※この作品はR-18です。

ザナック蘇生if/アイザナ   作:アイザナ大使

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怪我をしたカルカ様が秘密の視察に行く話です




戦場の聖女

 

 

南へ向かう馬車の中、車輪が石畳を踏む音を背景にカルカは窓の外をしばらく眺めていた。ケラルトやレメディオスに内緒で、南部の都市に向かっていたのだ。初めて、親友に内緒の行動をした。緊張で胸が高鳴り、肩の傷もじわじわと傷んでくる。ヤルダバオトの爪が掠めた場所は、最低限の治癒だけを受けて布で強く押さえている。神官達は当然のように本格的な治癒を求めたし、ケラルトがここにいれば、きっと許さなかっただろう。レメディオスがいれば、怒鳴ってでも寝台に押し込んだに違いない。だから、二人には言わなかった。

「聖王女様、本当にこのまま進まれますか」

馬車の横を進む護衛の一人が、恐る恐る問いかけた。若い聖騎士だった。兜の下の顔には疲労が滲んでいる。それでも手綱を握る手は固く、視線は何度もカルカの肩へ向かっていた。カルカは窓から彼へ目を向け、微笑んだ。

「ええ。南部の方が先に襲われたのでしょう」

「ですが、北部城塞都市もまだ混乱の中にあります。聖王女様が離れられたと知れれば……」

「ですから、これは内密です。あなた達にも苦労をかけますね」

「苦労などではありません!」

若い聖騎士は慌てたように背筋を伸ばした。その姿がおかしくて、カルカは少しだけ笑った。笑うと肩に響いた。痛みで息が止まりかけたが、声には出さなかった。だが、痛いなど言っていられない。南部の民はそれよりずっと前に痛みを受けたのだから。自分は王なのだから、その痛みを見なければならない。

「聖王女様、そろそろ見えてまいります」

護衛の声に、カルカは顔を上げた。

馬車の窓から、崩れた石壁が見えた。

南部の城塞都市。その外壁は、遠目にも傷ついていた。門の片側は焼け焦げ、石畳にはまだ黒い跡が残っている。応急処置の木材が組まれ、兵士達が慌ただしく行き来していた。建物の屋根は落ち、壁にはひびが入り、風が吹くたびに焦げた匂いと土埃が混ざって流れてくる。

馬車が止まるより早く、人々の視線が集まった。

最初は警戒だった。次に困惑。そして、誰かが息を呑む。

「聖王女様……?」

小さな声だった。

それが波紋のように広がっていく。

「聖王女様だ」 「どうして、ここに……」 「お怪我をされているんじゃ……」

護衛が慌てて馬車の扉を開ける。カルカは立ち上がろうとして、右肩に走った痛みに一瞬だけ目の前が白くなった。だが、すぐに息を整えた。

ここで顔を歪めてはいけない。

この人達は、もう十分に恐怖を見た。焼けた壁を見た。倒れた者を見た。悪魔の名を聞いた。ならば今、彼らが見る聖王女は、震えていてはならない。

カルカは馬車を降りた。

足元が少し揺れた。護衛が手を差し出そうとしたが、カルカは小さく首を振った。自分の足で立たなければならない。ほんの数歩でもいい。民の前では、立っていたかった。

「皆さん」

カルカの声に、人々が静まる。

避難所となっている広場には、負傷者が並べられていた。包帯を巻いた老人。泣き疲れて眠る子供。煤で汚れた頬の女性。腕を吊った兵士。誰もが疲れ果て、怯え、けれどカルカの姿を見て目を離せずにいた。

「遅くなってしまって、ごめんなさい」

その言葉に、何人かが目を見開いた。

カルカはゆっくりと頭を下げた。護衛の聖騎士達が動揺する気配がした。王が民に頭を下げるなど、本来なら軽々しくすることではない。分かっている。けれど、今必要なのは威厳だけではなかった。

「怖かったでしょう。痛かったでしょう。守るべき砦が壊され、この地に悪魔が現れた。どれほど恐ろしかったか、私には想像することしかできません」

声は震えなかった。

震えないようにした。

「ですが、私はここに来ました。皆さんを見捨てるためではありません。あなた達がこの国の民である限り、私はあなた達の王です」

誰かが泣き出した。

それは子供ではなかった。年老いた男だった。煤で黒くなった手で顔を覆い、肩を震わせている。その隣で、女性が口元を押さえた。兵士が膝をつき、頭を下げる。

カルカは一人ずつに目を向けた。

微笑む。

頬が強張っているのが自分でも分かった。痛みで指先が冷たい。肩の奥が熱い。けれど、それでも微笑んだ。ここで自分が笑えば、少しだけでも安心する者がいる。明日まで生きようと思う者がいる。まだ国に見捨てられていないのだと思える者がいる。

ならば、笑うことにも意味がある。

「治癒術者と薬草は追加で送ります。食料と毛布も。壊れた家屋については、王都から職人を手配します。すべてすぐにとは言えません。けれど、必ず届かせます」

「聖王女様……」

小さな少女が、母親の影から顔を出した。

カルカは膝を折ろうとして、肩の痛みに息を詰めた。護衛が咄嗟に支えようとする。けれど、カルカはその手を借りる前に、ゆっくり腰を落とした。少女の目の高さに合わせる。

「怖かったですか」

少女は何度も頷いた。

「こわい悪魔、また来る?」

その問いに、周囲の大人達が息を呑んだ。カルカはすぐには答えなかった。嘘はつけない。また来ないとは言えない。ヤルダバオトはまだ倒れていない。亜人達の軍勢もいる。北も南も、どこも安全だと言い切れる状況ではない。

それでも、絶望だけを渡すことはできなかった。

「来させないようにします」

カルカはそう言った。

「私は、私の騎士達と、神官達と、皆で戦います。あなた達がまた安心して眠れるように、できることをします」

少女はカルカの肩に巻かれた布を見た。

「怪我、いたい?」

カルカは少しだけ目を瞬かせ、それから笑った。

「少しだけ」

「なおしてもらわないの?」

「あとで、ちゃんと」

嘘ではない。あとで怒られながら治されるのだろう。ケラルトに叱られて、レメディオスに睨まれて、寝台に押し込まれるに違いない。それを想像すると、ほんの少しだけ胸が温かくなった。少女が小さな手を伸ばした。カルカは左手を差し出す。少女の指が、そっとカルカの指に触れた。

「ありがとう、聖王女様」

その声は弱かった。けれど確かに届いた。周囲から、すすり泣きが広がる。

「ありがたい……」 「わざわざ、こんな所まで……」 「怪我をされているのに」 「まるで、聖女様だわ……」

その言葉達に、カルカは少し困ったように笑った。聖女などではない。自分は怖かった。痛みもある。逃げたいと思わなかったわけではない。ヤルダバオトの名を聞くたび、喉の奥が苦しくなる。今も、できるならレメディオスとケラルトのいる場所に戻りたい。二人の顔を見て、大丈夫だと言ってほしい。それでも、ここに来た。聖女だからではない。王だから。その時、人々の奥から低い声がした。

「……軽々しく頭を下げられては困りますな、聖王女様」

すすり泣きの中、その声だけが妙にはっきりと広場に落ちた。人々が道を開ける。そこに立っていたのは、南部貴族の一人だった。歳は五十を越えているだろうか。背筋は硬く伸び、白髪混じりの髭は綺麗に整えられている。だが、その外套の裾は煤で汚れ、片腕には応急の包帯が巻かれていた。顔色も決して良くはない。それでも、彼は崩れた壁の前で、いかにも貴族らしい硬い表情を崩そうとしなかった。周囲の民が気まずそうに息を呑む。カルカは少女の手をそっと離し、ゆっくりと立ち上がった。肩に痛みが走る。視界が一瞬だけ揺れたが、彼女は笑みを保ったまま、その男へ向き直った。

「あなたは……」

「南部都市の一つ、この地を預かる家の者です。もっとも、今となっては、預かるなどと胸を張って言える有様ではありませんが」

男は皮肉めいた口調で言った。

「王都では、私の名など大して覚えておられないでしょう。女の王を玉座に置いた者達は、南部の声など聞かぬと、我々は思っておりましたからな」

護衛の聖騎士が顔色を変えた。

「無礼な」

「いいのです」

カルカは静かに制した。男はカルカを見た。真正面から。まるで、これまで王都へ送り続けた不満の文書、その全てを一身に背負わせるような目だった。

「我々は、あなたを信用しておりませんでした」

広場がさらに静まり返る。

「北部の都市で飾られ、聖王女などと呼ばれるだけの方だと。南部の土埃も、砦の冷たさも、外壁の向こうに住む者の恐怖も知らぬ方だと。……そう、思っておりました」

カルカは逃げなかった。言い返すことも、咎めることもしなかった。ただ、その言葉を受け止めた。男の眉間に皺が寄る。

「ですから、来るはずがないと思っておりました。北も襲われた。聖王女様ご自身も傷を負われたと聞いた。ならば、王都か北部に残られるのが当然だと。南部など、また後回しにされるのだろうと」

彼の声が、ほんのわずかに低くなった。

「……なのに、来られた」

カルカの肩に巻かれた布へ、男の視線が落ちる。

「その怪我で。治癒もろくに受けておられぬままで。護衛も必要最低限で。民の前で頭まで下げて」

男は苦々しげに口元を歪めた。

「まったく、困った御方だ。これでは、文句を言うにも言いづらい」

誰かが小さく息を漏らした。泣き笑いのような音だった。カルカは、少しだけ目を細めた。

「言ってくださって構いません。南部の方々が不満を持っていたことは、私も知っています。知らなかったふりをしてはいけないと思っています」

「ふん。そういうところです」

男は鼻を鳴らした。

「こちらが嫌味を言っているのに、正面から受け取られてはやりにくい」

そう言いながら、男は一歩前に出た。護衛が身構える。だが男は剣を抜くでも、怒鳴るでもなかった。ただ、煤で汚れた外套の前を整え、痛む腕を庇いながら、ゆっくりと片膝をついた。その場にいた者達が息を呑んだ。

「南部の者として、礼を申し上げます」

硬い声だった。決して甘くはない。恭順というには棘があり、感謝というには不器用すぎる声だった。

「我らを見捨てず、ここまで足を運ばれたこと。民に言葉をかけられたこと。救援を約束されたこと。……そして、我らが聖王国の民であると、王自ら示されたこと」

男は深く頭を下げた。

「感謝いたします、聖王女カルカ・べサーレス陛下」

広場の空気が震えた。先ほどまで泣いていた老人が、さらに顔を覆った。兵士達が次々と膝をつく。母親に抱かれていた少女も、何が起きているのか分からないまま、じっとカルカを見上げていた。カルカは一瞬、言葉を失った。反対されることには慣れていた。陰口を聞くことにも、笑顔で耐えることにも。けれど、こうして傷ついた南部の地で、反対派だった者に頭を下げられるとは思っていなかった。胸の奥が熱くなる。けれど、泣いてはいけない。自分はただ、王として当然のことをしに来ただけだ。カルカはゆっくりと手を差し出した。

「顔を上げてください」

男はしばらく動かなかった。だが、やがて渋々といった様子で顔を上げる。カルカは微笑んだ。

「礼を言うのは、私の方です」

「……は?」

男が思わず眉を上げる。

「生きていてくださって、ありがとうございます。南部を守ろうとしてくださって、ありがとうございます。私が遅れても、この地を諦めずにいてくださって、ありがとうございます」

男の表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。だが、すぐに咳払いをして顔を背ける。

「……そのような言い方をされると、こちらが責めているようではありませんか」

「責めているのでは?」

「責めていますとも」

男は即答した。それから、少しだけ声を落とす。

「ですが、すべてを責めることは……できなくなりました」

カルカは何も言わず、彼の言葉を待った。男は悔しげに目を伏せる。

「我々は、あなたを知らなかった。知ろうともしなかった。それは……認めねばなりません」

重い沈黙が落ちた。

「しかし、勘違いなさらぬよう」

男はまた顔を上げ、いかにも不機嫌そうに言った。

「南部の不満がこれで消えたわけではありません。王都への疑念も、北部への反発も、そう簡単にはなくならない。私もまだ、あなたを全面的に信用したわけではない」

「はい」

「ですから」

男は包帯の巻かれた腕を押さえながら、もう一度だけ頭を下げた。

「次も来ていただきますぞ。今度は、怪我などせず、正式な視察として。南部の道を見て、畑を見て、砦を見て、我らの言い分を最後まで聞いていただく」

カルカは目を瞬かせた。それから、痛みを忘れてしまいそうなほど柔らかく笑った。

「ええ。必ず」

男は満足したように、しかしそれを悟られまいとするように、ふん、と鼻を鳴らした。

「ならば、今はそれで結構です。……聖王女様」

その呼び方は、先ほどより少しだけ柔らかかった。風が吹く。カルカの金色の髪が靡いた。月明かりに照らされて、やわらかく笑った。ズキリと左肩が痛む。きっと包帯に血が滲んだ。

「聖王女様! お怪我が!」

若い兵士が叫ぶ。カルカは笑顔の表情を保った。

「大丈夫です」

 

「大丈夫ではありません!」

 

背後からの声。ずんずんと進んで来るのは、フルプレートに身を包んだ聖騎士団団長レメディオス・カストディオだ。その後ろには汗をかいた兵士達が数人。突然居なくなった聖王女を探して疲れ切っていた。

「聖王女様! 何故こんなこところにいるのです!」

「ええと」

「まだ治癒魔法を受けていないのですか!? 早く王都に戻りますよ、静養してください!」

「ちょ、ちょっと……レメディオス……!」

カルカを半ば抱えるようにして引きずっていき、馬車の方へ向かって行った。広場に居た民達はそれを微笑ましく見ていた。

 

馬車の中に押し込まれたカルカは、窓から外の広場へ声をかける。

「みなさん! 今日は本当にありがとうございました! 私はまた、ここを訪れます!」

「カルカ様、大声を出さないでください。傷に障ります」

レメディオスはカルカを優しく座り直させた。

「帰ったらすぐに治癒魔法ですから」

眉根を寄せたレメディオスが言う。

「はい……ごめんなさい」

カルカは目を伏せる。

「謝るくらいなら最初からしない」

「ごめんなさい……レメディオスなら優しいから見逃してくれると思って……」

片目を開けた。

「…………はぁぁ。ケラルトの方が私よりもっと怖いですからね。一緒に叱られましょうか」

呆れたようにレメディオスは笑った。

 

 

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