ナザリック地下大墳墓、玉座の間。
深紅の絨毯に、天井からは冷たい光が落ちる。左右には各階層守護者が整列していた。アルベド。デミウルゴス。シャルティア。コキュートス。アウラとマーレ。そして、その中央。玉座に座するのは、魔導王アインズ・ウール・ゴウン。その彼のすぐ隣に立たされているのが、ザナックだった。緊張しているのは、ザナックだけではない。アルベドは、微笑んでいた。完璧な、非の打ち所のない微笑だ。だが。その端麗な顔の眉がぴくりと跳ねた。
「──本日は、重要な発表がある。心して聞いてくれ」
アインズの声が、静かに玉座の間に響く。守護者たちが一斉に頭を垂れた。
「畏まりました、アインズ様」
代表してアルベドが答える。その声は澄んでいる。完璧過ぎるほどに。
アインズは、隣のザナックを一瞥した。その視線は、ほんの僅かに柔らかい。
「私は──」
一拍。
「ザナックと正式に交際している」
空気が、止まった。アルベドの笑顔が、固定されたまま凍りつく。シャルティアはまるで理解できていないようで何度も首を傾げる。アウラが瞬きして、マーレが眉を下げて固まる。デミウルゴスだけが、眼鏡を押し上げた。
「……なるほど」
極めて冷静だ。アルベドは、まだ笑っている。笑っているが。瞳の光が、消えた。
「……今、何と仰いましたか?」
声は優しい。
「聞こえなかったか? ザナックは俺の婚約者だ」
アルベドの翼が、ばさりと大きく揺れた。
「……ありえない」
ぽつりと、呟く。
「いえ、ありえませんわ。ありえません。ありえません。ありえませんわよね?」
誰に確認しているのか分からない。ザナックは一歩下がった。
(やっぱりこうなる)
アルベドは、ゆっくりと顔を上げた。
「アインズ様……その……"婚約者"というのは、つまり……」
にこり。
「正妻、という意味でございますか?」
その場の温度が下がった。
「そうだ」
即答だった。アルベドの口角が、ひくりと引き攣る。
「では……側室をお取りになるご予定は?」
震えている。声が、ほんの僅かに。
アインズはゆっくりと立ち上がった。
「ない」
断言。
「俺は側室を取らない」
二度目の静止。アルベドの翼が、今度は力なく垂れた。
「……完全に……?」
「完全にだ」
「今後も?」
「今後もだ」
「未来永劫?」
「未来永劫だ」
アルベドの瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「…………っ」
沈黙。
そして。
「ぐっ……」
拳を握る。
「……なるほど。理解いたしました」
声はまだ震えている。だが、跪いた。
「ナザリック守護者統括として、アインズ様の、魔導王陛下の御決定を全面的に支持いたします」
完璧な臣下の姿勢。その背後で。シャルティアが小声で囁く。
「アルベド、今にも泣きそうでありんす」
「しーっ」
アウラが小突く。アルベドは顔を上げた。その微笑みは、いつものそれだった。
「ですが、ザナック様」
にこり。
圧が強い。
「アインズ様に相応しい振る舞いを、今後はより一層求められますわよ?」
笑っている。笑っているが。目が笑っていない。ザナックは、こくりと喉を鳴らした。
「……努力します」
アインズが一歩前に出る。
「努力は不要だ。既に相応しい」
さらりと爆弾を落とす。アルベドの肩が、ぴくりと震えた。
「……本当に」
小さく呟く。
「ありえない……けれど」
ゆっくりと、深く頭を垂れる。
「アインズ様がお選びになったのならば──」
ほんの一瞬。悔しさと、諦念と、忠誠と、複雑な感情が混じった瞳がザナックを見た。
「お守りいたしますわ。……正妻様」
最後の一言は、わずかに重い。だが。そこには、確かな忠誠があった。玉座の間に、再び厳かな静寂が戻る。そしてアインズは、堂々と宣言した。
「以上だ。ザナックは俺の婚約者であり、唯一の伴侶だ。異論は認めない」
誰も、異を唱えなかった。唱えられるはずもなかった。ナザリックに、新たな秩序が刻まれた瞬間だった。玉座の間が、微妙にざわついた。……いや、ざわつける訳がない。なので皆黙っているが、空気だけがまだ「?」を漂わせている。そんな中で、最初に動いたのはデミウルゴスだった。眼鏡の位置を、中指で、す、と直す。
「……なるほど。状況を整理いたします」
口調はいつも通り、淡々としているが、少しだけ早口だ。
「ザナック様がアインズ様の"恋人"であり、"婚約者"であり、"正妻"である。さらに、側室は取らない──」
興奮している。一つ一つ確認するように言葉を並べ、そして、ぴたり、と止まる。
「つまり、アインズ様の最高意思決定により最重要保護対象が、明確に定義された……ということですね」
一瞬の沈黙。デミウルゴスの口角が、ほんの僅かに上がった。
「……素晴らしい。実に合理的です」
アルベドが、ぎぎぎ、と音がしそうな動きで顔を向ける。
「デミウルゴス?」
「はい、アルベド」
デミウルゴスはいつもの微笑で返した。そしてアルベドもまた穏やかな笑みで返す。戦争が始まりそうな微笑だった。
「感情面はともかくとして、アインズ様が"唯一"と明言された時点で、内部の混乱要因が減ります。曖昧さがない。これは、統治にとって大きな利点です」
「…………感情面はともかくとして?」
アルベドの声が、やたら丁寧になった。
「ええ。感情面は……"個々の問題"ですので」
さらっと言う。アルベドの黒い翼が、ぴくり、と跳ねた。ザナックは内心で(助けてくれ)と天井に向かって祈った。天井は何も言わない。デミウルゴスは続ける。
「アインズ様。確認ですが、これはナザリック内部のみへの通達でしょうか。それとも対外的発表も想定されておりますか?」
アインズが頷く。
「当然、対外的にも公表する。ザナックは俺の婚約者だ」
(それ言いたいだけでしょうアインズ様!)とザナックは叫んだ。心の内で。デミウルゴスの眼鏡が、きらり、と光った気がした。
「承知いたしました」
即答。
「では、対外的な呼称はどういたしましょう。『魔導王陛下の婚約者』、『魔導国正妃殿下』、あるいは『伴侶』として統一するか──」
デミウルゴスは声を弾ませる。
「儀礼の計画、国内法の整理、反対派への対処……」
アルベドが指を折りながら言う。仕事が早い。怖いほどに。
「その全てを、私が責任を持って段取りいたします」
そして、ぴしっと姿勢を正す。
「……当然ですわ。根回しは、私の役目ですもの」
デミウルゴスはにこりと笑った。
「ええ。根回しはアルベドが。ナザリック内部の反対派の"説得"は、私が」
「説得?」
「はい。説得です」
何故かその場の温度が一度下がった。
アインズが咳払いをする。
「過剰なことはするな」
デミウルゴスは一礼した。
「アインズ様のご命令の範囲で、最大限"穏便"に」
定義が怪しい。アルベドが、にこ、と笑い直した。
「その"穏便"は、どの程度まで?」
「命が残る範囲で」
「……」
ザナックは(やめてくれ)と二人の間に見えない火花を見た。そこでシャルティアが、ぱっと手を挙げた。
「つまり! ザナック様が正妻ってことは!」
ものすごく嬉しそうだ。
「シャルティア、何を……!」
アウラが慌てて止めようとする。
シャルティアは止まらない。
「つまりアルベドは完全敗北でありんすね! うふふ! 第二夫人の席は妾の……」
アルベドの微笑みが、氷みたいに固まった。黒い翼がぷるぷると震える。
「シャルティア?」
「なに、アルベド?」
「側室は取らないとアインズ様は言ったでしょう? 話を聞いてなかったの?アインズ様の御前よ。その口を閉じなさい。」
「うっ」
閉じた。
コキュートスが、重々しく頷く。
「アインズ様ノ御決定、理解シタ。……ザナック様ヲ、護ル。重大ナ役目ダ」
短く、真面目な答え。優しい声色だ。ザナックは少しだけ息を吐いた。アウラは腕を組んだまま、じ、とザナックを見た。
「やるじゃん、ザナック!」
アウラは何故か親指を立てて爽やかな笑みを向けた。マーレが小さく頷く。
「……すごい、です……」
褒めているのか、何なのか分からない。そして、アルベド。アルベドは一度、深呼吸した。とても綺麗な動作だ。
「アインズ様」
優雅に一礼。
「おめでとうございます。心より」
言葉は祝福。声も表情も祝福。……ただし、背後に悔しさが見える。
「そして」
アルベドは、ゆっくりザナックへ視線を向ける。
「ザナック様」
にこり。
「末永くお幸せに。……本当に」
最後の"本当に"だけ、圧が強い。ザナックは背筋を伸ばし、固く頷いた。
「……ありがとうございます」
アインズが、ざっくりと締めた。
「以上。ザナックは俺の婚約者だ。全員、今日からまた、よろしく頼む」
デミウルゴスが、即座に応える。
「畏まりました。アインズ様。まずは儀礼手順と護衛体制の再設計から着手いたします」
アルベドも負けない。
「婚約発表の場の演出は私が。衣装も、式典も、演説も、国民の感情の誘導も」
「感情の誘導?」
アインズが引っかかる。アルベドはにこり。
「祝福ムードを作る、という意味でございます」
デミウルゴスが頷く。
「それは重要です。反発を抑えるには、外堀を埋めるのが最適だ」
アインズは(なんか大変なことになってるな)という顔をした。骨だけど。
ザナックは(大変なことになったな)と思った。顔が熱い。そして、玉座の間の空気は、ようやく前に進む方向に落ち着いていった。ただし。アルベドの背後の黒いオーラだけは、最後まで収まらなかった。