レメディオス視点から。捏造設定。
「レメディオス、約束よ。貴女は強い。けれど、弱い者いじめをしては駄目」
「ケラルトを先にいじめてたとしても?」
ケラルトの悪口を言っていた子達にげんこつをしたら、その話を聞いた母様からソフトなチョップをされた。
「それでも、よ。まずは話をするの。手を出さないで話を聞くのが立派なお姉さんよ」
「うん」
そんなのずるい。あの子達はよくて、私は駄目なの。私がタコみたいに口をとがらせていると、母様は頭を撫でてくれた。
「でも、姉としてはよくやったわ」
母様は歯を見せて笑った。私、この顔が大好きなんだ。
─────
次の日。朝早くから母様に後ろから見守られながら私は庭で剣を振っていた。母様に言われたわけじゃない。私はケラルトみたいに考えて動くのが苦手だ。私は強くなりたい。だから剣の練習をしている。弱い私では駄目だ。ケラルトを守れるようになりたい。父様、母様を守れるようになりたい。私は、ザッと足を広げて踏ん張った。手が痛くても歯を食いしばった。
────────
あの日の大木の下、カルカ様とケラルトと一緒に団子のようにくっついて座っていた。あれ以来、おやつを食べ終わったらみんなで集まっていた。
「カルカ様、甘い匂いがするな」
「やだレメディオス……嗅がないで」
「本当だ、ケーキ食べましたか?」
「えっ……と、食べたけど……。レメディオス達は何を食べたの?」
「母様が焼いてくれたパイ、おいしかったぞ」
胸をぽんと叩くと、カルカ様が微笑んで手を叩いた。
「ねえ、今度三人で私の部屋でケーキを食べましょう」
「いいのか、やった!」
「姉様、少しは遠慮とかしましょうよ」
ケラルトは顔を顰めた。が、カルカ様は少し眉を下げてやわらかく笑った。
「ふふ、遠慮されたら悲しいわ。」
「だそうだぞケラルト」
「なんで姉様が得意げなんですか」
───────
カルカ様の部屋は私の想像していた倍ほど広かった。薄ピンク色のベッドにソファ、そして真っ白なテーブルクロスがしかれたローテーブル。メイドが三人分のコップに果実水を注ぐ。
「ありがとう」
微笑んだカルカ様。メイドは「何かあればお申し付けください、王女様」と後ろに下がった。テーブルの上にはチョコレートのケーキとベリーの乗ったツヤツヤなケーキ。既に切られていて、すぐに取り分けられるようになっている。
「好きに食べてね。レメディオス、ケラルト」
流石のケラルトも横で目を輝かせている。
「いいんですか?! ほんとうに!」
ケラルトが声を上げた。
「ふふっ……いいのよ、好きなだけ食べてね」
「これすごくおいしいぞ」
チョコレートケーキを口に詰め込んだ私を見てケラルトは呆れたように目を細めた。
「姉様……」
「ん?」
「……せめてお行儀よく食べてくださいね」
ケラルトが頬を緩めたので私も笑顔で返した。
「お行儀なんて気にしなくていいわ。私も苦手だもの……」
小さく切り分けたベリーのケーキを口に入れてカルカ様は頷いた。
「ねえ」
そしてフォークを置いた。
「大人になるってどんな感じかしら……」
独り言のように呟かれたそれに答えた。
「強い人のことだろ」
「それは姉様基準では? まともな判断が下せる人が大人でしょう」
「私は、誰かに優しくできる余裕のある人だと思うわ」
カルカ様は手を広げて力説する。
「優しくできる、か。私の母様は優しい人だぞ」
「そうなのね、私のお母様も優しいの。ふふ、寝る前に本を読んでくれるわ」
「カルカ様は大人になったら何をしたいんですか?」
こくりと果実水を飲み込んだケラルトが質問をした。
「そうね、お兄様達をお手伝いして、この国を良くしたいわ!」
両拳を握りしめ、カルカ様は意気込んだ。
「"良く"って?」
「泣いている人にすぐに手を差し伸べられるような国になったらいいなって……。ケラルトは?」
「えっ、私ですか? そうですね、姉様のように私は突っ走れないので後ろで支える人になりたいですね。姉様の無茶も止めなくちゃだし」
「無茶なんてしてないぞ」
「この間木から飛び降りた人は誰でしたっけ」
「……さぁ、誰だろうな」
「ふふふっ」
私が顎に手を当てるとカルカ様が笑う。
「二人といると……本当に楽しいわ」
───────
夜。カーテンを開けた窓からは夜空と星が見えた。月の明かりに照らされて、私はベッドに横になっていた。
『大人になるってどんな感じかしら……』
カルカ様の言葉が頭の中で何度も響いていた。楽しいんじゃないのか。だって、みんな笑顔で、笑い合ってて。私たち子供にはできないことが出来る、何倍も自由だ。よく分からない。それじゃだめなのか、楽しいだけじゃないのか? 大人って難しいな。母様に聞いてみたら分かるかな。私は大人になったら……。そこまで考えて、ううん、と首を振った。 分からないものは分からない。だけど、ひとつだけ分かることがある。
「大人になっても……カルカ様とケラルトが笑ってたら、いいな」
ぽつりと呟くと、なんだか少しだけ胸のあたりがあたたかくなった。 それでいい気がした。 私は目を閉じる。窓の外で、夜の虫が小さく鳴いていた。──次の日。 おやつを食べ終えた私は、いつものようにケラルトの手を引っ張って城の中庭へ向かっていた。
「姉様、引っ張らないでください!」
「いいから早く! カルカ様が待ってるかもしれないだろ!」
石畳をぱたぱたと走る。 曲がり角をひとつ抜けて、大きな木の見える場所まで来ると──いた。
「レメディオス! ケラルト!」
カルカ様が両手をぶんぶん振っていた。 今日は薄い黄色のドレスだ。ふわふわしていて、なんだか花みたいだった。
「待たせたか?」
「ううん、私も今来たところ!」
カルカ様はにこにこしている。 その顔を見ると、なんだか私まで嬉しくなる。
「今日は何して遊ぶ?」
「んー……」
私は腕を組んだ。 カルカ様もケラルトも私を見る。
「かくれんぼ!」
「ええっ」
「いいわね!」
ケラルトはちょっと困った顔をしたが、カルカ様はすぐに賛成してくれた。
「じゃあ最初は私が鬼をする!」
「えー、姉様が鬼だとすぐ見つかりそうです」
「大丈夫だ、ちゃんと十数える!」
「ちゃんと、ですよ?」
「うん!」
私は木に向かって立った。 目をぎゅっとつぶる。
「いーち、にーい、さーん……」
数えながら、なんだか楽しくなってきた。 後ろでぱたぱた走る音がする。 カルカ様の小さい靴音と、ケラルトの急いでる足音。どっちも分かる。
「じゅう!」
振り返った。 しん、としている。
「よーし……」
私はにやっとした。 こういうのは得意だ。花壇の後ろをのぞく。いない。 ベンチの下。いない。 木の陰。……いない。
「ふふん、隠れるの上手くなったな」
歩いていると、低い茂みがわずかに揺れた。
「見つけた!」
「きゃあっ!」
そこにいたのはカルカ様だった。 葉っぱを髪にくっつけたまま、ぱっと立ち上がる。
「どうして分かったの!?」
「動いたからだ!」
「そんなあ……」
カルカ様は悔しそうに頬をふくらませた。
「ケラルトは?」
「見てないわ」
「じゃあ一緒に探そう!」
二人で歩く。すると、少し離れた石像の後ろから、小さなくしゃみが聞こえた。
「……っくしゅ」
「ケラルトだ!」
「ケラルトね!」
二人で駆け寄ると、石像の後ろに小さくしゃがみこんでいたケラルトが、はっと顔を上げた。
「……姉様、カルカ様」
「見つけたぞ!」
「くぅ……」
ケラルトは悔しそうに唇を結んだ。 けれど、次の瞬間には小さく笑った。
「姉様、すごく嬉しそうですね」
「当たり前だ! 勝ったからな!」
胸を張ると、カルカ様がふふっと笑った。
「じゃあ次はケラルトが鬼?」
「えっ」
「さっき最後に見つかったしな!」
「普通は最初に見つかった人じゃ?」
ぶつぶつ言いながらも、ケラルトはちゃんと木の前に立った。
「……いーち、にーい、さん……」
声がちょっと小さい。 私はカルカ様と顔を見合わせた。 そして、こっそり走る。
「どこに隠れる?」
「んー……あっち!」
カルカ様が指差したのは、庭のすみにある低い生垣の近くだった。二人でしゃがみこむ。 ドレスの裾が葉っぱに触れた。
「しーっ」
「うん」
すぐ隣で、カルカ様が笑うのをこらえていた。 肩がふるふるしている。
「……カルカ様、笑うと見つかるぞ」
「だって、レメディオスの顔が真剣すぎて……っ」
「真剣じゃないと勝てないだろ」
「ふふふ……」
その時。
「姉様、カルカ様、そこですよね?」
「えっ」
「わあっ」
いつの間にか、上からケラルトがのぞきこんでいた。
「なんで分かった!?」
「見えてましたよ。姉様の髪」
「うそだろ……」
「寝癖のままだから目立つんです」
私はしゅんとした。 するとカルカ様がぱっと立ち上がった。
「じゃあ、次はもっとすごい遊びをしましょう!」
「もっとすごい?」
「うん!」
カルカ様は目をきらきらさせて言った。
「お城探検ごっこ!」
「たんけん?」
「このお庭を、知らない場所みたいに歩くの。どこかに宝物があるってことにして!」
私はすぐにわくわくした。
「いいな、それ!」
「姉様こういうの好きですよね」
「好きだ!」
カルカ様は嬉しそうに手を叩いた。
「じゃあ、レメディオスは騎士ね!」
「おお!」
「ケラルトは賢い魔法使い!」
「……なんで私はそういう役なんですか」
「似合うもの!」
「う……それなら、まあ」
「カルカ様は女王様だ!」
「えへへ」と、カルカ様はくるりと回った。 スカートがふわっと広がる。
「では騎士レメディオス! 女王様を守ります!」
「よろしくね、騎士さま」
「……では私は、後ろからついて行きます。危なそうだったら止めます」
「それも大事だな!」
三人で並んで歩き出した。 石畳を進んで、木のトンネルみたいな小道をくぐる。
「ここは暗い森だな」
「じゃあ魔物が出るかもしれないわ」
「任せろ!」
「姉様、声が大きいです。敵に気付かれます」
「はっ……そうか」
「ふふふっ」
カルカ様が口に手を当てて笑った。少し進むと、噴水が見えた。 水がきらきら光っている。
「……あ」
カルカ様が立ち止まる。
「どうした?」
「あれ、宝物みたいじゃない?」
噴水のふちに、誰かが落としていったらしい青いガラス玉が乗っていた。 陽の光できらきらしていた。
「ほんとだ!」
私は駆け寄った。
「すごいな、宝石みたいだ」
「きれい……」
ケラルトも目を丸くしている。カルカ様はそっとそれを手に取った。
「じゃあ、これがお宝ね」
「やったな!」
「でも、本当は誰かの落とし物かもしれません」
「たしかに」
「じゃあ、あとでメイドさんに渡しましょう?」
「うん!」
カルカ様は大事そうに両手でガラス玉を包んだ。 それから私達を見て、ふわっと笑った。
「……お宝って、見つけるまでが一番楽しいのかもしれないわ」
「そうか?」
「そうですよ、姉様。探してる時が一番わくわくします」
「……なるほど!」
私はうなずいた。 たしかにそうかもしれない。 カルカ様とケラルトと一緒に、あっちだこっちだって探してる時間が、すごく楽しかった。
「じゃあ、次はもっと大きい宝を探そう!」
「まだやるんです?」
「やる!」
「ふふ、もちろん!」
三人でまた歩き出す。 今度は花壇の向こう、いつもあまり行かない細い道の方へ。
「こっちは秘密の道だな」
「秘密の道なら、きっと秘密のお菓子屋さんがあります」
「それは最高だな!」
「うふふ、そんなのあったら毎日行きたいわ」
走って、止まって、笑って。 時々ケラルトが「姉様、危ないです!」と怒って、 カルカ様が「レメディオス待ってぇ!」と追いかけてきて、 私は「早くしないと宝がなくなるぞ!」と手を振った。気付けば、日が少し傾いていた。 空の色がやわらかくなっている。
「もうこんな時間……」
ケラルトが空を見上げる。
「ほんとだ」
カルカ様も名残惜しそうに言った。
「……じゃあ、今日はここまでだな」 そう言ったら、なんだか少しだけ寂しくなった。けれど、カルカ様はすぐに言った。
「また明日も遊びましょう?」
「いいのか?」
「もちろん!」
「私も……その、また遊びたいです」
ケラルトも小さく頷く。私は胸がいっぱいになって、強く頷いた。
「じゃあ約束だぞ!」
「ええ、約束」
「……約束です」
三人で手を重ねた。 手が三つ、重なる。 あたたかかった。その時、私は思った。 大人になるってどんな感じかは、まだ分からない。 でも、今こうして三人で笑ってるのは、すごくいい。 こういう毎日を大人になっても守りたい。
「レメディオス?」
「どうしたの、姉様?」
「……いや!」
私は二人の手をぎゅっと握った。
「明日も絶対、会おう!」
カルカ様が笑う。 ケラルトも笑う。 それを見たら、胸の奥がぽかぽかして、なんだか無敵になった気がした。
──────
ケラルトは十三歳、私が十五歳になってから初めて迎える冬。三日月が空に上っていた夜だった。
「姉様、寒いですから中に入ってください」
庭でいつものように剣を振っていたら、上着を羽織ったケラルトが玄関扉から出て歩いて来た。ふー、と白い息を吐き、私は剣を下ろした。
「大丈夫だ、ケラルト。運動していれば暖かいからな」
「そんなわけないでしょう。……心配なんですよ、分かってください姉様」
ケラルトは私の言葉を一蹴して拗ねたように唇を尖らせる。
「……私は聖騎士だ。このくらいの寒さなんて平気にならなければ」
「……姉様」
ケラルトが俯く。泣き出しそうな声にちくりと心が痛んだ。
「……あと、数振りしたら」
「私、待ってますね」
ケラルトはそばのベンチに腰掛けて微笑んだ。
───────
薄暗い廊下を歩いていた。夜も更けて、昼間とは違った静かな城内だった。縦に細い窓からは、青い月明かりが斜めに差し込んでいる。石床にその光が長く、道標のように伸びていた。靴音が、こつ、こつ、と響く。昼間、訓練場で剣を振った疲れがまだ腕に残っていた。肩も少し重い。けれど、足取りは止まらない。こんなふうに夜の廊下を歩くのは嫌いじゃなかった。
「ふ……」
ケラルトの声が少し恋しくなる。今日もまた、礼拝堂へ向かう小さな背中を見た。神官見習いとしての勉強。祈りや作法、薬草の知識。治癒魔法。私にはよく分からないことばかりだ。分厚い本を開き、何度も文字を指で追って、覚えて。静かに積み重ねていく。自分にはああいうのは向いていない。椅子に座って長く考えるより、私には体を動かす方がずっと早い。分からないことを分からないままにしてでも、前に進みたかった。ケラルトは強い。剣じゃなくても強さはあるんだと、あの子はそう思わせてくれる。あの子は誰かを救う力を手に入れようとしている。人の傷を癒して、苦しみを和らげて、手を差し伸べるように。
私は立ち止まる。窓の外には深い青の夜が広がっていた。月さえもどこか青く見えた。
「私は、大人になれるのか」
歩き出すと、青白い光が肩を掠めていく。今度は、カルカ様の顔が浮かんだ。皆に愛らしいと評される笑顔。ふわりとした声。だけどその奥にも、彼女の強さの芯がある。カルカ様はお優しい。優しすぎるくらいだ。泣いている人を放っておけないし、困っている人を見るとすぐに手を伸ばす。誰に対しても分け隔てなく笑いかける。だから皆、カルカ様を好きになる。その裏であの人はちゃんと見ている。人の顔も、空気も、言葉の裏までも。おっとりして見えて、実は誰よりもたくさんのことをその胸に抱えている。そして、最近。ケラルトからも聞いたが、城の中で聞いた声も数え切れない。難しい話はよく分からないが、要するに、カルカ様が王位を継ぐかもしれない。私は奥歯を噛み締めた。カルカ様には兄君達がいる。けれど、皆が皆、王に向いているわけではないということだ。私には政治のことは詳しくは分からない。だが、分からないなりに見えることはある。カルカ様なら────
弱い者を見捨てない。カルカ様ならこの国をちゃんといい方へ導こうとする。少なくとも、権力争いで蹴落としあっている噂のある兄君達よりかは随分良い。でも、だからこそ危ない。心の綺麗な人は傷付きやすい。女であることを理由に、軽んじる者もきっと出る。笑顔の裏で、くだらないことを言う貴族もいるだろう。カルカ様が王位に近付けば、向けられる悪意も増える。それが、どうしようもなく腹立たしかった。守りたい。ケラルトも。カルカ様も。二人が笑っていられるこの国を守りたい。
「私は……剣になる」
「二人のための、剣だ」
自分が本当に二人を守れるほど強くなれるのか、分からない。未熟だし、失敗だってまだ多い。ケラルトみたいに頭で考えることも、カルカ様みたいに優しくあることもできない。私に出来ることは。前に立つこと。盾になること。剣を振るうこと。二人に届く前に、全て叩き落とすこと。
───────
夜更け。王城の中はすっかり静まり返っていた。昼の喧騒が嘘のように、長い廊下には靴音ひとつ響かない。窓の外、薄雲の向こうに隠れた月が、ぼんやりと石床を照らしている。レメディオスは手紙を握りしめたまま、隣を歩くケラルトをちらと見た。
「……本当にカルカ様の字だな」
小さく呟く。簡潔な文面だった。
──【今夜、礼拝堂へ来て。二人に話したいことがあります。カルカ】
「ええ。間違いありません」
ケラルトも封を見下ろし、静かに頷いた。
「……明日、ですものね」
即位式。その言葉を浮かべた瞬間、胸の奥がぎゅっと締まるのをレメディオスは感じた。分かっていた。覚悟もしていた。王城中の空気も、この数日で何かが変わっていた。けれど、頭では理解していても、いざ明日となると落ち着かなかった。二人は足を止めず、礼拝堂へ向かう。昔からある、小さな礼拝堂。大聖堂のような荘厳さはないが、石造りの壁は丁寧に磨かれ、古い木の扉にも傷ひとつない。花も飾られ、そこだけが穏やかな気配をまとっていた。扉を押し開ける。ぎい、と控えめな音。中は薄暗かった。けれど、祭壇のそばにだけ燭台の火が揺れている。淡い光の中に、ひとつの影があった。
「カルカ様……?」
レメディオスが呼ぶ。礼拝堂の奥、祭壇の近くに立っていたのはカルカだった。淡いブルーのネグリジェに薄い羽織りを重ね、長い金髪を背に流している。昼間の王女としての装いではなく、あまりにも無防備な、穏やかな夜の姿だった。
「こんな時間に呼び出してごめんなさい」
カルカは振り返り、二人を見ると、少しだけほっとしたように眉を下げた。
「……何故ここに呼び出したんだ」
レメディオスが問う。声は低かったが、責める色はない。ただ、真っ直ぐな疑問だった。カルカは目を伏せ、指先を胸元で組む。
「部屋だと……メイドに聞かれてしまうから」
「そんな大事な話なのですか」
ケラルトが一歩近づいて訊ねる。カルカはしばらく答えなかった。燭台の火が小さく揺れ、礼拝堂の壁に三人の影が映る。やがて、カルカはゆっくりと顔を上げた。
「……明日のこと、改めて二人に伝えたかったの」
レメディオスは息を詰める。カルカの翡翠色の瞳は、揺れている。
「私……聖王の座に就きます」
その声は、思ったより穏やかだった。
「正式に、明日の即位式で……この国を背負う立場になります」
沈黙が落ちる。分かっていたことだ。分かっていた。けれど、こうしてカルカ自身の口から告げられると、胸の中で何かが重く沈んだ。
「……そうか」
レメディオスがようやく言った。
「うん」
カルカは頷く。けれど、その頷きの途中で、ふっとまつ毛が震えた。次の瞬間、ひとすじ、涙が頬を伝う。
「カルカ様……!」
ケラルトが声を上げた。カルカは慌てて笑おうとした。けれど、その唇はうまく形を作れなかった。
「ご、ごめんなさい……泣くつもりじゃなかったの……」
また一粒、涙が落ちる。
「ちゃんと、笑って話そうと思ってたのに……」
その声があまりに小さくて、頼りなくて、レメディオスの足は勝手に動いていた。すぐそばまで行き、その小さな体を抱き締める。すぐさまケラルトも横から腕を回した。
「……カルカ様」
ケラルトの声も震えていた。カルカの体は、驚くほど華奢だった。肩がかすかに揺れている。押し殺そうとしても、息がうまく整わないのが伝わってきた。
「怖いの……」
ぽつり、と。カルカの声が二人の間に落ちる。
「怖いのよ……」
その言葉に、レメディオスの腕に力が入った。カルカはレメディオスの肩口に額を寄せたまま、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「でも……やらなくちゃって、思ったの。この国のために、皆のために、私がやるべきだって」
しゃくりあげるような息。
「だけど、いざ明日になると……私、本当にできるのかしらって。間違えたらどうしようって……」
「カルカ様」
ケラルトがその背を優しく撫でる。
「大丈夫です」
「うん……」
カルカは首を振った。
「そう言ってもらえるの、すごく嬉しい。でも、……でも、やっぱり怖いの。皆の前に立つのも、決断をするのも、誰かを守れなかった時のことを考えるのも……」
レメディオスは何も言えなかった。慰める言葉なんて分からない。うまい言い回しも思いつかない。ただ、抱き締める腕に気持ちを込めるしかなかった。
「……カルカ様」
やっと絞り出した声は掠れていた。
「私は……難しいことは分からない」
「ええ」
「でも、カルカ様が一人で立つ必要はない」
カルカの肩がぴくりと動いた。
「カルカ様が前に出るなら、私はそのもっと前に立つ。何か来たら全部叩き落とす。だから……怖がっていても、いい」
ケラルトも頷いた。
「私もおります。姉様ほど剣は振れませんけれど……カルカ様が迷われた時は、一緒に考えます。傷ついた時は癒します。間違えそうな時は、ちゃんとお伝えします」
「レメディオス……ケラルト……」
カルカの体が二人の腕の中で崩れた。しばらく、三人はそのままだった。礼拝堂は静かで、燭台の火だけが揺れている。やがて、カルカが小さく息を吐く。
「……もう大丈夫よ」
その声は、先ほどよりしっかりしていた。
「本当に?」
ケラルトがそっと訊ねる。カルカは頷いた。赤くなった目元にはまだ少し涙の跡があった。それでも微笑もうとしていた。
「もう大丈夫」
そう言って、カルカは二人の腕の中から離れた。離れても、すぐには背筋を伸ばさない。ただ、涙の跡を指先で拭い、少しだけ呼吸を整える。それから、二人を見た。
「……ありがとう」
その一言に、全部が込められていた。レメディオスは眉を下げて笑う。
「何がだ?」
「何がって、分からないんですか?」
ケラルトがすかさず横から言う。
「姉様は肝心なところが天然なんですから」
「だって当たり前のことをしただけだ」
「強情ですね」
ケラルトは呆れたように肩を竦めた。カルカが、ふふ、と小さく笑う。
「……ねえ、二人とも」
「なんだ?」
「はい?」
カルカは少しだけ視線を泳がせて、それから真っ直ぐ二人を見た。
「明日、即位式で……私が王冠を受け取る時」
その指先が、ネグリジェの裾をきゅっと摘まむ。
「できれば、近くにいてくれる?」
レメディオスは瞬きをした。そんなの、当たり前すぎて返事に困るくらいだった。
「何を言ってるんだ」
レメディオスは胸を張る。
「最初からそのつもりだ」
ケラルトも穏やかに頷く。
「離れませんよ。絶対に」
カルカは二人の答えを聞くと、ふっと力が抜けたように笑った。
「よかった……」
その笑みは、幼い頃に庭で笑っていた時のそれと、どこか同じだった。礼拝堂の奥、祭壇の前。カルカは一歩前に出ると、静かに振り返る。
「私……背負うと決めた以上は誓います。この国をより良くしたい。全ての人に手を差し伸べたい。弱き民に幸せを、誰も泣かない国を……」
胸にぎゅっと手を当て、脚を開いて立った姿は間違いなく聖王のそれだった。
「カルカ様……私は協力者として、その正義を後押しします」
レメディオスは珍しく膝をつき、頭を下げて礼をした。ケラルトも当たり前にその横で跪く。
「カルカ様の正義に則って忠義を尽くします」
「二人とも、顔を上げて。まだ聖王になってないのにそんなに敬う必要はないのよ……聖王になったとしてもね」
「分かった」
「姉様、分かっちゃだめです。カルカ様が聖王様になったら敬語を覚えないと」
「む? 敬語くらい使えるぞ」
「……本当に?」
「私をなんだと思ってるんだケラルトは」
「脳みそまで筋肉の聖騎士」
「なんだそれは?」
「あはははっ」
カルカが堪えきれず弾けるように笑った。ため息を一つ吐いたケラルトは静かに祭壇の前へ進んだ。
「では、少し祈りましょうか」
「祈り?」
レメディオスが首を傾げる。
「明日のためにです。……姉様も」
「む……」
「姉様」
「……分かった」
カルカがまた、ふふっと笑う。 三人で祭壇の前に並ぶ。膝をつくのはケラルトだけで、レメディオスはぎこちなく真似をした。カルカはそんな二人を見て、また少し笑った。礼拝堂の静寂の中で、ケラルトがそっと目を閉じる。 「どうか、明日が……カルカ様にとって、良き始まりになりますように」 その祈りに、カルカも目を伏せた。 レメディオスは口を真一文字に結び、少し遅れて目を閉じる。この人が王冠を受け取った後に泣いてしまいませんように。もし泣いても、その涙が絶望じゃありませんように。この国が、この人をちゃんと支えますように。──私が、この人を守れますように。
礼拝堂を去った後の廊下──
「姉様、なんでカルカ様を押してるんです?」
「カルカ様が真ん中だからだ」
「答えになってません」
真ん中を歩くカルカを手指ししたレメディオス。
「ほら、カルカ様の御通りだぞ! 道を開けろ!」
人っ子一人居ない廊下の奥に向かってレメディオスが叫んだ。カルカは満更でもなさそうに照れつつ目を細めた。
「恥ずかしいのだけれど……やめてくれないかしら……レメディオス……」
「ほら、ケラルト、お前も侍従らしく真剣な顔しろ」
「ええ? 私も参加しないといけないんですか? そのごっこ」
「ごっこじゃない」
レメディオスはカルカの斜め少し前を剣の柄頭に手を当てて歩き、カルカはその真ん中でやわらかく微笑み、ケラルトは少し後ろに控えて言われた通りに据えた目をした。今この瞬間だけは、昔と同じように、三人は肩を並べて歩いていた。