カルカ様とアインズ様の会談。レメディオスとザナックが会話します。
小都市ロイツの、奇跡的に戦火を免れた城の一室。
豪華な装飾こそ残っていないが、最低限の清掃が行き届いたその部屋は、両国の王が対座するに相応しい状態を保っていた。
ローブル聖王国当代聖王女、カルカ・べサーレスは、静かに息を吐き出して目の前の存在を見据えた。
豪奢な椅子に深く腰掛ける、漆黒のローブを纏った絶対的な死の象徴──魔導王アインズ・ウール・ゴウン。
現在、この部屋には彼ら二人しかいない。
今後のヤルダバオト討伐と聖王国への支援について、建前抜きで腹を割って話すため、カルカが自ら「王同士での極秘会談」を申し出たのだ。
本当ならばレメディオスやケラルトを傍に置きたかったが、レメディオスの直情的な性格やアンデッドへの嫌悪感が外交交渉の致命的な障害になることは、カルカ自身が一番よく理解していた。ケラルトを入れれば魔導王側にも従者を同席させる権利が生じる。
カルカは当初、あの聡明で穏やかな特別外交補佐官──ザナックが同席するものと思っていた。彼がいれば、アンデッドである魔導王との橋渡し役になってくれると期待していたのだ。
しかし、会談の直前、アインズはきっぱりと言い放った。
『──彼は休ませている』
『先の激戦で疲労が溜まっているはずだ。我が国の大切な補佐官を、これ以上酷使するわけにはいかないからな。……というより、私が彼にはゆっくり休んでほしいのだ』
有無を言わさぬ、しかしどこか過保護すぎるほどの気遣いに、カルカは「は、はい」と頷くことしかできなかった。
結果として、アンデッドの王と人間の女王が、二人きりで対峙することになったのである。
「さて、カルカ・ベサーレス女王陛下」
アインズの低く威厳に満ちた声が部屋に響く。
「はい、魔導王陛下」
カルカは背筋を伸ばし、毅然とした態度で応じた。
「まずは、我が聖王国の危急を救っていただいたこと、心より感謝申し上げます。陛下のご助力がなければ、私はおろか、多くの民が命を落としていたことでしょう」
「気にするな。私も魔導国の王として、国益にかなうと判断したから動いただけだ。それに、ヤルダバオトは我が国にとっても見過ごせない脅威だからな」
アインズは落ち着いた仕草で、テーブルの上で両手を組んだ。
「私は、理のない虐殺を好まない。貴国の民を救うことで、魔導国という国家がアンデッドを戴きながらも『話の通じる国』であると、周辺諸国に示したいという思惑もある。……恩を着せるつもりはないが、相応の貸しにはさせてもらうぞ」
「ええ。重々承知しております。聖王国は、魔導国に最大の敬意と協力を惜しまないつもりです」
カルカは安堵していた。
目の前のアンデッドの王は、見た目こそ恐ろしいが、非常に理知的で、為政者として極めて真っ当な思考を持っている。理不尽な要求や、暴虐な振る舞いの欠片もない。
(それに、天幕でのあのお姿……)
『世界で一番可愛いらしい』
妻の惚気を語る時の、どこか人間臭い言葉の響き。それがあの時のカルカの恐怖を大きく和らげていた。
会談はスムーズに進んだ。
ヤルダバオトが拠点を構えるであろう都市の推測、今後の物資の補給線、そして聖騎士団と魔導国軍(アインズ)の連携について。アインズの提示する作戦や条件は、聖王国にとって信じられないほど公平で、慈悲深いものだった。
一通りの取り決めが終わり、僅かな安堵の空気が二人の間に流れた時のことだった。
ふと、カルカの脳裏に、会談へ向かう直前のケラルトの言葉が蘇った。
『カルカ様。魔導王陛下と二人きりになられた際、もし少しでも場の空気を和らげたいと思われましたら……特別外交補佐官様を、心から褒めてさしあげてください』
『え? どうして?』
『……詳しいことは申し上げられませんが、間違いなく魔導王陛下の機嫌が良くなります。聖王国の未来のためだと思って、どうか、信じてください』
あの時の、ケラルトの聖女のような、しかし確信に満ちた笑顔。
カルカは少し迷った後、口を開いた。
「魔導王陛下。一つ、私的なことを申し上げてもよろしいでしょうか」
「……構わんが。なんだ?」
アインズの赤い光が僅かに揺れる。
「先程は、ザナック……補佐官様には大変お世話になりました」
「ほう。あいつが何かしたか?」
アインズの声が、ほんの少しだけ低くなった。不敬があったと疑われたのかもしれない。カルカは慌てて首を振った。
「とんでもありません。彼がお茶を淹れてくださり、私たちにとても美味しく、心安らぐ時間を提供してくれました。彼は……本当に、素晴らしい方ですね」
「…………」
アインズは沈黙した。
「亡国の王子とお聞きしましたが、驕ったところもなく、細やかな気遣いができて、何より魔導王陛下への深い敬愛を感じました。陛下が彼を厚く信頼し、重用なさるのも頷けます。あのような立派な方が側にいてくださるなんて、一国の王として羨ましい限りです」
カルカが言い終えると、部屋に数秒の静寂が落ちた。
やがて。
「…………うむ」
アインズが、深く頷いた。
「そうだろう。そうだろうとも。彼は実に優秀だ」
気のせいだろうか。魔導王の纏う空気が、先ほどまでの威圧的なものから、どこか誇らしげで、ふわりと温かいものに変わった気がした。
「あいつは、私の……魔導国にとって、得難い逸材だ。頭の回転が速く、決して折れない芯の強さがある。そのくせ、時折不器用なほどに真っ直ぐでな。……私の自慢の補佐官だ」
アインズの声は、王としての威厳を保ちながらも、隠しきれない愛情と親愛に満ちていた。
ケラルトの言った通りだった。魔導王の機嫌は、目に見えて良くなっていた。
「はい。私も、彼のような方が陛下の側にいるからこそ、魔導国が素晴らしい国になっているのだと思いました」
「ふふっ……くくく、そうか。カルカ女王もそう思うか。見る目があるな」
アインズの肩が揺れる。完全に上機嫌だった。
(ケラルト……一体どうして分かったのかしら。凄い観察眼ね)
カルカは内心で優秀な部下を絶賛しながら、目の前で嬉しそうに頷く魔導王を見て、ふと柔らかな笑みをこぼした。
「魔導王陛下。共にヤルダバオトを打ち倒し、この国に平和を取り戻すことができた暁には……今度は是非、補佐官様も交えて、魔導国と聖王国のお茶とお菓子で正式な茶会を開かせていただけませんか?」
アインズは赤い光を細め、鷹揚に頷いた。
「ああ、約束しよう。その時は……あいつも喜ぶはずだ」
アンデッドの王と、人間の女王。
種族も国も違う二人の王は、ヤルダバオトという共通の敵に向け、確かに信頼の礎を築いたのだった。
「ああ、約束しよう。その時は……あいつも喜ぶはずだ」
アンデッドの王と、人間の女王。
種族も国も違う二人の王は、ヤルダバオトという共通の敵に向け、確かに信頼の礎を築いたのだった。
そこで話は終わるものだとカルカは思った。
しかし、アインズは組んでいた両手を解き、片方の手を膝へ置いた。
赤い光が、ほんの僅かに揺れる。
「カルカ女王陛下」
「はい」
「……私からも、一ついいだろうか」
どこか先ほどまでとは違う声だった。
王として他国の君主へ語りかける威厳は変わらない。
だが、その奥に僅かな迷いがあるようにカルカには感じられた。
「もちろんです。何なりと」
「少々、私的な話になる」
「先ほど私も私的なお話をさせていただきました。どうぞ、お聞かせください」
アインズはしばらく何も言わなかった。
やがて、遠いものを思い出すように天井へ視線を上げた。
「……私は昔、四十人の友人がいた」
「四十人……」
カルカは目を丸くした。
「随分と大勢ですね」
「ああ」
アインズの声には、ほんの少しだけ懐かしさが滲んだ。
「私を含めて四十一人。皆、性格も考え方も違った。騒がしい者もいれば、寡黙な者もいた。悪戯を好む者、物作りを愛する者、妙なところに拘る者……それぞれが好き勝手なことをしていたよ」
くつり、と喉の奥で笑う。
「意見が合わないこともあった。くだらないことで言い争うこともあったし、私には到底理解できない趣味を持つ者もいた。それでも……私は彼らと過ごす時間が好きだった」
カルカは黙って耳を傾ける。
目の前にいるのは、人知を超えた力を持つアンデッドの王だ。
けれど今の声は、不思議なほど穏やかだった。
「私にとって友人というのは、何でも肯定してくれる者ではなかった」
アインズは自分の骨の指を見つめる。
「違うと思えば違うと言う。馬鹿なことをすれば笑う。時には怒る。時には意見がぶつかる。それでも、次の日にはまた同じ場所に集まっていた」
「……素敵な方々だったのですね」
「ああ。私にとっては、かけがえのない者達だった」
そこで声が途切れた。
先ほどまで漂っていた懐かしさが、ゆっくりと別のものに変わっていく。
「だが、皆いなくなった」
カルカは息を止めた。
「……亡くなられた、のですか?」
「いや」
短い返答。
「それとは少し違う。皆、それぞれに事情があった。私の前から一人、また一人と姿を消していった。ただ、それだけだ」
アインズは淡々と言った。
けれど、その淡々とした口調がかえって胸に重く響いた。
「最後には私一人だけが残った」
広い場所に、たった一人。
かつて四十一人で笑っていた場所に、一人きり。
カルカの脳裏には、そんな光景が浮かんだ。
「彼らを責めているわけではない。皆には皆の事情があった。仕方がないことだったのだと思う」
一度、アインズの声が止まる。
「……だが」
骨の指が、ほんの僅かに握られた。
「寂しかった」
それは、この恐ろしい魔導王から聞くには、あまりにも人間らしい言葉だった。
カルカは何も言えなかった。
慰めの言葉を口にすることさえ、今は違うような気がした。
「随分と長い間、私はもう、あのような関係を新しく築くことはないのだろうと思っていた」
アインズはそう言ってから、少しだけ俯く。
「私は立場のある者になった。私を敬う者はいる。忠誠を誓ってくれる者もいる。私の言葉を喜んで受け入れてくれる者も大勢いる」
そこで、赤い光が静かに揺れた。
「ありがたいことだ。私は彼らを大切に思っている」
「……はい」
「だが、それは友人とは少し違う」
カルカには、その意味が分かる気がした。
完璧な王になればなるほど、周囲との距離は遠くなる。
敬われる。守られる。従われる。
しかし、王である自分へ本当に思ったことを告げる者は少なくなっていく。
「そんな時に、一人の男と出会った」
カルカは自然と、その人物を察した。
「……ザナック補佐官様、ですか?」
「ああ」
今度の返事は早かった。
そして、明らかに声が柔らかくなる。
「ザナックだ」
アインズは少しだけ背もたれへ身体を預けた。
「最初から友人だったわけではない。むしろ、互いに警戒していたと言っていい」
「そうなのですか」
「ああ。彼には彼の立場があり、私には私の立場があったからな」
一瞬、アインズは言葉を選んだ。
「だが、話してみれば不思議な男だった。必要以上に私を恐れない。だからといって無礼でもない。自分より遥かに強い相手を前にしているというのに、自分が正しいと思ったことはきちんと口にする」
カルカは、天幕で見たザナックの姿を思い出した。
穏やかな笑み。
細やかな気遣い。
だが、戦場では自ら前に出たという。
「私が間違っていると思えば、彼は私にそう言う」
アインズは静かに続ける。
「私の判断に異を唱える。時には私が望まないことすら言う。私を怒らせる可能性があってもな」
「……怖くはないのでしょうか」
「怖いだろう」
即答だった。
「彼は勇敢だが、恐怖を感じない人間ではない。むしろ臆病なところすらある」
僅かな笑いが混じった。
「それでも言うのだ。必要なら」
アインズは、自分の胸元へ手を置いた。
「だから、私も彼には正直でありたいと思える」
カルカは瞬きをした。
「正直に……」
「ああ」
「王としてではなく?」
アインズは少し考えた後、頷いた。
「そうだな。王として隠すべきことまで何もかも話すという意味ではない。しかし彼の前でまで、私は完璧な王を演じ続ける必要はない」
その言葉には、不思議な安堵があった。
「分からないことは分からないと言える。間違えば謝ることもできる。弱音を吐くこともある」
カルカの瞳が僅かに大きくなる。
「……魔導王陛下が?」
「私だって弱音を吐くし、分からないことくらいある」
少し拗ねたような声に、カルカは思わず口元を緩めた。
アインズも気を悪くした様子はない。
「そして彼も、私にすべてを合わせる必要はない」
アインズは続けた。
「私は彼に、これからも私を諫めてくれと言った」
「諫めて……」
「私が間違っていると思ったなら、正してほしい。従うだけの者にはなってほしくない」
カルカは、胸の奥を何かで突かれたような気がした。
「私達は、考えが違うことがある。それでいいのだと思う」
アインズは淡々と語る。
「同じである必要はない。互いに正直に話し、相手がなぜそう考えるのかを知ろうとする。納得できなければ言い合えばいい。譲れないものがあるなら、それも伝える」
一拍。
「それでも関係が壊れないと信じられる。それが……今の私にとっての友人だ」
カルカは目を伏せた。
脳裏に、二人の女性の姿が浮かぶ。
レメディオス。
ケラルト。
幼い頃から共に過ごしてきた、大切な二人。
何度助けられただろう。
何度支えてもらっただろう。
二人を疑ったことなどない。
友人だ。
何よりも大切な友人。
──だからこそ。
「……私は」
小さく声が漏れた。
アインズは何も言わず待った。
「私は、二人の友人に……少し甘えていたのかもしれません」
自分で言って、胸が痛んだ。
「レメディオスとケラルト。二人とも、幼い頃からの友人です」
「ああ」
「私は二人を心から信頼しています。きっとこれからも、それは変わりません」
カルカは自分の指を組んだ。
「でも……レメディオスが間違っていると思っても、強く言えないことがありました」
脳裏に浮かぶのは、不器用で真っ直ぐな友人。
誰よりも自分を守ろうとしてくれる人。
だから傷つけたくなかった。
「彼女は私を大切にしてくれています。だからこそ、その気持ちを否定するようなことを言いたくなかった」
「ふむ」
「ケラルトにも……頼れば何とかしてくれると、どこかで思っていたのだと思います。彼女はとても聡明ですから」
カルカは苦く笑った。
「私は二人を友人だと言いながら……友人だからこそ、言うべきことを言わずにいたのかもしれません」
アインズはすぐには答えなかった。
やがて、静かな声が返る。
「それに気付いたのなら、これから変えればいいのではないか?」
カルカは顔を上げる。
「友人というものに、正解があるのか私は知らない」
アインズは言った。
「私とザナックの関係が、君達三人にそのまま当てはまるとも思わない」
「……はい」
「だが、大切だからこそ言えることもあるのだろう」
カルカは息を呑む。
「相手を否定するのではない。大切だから、間違っていると言う」
アインズは、少しだけ遠くを見るようにした。
「少なくとも、私はザナックにそうしてもらえることを嬉しく思っている」
カルカはしばらく黙っていた。
そして、やがて小さく笑った。
「……本当に、ありがとうございます、魔導王陛下」
「私は自分の話をしただけだが」
「ええ。それで十分なのです」
カルカは背筋を伸ばした。
先ほどまでよりも、その青緑の瞳には強い光が宿っていた。
「次にレメディオスが間違えた時は、きちんと怒ろうと思います」
「それがいい」
「ケラルトにも、何でも頼りきりにならず……私自身が考えて、必要なら意見をぶつけます」
「うむ」
「そして、私が間違っている時には二人にも遠慮なく言ってもらいます」
言葉にしてみれば、当たり前のことだった。
けれどカルカにとっては、大きな決意だった。
王だから。
聖王女だから。
守らなければならないから。
そうやって自分ばかりが二人を導かなければならないと思っていた。
だが、友人とはそうではないのかもしれない。
助けられてもいい。
怒られてもいい。
意見が違ってもいい。
それで離れていかないと信じることも、友人を信じるということなのだ。
「……ザナック補佐官様は、魔導王陛下にとって、本当に大切なご友人なのですね」
カルカがそう言うと、アインズは少し黙った。
「……ああ」
静かな声だった。
だが、迷いはない。
「大切な友人だ」
そしてほんの僅かな間を置いて、
「失った後に、ようやくできた……宝物だ」
そう付け加えた。
カルカは何も言わなかった。
ただ、目の前のアンデッドの王へ柔らかく微笑んだ。
この王がザナックという人間をどれほど大切に思っているのか。
先ほどまで考えていた以上に、少しだけ分かったような気がした。
そして同時に、自分もまた。
失う前に、二人の友人との関係をもっと大切にしなければならない。
そう、強く思った。
────────
夜。
小都市ロイツを包む闇の中、ところどころに置かれた篝火だけが赤々と燃えていた。
昼間まで絶えず聞こえていた負傷者の呻き声も、この時間になると幾分か少なくなっている。代わりに聞こえるのは、夜風が天幕を撫でる音と、交代で見張りにつく兵士達の足音だった。
魔導国から提供された天幕の一つ。
その奥に設けられた寝台で、ザナックは深く眠っていた。
薄い掛布を胸元まで引き上げ、金色の髪を枕の上へ散らしている。先日の戦闘で負った傷は既に癒えていたものの、蓄積した疲労までは完全には抜けていない。
アインズから、
『今日くらいは大人しく寝ていろ』
と念を押されていたこともあり、その日は珍しく早い時間から横になっていた。
だからこそ。
「……姉様。本当に今からですか?」
天幕の外から聞こえた声に、ザナックの瞼が僅かに動いた。
「仕方ないだろう。昼間は時間がなかったんだ」
「だからといって、夜中に負傷者の天幕へ押しかける必要がありますか?」
「もう傷は治ったと聞いたぞ」
「疲労は別でしょう」
「……じゃあ帰った方がいいか?」
「そこまで来て今更ですか?」
小声なのだろう。
だが、静まり返った夜では思った以上によく響く。
ザナックは半分眠った頭で何度か瞬きをした。
聞き覚えのある二人の声だった。
ゆっくりと身体を起こす。
寝台から足を下ろし、上着を羽織った。
その頃、天幕の外では。
「……やっぱり明日にする」
「姉様」
「いや、寝ているところを起こすのは悪いだろう」
「ようやく常識的な判断を──」
「お二方」
内側から扉幕が開いた。
レメディオスとケラルトが揃って固まる。
寝起きのため少しだけ乱れた金髪を手で押さえながら、ザナックが顔を覗かせていた。
「何かご用でしょうか?」
「……起こしてしまいましたか」
ケラルトが申し訳なさそうに眉を下げる。
「いえ。ちょうど目が覚めたところです」
明らかな嘘だった。
しかしザナックは気にした様子もなく、二人を見比べる。
「寒いでしょう。どうぞ中へ」
「いや」
レメディオスが片手を上げた。
そして少しだけ言いにくそうに視線を逸らす。
「用があるのは私だけなんだ」
ザナックが瞬きをした。
「姉様がどうしても直接話したいことがあるそうです」
ケラルトが補足する。
「私はここで待っていますので」
「一緒でも構いませんが」
「いえ」
今度はレメディオスがはっきりと首を振った。
「私が話したい」
その顔は妙に真剣だった。
ザナックは少しだけ考え、頷いた。
「分かりました。では、どうぞ」
レメディオスだけを中へ招き入れる。
扉幕が閉じる寸前、ザナックがケラルトへ顔を向けた。
「本当に外で待つのですか?」
「ええ。お気遣いなく」
「寒くなったら入ってくださいね」
「ありがとうございます」
扉幕が閉じた。
ケラルトは小さく息を吐き、そのすぐ横へ立った。
別に盗み聞きをするつもりはない。
ただ。
薄い布一枚しかない天幕というものは、あまり防音性に優れてはいなかった。
中では、ザナックが小さな卓上の蝋燭へ火を灯している。
「どうぞ」
向かい合わせに置かれた椅子を勧められ、レメディオスは腰を下ろした。
ザナックもその対面へ座る。
「それで、お話というのは?」
「……その前に」
レメディオスは膝へ置いていた両手を握った。
そして突然、深く頭を下げる。
「すまなかった」
ザナックが目を丸くした。
「……何がでしょう?」
「貴殿を知らなかったことだ」
「ああ」
昼間のことを言っているのだと気付く。
ザナックは少し笑った。
「お気になさらず。先ほども申し上げましたが──」
「いや」
レメディオスが遮った。
「そういう意味じゃない」
頭を上げる。
その顔には、戦場で見せるものとは違う、どこか居心地の悪そうな表情が浮かんでいた。
「私は昔から、他国の王族や貴族についてほとんど覚えようとしてこなかった」
ザナックは何も言わず耳を傾ける。
「カルカ様を守るのが私の仕事だと思っていた。剣を振るうこと。敵を倒すこと。危険があれば前へ出ること。それさえできればいいと」
レメディオスは自嘲するように鼻を鳴らした。
「政治のことはカルカ様とケラルトが考える。私は二人が指示した相手を斬ればいい。……ずっと、そう思っていたんだ」
「なるほど」
「だから王国の第二王子の名前すら知らなかった」
僅かに眉を寄せる。
「今になって考えれば、もし王国と聖王国の間で何か問題が起こっていたら、貴殿がどういう人物なのか知っているかどうかは大きかったはずだ」
「そうかもしれませんね」
否定も肯定もしない、穏やかな声だった。
「だから、謝っておきたかった」
レメディオスはもう一度頭を下げる。
「貴殿がどうこうというより……私は自分の役目を狭く考えすぎていた」
しばらくの沈黙。
ザナックはレメディオスの顔を眺めていた。
やがて、小さく息を吐く。
「私も……知られていなかっただけで、少し寂しいと思いました」
レメディオスが目を瞬かせる。
ザナックは困ったように笑った。
「勝手でしょう? 貴女が私を知っている義務などない。それでも、少しくらい覚えていてほしかったと思ってしまった。だから、お互い様ということでどうでしょう」
「……変な奴だな、もっと怒ったっていいのに」
「よく言われます」
レメディオスの口元が僅かに緩んだ。
空気が少しだけ柔らかくなる。
だが、しばらくするとレメディオスは再び真剣な顔へ戻った。
「貴殿は……魔導王陛下に仕えているんだよな」
「はい」
「自分の国を滅ぼした相手なのに?」
ザナックは一瞬だけ目を伏せた。
「ええ」
「恨んでいないのか」
「恨みが全くなかった、と言えば嘘になります」
意外な答えだったのか、レメディオスの眉が僅かに動く。
「では何故だ?」
「あの方を、自分の目で確りと見たからです」
ザナックはゆっくりと答えた。
「私が知っているのは、王国を滅ぼした魔導王陛下だけではありません」
蝋燭の炎が、エメラルド色の瞳に映る。
「間違えることもある。悩むこともある。私の意見を聞いてくださることもある。私が反対すれば、何故そう思うのか尋ねてくださる」
「……反対するのか?」
「しますよ」
ザナックは当然のように言った。
「意見が同じでなければ」
レメディオスは少し驚いたようだった。
「怖くないのか?」
その問いに、ザナックは苦笑する。
「怖いですよ」
「怖いのか」
「ええ、あの方が本気で怒れば、私などどうすることもできません」
「なら、何故言う」
ザナックは少し考えた。
「……必要だからでしょうか」
それから首を傾げる。
「それに、何もかも肯定することが忠誠だとは、私は思っていませんから」
レメディオスが固まった。
ザナックはそれに気付かず、続ける。
「例えば、陛下が明らかに間違った方向へ進もうとしていたとして」
指先で机を軽く撫でる。
「私が『陛下がお決めになったのだから正しい』とだけ言って背中を押した結果、あの方が後悔することになったなら──私はきっと、自分を許せません」
「……」
「ですから言います。嫌われるかもしれなくても」
言い終えて、ザナックは少しだけ笑った。
「まあ、実際には嫌われるのが怖くて、言った後で後悔することもありますが」
レメディオスは答えなかった。
何かを考えているようだった。
「……カルカ様は、正しい」
ぽつりと呟く。
ザナックは否定しない。
「そうなのでしょうね」
「私はずっとそう思ってきた」
「はい」
「カルカ様は優しい。民のことを考えている。私なんかより、ずっと頭もいい」
「それも、きっと事実なのでしょう」
「なら」
レメディオスは眉を寄せる。
「カルカ様の言うことを聞くのは、間違ってないだろう」
ザナックは少し考えた。
「そうですね」
あっさりとした返事に、レメディオスは拍子抜けしたように瞬きをする。
だが続いた言葉に、再び顔を上げた。
「ですが、カルカ女王陛下は一度も間違えたことがないのですか?」
「…………」
レメディオスの口が閉じる。
「一度も、です」
ザナックは責めるような声音ではなかった。
ただ問う。
レメディオスの脳裏に、いくつかの記憶が浮かんだ。
負傷した肩を隠すようにして、南部の街へ勝手に向かったカルカ。
それを知った時、自分はどうした。
怒った。声を荒げた。
傷が開いたらどうするのだと。
護衛もつけず、何かあったらどうするつもりだったのだと。
「……ある」
レメディオスが呟いた。
「ありますか」
「ああ」
そして、ふと何かに気付いたように目を見開く。
「私は……カルカ様に怒ったことがある」
ザナックは何も言わない。
「勝手に街へ行った時だ。肩を怪我していたくせに。危ないからやめろと言った。そんなことをするなら、せめて私を連れていけと」
「それは、カルカ女王陛下への不忠でしたか?」
「違う!」
反射的に強い声が出た。
レメディオス自身がその声に驚いたように黙る。
「……違う」
今度は静かに繰り返す。
「あの人に死んでほしくなかったからだ」
ザナックは僅かに微笑んだ。
「そうですか」
それだけだった。
教えを説くわけでもない。
「だから、それが忠誠です」と答えを与えることもしなかった。
ただ、そこへ置かれた言葉をレメディオス自身が見つめていた。
長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「……カルカ様が間違った時に、止めることも」
ザナックが視線を向ける。
「カルカ様を信じていないことには……ならないんだな」
ザナックはそこで初めて、少しだけ困ったように笑った。
「少なくとも私は、そう思っています」
「……そうか」
レメディオスは俯いた。
拳を膝の上で握る。
「私は、カルカ様を疑うなんて考えたこともなかった」
「疑うことと、信じないことは同じではないと思いますよ」
ザナックは窓もない天幕の布越しに、外の夜を見つめるように顔を上げた。
「信じたいからこそ、自分の目で見なければいけないこともあるでしょう」
「……」
「誰かの言葉を全部正しいと思うことは、ある意味では楽です。考えなくてもいいですから」
その言葉に、レメディオスは少し眉を寄せた。
「ですが……その方と同じ道を歩きたいのであれば、自分でも道を見る必要があるのではないでしょうか」
静かな声だった。
「もし前に穴があれば教える。道を間違えたなら呼び止める。疲れているなら休ませる」
ザナックの顔に僅かな苦笑が浮かぶ。
「……最後の一つについては、私は人のことを言えませんけどね」
先ほど聞いた話では、この男も魔導王に強制的に休まされているらしい。
「それでも一緒に進む。それくらいでいいのではないでしょうか」
レメディオスはしばらく何も言わなかった。
やがて椅子から立ち上がる。
「……ありがとう」
「私は何も」
「いや」
レメディオスは首を振った。
「なんとなく分かった」
その顔にはまだ迷いが残っていた。
すべてを理解したわけではない。
明日から突然、何もかも変わるわけでもない。
それでも。
「次にカルカ様が馬鹿なことをしたら、今までよりちゃんと怒る」
「それは……ほどほどになさった方がよろしいかと」
「わかった。ほどほどにちゃんと怒る」
レメディオスは真剣に言った。
そして、小さく笑った。
扉幕へ向かい、手を掛ける。
「ああ。それと」
振り返る。
「もう一度言っておく。貴殿を知らなくて悪かった、ザナック補佐官」
ザナックは僅かに目を丸くし、それから柔らかく笑った。
「はい。もう気にしていません、レメディオス団長」
「なら良かった」
扉幕が開く。
外にはケラルトが立っていた。
「……姉様。長かったですね」
「悪い」
「お話は終わりましたか?」
「ああ」
レメディオスは数歩進み、夜空を見上げた。
雲の切れ間から星が見えている。
「ケラルト」
「はい?」
「今度、私が何か馬鹿なことをしていたら言ってくれ」
ケラルトが瞬きをした。
「今までも申し上げていますが」
「もっと、言え」
「……分かりました」
少し呆れたように答える。
レメディオスはそのまま歩き出した。
「カルカ様にも言われたら聞く」
「それは本当にです」
ケラルトは一度だけ足を止めた。
振り返る。
天幕の中では、灯りが一つ消えた。
ザナックが再び眠りについたのだろう。
先ほどの会話は、ほとんど聞こえていた。
盗み聞きをするつもりはなかった。
けれど、結果として聞いてしまった。
ケラルトは何も言わず、星の散る夜空を見上げた。
──信じたいからこそ、自分の目で見る。
その言葉が、胸の中に残っている。
自分はカルカを信じている。
レメディオスも信じている。
だからこそ、自分が考えることをやめてはいけない。
カルカが望むから。
姉が命じるから。
それだけを理由に動くのではなく。
三人で同じ道を歩くのなら、自分自身もその道を見なければならない。
道を外れそうになった者がいれば、声を掛ける。
自分が間違っているなら、二人に止めてもらう。
その程度のことで壊れる関係ではない。
むしろ。
「……壊れないと、信じること、ですか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
不思議な男だ。
亡国の王子。魔導王の補佐官。
恐ろしいアンデッドの王へ意見し、時には反対し、それでも傍にいる男。
昼間より少しだけ、彼という人間を理解できたような……気がした。
ケラルトは小さく微笑む。
「なるほど」
今度カルカが無茶を言ったなら、自分も遠慮なく止めよう。
レメディオスが突っ走ったなら、思い切り叱ろう。
そして自分が間違えば。
二人に叱ってもらえばいい。
それでいいのだ。
夜空には、幾つもの星が離れた場所で光っている。
決して一つになることはない。
それでも同じ夜空に並び、互いの光を消すことなく輝いている。
ケラルトはしばらくそれを見つめた後、先を歩く姉を追って静かに歩き出した。