ヘジンマール視点から
私はヘジンマール。フロスト・ドラゴンだ。
だが、世間一般のドラゴンが持つような、獰猛さや誇りみたいなものはあまりない。本を読むのが好きだし、戦うのは嫌いだ。何より、命が一番大事だ。
あのアインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下の前で、真っ先に頭を下げて服従を誓ったのは、私の生涯で最も賢い選択だったと今でも思っている。
今は魔導国の首都、エ・ランテルの外れにある広い待機所で、のんびりと本を読んでいた。魔導国はすごい。見たこともない本がたくさんあるのだ。平和だ。とても平和だ。
……そう思っていたのに。
数刻前、私にとんでもない命令が下った。
『人間の男を一人、背に乗せて空を飛べ』
というものだった。命令自体は難しくない。人間の一人や二人、背中に乗せても重くはない。私の背中はそこらのドラゴンよりふくよかで広いし、乗り心地も悪くないはずだ。
ただ、その「人間の男」というのが問題だったのだ。
私が本を片付けて空を飛ぶ準備をしていると、足音が近付いてきた。
「ちょっと。ヘジンマール」
ヒステリックな、それでいてどこか怯えたような女性の声だった。
振り向くと、そこにいたのはヒルマという人間の女だった。細い体で、とても綺麗な服を着ているが、顔色はいつも悪い。胃のあたりをきつく押さえている。彼女は元々、人間の国で悪いことをしていた組織の偉い人だったらしいが、魔導国に捕まってからは人が変わったように真面目に働いている。
というか、魔導国の偉い人たちを前にすると、いつもガタガタ震えているのだ。私と同じ匂いがする。
「……ヒルマ殿。どうしましたか?」
私が尋ねると、彼女は青白い顔で私を睨みつけた。
「どうしましたか、じゃないわよ! あなた、これから誰を背中に乗せるのか、ちゃんと分かっているんでしょうね!?」
「えっ? ああ、はい。ザナック様、という人間の男性ですよね。空から地形を確認したいと……」
私が答えると、ヒルマはギリッと歯ぎしりをした。
「分かってない! 全然分かってないわ! だからわざわざ私が言いに来たのよ!」
すると、彼女の後ろから、ずるずると長い体を這わせて別の者がやってきた。
下半身が蛇で、上半身が人間の形をした亜人、ナーガ。リュラリュースという男だった。彼もまた、私と同じように魔導王陛下の恐ろしさを知る者だ。
「ヒルマ殿の言う通りですぞ、ヘジンマール殿」
リュラリュースは言った。
「貴方はこれから、とんでもないお方を背に乗せるのです。少しの油断も許されませんぞ」
「と、とんでもないお方……?」
私はごくりと唾を飲み込んだ。背中の鱗が逆立つような気がした。ザナックという人間。聞いたことはある。元リ・エスティーゼ王国という、もう無くなってしまった国の第二王子だ。魔導国に国を滅ぼされた後、なぜか生かされて、今は魔導王陛下のそばで働いているらしい。ただの捕虜か、かわいそうな人間だとばかり思っていたのだが。
「いいこと、よく聞きなさい」
ヒルマが一歩前に出て、私の鼻先に指を突きつけた。
「ザナック様はね、ただの人間じゃないの。あのアインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下が、直々に『特別』扱いしているお方なのよ!」
「と、特別……?」
「そうよ! ご自身の執務室に自由に出入りさせるくらいにね! 噂によれば、魔導王陛下はザナック様をご自身の『友人』だと思っていらっしゃるそうよ!」
「ゆ、友人!?」
私は思わず叫んでしまった。あの恐ろしい、骨の姿をした超越者。生殺与奪の権を握り、世界を簡単に滅ぼせるようなお方が、ただの人間の男を『友人』と呼ぶ?
そんな馬鹿な。いや、でも魔導国では私の常識など通用しない。もしそれが本当だとしたら……。
私はこれから、その『魔導王陛下の唯一の友人』を背中に乗せて、空を飛ぶということか?
「そうですぞ」
リュラリュースが目を細めて頷いた。
「我々のような下っ端が、少しでも粗相をしてみなさい。どうなるか……考えただけでも恐ろしい」
リュラリュースは自分の長い蛇の尻尾を抱きしめるようにして震えた。
「我々も、仕事でザナック様をお見かけすることがありますが……あの御方が歩かれる道は、それはもう厳重に警備されています。石っころ一つ落ちていません。もしザナック様が躓いて転びでもしたら、我々の首が飛びますからな」
「そうよ!」
ヒルマが胃を押さえながら叫んだ。
「あの御方に少しでも怪我をさせたり、不快な思いをさせたりしてみなさい! ただ殺されるだけじゃ済まないわ!」
彼女のその恐怖が、私の心にも直接伝わってきた。魔導王陛下は、ザナック様をとても大切にしている。
もし私が飛行中にバランスを崩して、ザナック様を落としてしまったら?
もし急降下したせいで、ザナック様が風邪を引いてしまったら?
もし私の鱗が固すぎて、ザナック様のお尻が痛くなってしまったら?
「……死ぬ」
私はぽつりと呟いた。
「私、死にますね。確実に。」
「だから言っているでしょう!」
ヒルマが涙目で立ち上がった。
「絶対に無礼を働かないこと! 言葉遣いは最高級の敬語! 飛び立つ時は優しく! 着陸する時は水面に葉っぱが乗るより静かに! 少しでも揺らしたら、あなたの命はないと思いなさい!」
「む、無理だ……! ドラゴンが飛ぶのに揺れないわけがないじゃないか!」
「そこを気合でどうにかするのよ! あんたのその無駄に太ったお肉は何のためにあるの! クッションにしなさい!」
「ひどい!」
「いい!? ザナック様はね、とてもお優しい方なの。だからあなたに気を使って『大丈夫ですよ』なんて言ってくださるかもしれないわ。でも、それに甘えちゃ駄目! それはザナック様の優しさであって、アインズ様や他の恐ろしい方々が許してくれるわけじゃないんだからね!」
ヒルマは息も絶え絶えに言い切った。
「その通りですな」
リュラリュースも深く頷いた。
「ヘジンマール殿。貴方は今、魔導国の命運……いや、我々全員の命を背負っていると言っても過言ではありません。貴方が失敗すれば、連帯責任で我々まで殺されかねないのです。どうか、どうか慎重にお願いしますぞ」
「そ、そんな重圧をかけないでくれ……! 私はただ本を読んでいたいだけのドラゴンなのに……!」
私は両手で自分の頭を抱えた。どうしよう。どうしよう。逃げ出したい。でも逃げたら絶対に殺される。魔導王陛下直々の命令なのだ。断ることなんてできない。
「あ……アインズ様は……何か仰っていなかったか?」
私はすがるような思いでヒルマに聞いた。
「アインズ様は、ザナック様にいくつも魔法をかけていたわ」
ヒルマは青ざめた顔で答えた。
「落下防止。風圧軽減。防寒。緊急時の転移。……それから、ザナック様に何かあったらすぐに分かる感知の魔法まで」
「ひぃっ!」
私は短く悲鳴を上げた。魔法でそこまでガチガチに守られているということは、つまり「少しでも危険な目に遭わせたら、アインズ様が直接飛んできて私を殺す」という無言の脅しではないか。
「分かったわね? 絶対に、絶対に無礼を働かないこと! 命に関わるわよ!」
ヒルマはそう言い残すと、また胃を押さえながらふらふらと帰っていった。
「ご武運を、ヘジンマール殿……」
リュラリュースも、哀れみを含んだ目で私を見て、ずるずると這って去っていった。広い待機所に、私一人が残された。
風が吹いた。少し冷たい風だったが、私の体からは嫌な汗が止まらなかった。……どうしよう。
お腹が痛くなってきた。ヒルマの気持ちが今なら少し分かる。
私は自分のぽっこりと出たお腹を見下ろした。
これをクッションにしろと言われた。できるだろうか。やらなければならない。私は深呼吸をした。空気を吸って、吐いて。少しでも心を落ち着かせる。
「大丈夫だ、ヘジンマール。お前は賢いドラゴンだ。命令通りに、静かに飛べばいいだけだ。ただの荷物運びだ。……いや、荷物じゃない。魔導王陛下の最も大切な御方だ」
言い聞かせれば言い聞かせるほど、プレッシャーで押し潰されそうになる。足がガクガクと震えてきた。今からあそこへ行くのか。そして、その"ザナック様"を迎えに行くのだ。
「……行くしかない」
私は震える声で呟いた。のそのそと歩き出す。一歩踏み出すごとに、死の恐怖が足元から這い上がってくる。もし言葉を間違えたら。もし飛び立つ時に風を当ててしまったら。考えれば考えるほど、帰りたくなった。自分の巣穴に戻って、毛布を被って震えていたい。でも、そんなことは許されない。私は泣きそうになりながら、約束の場所へと向かった。
─────『ザナック視点』
聖王国から救援要請の書状が届いたのは数日前の事だった。封蝋は乱れていた。紙の端も、わずかに汚れている。長い道を急いで運ばれてきたことが、それだけで分かった。丁寧に整えられた文面の奥には、焦りと疲労が滲んでいた。魔皇ヤルダバオト。亜人連合軍。城塞都市。負傷者。避難民。物資不足。机の上に聖王国の地図を広げる。少し前まで資料の中の話だったのが急に現実味を帯びて来た。既に聖王国の使節団はこちらへ向かっているようだ。こちらが救援に動く以上、ただ強大な力を示せばよいというものではない。食料を送るなら道がいる。薬草や毛布を運ぶなら、馬車が通れる幅がいる。魔導国の兵を見た聖王国側が混乱しないよう、見せ方にも配慮しなければならない。……そんなことを資料に書き込み続けていたら、アインズ様に外へ連れ出された。
「ザナック。机上で考えることも重要だが、実際に上空から確認するのもよいのではないか。ドラゴンに乗ってみないか?」
そう仰ったアインズ様は、俺にいくつもの魔法をかけた。落下防止。風圧軽減。防寒。緊急時の転移。さらに念のためと言って、俺の身に何かあった場合、即座に感知できるようにもしてくださった。そこまでしていただくほど危険なことをするつもりはなかったのだが、アインズ様の声があまりにも真剣だったので、俺は素直に頷いた。
「彼は臆病なところもあるが、命令には従順だ。君を粗雑に扱うことはないだろう」
「分かりました。失礼のないようにします」
「失礼を気にすべきはあちらだが……」
アインズ様はそう呟いた後、しばらく俺を見ていた。俺も見返した。何か言いたげな沈黙だった。心配しているのだろう。自分のそばから離すことに不安を覚えているのだと、最近では少し分かるようになった。だから俺は、小さく笑った。
「大丈夫です。アインズ様の魔法がありますから」
アインズ様の眼窩の赤い光が、ほんの少しだけ揺れた。
「……そうか。では、無理はするな。怖ければすぐに戻るように」
「はい」
そう答えると、アインズ様はまだ何か言いたげにしながらも、使節団を迎えるための準備へ戻っていかれた。
そして、俺は、ヘジンマール様と向かい合っていた。大きい。想定していたより。目の前にすると圧が違う。鱗は水色でつやがあった。爪は俺の腕程もあり、人間など簡単に刻まれそうだった。その大きなドラゴンが、俺の前でひどく小さくなろうとしていた。
「……ヘジンマールです。ザナック様……このような身が、アインズ様の大切な御方を背に乗せるなど大変恐れ多く……」
声まで震えている。俺は少しだけ瞬きをした。
「ヘジンマール様」
「ひゃ、ひゃい! さ、様などと……私にそのような敬称は必要ございません!」
「では、ヘジンマールさん。これからよろしくお願いします」
俺は頭を下げた。
「はい! こ、こちらこそ!!」
ヘジンマールさんは既に低い頭を地につけた。
鞍に足をかけ、ヘジンマールさんの背にゆっくりと腰を下ろした。怖くない、と言えば嘘になる。けれど何本もの固定具と、頭に残るアインズ様の声が俺を勇気づけた。俺は空を飛んだことがない。魔法で浮かぶ者や飛ぶ者を見たことがあっても、自分がドラゴンの背に乗って空へ上がるなどリ・エスティーゼ王国の王子だった頃は想像もしなかった。想像できなかった。俺が魔導国の空を飛び、聖王国への物資輸送路を確認しようとしているなど。そんなことを考えていると、ヘジンマールさんが不安げな表情で訊ねる。
「それでは、参りますが……よろしいでしょうかザナック様」
「はい、準備万端です。よろしくお願いします」
「はいかしこまりました。揺れますよ」
ゆらりと揺れて、宙に浮く独特の感覚がした。ヘジンマールさんが翼を広げる。大きな影が地面に落ちた。足元が無くなり、不安になるが、
「大丈夫ですか?」
「……はい、大丈夫です」
だんだんと景色が小さくなる。風が頬を撫で、下ろした髪が後ろに流れる。青空と広がるエ・ランテルの街並みが目の前に開けた。舗装された道、静かに動く人々。川の鈍い光。橋の影。壁の外の平野。
「魔導国って……こんなに広かったんだな」
すると、街の門の方ヘ団体の人影が。そしてはためくのは、聖王国の紋章の空色と白の旗。
「来た……」
「あ、聖王国の方々ですかね……」
「あぁ……これからだ」
これから、始まる。