人魚姫は、大好きな王子さまを刺すなんてできませんでした。…………けれど、王子さまは、助けてくれたのが人魚姫だと知りません。そして別のお姫さまと結婚することになりました。人魚姫は悲しかったけれど、王子さまの幸せを願いました。
朝日がのぼるころ──人魚姫の体は、静かに、静かに、海の泡になって消えていきました。誰にも気づかれずに。
「ハッ……馬鹿だな。自分の幸せを後回しにするなんて。……俺だったら……」
王宮のとある書庫。熱心に絵本を読みふけるラナーの背後から、ザナックは無遠慮に指をさした。
「ちょっと……お兄様! 私が読んでいるのに、なんてひどいことを言うんですか! 人魚姫だって精一杯頑張ったのに!」
ぷくーっとわざとらしく頬を膨らませ、涙目を向けてくる幼い妹。ザナックはその視線を突き放すように背を向け、歩き出す。誰も人魚姫の事を覚えていない。大好きだった王子さまさえ何も知らない。これで良かったのか。
「……馬鹿だ、」
─────『ザナック視点』
王宮の自室。顔を洗い終わった俺は、笑顔の練習をしていた。笑顔と言っても、ラナーのような愛想を振りまくようなものではない。むしろ逆。人が寄り付かないような皮肉な笑顔。口の端を歪めて、片方の眉をわずかに潜める。俺は上手く立ち回れる。これが俺の処世術だ。
シャツを着替えると、ピッチャーからカップへ果実水を注ぐ。メイドは部屋の外に控えさせている。彼女らに笑顔の練習をしている姿を見られる訳にもいかない。この静かな、誰にも邪魔されない朝食の時間が、俺にとっての唯一の息ができる時間だった。準備を整えて書庫へ向かい、読み終えた本を棚に戻すと、また別の分厚い本を引っ張り出す。九歳の俺には早いとメイドに見つかると止められるが。王になるための、泥臭い勉強だ。
成績を伸ばせば、今度こそ父上が褒めてくれるかもしれない。……あんな、誰にも気づかれずに消えていく泡のような結末だけは、ごめんだ。
───────
『ザナック様って怖いよね。いつも偉そうだし。近寄らない方がいいよ。』
扉の向こう、廊下を通り過ぎる足音と共に聞こえた声を耳に、俺は歴史書をめくる手を止めた。同い年の、どこかの貴族の子の声だ。……そうだ。自業自得だ。俺の不遜な態度は、誰が見ても不快なものだろう。いや、違う。これは俺が狙ったことだ。俺が選んだ道だ。ああ、そう。分かっている。全部分かっててやっているんだ。なのに。急に怖くなった。このまま、たった一人も友人が出来ずにこの胸の内の孤独を誰にも言えないまま、いつか俺の人生は終わるのか、と。
「……」
つう……と、冷たいものが頬に触れた。流れて。落ちる。必死に暗記しようとしていた歴史書の文字が、一滴の雫で滲んで歪む。止める術を知らない涙が、また一粒、パサリと紙を叩いた。
「…………」
───────
「──ザナック様。陛下が、今日一日を『良い子』にして過ごせたなら、今夜ご褒美に二人でお茶をしようとおっしゃっていましたよ」
部屋を訪れたメイドが、無造作にそう告げた。その瞬間、俺の胸が跳ねた。歴史書をめくる指先が微かに震える。
「……父上が? 本当か。聞き間違いではないな」
「はい。ですから、無理なお勉強も、ラナー様への毒舌も、今日ばかりは控えてくださいね」
メイドはどこか他人事のように笑って去っていった。嘘かもしれない。父上はいつだって政務に忙しく、俺のことなど視界の端にも入れていないはずだ。けれど、もし本当だとしたら。今日、俺が完璧に"良い子"でいれば、あの人は俺を見てくれるのか。その日、俺は一度も皮肉を言わなかった。ラナーがどれほどわざとらしい笑顔で絡んできても、貴族の子供たちが陰で俺を謗っても、全てを無視して、ただ完璧な王子として振る舞った。
「……よし。時間は守らなければな」
約束の時間が近づき、俺は父上の執務室の前へと向かった。鏡の前で何度も練習した、今度は皮肉ではない本当の笑顔を顔に浮かべて。部屋の中には父上は居ない様だった。扉を守る衛兵が、怪訝そうに俺を見下ろす。
「ザナック様、このような時間にどうされましたか?」
「父上と、お茶の約束があるのだ。ここで待たせてもらう」
衛兵たちは顔を見合わせたが、俺の毅然とした態度にそれ以上は何も言わなかった。一分。五分。十分。約束の時間は、とうに過ぎた。
(……遅いな。急な会議でも入ったのだろうか)
廊下は冷える。この体には、夜の静寂はあまりに重い。一時間を過ぎた頃、廊下の灯りがいくつか消された。俺の足は棒のようで、立っているのがやっとだったが、崩れるわけにはいかない。"良い子"は、父上の部屋の前で待つものだ。二時間。三時間。視界が、眠気でぐらりと揺れる。……父上は、まだ来ない。
「……っ、まだだ。まだ、来るはずだ」
俺は自分の腕を強くつねった。涙がにじむが、それは孤独のせいではないと自分に言い聞かせる。遠くでメイドたちの笑い声が聞こえた。彼女たちは温かい部屋で、温かい飲み物を楽しんでいるのだろうか。俺は今、世界で一番冷たい場所に一人で立っているような気がした。父上。父上。俺は今日、一度も悪いことをしませんでした。だから、褒めてください。意識が朦朧とする中、俺は冷たい壁に背を預けた。夜の闇が、俺の体を飲み込もうとしていた。
静かな自室。俺は自分の体にはまだ大きすぎる勉強机にかじりついていた。
指先には、慣れないインクの染みが残っている。父上に渡すための、手紙。白紙に書いていく。
『ちちうえへ。
悪いことばかりしてごめんなさい。でも、ちゃんとちちうえと話しあいたいです。ちちうえのこと大好きです。○○日の午後、庭園で待っています。
ザナックより。』
「……ミミズが這ったような字だな……まぁ、いいか。よし」
封をした手紙をメイドに預けた。父上に渡すように命じて。これで、父上とお話が出来る。待つこと、三日。返事は来ない。一週間。俺は痺れを切らしてメイドに聞いてみると、『陛下は、忙しい』の一言。そうか。そうだよな。返事を貰えると思っているのが間違いだった。きっと、読んではもらえた。それだけで、十分だ。それで大丈夫だ。
──────
俺は、食事の時間があまり好きじゃない。兄上が父上に矢継ぎ早に質問して、たまにラナーに微笑みかける。あの空間にいると、寒い。みんなが居るのに。俺だけが浮いている。だから。今日も自室で、一人。冷めたステーキにナイフを通す。それでも美味しい。湯気の立たない食事にはもう慣れた。広すぎる部屋にナイフの音だけが響く。あの時は味がしなかった、けれど、一人の時の方が安心できる。孤独に慣れすぎて、人と居るのが怖くなってしまった。数日前の俺の十二歳の誕生日に、ラナーの時の誕生日のようにパーティーが開かれなかったのも良かったのだ。……本当は少しだけ期待していた。メイドが言っていた──殿下はパーティーはお嫌いだと思って。そうだ。人がたくさん居るのは苦手だ。大勢の前で、傲慢不遜な王子の演技をしなければならない。その中でパーティーを楽しむなんて、最初から無理な話。俺は祝われ無くても、いい。
───────
──ある日。エリアス・ブラント・デイル・レエブンという若い官僚貴族が俺を訪ねてきた。胸が、わずかに跳ねた。だって、第二王子である俺に貴族が擦り寄る理由はなど無い。
「貴方、演技をしていますね?」
その一言に胸が熱く苦しくなった。見破られてしまったという焦りは無い。やっと。やっと見つけてもらった。その喜びだけが、心の内に広がる。俺は、片方の口の端を上げた。
「十五歳という若さでこの国の現状を見抜いている。ザナック殿下。是非、私と手を組みませんか」
それから。その男、エリアスと共に過ごす時間が増えた。政務の合間に交わす短い会話。書類の端に走る、彼の端正な筆跡。いつの間にか俺は──彼の足音を聞き分けられるようになっていた。
「殿下は、もっと人を頼るべきです」
ある日、不意にそう言われ、俺は返す言葉を失った。頼る? ……そんなこと、許されるはずがない。だが──彼の灰色の瞳は、俺の皮肉も虚勢も見透かしたまま、静かに待っている。逃げ場のない視線に、胸の奥がじわりと暖まる。
「……なら、エリアス。」
「お前が頼られろ」
────────
十七歳になっても俺には友人が居ない。相変わらず。エリアスは「仕方の無いことです。殿下が不遜でいてくださるお陰で、私は自由に動けます。」と言うが。
「……なら、お前がなってくれるか?」
「遠慮します。──これは利害関係ですから」
彼は薄笑いを浮かべた。感情が読めない。フラれた。そこは嘘でも、はいと言うとこだろうに。……だが、それがエリアスだ。
冬の終わり頃。ある晩、政務が長引く。
「……今日は誕生日だ。……俺の」
「存じています」
エリアスは、書類から目も上げずに。
沈黙。
「祝ってはくれんのか」
「殿下はパーティーがお嫌いでしょう。」
俺は苦笑した。くるりと背を向けようとすると、エリアスが小さく細長い包みを差し出す。
「ですが、騒がしくない祝いなら問題ないかと」
中身は──高価すぎない、一本のペンだった。
「三年も使っていますから、そろそろ新しいものが必要だと思いまして」
「遅い。一年ごとに買え」
ハハハッ、とエリアスが笑った。目に、少しだけシワを寄せて。これは素の笑顔ではない。それくらい俺には分かる。けど、それでも構わなかった。
俺のために用意されたものだと分かるだけで、胸の奥が僅かに温まる。指先でペンを転がす。重すぎず、軽すぎず、手に馴染む重さだった。装飾は控えめで、実務向きの造り。いかにも彼らしい選び方だ。
「……悪くない」
「光栄です」
相変わらず、声に起伏は無い。だがそのとき。机の上の書類が、俺のものよりも高く積まれていることに気付いた。
「お前は帰らないのか」
「殿下が終えられていない以上、私だけ先に退室するわけにもいきません」
「利害関係、だったか」
「ええ」
即答だった。
───────
貴族という生き物は、基本的に我慢ができない。特に、格下だと思っている相手から侮辱された時はなおさらだ。
「第二王子殿下。最近は随分と政務に口を出しておられるようですな」
昼下がりの小会議室。磨き上げられた机の向こうで、男は作り物めいた笑みを浮かべていた。名はガルディア侯。兄上──第一王子派に名を連ねる古株の貴族だ。笑っているが、目が笑っていない。俺は椅子に深く背を預け、わざとらしく足を組んだ。
「口を出す? 当然だろう。無能の判断に委ねられては困る」
空気が凍る。側に控えていた若い文官が息を呑んだのが分かった。ガルディア侯の頬が、ぴくりと引き攣る。
──かかった。
「……無能、とは。もしや第一王子殿下のことを指しておられるのですかな?」
声が僅かに低くなる。いい兆候だ。理性が削れ始めた。俺は肩を竦めた。
「さて。どうだろうな。少なくとも、飾りの剣しか振れぬ王よりは、まだ役に立つつもりだが」
わざと、視線を逸らす。軽蔑するように。沈黙が落ちた。
次の瞬間──机を叩く音が室内に響いた。
「殿下! 言葉が過ぎますぞ!」
怒気が滲む。呼吸が荒い。もう一押しだ。
「事実を言ったまでだ。……それとも何か? 貴殿らは兄上が王になれば、この国が安泰だと本気で思っているのか?」
ガルディア侯の唇が歪む。
「当然でしょう! 我らは皆、第一王子殿下をお支えするために──」
言いかけて、止まる。
「……ほう。"皆"とは、どこまでだ?」
男の目が見開かれた。自分が何を口にしかけたか、ようやく気付いたらしい。だが、怒りは理性より速い。
「西部諸侯の大半は既に意を同じくしております! 今さら殿下お一人が足掻いたところで、王位の行方は変わりませぬ!」
静寂。ああ、出た。西部諸侯。思っていたより多い。俺は小さく息を吐き、退屈そうに指先で机を叩いた。
「……なるほど。徒党を組まねば安心できぬとは、随分と臆病な話だな」
「なっ──!」
顔が赤く染まる。もう十分だ。これ以上はただの口論になる。俺はゆっくりと立ち上がった。
「安心しろ、侯爵。兄上の邪魔をする気は無い。……王冠というのはな、被りたい者が被ればいい。重さに耐えられるかどうかは別として」
皮肉を一つ落とし、踵を返す。背後で押し殺した怒声が聞こえたが、振り返らない。廊下に出た瞬間、控えていたエリアスが静かに口を開いた。
「……随分と挑発なさいましたね」
「挑発? 違うな。少し本音を引き出しただけだ」
「西部諸侯、ですか」
「ああ。収穫としては上々だろう」
エリアスはわずかに目を細めた。
「周囲は、殿下をただの口の悪い王子だと思うでしょう」
俺は鼻で笑った。
「それで結構。吠えるだけの犬に、わざわざ腹の内を見せる馬鹿はいない」
しばしの沈黙。やがてエリアスが、小さく息を吐いた。
「……殿下を敵に回すと実に厄介ですね」
「味方でよかったな」
そう言うと、彼は薄く笑った。俺は歩き出す。王宮の廊下は今日も静かだ。理解される必要もない。ただ、この国が崩れなければそれでいい。そのためなら、俺はいくらでも、嫌われ役を演じてみせる。
───────
今日も、エリアスが居ない。
帝国──実際には魔導王との戦争。そのまま、自領へ戻った。自由に動けない。後ろ盾も無い。何より──俺は、また独りだ。俺は、ペンを落とした。
「……くそ」
魔導国との開戦後、気付いた時には、王国の大半が侵されていた。そして初めて知った。エリアスが情報を封じていたことを。俺は信じられない。嘘だ。嘘だ。思いたくないのに。
それでも、最悪の可能性だけが浮かぶ。机の上で転がったペンが、かつん、と乾いた音を立てて止まる。拾い上げようとして、指先がわずかに震えていることに気付いた。……違う。これは恐怖ではない。ただ、状況を整理しきれていないだけだ。そう自分に言い聞かせる。エリアスが情報を封じた理由は何だ。王国のためか。自領を守るためか。それとも、最初から俺を切り捨てるつもりだったのか。思考を巡らせるほど、胸の奥が冷えていく。
───────
守護の鎧に着替えようと準備をしていた時、父からの呼び出しがあった。皮肉だ。こんな時に。
部屋に入ると、静かだった。静かすぎて、呼吸の音が邪魔に感じた。
「ザナック……魔導王に直談判に行くとは本当か……」
……誰だ、情報を漏らしたのは。余計な真似を。俺はため息をわざとらしく吐いた。
「はァ、父上…………本当だったのならどうだと言うんです」
「本当だったら……私は気が気ではない……」
父上は頭を抱えた。
「心配は要りません」
「心配だ……!! 」
しゃがれた叫び声。ベッドが軋み、父上の膝が頼りなく揺れた。立ち上がろうとした父上の肩に手を添え、押しとどめた。
「お体に障りますよ……ほら、」
「私は……ちゃんとした父ではなかったかもしれない、お前を十分に構ってやれなかったかもしれない……だが、それでも、父として、お前が心配でならんのだ……!!」
言葉は音として聞こえるだけだった。不思議なくらい、心が動かなかった。
「……ザナック、」
手を握られた。
「……死ぬな」
(もう、遅いですよ。)
「はい、父上」
眉を下げて、俺はやわらかく微笑んだ。
───────
「こちらこそお初にお目にかかる、殿下。アインズ・ウール・ゴウン魔導王だ。よろしく頼む。」
魔導王を初めて見た感想は、やはり化け物だ。ただの骸骨じゃない。眼窩の目尻は上がり、その奥には赤い光が揺らめいている。何よりもその大きな体、そして高価そうなローブが唯人ではない雰囲気を醸し出していた。威圧感もある。だが、不思議と恐ろしくは無い。俺も少しは成長したのか。
「さて、立ったまま喋るというのはあれだな……」
魔導王陛下は魔法を発動させて黒い玉座を草原に出現させた。心の中で驚きはしたが、それだけだ。少し魔法に慣れてきた。
「あれに座って話そうじゃないか。どうだね?」
「喜んで、陛下」
俺は笑って陛下を見上げた。椅子に座ると、陛下がグラスを出してくれる。
「水でかまわないかね?」
「はい、ありがとうございます。陛下。喜んでいただきます」
水が注がれたグラスを受け取る。そして陛下も席に着いた。
「さて、これで話を始める準備は整った。それでは何を語る? 我々の侵攻が正義であることでも語ろうか?」
「陛下。それよりも伺いたいことがございます。何故これほど残酷なことをなさるのですか? 何故私どもの降伏を認めないのですか?」
陛下は頷いた。
「メリットがないからだ」
「メリット?」
「君達は私達の生け贄となり、今後多くの者たちに魔導国と敵対する愚かさを知ってもらう。そのためにも私達は君達を殲滅後、王都に乗り込み、そこにある全てを瓦礫の山に変える。数百年でも数千年でもそのままにし、未来永劫魔導国に盾ついた愚かさを語り継がせるつもりだ」
陛下は淡々と言った。聞いているだけで背筋が冷えた。
「何故、なのでしょう」
思わず口から漏れた。俯く。
「なに?」
「……そのようなことをしなくても、多くの者に陛下のご威光を知らしめることはできましょう」
声が震えそうだ。怒りではない。ただただ深い悲哀が溢れてくる。
「どうして、そのように狭量なのですか?」
「狭量、か」
陛下がぽつりとつぶやいた。
「……何を狙っているのですか?」
「何を狙っているのか……」
陛下が静かに繰り返す。数拍、空いた。どんな非道な計画が返ってくるのだろう。俺は身構えた。
「何を狙っているか。難しいようで簡単なことだな。私が狙っている……求めているものはたった一つ。幸せだ。」
「幸せ?」
自分でもおかしいくらいに間抜けな声が出て、瞬きを繰り返した。
「人であろうとなんだろうと、求めるのはやはり幸せなんじゃないかな?」
「そのためであれば、他者の幸せを奪ってもよいと……?」
「当然じゃないか」
陛下は手を広げた。
「私の大切な者達が幸せになるためならそれ以外の者などどうなろうとかまわない……。君だって自国の民の幸せと引き換えに他国の者達が苦しむとしたらどうする?」
大切な者。家族の顔や民の姿が浮かぶ。
「幸せを諦めろというのかい?」
「っ……極論だ!」
それはあまりにもな話だ。だが、俺もそうだった。多くの民が助かるためならと罪の無い貴族を差し出そうとした、国の為未来の為と今まで沢山のものを切り捨てて来た。自分でも何が正しいのか、何が幸せなのかもう分からない。
「失礼しました、陛下」
「いや、気にすることはない」
俺は頭を下げる。陛下は許してくれた。
「魔導王陛下ほどの知恵と力を持たれる方が、それ以外の方法をお持ちではないのですか?」
「……あるかもしれない。だが目の前に簡単に幸せを手にする手段があるなら、それに飛びついた方がよい。"幸運の女神に後ろ髪はない"だったか?」
後ろ髪が無い女神、か。陛下はそれを信仰しているのか? アンデッドの神なのか?
「変わった女神ですね」
不思議と頬が緩んだ。
「あっ、失礼……別に陛下の信仰する神を愚弄するつもりはございませんでした。……お許しください」
「気にしないでくれ、特に信仰しているわけではないからな」
軽く手を挙げて陛下は否定した。
「さて、そういうわけだ。私の守るべき者の幸せのために君達には不幸になってもらう。納得できたかね?」
「ハァ……そうですね……自国の利益を追求し、自らに従う者達を幸せにすることこそ上に立つ者の役目と言えます……。降伏を認めない理由も分かりました。……どうしようもないということが」
彼は、王だ。間違いなく。俺なんぞより王に向いているかもしれないな。
「さて、次は私が質問する番かもしれないんだが……」
顎に指を当てた陛下が言った。
「そうだ、ガゼフ・ストロノーフの持っていた剣は今、誰が持っているんだ? その鎧も彼が着ていたものだろう」
「はい、剣はブレイン・アングラウスという男が預かるという形で持っています」
「ブレイン・アングラウス? ああ、あの男は今回こちらに来ているのか?」
「いえ、王城に残っているはずです」
何故アングラウスの事をこんなに気にするんだ?
「そうか、なら君達をどのような魔法で全滅させたとしても何も問題はないな」
平然と言われたその言葉に、苦い笑みがこぼれる。
「負けるつもりはございませんが、あまり苦しくない魔法で優しく殺していただけると幸いです」
ふっと笑って言った。
「ふむ、そうだな」
ほんの少し、陛下が頷いた。
「せっかくここまで話した仲だ。君ぐらいはできるだけ優しく殺すとしよう」
冗談のつもりで言った言葉にそんなふうに返されて、思いのほかこの瞬間が楽しくて、俺は笑った。
「ハハッ……感謝いたします」
グッと水を飲み干す。
「プハッ……。おいしかったです、陛下」
そして、最大限の敬意を込めて、微笑んだ。つもりだ。
────────
「……」
馬上で揺られ、先程の魔導王陛下の言葉を思い出す。
『私が狙っている、求めているものはたった一つ。幸せだ』
幸せ。陛下と俺では、何が違ったのだろうか。いや、何もかもか。王というのはああいうものなんだな。
結局、俺は王には向かなかったということか。俺は、この国をまともにしたかっただけなんだがな。
自分の天幕に戻る。
「殿下!」
「魔導王はなんと!」
押される勢いで迫る貴族達に俺は言った。
「魔導王陛下はこちらを皆殺しにするおつもりだ。交渉の余地は一切なかった」
天幕に入ると軍務尚書が待っていた。
「おかえりなさいませ。あまりよい話ではなかったようですね」
「つまり予想通りの話だったってことだ」
「そうですか。魔導王はどれほど邪悪な化け物でしたか?」
「思ったよりも人間味があったぞ」
俺は微笑んだ。
「えっ?」
「ああ、外見は確かに"化け物"だったが」
骸骨の見た目に重々しい衣服、俺が王子でなかったら逃げ帰りたい所だった。
「そうだな、中身は普通の──人間と同じだな」
だが、言葉の節々に滲むものは人間のそれだ。もっと早く出会っていれば、もっと穏やかな会話も出来たかもしれない、と考える。そんなおかしな光景を頭に浮かべて、俺は小さく笑い飛ばした。
「それで、作戦はどんな感じで上がってきている」
「作戦も何も無いですよ。前の戦いで我が軍は多くの指揮官や騎士を失いましたから。正直ストロノーフは好きではありませんでしたが、彼がいればと思わない日はありません」
「その気持ちは分かる。ただ、私は彼が好きだったけどな」
軍務尚書と顔を見合わせ、軽く笑い合う。その時、天幕の外が騒がしくなる。ザッ、という足音共に剣に血を塗れさせた貴族共がぞろぞろと入って来る。状況が読めないので分析していると、軍務尚書が前に出る。
「下がれ! 殿下の天幕だぞ」
(この状況で謀反? いや、こいつらなりに必死に生きる道を模索した結果か)
「下郎共! 下がれ!」
軍務尚書が吠える。
「やめろ、軍務尚書」
彼の前に歩き出て、貴族達を真っ直ぐ見つめた。
「いかなる要件で私の天幕まで来た。」
「殿下、この戦降伏していただきたい」
「それは無駄だ。我々が助かる道は魔導王陛下を撃退する以外にない」
「勝てるはずがない……!」
「アンデッドの軍勢ですぞ」
貴族達はつぶやく。
「それでも戦う他ないんだ。俺とて服従を誓うことも提案はした。しかし無駄だった。繰り返すが俺達が生き残る道は戦うことしかないんだ」
「殿下はそうかもしれませんな。しかしながら十分な働きをすればお目こぼしにあずかれるかもしれません。……あなたの身と引き換えに命を助けてもらいましょう」
「我々は魔導王に忠誠を誓う!」
「殿下、おとなしく我々に従っていただきたい」
「…………俺は、王家の者として最後まで──戦う覚悟がある。命を失ってもかまわない者だけかかってこい!」
剣を抜き、突き付けてやった。横に軍務尚書が並ぶ。
「っ……」
貴族達は狼狽える。少し悲しくなってくる。俺の命を取る人間がそんな覚悟のない奴らだったのかと。
「どうした、この首を……取れるものなら取ってみるがよい!」
やはり俺は上に立つというのがどうも苦手だ。気持ち的にも技術的にも。俺は次男で良かった、二番手で良かった、代替品でも良かった、むしろずっとそうであった方が良かった。だが人間というのはどうも、高望みをしてしまうものだ。俺は幸せだったのだ。安心して住める国があって、民が居て、家族が居て。ずっと昔に抱き上げられた記憶も、愛おしく思った笑みも、憧れた剣を振る姿も。懐かしい。ああ、やはり大切だ。幸せに、なって欲しかったな。
────────
気付いた時には、視界が白くかすんでいた。いや、違う。かすんでいるのではない。世界そのものが、色を失っている。音もない。足元を見ると、王宮の石畳が砕け、崩れ落ちていた。遠くに見えるはずの城壁は崩れ、塔は折れ、旗は焼け焦げ、灰のように舞っている。荒れ果てた王都。いや──王都だった場所。
「……嘘だ」
声が、空間に吸い込まれる。呼んでみる。
「父上」
沈黙。
「兄上」
何も起きない。
「……ラナー」
返ってくるのは、崩れた石が転がる乾いた音だけ。足が勝手に動く。瓦礫を踏み越え、広場へ向かう。かつて祝祭が開かれ、人々の笑い声が響いていた場所。そこに立っているのは俺だけだった。民はいない。兵もいない。家族もいない。焼けた建物の中央、俺はぽつんと立っている。理解してしまう。これは現実ではない。だが、夢でもない。これは──結果だ。俺が守れなかった未来。喉がひりつく。
「……俺は、どうして」
息が浅い。国が崩れなければそれでいい。嫌われ役でも構わない。孤独でも構わない。そのはずだった。なのに。俺はゆっくりと膝をついた。石畳の冷たさが、じわりと膝に染み込む。何が足りなかった。何を見誤った。どこで間違えた。エリアスか? 兄上か? 父上か?
「……俺が」
違う。全部、俺のせいだ。判断が遅れた。信じる相手を間違えた。覚悟が足りなかった。崩れた街の中心で、ようやく気付く。俺は一人だ。最初から、最後まで。喉の奥が震える。必死に押し殺してきたものが、胸の奥で膨れ上がる。
「……嫌だ」
声が掠れる。
「いやだ……」
両手が震える。指先が石を掴む。
「父上……」
誰もいない。
「兄上……ラナー……」
視界が歪む。
「……ごめん」
肩が揺れる。
「俺が、もっと……」
言葉にならない。堪えようとした。立ち上がろうとした。だが、足に力が入らない。崩れ落ちる。そのまま、地面に両手をつき、額を石畳に押しつける。冷たい。冷たい。冷たい。
「いやだ……いやだ……」
子供のような声が漏れた。止まらない。胸の奥から、押し殺してきたものが溢れる。
「俺は……一人に、なりたくなかった……」
涙が、石に落ちる。
「っ……うっ、……守りたかった……」
嗚咽が混じる。
「嫌われても、いいから……」
呼吸が乱れる。
「……皆、居てくれれば、それで良かったのに……」
理性も誇りも、何もかも剥がれ落ちる。ただの、子供。膝を抱え、身体を丸め、崩れた王都の中心でうずくまる。
「……こわい……」
震えが止まらない。誰か。誰か、ここに居るから。伸ばした手は、何も掴めない。曇天の下、ただ一人。声を上げて泣いた。何度も、何度も。
────────
俺は夢を見る。──"幸せ"の夢を。
「────幸せ?」
誰だって幸せになりたい。俺も。この長くて短い人生で体験出来なかった幸せを。
「──殿下、ザナック殿下。」
薄れた意識の中、エリアスの声がぐわんぐわんと残響する。
「……なんだ。」
「砂糖は何個にしますか?」
俺は瞬きをした。ここは庭園だ。整えられた薔薇の低木と白いテーブルクロス。甘い焼き菓子の匂いと、湯気。
「…………三つ」
とぽ、とエリアスがカップに砂糖を落とす様子をぼーっと見つめた。カップの温かさが掌に戻ってくる。
「お兄様、入れ過ぎです! 体に障りますよ!」
いつもの水色のドレスを身に纏ったラナーがぷんすかしている。後ろにはクライムを従えさせて。
「うるさい。今のところ医師には何も言われてないから大丈夫だ」
「お言葉ですが、殿下。次期国王としての威厳は、まず食からです。」
「お前……味方ではなかったのか」
「味方だからこそ、申しております。」
エリアスはまた、あの細い目で笑った。
「ほらー」
ため息を吐きながら、妹が俺の隣に座った。その自然な所作が有り得ないはずなのに妙に落ち着く。
「ほら、って……なぁ」
砂糖をたっぷり入れた紅茶を啜った。
「あ、飲んだ! 飲みましたねお兄様!」
「えっ……あんだよ、今更だろ。」
俺が、皿に積み上げられたマカロンを口に詰め込むと、ラナーは目を見開いた。
「ダメですー! お兄様はダメ! お菓子も控えてください!」
「はぁ? なんだよいじめか、陰湿だなラナー」
クライムが目を逸らして笑いを堪えている。おい。
「もう! たしかにお兄様のぷにぷには好きです……!」
と、ため息のついでみたいに、ラナーの手が伸びて。俺の腹の贅肉を揉んで来る。
「く、あははっ……やめろっ、おいっ……」
「やめて欲しいなら、お兄様が先にお菓子をやめてください! むにむにー!」
その時、どこかで聞いたことがある声が聞こえた。──その声だけが、場違いに冷たかった。
ザナック。夢の縁から、名が落ちてくる。
名を呼ばれる。
ザナック。ザナック。
繰り返される。
邪魔しないでくれ。今、俺は幸せなんだ。二度と手放すものか。あれ? 俺の本当の幸せって……何だ。
「──ザナック。」
今度は、耳元で。背筋がひやりとした。誰だ。誰の声だ。思い出せない。けど、思い出したい。じゃなきゃ、どうにも心が焦る。
「ザナック。起きてくれ」
どこか上擦った、低い声。
「……嫌です。まだ、眠いんです」
「──い、今、俺は何を言った……?」
何故だ? 俺は、なんで敬語を……。
「ザナック……泣かないでくれ……」
泣いてる……俺が?
「大丈夫ですよ…………」
声が、勝手に出た。……アインズ様。そうだ、泣いているのは、貴方だ。ずっと。ずっと。一人で。誰にも分かってもらえなくて。知られずに耐えて。頑張っていたんですよね? 寂しくて。また一人になるのが怖くて。だから誰かと居るのが心から楽しくて。
でも……もう、大丈夫です。一人にさせない。絶対に置いて行かない。俺がそばにいるから。