で座っていた雅が、空になったグラスを片手に立ち上がる。樹は黙って腹の上で組んだ手の指を見ていた。彼女の事を直視できなかった。今、どんな表情をしているか見たくなかったからだ。

 

「……そんなつまんない理由で、大人の女が諦める訳ないでしょ?」

 

突然天地がひっくり返った。背中を強く打ち付け痛みに呻く。床に突き飛ばされたのだと理解するのに、アルコールで鈍った脳でも時間はかからなかった。状況を認識する前にどうにか立ち上がろうとするが、手足が全く動かない。まるで頭と首から下の神経が切断されてしまったかのようだ。

 

「雅さ、ん……一体、何を……」

「青いお酒は混ぜ物されてるかもしれないから気をつけろねぇ……教えてくれた樹くんが守れてないじゃ~ん?」

 

床に倒れた樹に覆いかぶさるようにして、雅が馬乗りになってくる。訳の分からないまま両頬に手を添えられ、唯一自由に動く首すらも固定されてしまい、視線を逸らす事すら出来なくなる。彼女の口ぶりから察するに、勧められたカクテルに何か薬でも混じっていたのだろう。急速に思考を塗りつぶし始めた。眠気のせいで呂律が上手く回らない。

 

「樹くんは凄いね~? 仕事とは言え、お客さんの面白くもない話をいっつも聞いているんでしょ~? 私なら耐えられないな~……口を開けば、いきなり元カノさんとの惚気話だもん。嫉妬で頭おかしくなるよ。いきなり押し倒さず、最後まで聞いて上げただけ優しいと思わない?」

 

力の入らない上半身を抱き寄せられ、強引にキスをされる。吐き気を催すほど甘ったるい、貪るような口付けだ。吸い付くように何度も唇を重ねられ、その度にストロベリーのリップが唇に移っていった。今までの人生を全て塗り潰されてしまうのではないかと錯覚する程、強烈で一方的な行為を前に、樹はただ目を見開いて体を震わせる事しか出来なかった。

 

やがて重なり合う唇の感触が一つに溶け合い、どちらがどちらの物かも分からなくなった所に、雅の舌が侵入してきた。酒の味がする唾液を流し込まれてむせそうになったが、上半身に腕を回されて支えられているせいで顔を逸らす事すらできない。ピンク色の筋肉の塊が口内を蹂躙しつくし、舌同士を絡めて弄ぶ。

 

「……煙草の味がする」

 

毒付くような呟きと共に、樹は床に放り投げられるようにして解放された。今度は頭を軽く打ったが、うめき声すら出なかった。金縛りにあったように、指先すら動かせなかった。

 

「まあ良いや。上書きすれば。おやすみ〜、樹く〜ん」

 

声が鼓膜の中で反響して薄れていく。暗闇へと落下を始めた意識の中で樹が最後に見たのは、光沢の無い目でこちらをじっと見据えて笑う雅の姿だった。

 

◇◇

 

「いらっしゃい……おいおい、酷いツラだな。ちょっと待ってろ。店の奢りで一杯出してやる」

「彼女と別れた、一週間前に別れてまだそんだけ荒れてるって事はよっぽど大事だったらしいな」

「もう一杯ぐらい飲ませてやりたいが、生憎もう閉店時間なんでな……奥のバックヤードなら少し休ませてやれるが、来るか?」

「……その、なんだ。お前が良いなら、慰めてやるぐらいは出来る」

「体を大事にしろだあ? そんな気が使えるなら女に恥かかせんな。私は年下の男とタダで遊べて、お前は失恋を忘れられる。それで良いだろ」

「ほら、ぐずぐずしてないで早く入れよ」

「んだよ……女の体ぐらい彼女の見てたんなら慣れてんだろ……あんまジロジロみんな」

「はあ? その年頃でやる事やってなかったのか? 慣れてそうな面だったから久しぶりに楽しめるかと思ったのに……」

「……服脱いで寝っ転がれ。どうせ何にも知らないだろ。今夜は私がしてやるから、一個一個覚えてけ」

「初めての奴相手にした事ないけど……出来るだけ、優しくしてやるよ。あ、キスはするなよ。それは付き合ってる奴だけにしろ」

 

◇◇

 

自分の呻き声で目を覚ます。樹はアルコールの過剰摂取のせいでシンバルが鳴り続ける頭を抑え、薄闇の中で目だけを動かした。知らない天井の壁紙、嗅いだ事のないシーツの柔軟剤の匂い。ここは一体どこなのだろうか? 曖昧な意識の中で思考をまとめようとするが、酷い頭痛のせいでそれも叶わない。

 

服装を確認すると、バーコートのままだった。どうやら仕事終わりにそのままベッドに直行したらしい。寝っ転がったら皺が出来てしまうのに、どうしてそんな事をしたのだろうか?

 

その時、足元から何やら粘っこい水音が聞こえてきた。下半身が生暖かくなる。まさかこの年になって失禁したのかと思い視線を下ろすと、何やら人影が樹の足元で蠢いている。

 

「……え?」

 

じゅるじゅると鳴り続ける卑猥な水音。そして足元の人影。その二つが脳内で結びつくまで、更に数秒を要した。女だ。女が樹のズボンを脱がして、露出した陰茎をアイスキャンディーのようにしゃぶっているのだ。

 

「あ、起きた〜。寝てただけなのに、樹くんのここ凄く固いよ〜? えっちな夢でも見てた〜?」

 

スーツを脱ぎ捨てた雅は黒レースのシースルーブラにオープンショーツと言った格好で、局部を隠すと言う本来の下着の用途をまるで果たせていなかった。豊かに実った双丘を抑え込む透けたブラの布地の下で、桜色の乳首がぷっくりと膨れてその姿を控えめに主張している。ショーツのクロッチに入ったスリットからは整えられた逆三角形の陰毛がはみ出て、成熟した女体特有の色気を醸し出していた。男の情欲を煽るためだけにデザインされたような下着だ。

 

「ん、ちゅっ、ぢゅっ……」

 

睾丸を片手で揉みながらもう片方の手の指で輪を作って竿を固定し、亀頭にキスの雨を降らしてくる。そうして唾液まみれになった陰茎の蒸れた臭いを、雅は時折すんすんと鼻を近づけて嗅ぎ、その度に恍惚とした表情を浮かべていた。

 

肉棒が半分ほど口内へと飲み込まれた時、樹は声にならない悲鳴をあげた。裏筋を舌でなぞられる度に先走りが鈴口から溢れ、今にも絶頂してしまいそうになる。竿全体を上顎の凸凹に擦り付けてぞりぞりと削り取るような、射精させることしか考えていないような乱暴なフェラだ。与えられる快楽こそ強烈な快楽に、一周回って吐き気すら覚える。

 

「雅さ、ん……や、やめ、て……」

「ん〜?」

 

懇願は聞き入れられず、行為はより過激になって行く。奥へ、奥へ、更に奥へ。壊れ物でも扱うような繊細な手つきで撫でまわされる陰嚢とは対照的に、男根への責めは更に強烈な物へとなっていく。痛むほど膨張しきった竿を根元まで飲み込まれ、収縮する喉奥に締め付けられる。頭を激しく上下させるたびにぐっぽぐっぽと異様な音が響き、口元から溢れた唾液が陰毛に落ちて雫を作る。

 

「なん……で、こんな……」

「ぷはっ……私だって無理矢理何てしたくなかったよ~? お酒のお薬も、もしもの時の保険だし? でも、あんなふざけた理由で告白断られたら……はいそうですかで、お家に返せる訳ないよね?」

 

暴力的で一方的な快楽から逃れようと樹は必死になって身をよじったが、下半身に両腕を絡められてホールドされているせいでそれも敵わず、ただ目を閉じて震えている事しか出来なかった。まぶたの裏の闇の中で、自分の体を貪る音が響く。

 

「おっぱいも使ってあげるね~? こう見えて、Fカップあるんだよ?」

 

雅は陰茎を手に取ると、いきり立つそれをブラジャーの隙間から入れて、自身の乳房で挟みこんだ。豊かに実った双丘を持ってしてもなお僅かにはみ出た鈴口に唾液を垂らし、汗ばんだ谷間に流し込んでいく。シルクのようなきめ細やかな柔肌が陰茎を包んで擦れ合い、湧き出る劣情をより一層駆り立てて行く。

 

ペニスを包む乳房は激しく上下に動きしごいてきたり、左右から押しつぶすように圧をかけたりしてきて、その度に雅の手の中で弾力性のあるマシュマロみたいに形を変える。染み一つない果実が垂れ流された先走りによって汚れていき、樹は襲われている側にも関わらず罪悪感を覚えていた。この人は、自分が狂わせてしまった。真っ当な世界に生きていたのに自分が闇へと引きずり込んでしまったのだ。

 

「もうイキそうなの? じゃあ、ここに出してね~」

 

そう言って雅はあんぐりと口を開けると、飛び出た亀頭を咥え込んだ。その強烈な吸いつきがとどめとなり、雅の口へ吐精してしまう。肉棒が震えて舌の上を暴れまわり、白濁をまき散らす。彼女は口元を押さえながら肉棒を吐き出すと、また口を開けてくちゃくちゃと音を立てながら精液を咀嚼する様子を樹に見せつけた。

 

「はい、あ〜ん」

 

雅は猫のように音も無く上半身まで登ってきたかと思うと、まだ精液が残っている口でキスをした。白濁が唾液と共に流し込まれ、その生臭さと苦味に、胃の内容物が全て逆流しそうになる。本来は愛を確かめ合う行為がこんなにおぞましい物に成り果てるなんて。今まで築き上げた価値観が、がらがらと音を立てて崩れて行く。

 

「げほっ……おえっ……」

「どう? ザーメン味のキスは? 煙草とどっちがマシかな?」

「何で、こんな事……」

「う〜ん、強いて言うなら嫉妬?」

 

今度は首筋を舐め上げられ、耳の中に舌を入れられた。ぐちゃぐちゃと破滅的な音が鼓膜に伝わり、脳の中を反響してまともな思考を壊しにかかる。

 

「この前、喫茶店で会ったよね? 休みの日はあんなふうに店長さんと過ごしてるんだ〜。もしかして私の告白を断ったの、それが理由? お付き合いでもしてるのかな〜?」

「違う、違います!」

「あ、そう? じゃあ質問変えるね? 樹くんって店長さんと、えっちした事ある?」

「それは……!」

「半分冗談のつもりだったんだけど、もしかして図星? あの店長さん、職場の部下を見る目じゃなかったからもしかしたらって思ったけど……そっかそっか」

 

直後、雅の張り手が樹の頬に炸裂した。音こそ凄まじい物だったが、所詮は女性の腕力の物。衝撃が軽く走った程度で痛みは殆どない。だが、知り合いに暴力を振るわれたと言う事実が彼の心を蝕む。

 

「……ねえ、初めて好きになった男が手垢だらけの、中古品クソビッチちゃんだったって、何の冗談?」

「ごめ、ん、なさい……」

「あは〜? それは何に対する謝罪? 別に樹くんは悪くないよね〜? 私が勝手に嫉妬してるだけだから。樹くんが彼女振った時と一緒だよ〜?」

 

雅は樹の上に馬乗りになると、未だ勃起している肉棒を己の秘部へと導いた。ぱっくりと開き女性器を露出させているオープンショーツの割れ目に、ひくつく亀頭を何度も擦り付けて行く。性的興奮により肥大した陰核がペニスにすり潰され、その度に彼女はその傷一つない女体を快楽に震わせた。

 

いきりたつ陰茎が膣口に当てがわれる。柔らかく蕩け切った粘膜が先端に口付けをする。亀頭が中に入るか入らないか、紙一重の所で陰唇を擦り上げる。少し肉棒を押し込んでは引き戻すのを繰り返す。

 

「みやび、さ、ん?」

「もう分かってるでしょ? 樹くんにはまともな幸せはつかめないって。だからさ、私が一生飼ってあげるよ〜。余計な事なんか考えないで、君は私の事だけ愛せば良いの。人間なんかやめちゃえば〜?」

「や、やめ……」

「私だって、本当はまともな恋愛がしたかったよ? でも、無理なんでしょ? 自分には釣り合わないと思ってるんでしょ? だから、樹くんにお似合いの一番酷い方法で、愛してあげるね♡」

 

ぶちぶちっ……

 

叩きつけるかのように腰が下ろされ、肉棒が雅の中へと飲み込まれていった。狭い膣内が内側から押し広げられていき、二人の陰部が隙間なく密着して行く。最奥で膜を張っていた純潔の証が引き裂かれ、濡れきった結合部に血が滲んだ。

 

「雅さ……それ……」

「あ〜、これ? バレちゃったか〜。気取ったお姉さんが実は始めてだなんて、カッコがつかないと思ったんだけどね〜?」

「そん、な……」

「ねえ、どんな気持ち? えっちもした事もない女に好き放題されて、どんな気持ち〜?」

 

跳ねるような乱暴な腰振りが始まり、ぶつかり合う肉の淫らな音が寝室に響いた。肉襞が陰茎に絡みつき、搾り取るようにして締め上げる。亀頭を、竿を、裏筋を全て蹂躙して、絶頂へと導いて来る。雅はその端正な顔を時折苦痛に歪めながらも、両手をベッドについて激しいピストンを続けていた。荒い呼吸のまま、時折樹の唇を奪いにかかる。

 

息苦しい。雅はそう呟くと、殆ど意味をなしていなかったシースルーブラを外してショーツ一枚になった。張りのあるお椀型の胸が露わになる。彼女は自分の胸を揉みしだいて慰めながら、より固く膨張した陰茎を女性器の全てを使って扱き上げた。

 

「あっはぁ♡ なんだ、えっちって大して難しくないんだね~? 始めては痛いだけって聞いてたけど、凄く気持ちいいや。体の相性、バッチリじゃん」

 

充分に秘部が馴染んできたのか、雅の責めはより一層苛烈な物になっていった。両手を首の後ろで組んでM字に足を開き、まるで自分の裸体を見せつけるかのような行為を続ける。目を蕩けさせて喘ぐ彼女の姿に、普段の余裕ある大人の女性の影を見る事は出来ない。ただ年下の男を薬漬けにして快楽を貪る、堕落しきった一匹の雌がそこにいた。

 

「始めてが生えっちとか、気持ちよさすぎて頭おかしくなりそう♡ 避妊もしてくれない誰かさんのせいで、これからずっと生以外で満足出来なくなるんだろうな~?」

「それは、雅さんのせい……」

「ね~え~? 店長さんは生でえっちさせてくれた? してないんだろうね~。樹くん、そう言う所はしっかりしてそうだし。誘われてもちゃんと付けてたでしょ」

粘膜同士が直接触れ合う始めての快楽に今にも射精してしまいそうになるのを、樹はシーツを両手で掴んで必死に耐えていた。目から溢れた涙が頬を熱く伝って行く。雅はそれを見逃さず、その雫をべろりと舌で舐めとった。

 

「そろそろイキそう? このまま中で出されちゃったら、妊娠しちゃうんだろうな〜。ほらほら、我慢しないとパパになっちゃうよ〜?」

「やだ、やだぁ……抜いて……」

「情けな〜い。もう大人なのに、そんな声で泣いちゃうんでちゅね〜? ま〜、私もまだ遊んでいたいし、赤ちゃんはまだ作らないで良いかな?」

 

雅はそう言うと、ゆっくりと腰が持ち上げて陰茎を引き抜いていった。破瓜の血と愛液塗れになって汚れた竿が徐々に姿を見せて行く。ああ、これで終わってくれるんだ。樹はほっと息を吐くと、シーツを掴む両手の力を緩めた。

 

「安心するのが早いんだよ。ば〜か♡」

 

その瞬間、雅は思い切り尻を叩きつけ、殆ど引き抜いていたペニスをまた膣内へと収めた。亀頭が子宮口の最奥を貫く。その強烈な刺激前に、とっくのとうに限界を迎えていた樹の陰茎は、呆気なく吐精してしまった。どくどくと溢れ出た白濁が子宮の中を満たして行く。

 

「あ、あ、あ……」

「はい残念〜。最後の最後で出しちゃったね〜? これはパパになっちゃうかな〜?」

「ご、ごめ、ごめんなさ……」

「謝らなくて良いよ? うちの会社、そういう保証はちゃんとしてるから。もしできちゃってても、幸せに育てて上げられるから」

 

ゆっくりとしたペースのピストンがまた始まる。雅は樹の上半身に抱きつくと、寝そべって体を密着させたままピストンを始めた。

 

「や、やめ、もう……やめて……」

「やめない。半年分擦らせた思いが、一回シただけで満たされる訳ないでしょ?」

「誰か……助け、て……」

 

雅はにやりと笑った。これまで見てきた彼女の笑みの、どれとも違う異様な物だった。

 

「……助けて欲しいのは私の方だけどな。君のせいで私は、滅茶苦茶にされちゃったんだから」

 

 

◇◇

 

 

翌日。宝条晶は合鍵を使って部下のアパートに上がり込み、勝手に煙草を吹かしていた。普段はこうしていると、ここで吸わないでくれと部屋の主が飛び起きてくるのだが、三本目となった今でもその様子はない。当然だ。彼は今、この部屋いないのだがら。

 

……一体自分は何を苛立っているのだ。そもそも何の強制力のない、セフレのような関係だったではないか。彼が例え常連と一夜を明かしていようとも、何度もかけた電話を全て無視しようとも、それを咎める権利はないはずだ。

 

それなのに、何故心の奥底から湧き上がる憤怒が抑えきれないのだ。

 

「……あの女」

 

煙草が指の上で、真っ二つに折れた。

 

 

◇◇

 

 

世界の色々な物を見てみたい。そんなふんわりとした理由で選んだ大手貿易商に勤めて三年目。やりがいのある仕事だし、待遇も悪くない。だが、果たしてこれで良かったのだろうか? 

 

西園寺円。二十四歳。雪色のボブヘア。銀縁の眼鏡。やや低い背丈。童顔。

 

彼女は電源を落とし真っ暗になったモニターに映る自分の顔を見て、物憂げにため息を吐いた。疲れているのはここの所残業続きだからというだけでは無い。むしろ仕事は嫌いじゃなかった。心の奥底に沈む辛い過去を、思い出さずにいられるから。

 

そうやって憂鬱な思いに飲み込まれそうになった時、オフィスに人影が入ってきた。円の教育担当である、紺野雅だ。

 

「お疲れ様です。紺野先輩」

「お疲れ様は円ちゃんの方でしょ。こんな時間までよく頑張ってるね〜」

 

頭をわしゃわしゃと掻き回されるように撫でられる。同性に対する距離感がどこかおかしく、時折うざったいと感じる事もある彼女だが、疲れ切った今はそんな絡みすらもありがたかった。

 

「仕事は、嫌いじゃ無いですから」

「そう〜? じゃあ、何でそんな疲れた顔してるの〜?」

 

雅の言葉にぎくりとする。彼女は軽薄なようで、人の事を見ているのだ。五年以上社会人をやっているだけある。

 

「……元カレの事、思い出してました。大学生の頃付き合っていた人です」

「へえ?」

「別れたくありませんでした。手放すべきじゃありませんでした」

 

瞼を閉じると、今でも彼の顔をありありと思い出せる。私の好きを好きだと言ってくれた人。私の事を守ってくれた人。最後は私のために私の前から去っていった人。

 

月宮樹。彼は今、何をしているの?

 

「……円ちゃん。今から私の行きつけのバー、二人で行こっか? そこのバーテンダーさんね〜、すっごく優しい人なんだよ〜?」

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