3話です。
とてもディープでビッグな愛を感じる
淋し涙
ナザリック地下大墳墓。
庭園のさらに奥───人気のないその一角で、俺はまだ、ザナックを腕の中に抱えていた。陽の光が穏やかに差し込み、咲き誇る花々の香りが風に乗ってゆるやかに流れてくる。彼は相変わらず緊張した様子で、俺の腕の中に収まっていた。
「……あ」
ふいに、ザナックが小さな声を上げる。
「……あの花……」
俺の胸元からひょこりと顔を出し、数度目を瞬かせ、視線を移した。すぐ傍に咲く、黄色い花へ。
「小さくてかわいらしいですね。」
ふわりと、彼が微笑んだ。その表情に、一瞬、息を呑む。───君の方がよほど小さくて、可愛らしいというのに。
「……あれは雑草じゃないか?」
俺はつい、ぶっきらぼうに言ってしまった。
「え……?」
ザナックは呆気にとられて、花と俺の顔を交互に見つめる。
「そうなんですかね……」
その横顔に、純粋な声に、少し胸が苦しくなった。ああ、誰が決めたのだろう。「雑草」とか、何かに「価値のないもの」とか。咲いているだけで、誰かの目にとまるだけで、こんなにも人の顔が綻ぶのに。
「……気に入ったなら、あれも、君のために残しておこう」
「……ふふ、ありがとうございます」
(っっ…………!)
その笑顔を見て、抱えている重さがまるで夢のように軽く感じられた。俺にとって、もう雑草なんかじゃない。君の小さなひと言で、俺の世界が、静かに形を変えていく。───そんな気がした。
─────私室に戻る前に、執務室の書類だけ数分で片付けることにし、ザナックには少しの間だけ待っていてもらうことにした。彼をそっとベッドに座らせる。
「……ありがとうございます」
「すぐ戻る。散らかしたまま出てきてしまったから、少し片付けてくるだけだ。安心して待っていてくれ。」
「はい……」
眠たそうに目を擦るザナックの姿に、少し不安がよぎり、彼の両肩に手を添えて念を押した。
「何かあったら、外で控えているメイドに声をかけるんだぞ?」
「分かりました。ここでお待ちしてますね」
彼は少し首を傾けて、柔らかく目を細め、俺に微笑んだ。胸の奥がきゅっと締め付けられる。
……部屋を出る時、彼は小さく片手を振ってくれたが、俺はただ少しだけ、手を挙げることしかできなかった。
───────
執務室に戻ると、机の上には、先ほど転移の際にインクが飛び散った書類が散乱しており、思わず頭を抱えた。インクの汚れを取り除き、数枚でも進めたい気持ちはあるが、今は片付けに専念するしかない。蘇生したばかりのザナックを一人で待たせているのだから。そこへ、コンコン、と扉を叩く音がした。
「───アインズ様、ザナック様の上着が仕立て終わりました。」
明るく弾んだ嬉しそうなメイドの声。
扉を開けると、丁寧に畳まれた上着を両手に抱えたメイドが立っていた。光沢のある布地に施されたナザリックの職人の刺繍が、燭台の灯りで微かに煌めく。
「ありがとう。私の部屋まで直接届けてくれ」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
小さく礼をして去っていくメイドを見送り、俺は残りの書類をまとめて棚にしまい、インク壺を閉じた。深く息を吐き、執務室を後にする。私室へ続く廊下を歩きながら、扉の隙間から漏れる明かりを見つけた。静まり返った室内──きっと彼はもう疲れて眠っているだろう。無防備なあの寝顔を想像すると、無い口角が緩む。起こさないよう、慎重に入ろう。そう思いながら扉を開けると、目に飛び込んできたのは、窓辺に立つ小さな背中だった。
「……ザナック?」
声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。
「アインズ様……!」
ぱたぱたと小走りで駆け寄ってきて勢いのままに、ローブの裾をぎゅっと掴む。思わず言葉を失った。
「……ザナック……泣いていたのか?」
「……え?」
目を瞬かせた彼の下まぶたには、まだ乾ききらない涙の跡。まつ毛の先で光る滴が、灯りに揺れている。
「頬に、涙の痕がある。……気づかなかったのか?」
彼は驚いたように頬へ手を当て、指先を見つめて、しばし黙り込んだあと──
「……あ、本当だ……俺、泣いてたんですね」
それは呟くような声だった。
何かに気付いたように肩を落とし、少し笑って言う。
「おかしいですね。こんなにあたたかい部屋で、優しい人がいて……それなのに、涙が出ていたなんて」
その言葉に、胸が締め付けられた。
彼自身も理由がわからないまま、流れた涙──でもそれはきっと。
「ザナック、おいで」
と言いつつも反応が返ってくる前に、俺はそっとその小柄な体を胸に抱き寄せた。
「へ……? アインズ様……?」
俺を見上げるエメラルドグリーンの深い色の瞳。その目尻にはまだ涙が残っていて、親指でそっと拭う。彼の髪を左耳にかけるようにして、撫でると、内心で思う。
(……似合っているな)
「ん、……っ」
指先が触れた瞬間、彼の体が微かに震えた。
「痛かったか?」
彼は小さく首を振った。
「……いえ、大丈夫です」
「……そうか」
そのまま、頭の上に手を置き、金色の髪を優しく撫でる。何度も、何度も。彼は目を閉じ、眉を下げて、右のこめかみを俺の胸へ預けてきた。
「アインズさま……これは、何ですか?」
俺は、無防備に差し出された頭を撫でながら、問い返す。
「撫でているだけだ。知らないのか?」
「んん、……いえ、そうではなくて……誰かに頭を撫でられるのが、これで初めてで………」
初めて? まさか、両親にすら?
「ふふふ……ですが、臣下のご子息に髪をいじられたことはあります。あの時の臣下の慌てぶりとあの子の笑顔が今でも印象に残っていて……」
懐かしむように目を細める彼が、穏やかだった。
「撫でられるって、こんな感じなんですね、
気持ち……いいです……」
「───君は、それで満足だったのか?」
「……どういう、意味でしょうか?」
「君は、愛されたと実感はできたか? 幼い頃なら誰だって、こうして撫でてもらった記憶があるものだ。それが普通だ。」
「ふふ……アインズ様。俺は今はもう何者でもありませんが、一応"王子"でしたから」
ザナックはそっと手を伸ばして、俺の頬に軽く触れた。
「ご心配も、同情も不要です。……俺の人生は"そういうもの"でした。当たり前を嘆くより、できる限りのことをすべきだと思っていますから」
もっともらしい言葉を並べ立てられた。あまりにもその目が真っ直ぐなものだから、信じて疑わないような声色だからこそ危うく聞こえた。
「……"そういうもの"なんて。そんなのは気持ちを切り捨てた諦めだ、ザナック」
「へ………」
俺の言葉に、彼は驚いたようにぱちりと目を瞬かせた。
「君の人生を、そんな言葉で括らないでくれ。そう言うたびに、君が何をどれだけ諦めてきたのかを思って、俺は──胸が痛む」
腕の中の温もりが微かに揺れる。ザナックは小さく息を呑み、それから俯いた。
「……でも、仕方のないことなんです。望んだわけではなくても、王族には王族の生き方があります。生まれた時から、その枠の中で生きるしかなかった」
「なら、これからは───君は、もう人間の王子ではない。ナザリックの客人であり、友人だ。俺の、大切な……」
言いかけて、言葉が詰まる。
何を言おうとしていた? この胸をかき乱す感情の正体は何だ? 目を伏せた彼の髪に、そっと口づける。冷たい骨の温度では届かないとわかっていても、それでも。
「……もう一人にしない。君はもう、諦めなくていい、孤独ではない。」
「アインズ様……っ」
ザナックは目を見開いて俺の名を呼び、腕の中で震える。ほんの少し、ローブの胸元をぎゅっと掴む指に力がこもる。
「怖かったんです」
「……うん」
「眠って、目が覚めたら、全部夢だったらどうしようって……」
「夢じゃない。ここに君がいて、俺がいる。それが現実だ」
そっと頭を撫でながら囁くと、ザナックの肩がさらに震えた。押し殺していた何かがあふれたように、彼は俺の胸の中で声を漏らした。
「うっ……うあああぁ……っ」
「泣いていい。今だけは、全部吐き出していいんだ」
そうして俺はただ、抱きしめた。
彼の涙が、俺のローブを濡らしていくのを感じながら、静かに、その背を撫で続けた。こんなに小さな体で、どれだけの重荷を背負ってきたのだろう。こんなにも優しい魂が、誰にも気づかれずに、どれだけの孤独を飲み込んできたのだろう。
(ザナック……)
君はもう独りじゃない。
これからは俺が、君の傍にいる。
絶対に手放してやるものか