※この作品はR-18です。

練習中作品置き場   作:芒月杯

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お題

女性:王子様系/長身貧乳/周りからは応援されている
男性:普通/劣等感/好かれているとは微塵も思っていない


シルバーガール

蝶は芋虫から羽化する時、サナギの中でこれまでの体をドロドロに溶かす。小学生の頃読んだ理科の教科書だか図鑑だかには、確かそう書いてあった。たかが数週間しか無い繁殖期間のためにこれまで使って来た姿を崩壊させるというのは、まだ初潮すら来てない子供には酷くグロテスクな事に感じられた物だ。

 

部屋のドアが開き、霧島司が入って来た。風呂上がりの彼女は紺色のスポーツブラとショーツといった姿で、体に湯気をまとわせていた。一階の風呂場から二階までそこそこあるが、その距離をこんな薄着で歩いて来たらしい。

 

今日はここらで終わりにしよう。机に向かっていた霧島渚は問題集の端を折って閉じると、ベッドに寝転がる実姉に視線をやった。未だ彼女はまともな服も着ず、鼻歌混じりに携帯をいじっている。

 

今みたいに下着を付けているのはまだ良い方で、日によってはバスタオル一枚部屋に戻ってくる日もあり、酷い日は生まれたままの姿で帰ってくる。同性とは言えど、血の繋がった肉親の裸体というのは見ていて気持ちが良いものではない。

 

「……あんたには服を着るって習慣が無いの?」

 

こんな痴女の事は放っておけば良いものを、苛立った事には突っかからずにはいられない。母親譲りの短気な性格に、渚は物心ついた時から損ばかりしていた。十七年という時間は少女を癇癪玉から一端の学生に成長させるには十分だったが、それでも口を開けば出るのは嫌味ばかりだった。

 

「家族に裸を見られても、何とも思わないさ」

 

司は携帯を置いて上体を起こすと、やたら長い足を組んでベッドの端に座って渚の方を向いた。気取ったようなハスキーボイスが耳に障る。

 

「そんな格好で恥ずかしく無いのかって聞いてんの」

「僕の体に恥じる所は無いよ。むしろ目に焼き付けて欲しいぐらいだけどね」

「うっざ……」

「おやおや、愛する妹に嫌われてしまったね。口が悪いのは女の子としていただけないな?」

 

司は冗談のように言っていたが、事実渚はこの姉の事が嫌いだった。姉妹で無ければどれほど良かっただろうかと、短い生涯の中で何度も思う事があるぐらいには。

 

「たかだか三十秒早く生まれて来たぐらいで姉ぶらないで」

「姉ぶってはいないよ。僕には渚の姉として振る舞う義務があるってだけさ。だから、姉らしくいようとしている」

「そう。ならあんたをお姉様お姉様って慕う子猫ちゃんとやらに、その義務を果たしてあげれば良いんじゃ無いの? 司、あんたの自己満足に私を突き合わせないで」

 

目の前の姉に気付かれないよう、渚は口の中で舌打ちをした。こめかみに青筋が浮かぶ。時には血の繋がりなど何の慰めにもならず、帰って苛立ちを増幅させる材料になり得る。

 

司の事はやはり嫌いだ。聞いているこちらが恥ずかしくなるようなスカした言葉も、学校の王子様気取りで女子を囲っている事も、女の癖にスラックスを履いて男装まがいの事をしている事も、何もかもが疎ましい。そしてなにより気に入らないのは、渚がこんなにも姉の事を嫌っているというのに、当の本人が妹に抱いている感情は全くの真反対だという事だ。

 

「彼女達には悪いが、実の妹の方が可愛いのは当然だと思わないかい? 例え自己満足だと言われても、愛したいから勝手に愛すさ」

「何? そのセンスの無いポエム」

「別に分かってくれなくても良い。ささ、今日は早く湯に浸かって休みなよ。熱心に勉強も良いが、根を詰めすぎていては肝心な時に倒れてしまうからね」

 

そう言う司の視線は学習机に置かれた問題集へと向けられていた。モスグリーンの表紙に黒のゴシック体で題名が書かれている。「生物良問問題集」。

 

「凡人は毎日の積み重ねが必要なのよ。テスト期間中に少し机に向かえばそれで済むあんたと違ってね」

「お湯が冷める。早く入って来なよ」

「それには同感。あんたとこれ以上話したく無いし」

 

タンスから適当に下着のセットとパジャマを引っ掴んで部屋を出て、後ろ足でドアを蹴っ飛ばして閉める。姉妹の会話はいつもこうだった。渚が苛立ちをぶつけようと喧嘩腰にふっかけ、それを司は意にも介さずマイペースに受け流し、かえってストレスが溜まると言うのがお決まりだった。

 

脱衣所に入り、制服一式と下着を脱いでカゴに叩き込む。裸になるまで二分も掛からなかった。シャワーで軽く汗を流した後、曇った鏡に湯をかけて自分の姿を映す。相変わらず色気のない体だ。渚は鏡に映る虚像に対して、まるで他人事のようにそう思った。これが自分の魂が閉じ込められた容器だと認めたくなかったからだ。

 

脂肪のつきにくいスレンダーな体も、あるかないかも分からない平坦な胸も、その癖百七十は余裕で越している身長も、何もかもが気にいらない。女らしさの欠片も無い自分の体で性別を証明できるものといえば、精々黒々とした陰毛に囲まれた女性器ぐらいしか無かった。

 

「……何見てんのよ」

 

渚は独り言のようにそう毒付いた。鋭い双眸が鏡越しに睨んでくる。発育不良な体もそうだが、それ以上に彼女は自分の顔が嫌いだった。シャープな鼻筋と言い薄めの唇と言い、凛々しいと言えば聞こえは良いが、その実はただ単にきつい顔つきで人が寄り付かないと言うだけだ。蝶にも芋虫にもなれない、どっちつかずなサナギ。それが彼女の自己評価だった。ただそれだけなら我慢できたかもしれないが、ここで最悪だったのはこの肉体が大嫌いな姉のコピー品という事だった。

 

霧島渚は姉の司と共に双子として生を受けた。一卵性双生児と言うだけあって生みの親すら時たま区別が付かない程よく似た外見であり、幼少期は——今となっては忘れたい過去だが、小学生ぐらいまでは姉妹の仲は良好だった——互いが互いのふりをする遊びをしていたものだった。それがあまりにも周りを困らせたので、前髪の分け方で区別が付けられるようにした。月日は流れ少女達は高校生になり姉妹の関係は悪化の一路を辿っていたが、その習慣だけは今も続いていた。少しはねっ気のあるショートの黒髪を、右目隠しにしているのが渚で左目隠しにしているのが司といった具合に。

 

渚は濡れた鏡を覗き込み、司とそっくりな自分の裸体を見てまた舌打ちをした。乾いた音が風呂場に反響して消えて行く。映し出された虚像は左右反転しているせいで、唯一異なる前髪の分け方すらも姉の物をそっくりそのまま模倣してしまっている。染めたり伸ばしてみたりする事も考えたが、今の髪型が羽化に失敗したサナギにはお似合いだという事は良く分かっていた。化粧も服装も色々弄ってみたりはしたが、結局は姉の猿真似をするのが一番マシだった。少なくとも、似合わないと嘲笑を浴びる事は無かった。

 

体から汗を流し終えた渚は、髪を洗う前に湯船に浸かった。こうすると体が湯で温まるおかげで頭皮の毛穴が開き、髪に負担をかけずに汚れを落とす事が出来る。と、司は言っていた。自分の容姿を心底嫌っていた彼女だったが、だからと言って化粧や美容等に手を抜いたりはしなかった。姉の模造品である事もまた自分の価値だと、随分昔から分かっていたから。

 

渚は肩まで体を湯に沈めると、長いまつ毛の瞼を閉じた。鏡に映る自分の姿をこれ以上見たくなかった。せめて姿形だけでなく、性格まで姉と一緒だったら良かったのに。ナルシストで自信過剰な、学校の王子様気取り……もし脳みその中身まで同じなら、こうして時折溢れそうになる体の火照りとも無縁で居られただろうか。

 

「いっ……!」

 

湯船の中で、渚の手が性器に触れた。指先が恥毛をかき分け割れ目をなぞり、やがて充血したクリトリスへと辿り着く。闇の中で心臓が早鐘を打ち始め、閉じた唇から漏れる吐息と混ざりあって不協和音を奏でる。あまりに不快な旋律に耳をふさぎたくなるが、己を慰める手は止まる事は無い。ハスキーな自分の喘ぎ声に吐き気を催しながらも、彼女は勃起した陰核を指で擦って自慰を続けていた。

 

女らしさの欠片も無い体なのに、性欲だけは一丁前に湧き上がって積もって行く。それはもはや、呪縛と言って差支えなかった。司の方は疑似恋愛をしたい同級生達の相手になる事で誤魔化していたようだが、実際の所彼女らは姉の事を男の代用品ぐらいにしか思っていない。渚も同じような事で楽しめれば良かったが、生憎そっちの気は無かった。

 

「はーっ……ふーっ……」

 

薄桃色の小さな乳首を指で転がしながら、もう片方の手で陰部を撫でるように擦り続ける。十分に濡れた膣に人差し指を入れて押し広げるようにして弄り回していると、尿意にも似た甘い痺れが下半身から広がっていった。

 

こうして風呂場で自慰をしている時が、この家で唯一安らげる時間だった。物心ついた頃から双子だからと同じ部屋に突っ込まれているせいで、渚にはプライベートな空間という物が無かったからだ。

 

八畳のフローリングを真ん中で二つに分け、各々のスペースにベッドや学習机を置いていく。そうして出来た姉妹の部屋は、まるで鏡映しのような線対称だった。二人のスペースの境界線には養生テープが貼られていて、渚はそれを北緯三十八度線の停戦ラインだと思っていたが、司の方は精々クラスレクでたまにやるドッチボールの白線ぐらいにしか考えていないようだった。

 

苛立ちを抑えるかのようにオナニーは激しさを増して行く。指を二本まとめて膣に入れ、ぐちゃぐちゃとかき混ぜるように出し入れして快楽を貪る。アダルトビデオすらまともに見れない環境で、渚がズリネタにしていたのは己の妄想だった。

 

瞼を閉じた闇の中で、渚は裸に剥かれベッドに四つん這いにさせられていた。執拗な前戯でどろどろに溶かされた秘部に、強引にペニスを突き入れられ純潔を奪われる。その引き裂かれるような痛みに泣き叫んでも男は自分を犯し続け、平坦な胸を乱暴に揉みしだき、最後には子宮の最奥に種を吐き出す。

 

男から碌に扱われてこなかった処女の、都合の良い妄想だった。相手をしてくれる物好きが一人ぐらいはいるはずだと思い彼氏を作ろうとしても、その目論見は常に悲惨な結末を迎えた。まともな奴はきつい顔つきのせいで寄り付いて来ないし、そうでない奴はそもそも渚のような瞬間湯沸かし器を好まない。そもそも彼女のどっち付かずな体に興奮して、最後まで出来る男がいるのか疑問だった。

 

「んっ……あっ……ああっ!」

 

やがて渚は絶頂に体を震わせた。陰裂から噴き出た潮が湯船に広がって行く。快楽の余韻を味わった後に膣から指を引き抜くと、浴槽に張られた湯とはまた違う、ねっとりとしたものが手にまとわりついていた。

 

「……きっしょ」

 

無意識に唇の隙間から溢れた呟き。それが欲求不満で積もり続けた性欲に向けられた物なのか、それともオカズにしていた妄想に向けられた物なのか、渚には分からなかった。分からなくてもどうでも良かった。どちらにせよ、自分が気色の悪い存在だという事には変わらなかったからだ。

 

 

◇◇

 

 

生徒会という言葉を辞書で引いてみると、中等以上の教育機関に設置される所属生徒による自治組織と出てくるが、多くの学校においてその実態は自治とは名ばかりのハリボテ組織なのである。学校と生徒を繋ぐ相談窓口になっているのはまだマシな方で、大概は教員の便利な手足と言った所だ。

 

別にそれが悪いと言う訳ではない。たかだが十数年そこいらしか生きていない学生に本格的な自治権限を与えた所で、碌な事にならないのは目に見えている。それに教員の手足になると言うのも、その見返りとして内申点や推薦の融通などと言ったリターンが返ってくるなら十分にやる価値がある。

 

渚が一年生の頃、生徒会に入った理由もそんな理由だった。御剣高校における生徒会は役員と一般会員に別れており、前者は生徒会選挙で当選するか、全校生徒の三分の二以上の票を得て当選した生徒会長の指名を受ける必要があったが、後者の方は書類一枚で誰でもなれて、また辞めることも出来た。高度な自治や大規模な変革など、たかだか三年で卒業する学校にそんな物は求めない。多くの一般会員と同じように、ただ内申書に生徒会所属の一文を付け加える事が出来れば渚にはそれで充分だった。

 

だが、片割れの方はそれでは満足出来なかった。

 

「……お渡しした資料の通り、我々生徒会が実施したアンケートによると、京成線を利用している生徒が三百十三人。ざっと四割ほどいます。JR線の最寄駅の方は学校から徒歩五分圏内であり日々の運動にはちょうど良いぐらいなのですが、京成の方から歩いてくるとなると二十五分以上かかります。毎朝となるとしんどくなってくる距離です」

 

自分は一体何をしているのだろうか。資料片手にプレゼンをしている司を横目に見ながら、渚はぼんやりとそんな事を考えていた。文化祭前のポスター張りだの入学説明会の手伝いだのと言った単純労働で任期を満了するつもりだったのに、気が付けば地元のバス会社との交渉の席に駆り出されている。これは一体何の冗談なのだろうか。

 

きっかけは生徒会の目安箱に入れられていた、一枚の嘆願書だった。駅から学校まで遠いから、学校前にバス停が止まるよう交渉してくれないか。そんな願望じみた意見書。こう言った物を生徒の要望として学校側に提出するのが生徒会の仕事だが、渚が知る限りそれが叶った事は一度もない。

 

校則の変更、イベントの企画。目安箱の匿名性が災いし投じられる意見はふざけた物が多かったが、中には突飛なようでよく考えられた物だったり、地味ではあれど今すぐにでも実現可能な物もあった。だが学校側は何ヶ月も検討した末に却下の判を押すばかり。これもまた同じ末路を辿るだろうと、渚は思っていた。

 

だが、この姉はそれを許さなかった。二年生になり生徒会長の座を得た司は、ただの痛い奴から本当に学園の王子様になってしまっていた。元々疑似恋愛の相手に選ばれるぐらいの容姿とカリスマ性がある奴だ。その気になれば未熟な学生達を騙して、生徒会選挙で当選するぐらい訳のない事だった。そんな奴の手足になりたいかはともかく、頭なんてものは見てくれが良くてそれなりに喋れるなら、なんだって良いのである。

 

「良いね。渚、これやってみようか」

 

司のその言葉は、王子様の囁きというより暴君の命令と言った方が正しかった。彼女は何を思ったのか職員室に赴き固定電話を借りると、いきなりバス会社の詰所にダイヤルし始めたのだ。どうも、地元の学校に通っている高校生です。相談があるからアポを取りたい。姉の電話内容を雑にまとめるとこういう事になる。

 

その時職員室にいた教師達には、優秀な生徒会長が突如乱心したようにしか見えなかっただろう。だが、受話器をひったくったりコードを引き抜いたりするような者は誰もいなかった。司は昔からどう考えても無茶苦茶な行為に、奇妙な説得力を持たせる事が得意だった。あいつがやっている事なら、きっと何か意味があるはずだと。

 

電話が終わった後、司は即座に生徒指導室に叩き込まれ、勝手な事をするなと随分絞られたらしい。生徒の要望に対応するのは学校側の仕事だと。だが、それだけでは終わらなかった。翌日の夕方、電話した先の支部長がわざわざ学校まで出向いてくれたのだ。

 

「もしこの京成線ユーザーの全員といかずとも、八割——と言うのは、もし我が校の前にバス停があれば利用したいと回答した生徒の割合です。とにかく八割が利用すれば、運賃が片道二百円だとした場合毎日十万円強の売上になります。それが平日五日間で五十万、一月を四週間だと計算すると二百万、一年だと二千万超です」

 

実際は定期などでもう少し安くなるかもしれないが。司はそう付け加える。

 

バス会社の詰所には隅の方についたてで囲まれたスペースがあり、足の低いテーブルを挟んで一対のソファが置かれていた。渚達とは反対側に座った支部長は、こちらが用意した資料と自分達を何度も見比べ、時折赤べこのようにうんうんと頷いていた。

 

「確かに試算通り行くなら悪くない収入になりそうです。しかし学生の登下校のピークは、朝と夕方のそれぞれ一・二時間と言った所でしょう。たったそれだけの時間のためにルートを変更するというのは、こちらとしても難しい所がありますね」

「ええ、おっしゃる通りです。そのピークの時間帯だけ、我が校を通るようにして頂ければ良いのです」

「なるほど。ピークの時間帯だけ臨時ルートを設定するか、それ以外の時間帯ではバス停を通過するようにするか……」

 

この支部長である安藤というのが中々変わった老人で、遥か年下の学生にも奇妙に感じるぐらい丁寧な言葉で話すのである。学校にまでわざわざ来てくれた時も、司の暴走に対して苦情を入れるどころか、むしろ主体的で立派だと面白がっているぐらいであった。

 

この老人は司達に二週間与えた。二週間でこちらをうんと言わせるようなプランを組んでみろとの事だった。そうしたら学校の前にバス停を設置するかどうか、こちらでも上に掛け合うと。それを聞いた教員連中は生徒会ではなく学校主導で交渉を行うと口を出してきたのだが、彼の方は生徒がやるから意味があると一蹴したのである。

 

「いやはや、中々良く出来ている資料ですね。うちの三年目ぐらいのが作ったと言っても、多分信じてしまうでしょう。短い時間で良く仕上げたものです。これはお三方のどなたが?」

「ああ、それはこちらの渚が」

 

安藤は渚の方を——三人掛けのソファの真ん中に司が座り、彼女を挟むように渚と会計担当が席についていると言う形だった——一瞥すると、また資料の方に目を落とし穏やかな微笑を浮かべた。

 

「こちらへの利点と現実的な案を、分かりやすく述べている。うちでも窓口を設けていますが、その、何と言いますか。無茶としか言えないような一方的な物が実に多くてですね」

 

彼はどこか遠い目をしながらぼやく。

 

「交渉の際は相手への利点も示す事も重要ですから。当然の事をしたまでです」

「その当然が出来る大人は、意外と少ないものです。勿論お客様としての率直なご要望ですから、変にこちらの事を考えられても困りますが……ともかく、ここまで具体的に形にして下さったのは、あなた達が初めてです」

「……どうも」

「おや、ご不満な様子ですね」

 

どうもは無いだろうと隣に座る司に諭されるがまま、慌てて頭を下げる。やらかした。安藤に勘付かれないよう、口の中の肉を噛む。昔から渚は褒められる事に慣れておらず、つい素っ気ない態度を取ってしまうのだ。これが肉親だったり学校の中でだったらまだ良かったが、まさか外の大人に対しても出てしまうとは……

 

「すみません、まさかここまでお褒めの言葉を頂けるとは思ってもいなくて、どう返して良いか分からなくて。もう少し貶される事も覚悟していましたから」

「謙虚ですねぇ。でしたら後学になるかは分かりませんが、ケチを一つ付けましょうか。あなた達はもっと学生身分を利用するべき——意地悪に言うなら、もう少し図々しくても良かったと思います」

「と、言いますと?」

「生徒会の交渉により、高校前にバス停増設。我が社のイメージアップにはもってこいの題材です。学生の声に、若者に寄り添う会社だとね。私達の要望に頷いてくれたら良い宣伝になる、そんな風に攻めてみても良かったと思います」

「それは……」

「立場を利用しているようで、卑怯に感じますか? それでしたら私達の方こそ最終的な意思決定を決めると言う点で、君達より圧倒的な優位に立っています。プレゼンの出来がどうであれ、私達が頷かない限りはどうにもならない。そちらの方がよほど卑怯だとは思いませんか?」

 

そう言う安藤は変わらず穏やかな笑みを浮かべており、わざと露悪的な言葉を選んでいるように思えた。渚を諭すと言うよりかは、むしろ自分を卑下しているようにまで感じられる。

 

「どうやら、気を悪くさせてしまったようですね。申し訳ありません。ところで資料に書かれている試算ですが、これもあなたが?」

「それは私でなくて彼が——」

 

司の右隣に座っていた男子生徒が、静かに手を上げた。会計担当の西園寺巽だ。

 

「失礼、名前が書いてありましたね。たつみ、君で良かったでしょうか。中々良く出来ていましたよ。先程会長さんの方は売上が一日に十万以上出ると言っていましたが、当然ながらこの金額がそのまま利益になる訳ではありません。運転手への給料でしたり、ガソリン代でしたり様々な経費が掛かるわけです。君はその経費計算と利益率の計算まで、概算とは言えしっかりやっている。バス停の数を増やす事による、ダイヤの影響までね。細かな所で差異はありますが、まあ、その辺りは実際に働いてみないと分からない所ですから仕方が無いでしょう」

 

巽は銀縁眼鏡を直すと、静かに頷いた。返事すらしなかった。その控えめな態度に安藤は少し首をかしげたが、次に指摘された改善点を一言一句メモに記す彼の姿を見て、すぐにまた穏やかな表情を取り戻した。

 

「すみません、彼、真面目なのは良いんですが……ちょっとマイペースと言いますか」

「ええ、それは見れば良く分かります」

 

安藤は手元の資料と、ボールペンをガリガリ動かす巽の姿を交互に見た後そう言った。

 

生徒会長に当選したばかりの司が、次の会計担当にすると連れてきた男。それが西園寺巽だった。司とは同じ数学の授業を取っていて、それ繋がりで声を掛けられたそうだ。一年生の頃は生徒会の仕事はおろか、碌な委員会活動すらやって来なかったらしい。

 

そんな彼を渚が外見だけで評価するなら、可愛げの無い小動物と言った所になるだろうか。百六十あるかどうかも分からない小柄な身長に、癖も痛みもない白髪頭。碧眼の双眸を覆う銀縁眼鏡。自分達とは同い年のはずだが、二、三歳は年下に見える童顔。能面みたいな真顔以外の表情を覚えれば、もう少し楽に生きられるような顔だ。

 

「ところでこの表にはあなた以外の名前が書かれていませんが、もしかしてこの試算は一人でなさったんですか? 普通の学校生活を送りながら二週間で? 大変だったでしょう」

「……計算自体は大した事ありません。式さえ作れば、あとは電卓にやらせれば良い。問題はデータ集めの方です」

 

巽は整った容姿には似合わない、ぶっきらぼうな物言いをした。

 

「ほう? 詳しくお聞かせ願えますか?」

「アンケートを提出しない奴。真面目に答えない奴。そんなのが結構いるのが現状でしてね。協力を得るのに苦労しました」

「それはおかしな話でしょう。この話には学生サイドに大きなメリットがあるはずです。代表をしてくれる君達生徒会には、協力的になるのが自然ではありませんか?」

「ええ、まったく、その通り。ただその道理や常識がゴミ扱いされるのが、学校でしてね」

 

巽は吐き捨てるように言った。本人はドスを効かせてるつもりらしいが、元々の声が中性的なせいでそこまで圧は感じない。本人にとっては不本意かもしれないが、

本人にとっては不本意かもしれないが、彼の声が変声期を迎えているかどうかも分からない物で本当に良かった。もし人並みに低かったら、今頃この場の空気はもっと酷い物になっていたはずだ。

 

「巽。どうして君はそう、上手くいきそうな所に水を刺すような真似をするんだい?」

「むしろ実情を伝えておいた方がいいだろ。取り繕って良い所だけ見せても仕方が無い」

 

司は額を抑えてため息を吐いていたが、渚はこの男の事を責める気にはなれなかった。彼が愚痴や皮肉の一つを溢したくなる気持ちが、痛い程よく分かったからだ。

 

昼休み、通学手段に関するアンケートを取るという予告を校内放送でしてみても、生徒の大半はお喋りに夢中で聞いちゃいない。クラス委員や各学年の担任教師にアンケート用紙を預けてみても、配布を忘れていたり結果を紛失したり。その事を指摘しよう物なら、帰ってくるのは余計な仕事を増やすなと言う逆上の言葉。

 

学生、教師、学校なんて物は、全くそんな物なのである。紙切れ一枚でなれるとは言え、一応は自ら立候補した生徒会員ですら怠惰な奴で溢れかっている……まさか彼らに苛立つ日が来るとは、打算的な考えで生徒会に入った一年生の頃は思いもしなかった。

 

結局誰も当てにならないので、渚と司。それと巽の三人で二週間馬車馬のように働く羽目になった。放課後は生徒会室にこもり、夜は遅くまで通話を繋げて作業をする毎日。そうして今日の昼休みに何とか形になったが、もし誰か一人でも欠けていれば、今頃話はお流れになっていたに違いない。

 

「いやはや、君は苦労していそうですね」

「……? 俺の仕事は大したことありません」

 

彼は何でもない事のように言って、司と渚達の方を指した。その声色からは棘が取れていた。

 

「二人に声をかけられなかったら、俺は今頃家で寝てたでしょう。そう言う意味で本当に苦労したのは、こっちの双子の方です」

「……ほう?」

 

いつの間にか安藤の表情からは微笑が消えており、皺だらけの皮膚に埋め込まれた鋭い瞳で巽の事を見ていた。渚や司を見ていた時とは違う、まるで品定めをするような厳しい目だ。

 

「ふうむ。お二人は、仲間に恵まれましたね」

「……ええ」

「……全く、生徒会長としてありがたい限りです」

 

珍しく渚と司の意見が一致した。恵まれた、で片付けて良いのか分からなかった。巽は自分達と同じ二年生で、司とは同じ数学の授業を取っている。言ってしまえばそれだけの関係なのだ。彼女のスカウトを受けるまで、碌な委員会活動もしていなかった。

 

司の思いつきである日突然、それも半強制的に生徒の役職持ちになったというのに、巽は不思議なぐらい協力的だった。自ら志願した一般会員ですらその大半は腐り果てている中で、それはもはや異常と言っていいぐらいだった。

 

義理も理由も無いのに彼がここまで自分達に力を貸す理由。それが、未だに全く分からないのだ。

 

 

◇◇

 

 

「さて、これからまだまだやるべき事は沢山あるけど、今は祝杯を上げるとしようか。今日は僕の奢りだ。渚、何を頼む?」

「あんたが破産するぐらい高いメニュー」

「はは、カロリー計算はしっかりね? せっかく僕に似てスタイルが良いんだから」

「そっちの財布が痩せ細ればそれで良いわ」

 

プレゼンが終わり、バス会社の詰所を後にした頃には十九時を既に回っていた。普段ならとっくに夕飯を終えている時間だったが、今から家に帰って料理をする気分にはなれなかった。どれ、半額弁当でも買って胃に詰め込もうと思いスーパーに行こうとしたが、勝手に帰るんじゃないと馬鹿姉にブレザーの襟首を引っ掴まれて今に至る。

 

「ロイヤルホスト」は全国展開のファミリーレストランで、その中では高めの価格帯とそれに見合った質の良い洋食メニューが特徴的な店だ。それなりに金があって、テーブルマナーにうるさくない店を求めている中産階級をターゲットにしている。チェーン店での外食はあまり好きではない渚だったが、この店は別だった。子供の泣き声や学生グループが騒ぐ声、質の悪いクレーマーの怒鳴り声がそこまで多くない店だったからだ。

 

「俺は余計だったんじゃないか?」

 

銀縁眼鏡のレンズをブレザーの袖で拭きながら、巽は平坦にそう言った。隣の司から腰に腕を回されたり、メニュー表を捲る手を上から重ねられたりと、渚だったら裏拳を飛ばしているセクハラ紛いの行為にも顔色ひとつ変えず無視できる男だ。双子の言い合いなど、戯れ程度にしか思っていないのだろう。

 

それにしても、よくこの姉の隣に座って澄ました顔でいられる物だ。司の絡みよりもメニューの肉料理に夢中な、巽の事を見てそう思う。三人組だったのでボックス席に通されたのだが、席決めでも一悶着あった。始めに彼が男女で二体一で分かれるかと言ったのだが、渚は姉と隣同士などごめん被りたかった。

 

結局姉妹は向かい合わせの席に座ったが、そうなると余った巽はどちらの隣に腰を下ろすか選ばなければならなかった。普段から口を開けば嫌味ばかりの渚にも自分の鞄を机の下に突っこむぐらいの気遣いはあったが、それ以上に司の方がここに座れと自分の隣をバンバン叩く物だから、周りの迷惑になる前に彼女の隣を選んだようだった。

 

「立役者の一人を除け者にはしないさ」

「こいつの相手を一対一でしろって?」

「そうかよ」

 

普段から冷戦状態の姉妹だが、巽の事に関してはいつも意見が一致した。金勘定に関しては彼以外の適任はいない事。生徒会から逃してはならない人材である事。そして彼が自分達に協力的な理由が見つからない事全てだ。

「巽。これ二人で注文しない? サーロインステーキのセット。こいつの財布を消し炭にしてやりましょう」

「どれどれ。って、四千円以上するじゃねえか。いくら奢りとは言え、そんな高いもん頼めねえよ」

「良いのよ。こいつ、金持ちしかこない喫茶店でバイトしてるから。結構いい額貰ってんのよ」

「……子猫ちゃん達と遊ぶお金を親からの小遣いで出しているようじゃ、格好が付かないからね」

「本当かぁ?」

 

巽はいぶかしげだったが、それだけで足りるのかと言う司を見て心配する気も薄れたのか、サイドにオニオンリングまで追加し始めた。二人への奢りの額が万札では収まりきらなくなっても、冷や汗一つかいていなかった。学園の王子様らしい余裕の態度。恐らく彼の目にはそう見えたはずだ。だが、渚の方は先程から彼女の指がテーブルの上を忙しなく駆け回るのを見逃さなかった。

 

呼び出しボタンを押してメニューの注文をする。サーロインステーキのセットを二つと、シーフードドリア単品を一つ。自分達と同じメニューじゃなくて良いのかと司を煽ったが、この姉は涼しい顔でカロリーがどうだの十九時以降の食事には気を付けるべきだの言い出した。炭水化物よりもタンパク質の方が太りにくい事ぐらい、知らないはずもないだろうに。

 

「さて、注文も終えた事だし、僕はお手洗いに行ってこようかな。すぐに戻るよ」

 

そう言って司は鞄から長財布を抜き取ると、スラックスのポケットに入れて席を立った。きっと中身を確認しに行くのだろう。とぼとぼとトイレに向かう彼女の背中はいつもより小さく見えて最高に笑えて……流石に少し哀れに思えたので、帰ったら自分の食事代ぐらいは返してやろうと思った。普段から嫌ってるくせに施しは受けるというのは、渚の道徳に反する。

 

お喋りが消え、残ったのは皮肉屋と小動物。渚は携帯を弄るふりをしながら、向かい側に座る巽を盗み見た。彼は頬杖を突き車が光の線になって流れていく国道の様子を窓越しに眺めていて、その姿は一葉の絵画のように出来過ぎた構図だった。ここでは無い何処かを見つめる横顔と、暗転した液晶に映る自分のそれを見比べて、ため息が出る。

 

「……良くあの姉に付き合ってるよね」

「は?」

「うざったいと思わないの?」

「何が言いたいんだ」

 

沈黙に耐えきれず口を開いたは良いが、思いついた話題は司の事ぐらいだった。元から渚と巽の間にはあまり会話は無いのだ。ここ二週間は生徒会の仕事で話し合う機会も幾らかあったが、作業に関係のない雑談をした記憶は殆どない。何を話せば良いのか分からないのだ。

 

「巽って確か、JR使ってたでしょ? 京成から来てる私達はともかく、バスの話が通ろうが流れようが自分には関係ないのに、どうしてこんな真面目に働いてんのかなって」

「そりゃ俺が会計担当で、金勘定に関しては俺の仕事だからだ」

「その会計の仕事だって司の勝手なご指名でしょ? そこまで熱心にやる義理、無いと思うけど?」

 

 

 

全校生徒の三分の二以上の票を得た生徒会長は、通常選挙で決められる他役員を自ら指名する事が出来る。ただの一般会員だった渚が突然書記に任命されたのも、この規則を悪用——本人にはそんな気は無いだろうが——した司による仕業だった。学生一人にそんな強権を与えて反発は無いのかと、まともな頭の持ち主ならきっと考えるが、ここまで大差で当選する生徒会長は五年に一度出るかどうかと言うレベルであり、またこうして指名される役員達もすでに生徒会に所属している一般会員から選ばれるのが通例であるため、そこまで批判の声は出てこなかった。

 

「ある日突然役員になって、仕事全部押し付けられて、他の連中は役立たずばかり。今回私達がやった事だって、精々そんな奴らのお受験の自己アピールに使われて終わりでしょうね」

「そうだな」

「私は生徒会に所属しており、在任中は学校前にバス停を設置してもらうため交通会社と交渉しました~ってね。アンケートの用紙回収も禄に出来ない奴らがタダ乗りするのよ」

「だろうな」

 

渚は自分のこめかみに青筋が浮かび上がるのを感じた。暖簾に腕押しとはこの事か。司のようにひたすらダル絡みされるのも不快だが、まるで相手にされないのも腹が立つ。

 

「ねえ、スカした態度はやめて。何であなたは腐らないでいられるの?」

 

そこで巽はようやく、目の間の同僚が愚痴を聞き流してくれる人形ではなく、まともな話し相手を求めている事気が付いたようだった。

 

「腐らないでとは言うが、そりゃ俺だって不満はあるとも。何も感じてなかったらわざわざあの場所であんな事言わん。だが、俺達が卒業して何年か後に、未来の後輩達がふと俺達に感謝する日が来るかもしれない。かつての生徒会が、一般企業相手に交渉したんだと。それで良いじゃないか」

「はあ?」

「この答えじゃ不満か?」

「当然。その程度の綺麗事しか理由が無いなら……巽が良くても、私が報われない」

 

巽はため息を吐いて銀縁眼鏡を外すと、吸い込まれそうになる青い瞳で渚の事を見つめた。

 

「やめとけ。きっと俺の事が嫌いになる。俺は渚に嫌われたくない」

「このまま誤魔化される方が嫌いになる」

「分かった、じゃあもっと言おうか。勿論渚の言う通り腐る道もあったさ。所詮三年間しかいない学校、適当に例年通りの仕事をこなせば良い。でもな、そんなの虫と一緒じゃないか」

「虫……」

「人に産まれちまったからには何かを成し遂げたい、新しい事をしたい、意味のある事をしたい。って思う事の何が悪い。自分が生きた証を後の世代に残せるのが人の特権だ。そんな事に興味はない、ただ自分の生活さえどうにか出来ればそれで良いってなら、それこそ生まれて死ぬだけの虫けらと同じだ」

 

言葉は弾丸となって脳を撃ち抜き、その衝撃は少しの間彼女から言語能力を消失させた。何か言わなければ。だが、出そうとした声は掠れた息となって消えてしまう。このままでは勝手に求めた本心に対して、勝手にショックを受けてるだけの奴になり下がってしまう。しっかりしろ、霧島渚。お前は面倒な女が嫌いなはずだろう?

 

「ともあれ、そっちが言いたい事も良く分かる。今回の件もたまたま運が良かっただけで、努力が全て水の泡って可能性もあったわけだ。それなら最初から何もしなければ、少なくとも何も失わない。そう考えるのも無理はない」

 

酸欠の魚みたいに口をはくつかせている渚を見て、巽はばつが悪そうに視線を伏せた。だが、しおらしくするべきなのは彼の方ではない事は自分が一番良く分かっていた。自分はこの男の事を正しく理解していなかった。金勘定が得意な頼りになる奴だとは思っていたが、根っこの所は自分と同じ事なかれ主義な皮肉屋だと思っていた。

 

だから気が付かなかったのだ。冷たいレンズの奥に覆い隠された熱意に。

 

「そんな風にご立派な考えをしてるあなたに、何が分かるっての?」

「渚……喧嘩がしたいのか? まだこれからも仕事が山積みってのに、仲間割れは不味いだろ」

「巽と司がいれば充分でしょ」

「いや、今の生徒会で一番いらないのは俺だ。あの爺さんが言ってた通り、俺達は所詮学生だ。例え数字が多少甘かろうと多めに見てくれるだろうが、その甘い根拠を無理矢理ゴリ押して進められるのは司だけだ。カリスマ性っていうか、一種のアイドル的な魅力? そう言うのが求められる仕事は、うちの会長にしか出来ない」

 

この男は、一体何を言っているのだろうか。頭を冷やそうと水を一口飲んだが、とっくにカンカンになっていた脳を常温に戻すには全く足りなかった。何が生徒会で一番いらないのは自分だ。渚は心の中で毒付き、テーブルの下で拳を握った。少し伸びた爪が掌に食い込んだが、痛みは返って怒りを沈めてくれる。

 

一時間前、バス会社詰所での出来事を思い出す。支部長の安藤は常に微笑みを携えて司と渚の一挙手一投足に相槌を打っていたが、それは一見優しいようで、とどのつまり自分達を子供扱いしている事の表れだった。

 

だが巽と話している時だけは、あの老人は鷹のような鋭い目付きで彼の事を見ていた。悪意のある表現をするなら、品定めしていた。恐らくあの瞬間二人は互いの立場を忘れ、本当の意味で対等な交渉相手になったのだろう。外野が何と言おうと、彼らの中ではそうだったに違いない。

 

「……それなら私もいらないはず」

「何でそう自分をゴミみたいに扱うんだ? 俺は渚がいらないなんて思った事は一度もない。深夜一時に送った味気ないデータを、三十分で味付けしてくれる書記がどこにいんだ」

 

同級生のカウンセリングは仕事に入っていないと愚痴を吐けど、その両目は変わらず真っ直ぐ渚を見つめている。

 

「私は司にはなれない」

「誰もなれねえよ。それに、渚に司の後追いをしてもらっても困る。司は理想で物を語るが、俺達が生きてるのは現実だ。批判的な思考の奴が一人もいないと、それはそれで苦労する」

「……」

「それに腐っただの何だの言ってるが、渚は充分仕事をやり切った」

 

優しい慰めすらも荒んだ心には助けにならず、同情すらも返って傷を広げて腐敗させていく。八つ当たりと自己嫌悪を繰り返す負のスパイラル。脳に渦巻く激情はもはや止められず、紡がれる言葉は憎悪のみ。渚はとうの昔に、化物になっていた。

 

「……ごめんなさい」

「寝不足だな」

「ちが——」

「寝不足だ。そう言う事にしておけ」

 

巽は短くそう言って眼鏡を掛け直すと、また窓の外に視線をやった。

 

「前々から思ってたんだが、渚って司の事嫌いだよな」

「やっぱりバレてた? それでどう? 幻滅した?」

「別に。兄弟姉妹ってのは争って当然。仲が良い方が不自然だ。血縁が近い者同士は互いに拒絶し合うって話があってだな」

「……近親憎悪」

「流石に生物取ってる奴は違うな。それが同性の双子となれば……まあ、無理はないだろ」

 

それは心の奥底で求め続けながらも、今まで手に入らなかった言葉だった。例え姉の出来が良かろうと自分に優しかろうと、彼女を嫌い憎む気持ちは決して変わる事は無い。むしろ司が完璧に近づく程、嫉妬の炎は強く渚の体を焼き尽くす。

 

同級生も、教師も、果ては親さえも異口同音に言う。何故完璧な姉はお前を愛してくれるのに、お前は姉を憎むのだと。そんな事、渚にだって良く分かっていない。ただ一つ伝えたいのは、自分と同じ顔の奴が好き放題していると言うのは、想像以上に気色が悪いという事だ。

 

「どっちかと言うと、生物じゃなくて心理学の範疇だけど?」

「どっちでも良い。そこは重要じゃない」

 

彼との出会いがもっと早ければ何か変わっただろうか? いずれにせよ、もう手遅れなのは間違いない。

 

「お待たせいたしました。こちらサーロインステーキが二つと、シーフードドリア——きゃっ!」

 

その時店員が注文した料理を持ってきたのだが、テーブルに置こうとした瞬間に足をもつれさせてしまった。まずい。このままだと転んで全部ぶちまける。渚がそう思った頃には、反射的に体が動いていた。席から半身を乗り出し、倒れそうになった上半身を支える。

 

幸い行動が早かったので、料理は無駄にならず済んだ。

 

「も、申し訳ございません」

「お気になさらず。巽、店員さんの両手を楽にしてやって」

 

彼は無言で頷き、一皿一皿テーブルに移して行った。その間店員は渚に支えられたままフリーズしっぱなしだったので、流石に文句の一つでも言おうとしたが、胸元の「研修中」の名札を見てそんな気も失せてしまった。接客業の時給が幾らなのか知っていれば、多少の事には目をつぶれるようになる。

 

「よく反応できたな。流石姉妹なだけある」

「司だったらもっとスマートに助けてた」

「だが今この場にあいつはいなくて、代わりに渚がいた訳だ」

「それで? しばらく取れそうにない腕の痺れが報酬ってわけ? どうせあの店員も、夜寝る頃には助けられた事も忘れてるわよ」

「分からないぞ。本人からしたら大した事のない手助けのつもりでも、暗闇に生きる奴にはそれが全てになる」

 

件の店員は伝票を残して小声でぼそぼそ言うと、そのまま逃げるように奥へと引っ込んでしまった。彼女が伝えたかったのは感謝の言葉か、それとも「ごゆっくりお過ごしください」か。どちらにせよ、気にするだけ無駄だろう。

 

大した事のない手助けでも、暗闇に生きる奴にはそれが全てになる。普段なら鼻で笑っているようなキザな言い回しも、不思議と今は頭から離れていかない……もし司がこの場にいたら、きっと同じような言葉で渚を嗜めただろう。

 

「って言うか、あいつまだトイレなの? ぶっ倒れてなきゃ良いけど——」

「珍しく僕の事を心配してくれてるようで、嬉しいね」

 

財布の中身に余裕があったのだろうか、幾分か元気を取り戻した司が席に戻ってきた。彼女は巽の隣に腰を下ろすと、ナイフとフォークを配り始めた。その流れるような自然な所作は、彼女が普段から同性をたらし込んでいると言う話を裏打ちする物だった。「子猫ちゃん」を相手にする時も、似たような事をやっているに違いない。

 

「二人で仲良くしていたみたいだ。会長として嬉しいよ」

「そりゃ、これからも仕事で付き合う訳だからな」

「……喧嘩する理由がない」

「ふうん? 何を話していたか聞きたいけど、お喋りは食事しながらでも出来るし、冷める前にいただこうか?」

 

各々手を合わせて食事を始める。焦げ目のついたステーキにナイフを入れると、溢れた肉汁が鉄板の上でばちばち音を立てた。一口大にカットした肉をバターに絡め、ソースにディップして口に運ぶ。下処理がしっかりされているのだろう。程よく脂の乗ったそれは、噛む前から舌の上で柔らかくほどけていく。

 

食事をしている間、渚と巽の間に直接的な会話は殆ど無かった。テーブル上に話題を広げるのはいつも司で、それに二人が相槌を打つというお決まりの流れになった。彼はここでは無い何処かを見つめながら、ステーキを切り分けている。渚の方を見ようともしない。

 

 

◇◇

 

 

西園寺巽は十六歳。詳細な誕生日は不明だが、早生まれだから成長が遅いと言う自嘲染みた本人談から、一月から三月の間に産まれた事は確定。身長は百五十後半から百六十前半。白髪と碧眼は染色やカラーコンタクト特有の不自然さが無い事と、生活指導に引っ掛かっていない事から遺伝性の物であると推定。成績は平均的だが、数学に関して突出した才能あり。

 

渚はそこまで頭の中で読み上げると、手帳を片手で閉じてスカートのポケットに入れた。これは一ダース以上の情報源からかき集めた、西園寺巽と言う人物のスクラップだ。生徒会の役職持ちは教員からある程度信頼されるものであり、例えばプリントのコピーが刷り上がるまでの雑談なんかで、簡単に情報を集める事が出来る。彼らは暇つぶしのためなら、生徒のプライベートすら話題に上げるのを良しとするのだ。

 

印刷が終わったばかりでまだ温かいプリントの束を抱えながら、校舎の廊下を進んで行く。窓から差し込む日差しは今にも地平線へと飲み込まれそうになっていて、一日の終わりをにわかに告げようとしていた。星空に沈む太陽。夕焼けに浮かぶ月。渚は昼と夜が衝突し、混ざりあう瞬間が昔から好きだった。銀色に輝く日光は眩しすぎるが、青白い星明りは暗すぎる。

 

「や~渚~! 遅れて悪いね? ちょっとそこで子猫ちゃんに絡まれてね? 今からでも手伝うよ。半分こっちにくれるかい?」

 

後ろから肩を叩いてきた実姉に裏拳を飛ばすが、彼女は手で軽く受け止めて渚からプリントを六割以上持っていった。

 

「これはこれは、変わらずバイオレンスなコミュニケーションだ」

「あんたに気安く触られて、喜ぶような安い女じゃないって事よ」

 

バス会社へのプレゼンが終わってから一週間後、安藤支部長から来た返事はかなり好意的なものだった。と言うのも、前々から停留所を何処かに一つ増やすという話は上がっており、この学校の前も幾つかある候補の一つだったそうだ。そして今回、生徒会は決断の後押しをした事になる。

 

目標が達成されるのは当然良い事だ。それは分かっている。しかし、今渚の心中を占めているのは、何とも形容し難い無力感であった。果たして、自分達がやって来た事に意味はあったのだろうか。何もしなくても、良かったのではないだろうか。あるいは、何をしても無駄になった未来もあったのではないのだろうか。

 

全校生徒のアンケートをまとめて徹夜で資料を仕上げていた時は、自分達は大きな仕事をしているのだという重責が肩にのしかかっているように感じていた。しかし今振り返ってみれば、世の大人は皆当たり前のようにやっている、大した事のないおままごとだ。一体自分は何に悩み、憤ってきたのだろう。

 

「早ければ一月もしない内にバス停が置かれるらしい」生徒会室に向かう途中、司は独り言のように呟いた。途中で巽のクラスに寄って彼を拾って行くらしい。「僕達の通学も楽になるかな」

「その前にうちの生徒にマナー講習をしてやらないとね。車内で騒ぐな。席にカバンを置いて占領するような真似をするな」

「そんなまた大袈裟な。高校生だよ? 公共の場での振る舞いぐらい理解していると思うけど」

「そう? 人は群れると馬鹿になるって聞くけど」

 

途中通った二年生のクラスから、女生徒が戯れ合う声が聞こえて来た。知らないふりを突き通すにはあまりに下品で、耳に障る笑い声だ。廊下の窓側を歩いていた渚は、教室の様子を姉越しにちらりと見た。各々が個性を出そうとした結果返ってテンプレート的な姿へと落ち着いてしまっている、駅前を歩けば山程見つかりそうな三人組だ。

 

放課後とは言えまだ日直や委員会の仕事をしている生徒が残っているのに、もっと声を落とそうとは思わないのか。部外者が苦々しく思っても、彼女らにとっては仲間内のグループが全てで、他は存在しないのと同じなのだ。人は群れると馬鹿になり、同時に恐ろしい程残酷になる。十七年の人生は渚にその事を痛い程教えてくれた。

 

「渚はその、あまり人が好きじゃ無いみたいだね?」

「別に、馬鹿が嫌いなだけ」

「渚、君は僕の自慢の妹だよ。でもね、そうやって君より不出来な人を弾いていったら、一体君の元に何人残ると思う?」

 

それは全くもって正論だったが、自分よりも遥かに優秀な姉から言われたくは無かった。

 

「司だって付き合う奴選んでるくせに。年頃の高校生なんてもんはね、あんたが連れてきた会計担当みたいな奴ばっかじゃないのよ」

「確かに、彼は特別だね」

「私とあんたの名前をわざと呼び間違えて揶揄う奴が、この学校にどれだけいるか知ってる? そんなの履いてるのがスカートかスラックスかで分かるだろうに……教師ですらこの下らない遊びをしてんのよ」

 

通り過ぎた教室から、また没個性三人組の馬鹿笑いが響いた。渚は髪を掻き上げるふりをして耳を塞ぎ、頭の中で反響する声が収まるのを耐えていた。被害妄想も極まると、街中や校内で聞こえてくる全てが己に向けられた嘲笑へと感じるようになる。

 

「言葉遣いは気になる所だけど、渚の言ってる事にも一理ある。せっかくここまで進めて来た事を、誰かの悪ふざけで流されちゃたまらない」

「へえ? もっと綺麗事で取り繕う物だと思ってた」

「僕だって成長ぐらいするさ」

「本当は?」

「巽に言われた。何処かで足を掬われたく無ければ、耳の痛い事も聞くべきだとね」

 

そう言って司は苦笑いを浮かべる。何処か弱弱しくも見える彼女のこんな表情を見たのは初めての事で、この瞬間だけは劣等感から産まれた憎しみも鳴りを潜めていた。十七年共に生活しても尚、微塵も変わる気配を見せなかった姉が、たかだか関わって数か月やそこいらの男の言葉に考えを改める。

 

「司ってさ、巽と何処でどうやって知り合って、生徒会に引き入れたの?」

 

渚はその場に立ち止まって言った。廊下を数歩進んだ所で妹が横にいない事に気が付いた司は、片足を軸に体を半回転させた。夕暮れ時、橙色に染まる廊下に双子が向き合う姿は、さながら合わせ鏡のようだった。

 

「気になるかい?」

「当然。生徒会長のあんたには役員の私に、同僚の正体とスカウト理由を教える義務がある。何処の馬の骨かも分からない奴と、これ以上仲良く仕事は出来ない」

 

渚の口から吐き出される棘に何一つ真実は含まれていない。彼の事をもっと知りたい。そんな率直な一言ですら紡げなくなるほど、彼女はとうの昔に擦り切れていた。だが、こんな俺様野郎ですら歩みを止められるような奴なら、自分の事も少しはマシにしてくれるのではないだろうか? 始めて抱いた淡い希望にすがっていたいのに、友人でも無ければ当然恋人でも無い男の情報は、手帳へと書いても掻いてもなお欠いている。

 

「……隠すような事でもないか」

「はあ?」

「いいよ、教えてあげる。僕が働いている喫茶店があるだろう?」

「ああ、あの四六時中煙たい店ね」

「今時全席喫煙可も珍しいよね」

 

司は週に二、三回ほど都内に出て、駅前の喫茶店でアルバイトをしている。そこの店長は五十に差し掛かったぐらいの上品な女性なのだが、少々度を越した面食いであり男女問わず美形に目が無い。どれぐらいかと言うと、客として訪れた司にメニューではなく雇用契約書を渡すほどである。

 

渚もそこにいたのだが、その時の司の困惑に満ちた表情と来たら、今思い出しても笑えてくる。家に籠っていたら腐るだろうと外に連れ出された先で、こんな愉快な物が見れるとは思ってもいなかったのだ。だが、その契約書が二枚重なっている事に気が付いたとき、渚もまた姉と同じ表情を浮かべる事になった。以来、金が入り用になった時は時たま顔を出している。

 

「ある日の事、うちの制服を着た生徒が店に来てね。それがたまたま彼だったって訳だ」

「学校からあの店まで快速に乗っても二十分はかかるけど。何でそんな所に巽がいたのよ」

 

殆ど無理矢理やらされる事になった仕事だが、それでも渚が未だ飛ばずにいる理由は二つある。一つは学生身分で時給一三〇〇円貰える所は殆ど無い事で、もう一つは同級生と顔を合わせる事がまずない事だ。

 

「お姉さんが近くのオフィス街で働いているらしい。繁忙期に泊まり込みで仕事をする時着替えとか何かを差し入れに行くみたいで、その帰りに来てくれたんだよ」

「それで?」

「うん? これでおしまいだよ。話が少し弾んで、彼が出来る奴なのは知っていたから生徒会に呼んで、了承を得て今に至るって感じかな」

「……はあ?」

「僕の説明に納得してくれないみたいだね。でも、本当にそれだけだよ」

 

何でもない事のように言う司を前にして、渚はしばらく開いた口が塞がらなかった。人間と言うのはそんな単純で、思い通りに動かせる物ではない。こと巽のように自分の軸を持っている奴を、手元に置くにはそれ相応の苦労があったはずだ……無ければならないはずだ。だが、彼女の持つ天性の魅力は、時に人の理性や損得勘定すらも超越して、全てを捧げさせる。

 

「それだけ、なんだ」

 

やがて渚の胸中を覆い始めたのは、奇妙な失望感だった。自己中心的で傲慢な姉が男の言葉に揺らぎ、理性の中に情熱を持った同僚が女の魅力に墜ちる。何処までも畏敬と劣等感を植えつけて来る二人が、いわゆる普通に成り下がっていく姿を見ていると、まるで自分の価値すらも毀損されたような錯覚に陥る。

 

いや、違う。普通に成り下がったんじゃない。彼らは互いに特別だから共鳴し合い、互いに関わっている時だけ普通でいられるのだ。

 

「巽の事が気になるかい?」

「何でそう思うの?」

「この前ファミレスで打ち上げをした時、僕がいない間ずっと二人で話していただろう」

「見てたならさっさと席に戻って来い」渚はため息混じりに毒付いた。「あの店員もあんたに助けられた方が嬉しかっただろうよ」

 

それはいつもの自嘲じみた言葉であり、普段なら司が窘めにかかるのがお決まりだった。だが、彼女は押し黙ったまま顔から表情を消すと、その場に立ち呆けていた渚に早足で歩み寄ってきた。

 

「彼の事が、好きなのかい?」

「はあ? そんな訳——」

 

そこで渚は言葉に詰まってしまった。何事も色恋沙汰に結びつけようとする思春期の考えなど、心底くだらないと切り捨ててやりたかったのに、何故か二の句が継げずにいた。

 

「……さあね」

 

そんな曖昧な言葉すらも、絞り出すには一分近く必要だった。ただ、ここで真っ向から司の言葉を否定してしまったら、巽との関係はただの仕事仲間で終わってしまう事はうっすらと分かっていた。義務教育の六年間と高校に上がってからの二年間、渚にはそれまで碌な交友関係など無かった。自分が誰かと時間を共有する事など考えもしなかったが、もし隣にいるのが彼だったらどうだろうか? 

 

何処かの喫茶店で一息ついたり、放課後の図書室でテストのヤマを当てようと悩んだり、そう言った青春のテンプレートのようなありふれた日々を、二人で送る姿を妄想するのは不思議と容易かった。だが、彼は友達でもなければ、当然恋人でも無いのだ。

 

「悩むんだね」

「悪い?」

「何にせよ自分の気持ちをはっきりとさせておく事だ。どっちつかずの子とは、喧嘩することもできないから」

 

そう言って司は体を半回転させると、また廊下を進んで行った。渚も少し遅れて後をついていく。その足取りは普段よりも幾らか早いような気がして、駆け足気味になっても中々追いつけずにいた。彼女は自分に背を向けてどんどん先に行ってしまうせいで、表情を見る事すら出来ない。

 

「早い、止まって」

 

渚がぼやくのとほぼ同時に、司は歩みを止めた。だがそれは目的地に着いたからであって、決して自分の言葉が耳に入ったからではない。声をかけた彼女自身がそう思ってしまう程、二人の距離は離れ過ぎていた。姉が立ち止まった教室のクラスプレートを確認する。「2-3」。巽のクラスだ。

 

司の方は十秒以上早く教室前についていたが、当の本人は入口前でぼっ立ちしたままだった。ドアを開けようともしていなかった。妹を置いていく癖してなぜさっさと入らないのかと、ようやく追いついた渚は嫌味を言おうとしたが、その理由はすぐに分かった。外からでもはっきり聞き取れるような、男女二人の言い争いが中から響いていたからだ。

 

「だからさ、こんなアンケートで校則の変更だの学校行事の追加だのの意見を集った所で、全部握りつぶされて無駄になるのがオチじゃない!」

「……生徒の意見を吸い上げ整理し積み上げておけば、未来の後輩が拾い上げて形にしてくれるかもしれないだろう。今この瞬間叶わないからって無駄だと切り捨てるのは早計で——」

「それだけ? 私達はただの記録取り?」

 

男の方は巽だとすぐに分かった。女の方は顔と名前がすぐに思い出せるわけでは無かったが、生徒会の集まりで聞いた事があるような声だった。恐らく役職持ちでない一般会員だろう。殆ど押し付けられたような物とは言え、仮にも役員である渚は彼らよりも立場が上ではあったが、彼女の指示に素直に従うような者はそう多くなかった。

 

「第一、ただのラッキーで役員になったような奴に説教なんかされたく無いわよ。二年から生徒会に入ったようなあんたも、ただお姉ちゃんが優秀だっただけの奴にも。今の生徒会役員なんか、ただの会長のお気に入りじゃない!」

 

会長以外は飾り物。これが大半の生徒と教師陣が、生徒会役員に抱いているイメージであり、学園の王子様の下で働く渚達は嫉妬の感情を向けられる事も多かった。実際は司の暴走を止めるブレーキ役と無茶を実現する実行役だというのに、人は派手な物にばかり目を取られる。

 

「あいつ……」

 

司が険しい顔をしながら教室に乗り込もうとするのを、渚は肩を掴んで引き留めた。彼女はすぐに振り解こうとしたが、その辺りは双子、力比べはほぼ互角だった。

 

「やめて」渚は勤めて平坦にそう言った。「……慣れてるから」

 

いくら姉が憎いとは言え、こんな形で評判を落としてやる事もあるまい。それは渚に残ったほんの僅かな良心のような物だったが、義憤に駆られる司を止めた理由はそれだけでは無かった。謎だらけな巽の本心を探る良い機会だと思ったからだ。

 

「どこで誰が聞いているか分からないんだ。そんな言葉を使うのはよせ」

「はあ?」

「渚は司と比べられる事に悩んでいるようだが、そもそもあの二人を同じ物差しで測る事自体間違ってる。役割がそもそも違う」

「はっ。あんな会長の性格を悪くしただけの劣化品の肩を持つの。何? 好きなの? 趣味悪い」

 

いよいよ引き戸に手をかけた司を抑え、自分が運んでいたプリントを押し付けて先に生徒会室に行ってろと小声で囁く。普段から余裕綽々と言った態度の彼女だが、その実態は怒りの許容量が人よりも何割か多いだけで、爆発した時の酷さは渚よりも凄まじかった。

 

高校入学と同時に彼女がスラックスを履くようになり、気取った喋り方をするようになってからは怒りを振り撒く事も無くなったが、だからと言って無駄な刺激をしてやる事もあるまい。

 

少しの間沈黙が空間を支配したが、それを破ったのは教室内の巽だった。彼は長いため息を一つ付くと、口を開いた。

 

「劣化品か……人を物みたいに言うな」

 

それは彼にしては珍しく端的で簡潔な物言いだったが、今まで渚にかけられて来た全ての言葉よりも意味があった。

 

「役員が厄介な仕事をこなしている中、お前達はケチをつけるだけか。雑用程度で通知表の欄に生徒会所属の記載が載るのは楽で良いな——」

 

巽が言い切る前に大量の紙が床にぶちまけられる音がした。二人の今までの会話から察するに、アンケート用紙か何かだろうか。早口で捲し立てる彼に我慢できなくなったのか、女の方が爆発したらしい。

 

「……本当に嫌なら、紙切れ一枚で辞められるんだから、そうするべきだ」

 

その直後、叩きつけられるように教室のドアが開き、件の彼女とご対面する事になった。茶髪をセミロングヘアにした、いかにもクラスのまとめ役と言った感じの女子だ。率先して口喧嘩をするようなタイプには見えない。

 

彼女は渚を前にして一瞬慄いたように見えたが、すぐにきぃっと歯を剥き出しに睨んでその場を去っていった。こうして真っ直ぐに敵意をぶつけてくる辺り、陰口を叩くしか能がない奴より幾らかマシか。まるで他人事のように思いながら、教室に足を踏み入れる。

 

太陽が急速に傾き始め、立ち並ぶビルの裏へと沈んで行く夕暮れ時。全てが橙色に染まっていく教室の真ん中で、巽はぼうっと立ち尽くしていた。開けっ放しだった窓から吹き込んだ風がカーテンをはためかせ、柔らかな前髪を揺らす。

 

「渚か」

「正解。よく分かったわね」

「髪型と服装で分かる。司はスカートを履かない」

 

巽の足元には、渚にも見覚えのあるプリントが十数枚程ぶちまけられていた。生徒総会に向けて在校生から寄せられた質問や要望等を箇条書きしたリストだ。彼に渡した時には真っさらだったはずの紙は、今や赤ボールペンの書き込みだらけになっていた。

 

なんて奴だ。黙って電卓だけ叩いていれば良いものを。心の中で呟き下唇を噛む。プリントには綴られた要望には——例えそれがどんなに馬鹿馬鹿しいものでも——実現可能性や利益などが一つ一つ簡潔にまとめられていた。

 

しかしどれ程理路整然とした意見だろうと、その殆どは先程教室を飛び出していった女生徒が言う通り、変化を嫌う教員連中に握り潰される事を渚は良く知っていた。

 

「いつからいたんだ?」

「結構初めの方から。もしかして、加勢してあげた方が良かった?」

「もっとこじれていただろうな」

 

巽は眼鏡を外し、眉間を揉むように押さえた。その目元には小さなクマが出来ている。

 

「覚えていないだろうが、彼女もまた生徒会長に立候補した内の一人だ。司に負けた後は副会長にでもなるつもりだったらしい」

「けど、当の本人は副会長なんて指名しなかったと」

「会話内容を間違えて爆弾解除にも失敗して、このザマだ」

 

彼はその場にしゃがみ、床に散らばったプリントをクリアファイルに戻し始めた。その手つきはあまりにおぼつかない物で、片付けをしている途中何度もプリントが掌から溢れ落ちた。弱々しくて、とても見ていられない。

 

「どうしてそんなに頑張るのよ」渚もしゃがんでプリントを集め始めた。「疲れて碌に物も持て無いじゃん」

「彼女の言う事にも一理あると思うけど? 私達のやってる事はただの学生のお遊び。角の立つような事はしない方が得でしょ」

「だからと言って同僚を馬鹿にされて黙っていろと? そんなに器用には振る舞えない」

「だからなんであなたは——」

ここで巽を気遣える言葉の一つでも紡げる口なら、これまでの人生はもう少し楽な物になっていただろう。だが、渚の中で心配や不安といった感情は全て怒りに変換されてしまう。

 

彼は心の奥底で求め続けていた言葉を沢山くれた。本人にとっては何でもない手助けのつもりだったのかもしれないが、失意の闇に長年沈み続けた者にとってはそれが全てになった。渚にとって巽はもはや無くてはならない存在だったが、自分が彼に与えられるものなど何も無いだ。

 

「なんで頑張るかって話か」片付けを終えた後、巽はふらつきながら立ち上がった。「大体前に話した通りだよ。例えお遊びだろうと、何かしたいと思うのが、そんなに悪いことか?」

「あんなに言われてまで、真面目にやる筋合いは無い」

「俺の事は別にどうだって良い」

「あんたが良くても、私が良くない——」

「……惚れた弱みだよ」巽は口元の筋肉を仕方なく動かすような、歪な笑みを浮かべた。「面白くとも何ともないだろ」

 

歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく言う巽の姿は、何度拒絶しようと自分にだる絡みを繰り返す姉のそれとよく似ていて、彼の言う通り渚にとっては面白くとも何ともなかった。むしろ、不愉快極まりなかった。全身から力が抜け、糸を切られた操り人形さながらペシャリと床に座り込んでしまう。

 

「おいおい……そっちの方がよっぽど不味いじゃないか」巽はその場に崩れ落ちた渚に手を伸ばした。「立てるか?」

 

渚は体の震えを必死に抑えながら、差し出された手を取った。男にしてはやけに白くて繊細な指だ。下手に力をかけたら砕けてしまうのではないかと錯覚してしまう程に。

 

情報の濁流に飲み込まれそうになる意識の中で、ある疑念が頭に芽生えた。彼が惚れたという奴の検討は既についており、その九割九部の疑念を十割の確信にする方法も思いついた。考えるだけで胃の中身が全て逆流しそうになる、最低な試し行為だった。

 

「いつも『僕』を助けてくれて、ありがとうね、巽」

 

渚の人生は、余計な一言で後悔する事の繰り返しだった。ここで口を開けば後戻り出来ない事は分かっているのに、己の影に背中を突き飛ばされて一線を踏み越えてしまうのだ。

 

自分は今、彼女のように笑えているだろうか? 劣化品が完璧を真似られているだろうか

 

「……ちょっとここで休んでろ。と言うか、今日はもう帰れ。渚も疲れてるんだよ」

 

されるがまま固い椅子に座らされる。声をかける間も無く、巽は鞄を持って教室からさっさと出て行ってしまった。目すら合わなかった。だが自分に背を向けた彼の耳が、霜焼けかと思える程赤く染まっているのを、渚は見逃さなかった。

 

「……絶対司の事好きじゃん」

 

あんな胸も尻もない癖して、図体だけ無駄にでかい女の何処が良いんだ。顔だって可愛らしい訳でもない。それが好みって言う物好きなら……自分でも別に良かっただろう? 

 

しかし巽は双子という記号に惑わされず、自分達を一人一人別の人間として見る男だった。だから渚は彼に惹かれてしまったし、彼は司に惚れてしまったのだろう。側だけ似せた粗悪品を選ぶ道理など無いのだ。

 

一瞬でも妄想してしまった彼との何でもない青春の日々が、嫉妬の炎に焼かれ灰になっていく。目から溢れた雫が頬を伝い、机の上に落ちて染みを作った。泣いたのは久しぶりの事だった。

 

 

◇◇

 

 

各駅停車で自宅の最寄駅に着く頃には、胸にぽっかりと空いた喪失感が失恋である事を自覚出来た。それからどうやって家に帰ったのか覚えていない。気がついた頃には窓の外は暗くなっていて、制服姿のまま自室のベッドに寝転がっていた。

 

それからしばらくして司が帰ってきたが、真っ暗な部屋で啜り泣く妹を見て思う事があったのか、鞄やら携帯やらを置くとすぐに出ていった。それは彼女なりの気遣いのつもりだったのかもしれないが、荒んだ心では腫れ物扱いされたようにしか思えなかった。

 

一階からシャワーの音が聞こえて来る。二、三十分は部屋に戻ってこないだろう。渚は目元の涙を拭ってベッドから起き上がり、学習机の電気スタンドを付けると、LEDの白い光の筋が暗闇に浮かび上がった。

 

一体自分は何を被害者面して悲しんでいるのだろう。片や学園の王子様。片やただの性悪女。容姿が全く同じなら、前者を選ぶのは当然では無いか。恨むべきは変わろうとしなかった自分自身であり、決して司では無い。理性は己をそう責め立てるが、感情の方はひたすら姉への憎悪を募らせていく。その矛盾にまた自己嫌悪する事を繰り返し……ついに渚という個人を崩壊させるに至った。

 

どうせ自分は一生変われない。だったらいっそ、最低まで堕ちてしまおう。

 

渚は司のベッドから彼女の携帯電話を拾い上げると、顔認証機能でロックを外した。顔認証は一世代前の指紋認証と比べて利便性の面で勝るが、容姿の似た親子や兄弟では解除されてしまう可能性があるのは明確な欠点だった。それが双子となれば、言うまでも無い。

 

携帯を操作しメッセージアプリではなく電話アプリの方から巽の番号にかけると、三コール目で繋がった。声が震えないよう祈りながら、渚は目を閉じて大きく息を吸った。

 

『はい。西園寺です』

 

頭の中に思い浮かべるのはこの世で最も憎い女の姿。十七年も間近で見続けて来たのだ。彼女がどんな時にどんな事をするのか。彼女の一挙手一投足をトレースする事など、渚にとっては容易い事だった。

 

「……やあ、巽。別れたすぐで、すまないね』

『司か? 連絡ならメッセージアプリで事足りるだろ』

「君の声が恋しくなっただけだよ。それに、どうしても今すぐ伝えたい事があってさ」

 

携帯の向こう側から聞こえてくる声は訝しげだったが、その疑念はわざわざ電話をかけて来た事に対する物であって、まさか双子の妹が司を騙っている事など考えてもいないようだった。

 

「明日の昼休み、生徒会室に来てくれないかな? 普段から頑張ってくれてる君に、特別なお礼がしたいんだ」

『渚も一緒か?』

「いや? 僕と一対一だよ」

『分かった。昼休み、生徒会室だな』

「うん。こんな夜中に連絡して悪かったね。おやすみ」

『……おやすみ』

 

受話器のアイコンをタッチして電話を切る。通話時間三十五秒。電話の発信履歴はメッセージアプリのそれと違い、ワンタップで簡単に消す事が出来る。あとは元の場所に戻せば、持ち主が気が付くこともあるまい。携帯の電源を落とすと、暗転した液晶に泣き腫らした女の顔が映った。相変わらず姉と瓜二つで、何もかも気に入らない容姿だ。だが、今はこれでいい。

 

「……悪いけど、あんたの物、欲しくなっちゃった」

 

鏡面に映った女に、独り言のように語りかける。彼女の顔は……笑っていた。

 

 

◇◇

 

 

「待っていたよ、巽。でも少し遅かったんじゃないかい?」

 

昼休みが開始から十分後。生徒会室の扉をノックする音が響いて、巽が入って来た。渚は彼を迎え入れると、後ろ手で鍵を閉めた。これで邪魔が入る事もあるまい。

 

「四限が体育だったんだ。着替えるのに手間取った。汗臭かったら悪いな」

「それはすまない事をしたね。でも、気にならないよ」

 

巽の背後に立って首筋の匂いを嗅いだが、香って来るのはミント系の制汗剤だけだった。自分でも気持ちが悪いと思う行動だが、司ならこれぐらいはやる。事実渚もやられた事がある。

 

今、渚は司のクローゼットから盗んだ冬用のスラックスを履き、前髪の分け方を彼女と同じ右目隠しにしていた。自分のスカートはバックの中に畳んで入れてある。巽が生徒会室に来るまでの十分間で、家から持って来たスラックスに着替えたのだ。

 

「それで、昨日言っていたお礼って何だ?」

「君、いつも生徒会のために頑張ってくれてるだろう? そのお礼だよ」

「俺は仕事をしただけだ。特別感謝される事をした覚えはない」

 

巽の反応を見るに、渚の「変装」は完璧に上手くいっていた。さて、司の姿に化けてどうするか。彼を傷つけるのも幻滅させるのも、この姿なら簡単な事。姉への好意を嫌悪に反転させてから、後はゆっくり自分の手に落とせばいいだけの話だ。

 

だが、彼の熱った頬や汗ばんだ肌、線の細くて整った容姿を前にすると、己の奥底に沈めたはずの満たされぬ欲望が、唸りを上げて目覚めるのを感じていた。彼を貪り、犯し、その純白を悪意を持って汚し尽くしたい。難しい事など考えず、短絡的で動物的な手段を選びたい。

 

どこまでも最低な奴だ。どれほど逆恨みのような嫉妬心を向けられても愛し続けてくれた姉の姿に化けて、始めて自分を一人の人間として真っ直ぐ見てくれた男を襲おうとしている。何度自己嫌悪に陥ろうとも改善の気配すらない。きっとこれは、生涯治らない病なのだろう。

 

「……君って、僕の事が好きだろう?」

 

巽の体が一瞬固まった。出来れば否定して欲しかったが、やはりそうか。渚は口の中で舌打ちをしながら、蛇のように素早く彼との距離を詰めた。一歩一歩後退りする彼を壁際に追い詰め、両手をついて逃げ場を無くす。

 

「好意はありがたいけど、生憎君みたいな小動物を彼氏にする気は無くてね」

「なっ……!?」

「あは……顔真っ赤にしちゃって可愛い。でも、こんなにちっちゃくて、力も弱くて、女の子みたいな顔してる君を、対等なパートナーとして見る訳が無いじゃないか?」

 

巽は体を震わせながら、目尻に涙を浮かべていた。普段の彼なら決して見せないような姿にゾクゾクしてしまう。この姿だからこそ効果があるのだろうか? 片思い相手にこんな事を言われて、平気でいられる方が少ないはずだ。

 

どうやら巽は渚と同じく、自分の容姿にコンプレックスを抱えているようだった。彼は自分のように周りに当たり散らしたりしないだけで、心の中で常に己の肉体に対して憤りを覚えていたに違いない。同じ傷を持った者同士だ。だからこそ、その傷の抉り方は良く知っていた。

 

彼もまた羽化に失敗したサナギ、蝶になれなかった芋虫なのだ。

 

「でも君、見た目は悪くないよね。だから普段のお礼に、僕のペットぐらいにはしてあげるよ」

「ペ、ペット……?」

「そう。ペット。子猫ちゃんは沢山いるけど、ワンちゃんは飼った事が無くてね。盛りがついた犬っころみたいに、ひたすら僕とまぐわって、腰を振って……」

 

ネクタイに手をかけて顔を引き寄せ、無理矢理キスをした。唇に吸い付き口内へと舌を這わせ、唾液を流しこむような強引な口付け。ファーストキスは、スポーツドリンクの味だった。ああそうだ。昼休み前は、体育の授業だったか。

 

その突然の行為に巽は四肢をばたつかせて、拘束から逃れようとしていた。拳が何度も渚の方へと振り下ろされる。本人にとっては必死の抵抗なのかもしれないが、その力はあまりに弱くて殆ど意味をなさず、渚の仄暗い嗜虐心を煽るだけだった。

 

口の中全てを舌で犯すような接吻が終わった後、ネクタイを離して巽を解放した。崩れ落ちるようにして床に座り込んだその姿は、失恋直後の自分とそっくりだった。渚は放心状態で涙を流している彼に覆い被さると、眼鏡を外し取り上げて頬に伝う雫を舐め取った。

 

「へえ。これ、伊達だったんだ。幼い顔を少しでも隠して、クールな男を気取るためかい?」

 

眼鏡を部屋の隅に放り投げ、今度はブレザーとシャツを脱がしにかかった。流石に抵抗は先程よりも激しさを増したが、彼の小枝みたいに細い手首は、二本まとめて片手で楽に拘束出来た。こうして自分の無駄に大きい図体に感謝する日が来るとは、まさか夢にも思わなかった。

 

巽の上半身を裸に剥いた後、渚はうっとりとした視線を彼の体に向けて、薄い胸板に指先を沈めてなぞって行った。白い柔肌の上で控えめな主張をする桃色の乳首に口付けを落とし、唇で吸い上げてぷっくりと膨らませる。

 

「や、やめ……」

「やめて欲しい? でも、君のここは随分と期待しているみたいだけど?」

 

手を彼のズボンの中へと突っ込むと、固く膨張した肉棒が指先に触れて直に熱を伝えてきた。その全体像を捉え掌握する。甘勃ちした陰茎を手のひらで包みゆっくり擦り始めると、巽の口から悲鳴のような喘ぎが漏れた。部屋の外に聞こえては面倒だと、啄むようなキスで唇を塞ぎ、お喋りを黙らせてやる。今だけは彼のどんな言葉も耳にしたくない。

 

力の抜けた巽の手を取り、その手首を掴んだままスラックスの奥、下着の中へと滑り込ませた。冷たい指先が熱く蕩けた陰唇を引っ掻くように触れ、初めて自慰をした時のような幼子の声を出してしまう。惰性のような口付けを交わしながら、彼の手を玩具代わりに弄ぶ。直接自分の手で触れる時とは違う、制御し難い刺激が未知の快楽に背筋を震えさせ、彼の指一本一本に己の雌穴の形を教え込んでいく。肉豆の大きさから位置、入り口の締まりから濡れ加減まで全て。

 

「そうそう、優しく触って……んっ……」

「いい加減、放せ……」

「君はつれないな」

 

先走りでべたつく手で巽の陰茎を扱きながら、渚は彼が顔が赤くなったり息を荒くするのをオナニーのオカズにしていた。種を求め大口を開けた肉花が白く細い指に掻き回され、淫蜜を滴らせて灰色のスポーツショーツに大きな染みを作る。この色気もへったくれも無いような下着も、司のタンスから盗んだ物だ。

 

「おい、もう、冗談じゃ済まないぞ……」

「僕がおふざけや戯れでこんな事をするとでも? それに君、僕の事好きなんだろう? 好きな子にこんな事されてるんだ。少しは喜んだらどうだい?」

「俺が好きなのはいつもの司だ。こんな痴女みたいな奴じゃない!」

「いつも、ね。君も結局皆と同じなんだな」

 

渚は片手でブレザーを脱いでシャツのボタンを外すと、スポーツブラ一枚になった。その布切れすらも上にずらして、あるのか無いのかも分からない胸を露出させる。微かな膨らみに取って付けたような乳首があるだけの、境界線すら曖昧な乳房。女らしい所が殆ど無い体の中でも、一番のコンプレックスだった。だが気まずそうに目を逸らした巽の反応を見るに、最低限の価値はあるようで、どこか安心している自分がいた。

 

「僕の本性なんか、ただの欲求不満の淫乱女さ。こんな見た目で生まれちゃったせいで万年男日照りで、アダルトビデオで犯されてる女優に自己投影して、毎晩のようにオナニーしてるんだよ?」

「お前何言って——」

「信じたく無いかい? 僕も同じだけど、本当の事だから仕方がない……ほら、見ろよ。こんな真っ平な胸の女、誰が相手してくれるってんだ」

 

皮肉な事に借り物の姿の方が、普段皮肉と嫌味でコーティングし続けて来た本音を、全て包み隠さず吐露する事が出来た。だが、己の正体を隠さなければ口にも出来ない本音に、一体何の意味がある? 何処まで行っても渚と言う個人には価値が無く、姉の劣化品としてしか生きられない。

 

「何も知らない癖に好きとかなんだとか、安っぽい言葉を使うな」

 

どうせお前も上位互換の方が好きなくせに、綺麗事を吐くな……そうして半端に優しくするから、蝶になれなかった芋虫に、サナギの中へと引きずり込まれるんだ。

 

「確かに俺は司に幻想を抱いていたのかもしれない。それは認めるし、謝るよ。でも、こんな事をするのは辞めろ。もっと自分の体を大事に——」

「襲われているってのに相手の心配かい? こいつは傑作だ……本当に僕に寄り添いたいなら、黙って犯されてろ」

 

解消出来ず溜まり続けた、性欲の捌け口ぐらいにはなるだろ。渚は耳元で囁き、今度はベルトに手をかけた。巽の上に跨ったままスラックスを脱ぎ、上下共に下着姿になる。

 

「捨て鉢になるなって言ってんだよ!」

「ヤケを起こして、男なら誰でも良くなっているとでも? 随分安く見積もられたものだね。僕は前々から君の事を狙ってたと言うのに」

「なら言って見ろよ。俺のどこが司のお気に召したのか」

「幾らでも言えるよ。ぱっちりとした目の可愛らしい顔とか、押し倒されても碌な抵抗出来てない所か。何もかもが弱っちくて、愛玩動物としてはこの上ない才能——」

 

言い切る前に顔面目掛けて張り手が飛んできた。渚は首を逸らしてひょいと避けると、そのままの勢いで巽の腹を殴った。抉るように突き出された拳が、薄く白い腹に沈み込む。十五センチの身長差に加え、マウントポジションからの一方的な攻撃だ。性別による筋力差など、何の意味もなさないだろう。

 

「がっ……!」

「ああ、あと理不尽に対して真正面から立ち向かうところも好きかな? 今は鬱陶しくて仕方ないけど」

 

もう一発、さらにもう一発腹に打ち込み、三度目でようやく巽はおとなしくなった。焦点の合わない目を見開きながら、過呼吸を起こして悶えている。顔を殴らなかったのは、渚の趣味だ。これから犯す相手がボコボコに腫れて痣だらけなんて、萎えて仕方がない。

 

「ねえ。巽ってこう言う経験ってあるのかな?」

「おま……何言ってん……だ」

「早く答えないと、もう一発喰らわせる。三、ニ、一」

「ねえ、ねえよ……!」

「……へぇ、そう?」

 

渚は極めて冷静でいようとしたが、その口元は裂けんばかりに吊り上がっていた。彼、男らしくないってだけで見てくれは上澄も上澄だから、何処かの変態に喰われてても仕方が無いと思っていたが、童貞なのか。相手に経験がない事を喜ぶぐらいには、彼女は変な所で潔癖だった。

 

「可哀想に。これから巽はどんな相手と恋におちようとも、僕に犯されて純潔を奪われた事実は変わらないんだよ? 恋人と体を重ねる度に今日の事を思い出して、吐きそうになってくれると嬉しいな」

「この……やろ……」

「まあ、他の女に目移りなんてさせないけど。どうせ僕に抱かれたらまともな恋愛なんか出来なくなるんだから、無駄な抵抗なんかせずに大人しく僕のペットになってよ?」

「誰がなるかよ……!」

「……お喋りな君も好きだけど、今は静かにしてもらおうかな」

 

渚はスポーツショーツを脱いでいよいよ裸になると、その布切れを丸めて巽の口に突っ込んだ。クロッチに染み込んだ雌汁の味に気持ちが悪くなったのか、吐き出そうとした彼の口を手で押さえて、さらに喉奥へと捩じ込んだ。

 

暴れる下半身を押さえつけながらスラックスを下着ごと脱がせると、固く勃起した陰茎が顕になった。少し皮の余った竿からピンク色の亀頭が顔を覗かせている、陰毛一つなければ剃り跡すら残っていない綺麗な物だった。恐らく生えない体質なのだろう。殆ど無意識に舌打ちが漏れていた。こちとら意識して整えないと密林まっしぐらだと言うのに。

 

彼に跨るようにして床上に膝立ちになると、甘勃ちした肉棒をぬるつく割れ目に擦り付け、そのいきり勃つ銃身を膣口に当てがい、ゆっくりと腰を下ろしていく。そうして亀頭が完全に飲み込まれたあたりで、膨らんだ先端が肉の膜にぶつかるのを感じた。

 

「ほうら、あともう少しで君のアソコが僕の子宮とキスしてしまうね? せっかく全部脱いで見やすくしてあげたんだから、しっかり目に焼き付けておきなよ。自分が汚される瞬間ってヤツを」

「んーっ! んーっ!」

「あはは。嫌かい? だったら、頑張って萎えさせる事だね……女らしくも無い裸を見て、ガチガチにしちゃってさ。君も大概、悪趣味だよね」

 

渚は挑発と嘲笑で間を持たせていたが、そろそろ彼を馬鹿にする言葉も思いつかなくなってきた。もう後は足の力を抜いて重力に委ねればそれでお終いだと分かっているのに、そこから先には中々進めずにいた。

 

こうして巽を犯し穢したとて、彼の記憶に焼きつくのは自分ではなく司の方なのだろう。それが目的だとしても霧島渚という名前が自分以外の誰にも残らないと言うのは、これから処女を捨てる上で躊躇する理由にはなった。

 

だが目の前に置かれた肉は本来王子様のために作られた一皿で、人間の形をしてるだけの畜生には手が届かないはずの絶品だ。貪れるのは今この瞬間だけ。ここを逃せば、きっと骨も残らない。

 

「ははっ……」

 

渚は笑った。こんなに美味しそうなものを素通りするなんて、あまりに勿体無いじゃないか。大した価値も無い処女一つで、彼を好き放題出来るんだ。一体自分は、何を迷っていたと言うのだろう?

 

「形はどうであれ、この僕と肌を重ねられるんだ。光栄に思いなよ?」

 

叩きつけるように腰を下ろすと、ぶちんと純潔の証が裂けて消える音が響いた。結合部から滲んだ血が肉棒に滴って朱に染めていく。そのグロテスクながらも淫靡な光景を前に、巽はただ青い顔で震えていた。

 

「……何だよ。僕が経験豊富で、優しくエスコートしてくれるとでも思っていたのかい? 生憎僕も初めてでね、君を気遣う余裕なんか無いんだ……!」

 

恐怖に歪みきった彼の顔を前にして、渚の嗜虐心は頂点に達した。過剰に分泌された脳内麻薬が処女膜を破られた苦痛を打ち消し、膣壁を穿つような快楽を全身に運んで、肉体を甘く痺れさせる。

 

恐怖に歪みきった彼の顔を前にして、渚の嗜虐心は頂点に達した。過剰に分泌された脳内麻薬が破瓜の痛みを打ち消し、膣壁を穿つような快楽を全身に運んで、肉体を甘く痺れさせる。

 

「そんなに嫌がらないでくれよ。君の趣味にも少しは合わせてあげるからさ……どうだい、潮でも噴こうか? それとも、艶っぽく喘いであげようか? あん、あん、あ〜ん」

 

上体を反らして裸体を見せつけながら、まるで踊るようにしてその肢体を跳ねさせる。腰を突き上げるようなグラインドで奥へ、更に奥へ。渚の中は血混じりの愛液で濡れそぼり、迎え入れた陰茎を包んで締め上げていた。それは自分が気持ちよくなるなる事しか考えていないような無茶苦茶な腰振りで、セックスと言うにはあまりに一方的な行為だった。

 

弾むように尻たぶを打ち付ける度、飛び散った雌汁が巽の体を汚していく。ぐちゃぐちゃと卑猥な水音が薄暗い房室に響いては消えていく。始めは激しく体を捩らせていた彼も、もはやどんな抵抗も無駄と悟ったのか、今はただ虚な瞳で涙を流すばかりになっていた。

 

そうやって黙って犯されていればいいんだ。渚は舌なめずりをすると、人形のように動かなくなった巽の体を本格的に弄び始めた。激しいピストンで彼のペニスを責め立てながら、裸に剥いた上半身に口付けの雨を降らせ、桃色の乳首に吸い付き舌の上で飴玉のように転がす。

 

「泣き顔もいいなぁ……」

 

渚は愉悦の笑みを浮かべ、巽の上にしなだれかかった。ナメクジの交尾みたいに上半身を重ね合わせ、ねっとりと体を擦り合わせて行為を続ける。彼の口に突っ込んでいた下着を引き抜き、再びキスで唇を塞ぐ。

 

その時、がつんとドアノブが捻られる音が響いた。勿論内側から鍵がかかっているため、開く事は無い。だが、扉一枚隔てた先に人がいるという事実が渚をより一層興奮させた。叫んで助けを求められないよう、舌をねじ込んで絡め合う。扉前の気配が薄れるまで少しかかったが、やがてここから遠ざかっていく足音が廊下から聞こえて来た。

 

「ふう、危なかったね」

「もう、やめ……やめろ……」

 

口内の唾液全てを吸い出すような激しい接吻の後、巽は息も絶え絶えにそう紡いだ。

 

「やめて欲しいなら、早く萎えさせたらどうだい? 口で何と言おうとも、結局君は犯されて喜ぶ変態なんだよ」

「違う……俺はこんな事……したく、ない……」

「前々から思ってたんだけどさ、巽に『俺』って似合わないよね。せっかく可愛い見た目してるんだから、その顔に合った言葉遣いしなよ」

 

それは渚自身にも突き刺さる言葉だった。姉のように王子様を気取っていれば良かったものを、生まれ持った性別を捨て切れずに不利な場所で戦い続けて、ようやく実った初恋すらも徒花となって散っていく。

 

一生肉体を呪って生きて行くのだろうと思っていた。だが女として生まれたおかげで、こうして彼を抱く事が出来ている。今はそれだけで充分だった。

 

「司……抜いて、抜いてくれ……」

「ん〜?」

「そろそろ、出そうなんだよ……」

「何だ、結局君も感じてるんじゃないか。良いよ、中に出して僕を孕ませて。巽は女の子が良い? それとも、男の子が良い?」

 

勿論これは煽りだ。生理痛を少しでもマシにするために飲み始めた低用量ピルが、まさか避妊の形で役立つとは夢にも思ってもいなかった。いくら初体験で舞い上がっているとはいえ、未成年が子供を作った所で悲惨な末路を迎える事ぐらいは分かっている。

 

誰しもが訳の分からないままこの世界に堕とされて、堕とされたからには生きなければならない。それで楽しくやれる奴はそれで良いが、そうでない奴はどうすれば良い? 後者としての人生を歩んできた渚は、命を創る事に対して否定的だった。

 

だが、巽にそんな事を伝える気はない。レイプの最中でも相手の心配をするような男だ。一方的に犯されただけとはいえ、自分との行為で相手が妊娠したとなれば——事実がどうであれ、そう思い込ませる事が出来れば——彼はきっと、逃げられなくなる。

 

「ふざけん、な……!」

「ああ、ごめん、選べないよね。両方とも産んんであげる」

 

それに反出生主義染みた渚の考えが揺らぐ程度には、巽の遺伝子は魅力的だった。彼との子供なら心の底から愛せるような気がした。

 

一人目は女の子が良い。彼と同じ雪色の髪をした、可憐で小柄な美少女だったら最高だ。自分には似合わなかった服や髪型、それに化粧。その他諸々のお洒落を沢山させてあげたい。

 

お互い生まれる性別を間違えてしまった。だから混じって組み替えれば、正しい形がきっと作れるはずだ。

 

「妊娠すれば僕の胸も少しは大きくなるのかな? ああ、おっぱいは赤ちゃんの前に君に飲ませてあげるよ。ファーストキスも処女も、僕の初めてと名の付く物は全部君の物さ。僕の全部をあげる。だからさ……」

 

彼の上半身を抱き寄せて起こし、耳元で囁く。

 

「つべこべ言わずに、僕の物になれよ」

膣内に収めた肉棒が打ち震え、決壊を起こした。鈴口からどくどくと吐き出された精液が、子宮の中を温かく広がる。渚は射精が終わった後もその余韻を楽しむかのように、ゆっくりとしたグラインドで陰茎を責め立てていた。自分の貧相な体で達せられたと言う事実が、今まで殆ど満たされなかった自尊心の慰めになったのだ。体液が混じり合った淫靡な臭いが閉め切った部屋に充満し、粘つく水音は未だ途切れる事を知らない。

 

「あ〜あ、イッちゃった。その年でパパになっちゃうね。どんな気分だい?」

「お前……なんて事を……」

「そんな目で僕を見ないでくれよ。我慢できなかった君が悪いんだから」

 

甘い腰振りで尿道に残った精液まで搾り終えると、渚は尻を浮かせて陰茎を膣から引き抜いた。ごぼっごぼっと異音が響き、膣口から泡立つ白濁が滴り落ちる。汚れた割れ目に片手を添えて割り広げ、巽に見せつけるようにして近づけると——そのまま彼の顔の上に腰を下ろした。

 

「そんなにパパになりたくないなら、今すぐ頑張って全部吸い出して見れば? 僕を孕ませずに済むかもよ? ほら、が〜んばれ、が〜んばれ」

 

悲鳴をあげて体を滅茶苦茶に捩らせる彼を押さえ込み、片手で鼻を摘みあげる。そうして無理矢理開かせた口に渚は陰裂を押し当てると、そのまま漏らすようにして放尿を始めた。

 

「ごぼっ……ごがぁ……!」

「舌だけで綺麗にするのも難儀するだろうからね、僕も手伝ってあげるよ」

 

巽は口内を満たして行く尿を吐き出そうとしていたが、唇全体を女性器で塞がれていてはそれも叶わない。彼は自尊心と己の命のどちらを取るか考えあぐねていたようだが、最終的に天秤は後者に傾いたようだった。小さな喉仏が上下し始め、飲み込まれていく。

 

「よく出来ました。じゃあ、次は舐めて綺麗にしてもらおうかな? 僕のワンちゃんなんだから、それぐらい出来るよね?」

 

その後も渚は何度も巽をレイプし続けた。途中昼休みの終わりを告げるチャイムが聞こえたような気がしたが、そんな物は今はどうでも良かった。汚れた性器に奉仕させ、精液と尿の味がする唇にキスをし、いつの間にか固さを取り戻していたペニスを膣と子宮で弄ぶ。

 

そのサイクルを繰り返している内に、やがて巽は本当に壊れた人形と化してしまった。浅い呼吸で時折呻くような喘ぎを上げるだけの、音の鳴る玩具だ。ありとあらゆる体液に汚れた彼の体を、携帯のカメラで写真に収める。シャッター音には一瞬体をびくりと震わせたが、それ以上の抵抗は見せずに撮られるがままだった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

渚の下で、巽はうわごとのように繰り返していた。憧れで好きだった女に犯され、汚され、恥辱の限りを与えられた。きっと彼には大きなトラウマになっただろう。

 

「……はは」

 

後は「姉」に傷付けられた彼を、「妹」が癒してあげれば良い。きっとそれは、容易い事だ。

 

 

◇◇

 

 

昔、己の価値を測り損ねた馬鹿な男がいて、そいつは自分が誰よりも出来る奴だと信じていた。だが所詮は井の中の蛙、田舎者が天狗になっていたに過ぎなかった。

 

「生徒会、最近来てくれないよね。どうしたの?」

 

地元では一番の優等生だった彼は、進学先で一人の女に完膚なきまでに叩きのめされた。本物の才能を前にして彼はようやく、自分が所詮凡人の域を出ないつまらない存在だと理解した。

 

「もしかして、司と何かあった?」

 

劣等感を覚え、苦しみ、嫉妬するべきだったのだろう。だが当時の彼は、その負の感情を憧憬へとすり替えてしまった。彼女は憧れで目指すべき存在で、また支えるべきなのだと。

 

「何があったかは聞かない。でも、独り言を呟く時の、壁代わりになってあげる事はできるから」

 

そうして一方的な理想を押し付けてばかりで、本当の彼女を見ようともしなかった。力になるにせよ、もっと彼女と向き合うべきだった。

 

「この前、生徒会室で二人でいたでしょ。薄暗かったし鍵もかかってたし、何をしてたかは……分からなかったけど」

 

だが、彼女の本性を知ってしまった今では、もう前のように盲目的に慕う事など出来やしない。あの微笑みの下に隠した獣性を、闇を見抜く事など出来なかった。

 

「慰めてあげるぐらい、出来ると思うよ? その、色んな意味で」

 

今はもう、刹那の享楽に溺れていたい。

 

「……恥ずかしくないのかって? 『私』の体に恥じる所は無いよ。むしろ目に焼き付けて欲しいぐらいだけどね」

 

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