大人聖王国トリオの会議です
次の次の回も同じ感じ
ローブル聖王国、王都ホバンス。王城の一角にある聖王の執務室には、昼下がりの柔らかな光が差し込んでいた。縦窓から落ちる陽の光は、磨き上げられた床に淡い四角を作っている。机の上には、南部から届いた嘆願書、神殿からの報告、北部貴族との会合予定、街道整備の見積書、そしてリ・エスティーゼ王国滅亡に関する写しが重ねられていた。カルカ・ベサーレスは、その紙束に目を落としていた。白い指先が、羊皮紙の端をそっと撫でる。文字を追う表情は穏やかだ。聖王として、人々の前に立つ時と同じ、柔らかく崩れない微笑み。けれど、その瞳の奥には、わずかな疲れが沈んでいる。先ほどまで、この部屋には南部の貴族が数名招かれていた。名目は、街道警備と税の配分についての意見交換だった。言葉の上では丁寧で、礼も正しかった。彼らは聖王へ頭を下げ、決められた作法通りに挨拶をし、カルカの言葉に「御意」と返した。けれど、退室していく背中が扉の向こうへ消えた後、廊下の奥からかすかな声が聞こえた。女の王。南部の痛みなど知らぬ、北の玉座。神殿に担がれただけの綺麗な人形。小さな声だった。扉一枚を隔て、さらに廊下の反響に紛れていた。聞こえなかったことにしてもよかった。けれど、聞こえてしまった。カルカはその時も、表情を変えなかった。机の上に置かれていた鈴を鳴らし、次の書類を持ってくるようメイドに頼んだ。玉座を背負う者として、誰にも動揺を見せなかった。しかし、今になって、胸の奥に小さな痛みが残っている。女だから。南部を知らないから。神殿に愛されているから。北部に支持されているから。それらの言葉が、まったくの嘘ではないことも、カルカには分かっていた。だからこそ、ただ怒ることもできなかった。南部には南部の不満がある。遠い王都から見る国と、そこで生きる者達の国は、同じ形をしているとは限らない。だから、知りたいと思う。直接見たいと思う。けれど、その決意と、傷つかないことは別だった。執務室の中には、カルカの他に二人がいた。一人は、扉のそばに立つレメディオス・カストディオ。聖騎士の勤務用の装備を身につけている。腰には剣。表情はいつも通り真っ直ぐで、少し険しい。先ほどの貴族達が廊下で残した言葉を聞いて以来、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。もう一人は、窓辺に近い椅子に腰かけたケラルト・カストディオ。膝の上に開いた報告書を置き、細い指で行を追っている。顔は静かだが、目だけが笑っていなかった。レメディオスが、何度目か分からないほど低く唸った。
「……やっぱり、あの者達には一度しっかり言ってやった方がいい」
「姉様」
すぐさまケラルトが名を呼んだ。声は穏やかだったが、そこには釘を刺す響きがある。
「何度も申し上げたでしょう。怒鳴り込めば、余計に関係が悪くなります」
「だが」
「だが、ではありません。今、南部の貴族達と正面から衝突して得をする者は誰ですか」
「……南部の貴族達」
「はい。よくできました」
「子供扱いするな」
レメディオスは不満そうに唇を尖らせた。その様子を見て、カルカは小さく笑った。ほんの少しだけ、胸の痛みが和らぐ。
「ありがとう、レメディオス。私のために怒ってくれているのでしょう?」
「当たり前です。カルカ様を侮辱するなど、許されることではありません」
「ふふ。頼もしいわ」
カルカがそう言うと、レメディオスは少しだけ得意そうに胸を張った。だがその横から、ケラルトが静かに言う。
「頼もしいのと、政治的に正しいのは別です」
「ケラルトはいつもそれを言うな」
「姉様がいつも突っ走るからです」
「ひどい」
「事実です」
短いやり取りに、カルカの口元が緩んだ。執務室の張り詰めた空気が、少しだけ崩れる。この三人の距離が近いことは、王城の者なら誰もが知っている。聖王女カルカ、その剣である聖騎士団団長レメディオス、その補佐であり神官団団長で最高位神官としても名高いケラルト。公の場では主従として振る舞うが、ふとした瞬間に、昔からの親しさが漏れる。それを好意的に見る者もいれば、面白おかしく噂する者もいた。女王は女二人に囲われている。あの三人は親しすぎる。そんな囁きがあることも、カルカは知っている。知っていて、笑っていた。笑顔は、聖王に許された鎧の一つだった。カルカは机の上の報告書を一枚持ち上げた。話題を変えるように、けれど逃げるためではなく、必要な現実へ戻るために。
「南部の件は、改めて視察を考えています」
その言葉に、レメディオスとケラルトの表情が変わった。
「カルカ様が直々に、ですか」
「ええ。報告書だけでは分からないことが多いもの。南部の不満がすべて私への侮りから来ているのなら、正すべきは彼らの態度でしょう。でも、そこに正当な痛みがあるのなら、私はそれを見なければならない」
カルカは静かに言った。
「女の王だから、ではなく。王だから」
レメディオスは何かを言おうとして、口を閉じた。代わりに、ケラルトが頷く。
「私も賛成です。南部の貴族には不愉快な者も多いですが、南部そのものを遠ざける理由にはなりません。むしろ、あのような陰口を言う者達ほど、何かを抱えている可能性があります」
「ケラルトは優しいのね」
「違います。追い落とすにも、まずは弱点を知らなければなりません」
「ケラルト」
カルカが困ったように名前を呼ぶと、ケラルトは涼しい顔で報告書を閉じた。
「冗談です」
「今のは半分本気だろう」
レメディオスが言う。
「七割です」
「多いな」
「三割は冗談です」
カルカは思わず笑ってしまった。王としての微笑みではない。昔、内庭で二人と笑っていた時のような、少しだけ力の抜けた笑みだった。しかし、その笑いは長く続かなかった。机の端に置かれた別の報告書が、三人の視線を引き戻す。リ・エスティーゼ王国滅亡。その文字は、何度見ても重い。半年以上前、大国の一つであった王国は、魔導国によって滅ぼされた。王都は陥落し、王族はほぼ全滅。国王ランポッサ三世、第一王子バルブロ、第二王子ザナック。名のある貴族の多くも命を落としたと伝えられている。第三王女ラナーについては様々な噂があるが、真偽は定かではない。カルカは、その報告を最初に読んだ日のことを覚えていた。紙の上の文字が、しばらく意味を結ばなかった。一つの国が、滅びた。王が死に、王子達が死に、民が支配者を失った。遠い国の話だと片付けるには、その出来事は大きすぎた。
「王国の民は……」
カルカが小さく呟く。
「今は魔導国の統治下にあるのよね」
「そのようです」
ケラルトが報告書を取り上げ、該当箇所を確認する。
「王国領の一部はかなり荒廃したようですが、魔導国に編入された地域では治安が安定している、という報告が複数あります。アンデッドを労働力や警備に使い、犯罪率を下げているとも」
「アンデッドが治安を守るだと?」
レメディオスが顔をしかめた。
「悪い冗談みたいだな。死者を使って生者の街を守るなど」
「冗談ならよかったのですが、複数の商人が同じ内容を述べています。エ・ランテルでは夜道を歩いても安全だとか。荷運びも安く、物流も安定しているそうです」
「それで、王国を滅ぼしたことが帳消しになるわけではない」
レメディオスの声には、隠しきれない嫌悪が滲んでいた。
カルカは何も言わず、その言葉を受け止めた。彼女自身も、魔導国を好きになれるわけではない。近づきたいかと問われれば、首を横に振りたい。国一つを滅ぼした魔導王。アンデッドの王。恐怖の象徴。その名を聞くだけで、背筋に冷たいものが走る。けれど同時に、民が平和に暮らしているという報告を、なかったことにもできなかった。
「それでも、王国の民が少しでも穏やかに暮らせているのなら……半分だけ、安心したわ」
「半分、ですか」
ケラルトが静かに問う。
「ええ。残りの半分は、怖い」
カルカは素直に言った。
「国を滅ぼす力を持つ者が、民を安定して治める力も持っている。それは、ただ暴れる怪物よりずっと恐ろしいことかもしれない」
執務室に沈黙が落ちた。レメディオスは腕を組み、窓の外へ視線を向けた。青い空の下、王都の屋根が連なっている。人々は今日も市場へ向かい、神殿へ祈りに行き、子供達は路地を走っている。この穏やかな景色の向こうに、魔導国がある。遠いようで、もう決して無関係ではない国。
「魔導国は、最近よく動いています」
ケラルトが別の資料を引き寄せた。
「周辺国との交易、外交、治安維持の宣伝。直接的に脅すのではなく、少しずつ外堀を埋めています。魔導王本人が出向くこともあれば、側近や使節が動くこともある。各地で、魔導国との関係を持つことが利益になる、という認識が広がり始めているようです」
「外堀、か」
レメディオスは苦々しげに呟いた。
「戦で滅ぼし、次は笑顔で手を差し出す。信用できるか」
「信用できるとは言っていません。ただ、無視できないと言っているのです」
ケラルトの声は冷静だった。
「今の聖王国に、魔導国と正面から敵対して勝つ力はありません」
その言葉に、レメディオスが顔を上げた。怒るかと思われたが、彼女は何も言わなかった。ただ唇を引き結び、拳を握る。カルカは、その横顔を見た。レメディオスは強い。誰よりも前に立つ。カルカを守るためなら、どんな相手にも剣を向けるだろう。けれど、そのレメディオスでさえ、魔導国という存在の前では簡単に「勝てる」と言えない。それほどの相手なのだ。
「聖騎士団の中でも、魔導国の情報を正しく理解している者は少ないでしょう」
ケラルトは続ける。
「多くは、王国を滅ぼした恐ろしいアンデッドの国、という認識です。神官達も同じ。民衆の中には、むしろ遠い噂話としてしか受け取っていない者もいます」
「南部の貴族達は?」
カルカが問う。
「表向きは、魔導国への警戒を口にしています。ただ、内心では北部や神殿よりも自領の利益を優先している者もいるでしょう。魔導国より先に、王都への不満を募らせている」
「私への不満、ね」
「カルカ様」
レメディオスが即座に声を上げる。カルカは微笑んだ。
「大丈夫よ。傷ついていない、とは言わないけれど。知らないふりをするよりはいいわ」
「……カルカ様は、強いです」
レメディオスが言った。それは慰めではなく、彼女なりの確信だった。カルカは少しだけ目を細める。
「私は強くないわ。怖いものは怖いもの」
「怖くても立っているなら、それは強いのです」
珍しく、ケラルトが柔らかく言った。カルカは二人を見た。昔から変わらない二人。前に立とうとするレメディオス。少し後ろから支え、時には鋭い言葉で道を正すケラルト。公の場では聖王と臣下でありながら、こうして三人だけになれば、過去の時間がそっと戻ってくる。
「では、私は強い聖王として、少しだけ弱音を吐いてもいいかしら」
「どうぞ」
ケラルトが即答する。
「任せてください」
レメディオスも力強く頷いた。カルカは机の上に両手を重ねた。指先に力が入る。
「魔導国は怖いわ。王国のことも、南部のことも、何もかも考えると、胸がいっぱいになる。私はこの国を守りたい。けれど、守るために何を選べばいいのか、時々分からなくなるの」
言葉にしてみると、胸の奥に溜まっていたものが少し軽くなった。
「けれど、見ないふりだけはしたくないわ。南部のことも、魔導国のことも、王国の民のことも。たとえ怖くても、知らなければ何も選べない」
「……カルカ様らしいです」
ケラルトが静かに言った。
「だが、魔導国に近づく必要はない」
レメディオスは低く言う。
「向こうから来るなら別だが、こちらから手を伸ばすような真似は……私は、賛成できません」
「姉様」
「分かっている。今すぐどうこうする話ではないのだろう。だが、私は嫌だ。王国を滅ぼした相手だぞ。アンデッドの王だ。そんなものに」
レメディオスは言葉を切った。感情が先に走りそうになるのを、必死に抑えているのが分かる。カルカとケラルトに何度も注意されてきたからだ。怒鳴れば、剣を抜けば、守りたいものをかえって傷つけることもある。彼女はそれを理解している。理解しているからこそ、拳を握って堪えていた。カルカは、そんな親友を愛おしく思った。
「ありがとう、レメディオス」
「私は何も」
「怒らないでいてくれているでしょう?」
レメディオスは気まずそうに視線を逸らした。
「……怒ってはいます」
「でも、我慢してくれている」
「カルカ様とケラルトに怒られるからです」
「偉いわ」
「子供扱いしないでください」
レメディオスの抗議に、ケラルトが小さく笑った。
「では、大人としてそのまま我慢してください」
「お前は本当に私に厳しいな」
「姉様を信用しているからです」
その一言に、レメディオスは黙った。少しだけ頬が赤くなる。カルカはまた笑った。だが、机の上の地図に視線を戻すと、笑みは自然と薄くなる。
聖王国は平和に見える。王都ホバンスは今日も穏やかで、北部の貴族達はおおむねカルカを支持し、神殿も彼女の治世を後押ししている。民衆の多くも、優しく美しい聖王を愛していた。けれど、その平和は薄い氷の上にある。南部には不満がある。貴族達の中には、女の王を侮る者がいる。魔導国の影は遠くから伸び、王国滅亡の報は、誰の胸にも小さな恐怖を植え付けた。聖騎士団も神官達も、まだ本当の危機を理解していない。理解しているのは、この執務室にいる三人だけなのかもしれなかった。カルカは地図の南部に指を置いた。
「まずは、南部を見ます」
その声は静かだった。
「不満があるなら聞く。間違っているところは正す。私が見えていなかったものがあるなら、見に行く。南部の民にも、私が彼らを軽んじていないと伝えたい」
「同行します」
レメディオスが即答した。
「もちろんです。姉様を置いていく方が難しいでしょう」
ケラルトが淡々と言う。
「私も準備を進めます。南部貴族の発言、税の流れ、神殿への寄進額、ついでに失言の記録も洗っておきます」
「最後のは必要かしら」
「将来的に必要になるかもしれません」
「ケラルト、ほどほどにね」
「はい。ほどほどに追い詰めます」
「ケラルト」
「冗談です」
「今のは九割本気だな」
レメディオスが言うと、ケラルトは微笑んだだけだった。カルカはため息を吐きながらも、胸の奥に温かいものを感じていた。傷つかないわけではない。怖くないわけでもない。けれど、一人ではない。自分が前を向く時、もっと前に立つ者がいる。迷った時、一緒に考えてくれる者がいる。間違えそうな時、ちゃんと止めてくれる者がいる。だから、まだ立てる。窓の外で、風が吹いた。王城の庭木がざわめき、遠くで鳥が羽ばたく音がした。秋の名残は薄れ、空気には冬の気配が混じり始めている。どこか冷たい。カルカは視線を上げ、遠い南の空を見た。まだ何も起きていない。けれど、何かが近づいているような予感があった。レメディオスが剣の柄に手を置く。ケラルトが静かに報告書を閉じる。カルカは、聖王として微笑んだ。
「行きましょう」
その言葉に、二人は迷わず頷いた。