ザナックの過去捏造です
ザナックが「では……失礼します」とつぶやき、ぎこちなくベッドへ身体を沈めたのは、俺が先に横になってから少し経ってのことだった。彼は布団の端をつまみ、まるでそこに身を置くことすら罪深いとでも思っているかのように、端ぎりぎり、身体ひとつ分以上離れたところに寝転がった。
「……あの、俺、ちゃんと距離は保ちますので。ベッドを使わせていただくだけとはいえ、失礼のないように……」
蚊の鳴くような声で、そう言い添えたあと、ぴしっと背を伸ばしたまま布団をかぶる彼の姿に、思わず笑いそうになるのを堪える。そんなに緊張したまま眠れるわけがない──そんなふうに思っていたのに、しばらくすると彼の呼吸は次第に深くなり、一定のリズムを刻み始めた。
「くぅ……かぁ……」
まるで小動物がすやすやと眠るようなその寝息が、静かな部屋に微かに響く。
──なんだその声は……。可愛すぎるではないか。
すぐ隣で聞こえる彼の寝息に、俺の胸のあたりがじんわりと熱くなる。思わず顔をそちらに向けると、ザナックの目尻はゆるみ、眉も下がり、安心しきったような顔で眠っていた。こんな表情をするんだな、と心の中で呟く。起きているときの彼は、いつも周囲に気を配り、どこか遠慮がちで、けれど芯のある青年だった。その面影が、眠っている今も少しだけ残っている。
だが、次の瞬間。
「……う、ん……んぅ……」
寝返りを打つように身体が動いたと思ったその刹那、ふわりと温もりが押し寄せた。
ザナックが、すり寄るように俺の肩に顔を押しつけてきたのだ。
「……なっ……」
思わず硬直する。
が、その動きは止まらない。
彼は俺の足に自分の脚を絡め、まるで縋るように両腕を回してきた。胸に抱きつきながら、甘えるようにぬくもりを求めてくる。小柄な体躯がぴったりとくっついてくる感触。柔らかい呼吸が首筋にかかる。
「………父上……」
低く、くぐもった声だった。どこか切なげで、それでも安らぎに満ちたそのひとこと。その声に、胸の奥がひどく締めつけられた。俺を抱きしめながら、ザナックはわずかに唇を動かしていた。夢の中で、誰かを求めている。きっと、それは本当に"父"と呼んだ……あの王──ランポッサ三世なのだろう。けれど。その声音は、ただ甘えるだけのものではなかった。どこか哀しげで、触れれば壊れてしまいそうなほど脆くて、今にも泣き出しそうな、そんな響きだった。俺は動けなかった。拒絶もできず、応えることもできず、ただその震える吐息を受け止めることしかできなかった。ザナックの指先が、俺の服の裾をほんの少しだけ掴む。その手の力は微弱で、まるで頼ることすら躊躇っているようだった。
どうして、そんなふうに遠慮する?
胸の奥が焼けるような痛みに襲われる。俺はアンデッドだ。もはや心臓など必要としない身体だというのに、今この瞬間ほど心臓の存在を強く感じたことはない。ザナックはまだ夢の中だ。俺を誰かと錯覚しているまま、安心したように微笑みすら浮かべている。けれど、その笑みの底には悲しみが滲んでいた。
どうして、そんなに独りで我慢するんだ。
どうして、こんなにも俺の心を揺さぶる。
「……ザナック」
声に出してしまえば起こしてしまうかもしれない。だが、何も言わずにはいられなかった。震える肩を、そっと抱き寄せた。彼の体温が俺に流れ込んでくる。まるで、かつて持っていたはずの温もりを取り戻しているかのように。
「もう……独りじゃない」
その言葉が、誰に向けたものか、自分でもわからなかった。
ただ、この夜だけは──彼に静かな眠りと、確かな安らぎを与えたかった。そして、願わくば。
目が覚めたときにも、隣に俺がいると気づいてくれればいい。
……そう、思った。
──────『ザナック視点』
「ザナック、よくやったな。さすが私の息子だ」
父の声がする。穏やかで、誇らしげな声音。俺は嬉しくなって顔を上げた。そこには、やさしく微笑む父──ランポッサ三世がいて、大きな手で俺の頭を撫でてくれていた。
「ほんとうに……俺、えらい?」
自然と声が高くなる。
見下ろせば、自分の手が小さくて、指先も丸い。
幼い頃の姿になっているのだとわかるのに、不思議と戸惑いはない。ただ嬉しくて、胸がじんわりあたたかくて、父の手の温もりをもっと感じたくて頬を擦り寄せた。
「お前は王子としても、ひとりの人間としても立派に育っている。私は、お前のことを心から誇りに思っているぞ」
ぽん、ぽん、とリズムよく頭を叩く感触。そのたびに、嬉しくて涙が出そうになる。
けれど──ふと。
心の奥に、ひやりと冷たいものが落ちた。
こんな会話は存在していない。
─────偽物の記憶だ。
次の瞬間、景色が音もなく切り替わった。手元には何枚もの紙。俺は必死でペンを走らせている。
震える指で文字を綴り、───────
書いて、書いて、……破って、また書いていた。
宛先は父。
何を書いても届かない。何度も書き直す手紙に、意味なんてないことはわかっているのに。
「……またお手紙ですか、王子」
後ろからメイドの声がする。
困ったような、同情を含んだ、少しだけ距離のある声音。俺は振り向かない。ただ、黙って新しい紙を引き寄せる。書かずにはいられなかった。
─────場面が変わる。
扉の隙間から見える部屋の中。明るい陽の差す学習室で、教育係の老教師が楽しげに声をかけていた。
「お見事です、ラナー様。これほどの記憶力と論理的思考、将来が楽しみですね」
その言葉に、ラナーは恥ずかしげに笑って、でもとても嬉しそうに頷いた。
俺は隙間からそっとそれを見ている。
小さな肩をぎゅっと縮めて、足を出すこともできず、ただその光景を見ているだけだった。
その時、ラナーと目が合った。
彼女の表情がぱっと変わる。驚き、そして口を開きかけた。でも、俺は慌てて後ずさり、気配を消すように廊下を駆け出した。
声をかけられるのが怖かった。
羨ましがっていると思われるのが、惨めで耐えられなかった。
─────そしてまた場面が変わる。
午後の静かな書庫。陽の光が射しこみ、埃が光を帯びて宙に舞っている。
その中で、俺は必死に本を探していた。
背の届かない棚に手を伸ばし、爪先立ちになる。
けれど届かない。
椅子を引いてきて、ぐらつきながらよじ登る。手に取った本は分厚くて、難解で、でも読まずにはいられなかった。誰かに褒められたい、認められたい──そんな思いだけが、俺の背を押していた。
ハッと気づくと、汗のにじむ訓練場で、兄──バルブロが剣を振るっている姿を見つめていた。
彼は声を張り上げ、屈強な騎士相手にも怯まずに立ち向かっていく。教育係も騎士たちも、その姿に満足げな表情を浮かべていた。──さすがは第一王子。将来の王にふさわしい、と。
それを遠巻きに見ていた俺は、誰にも見られていない時を見計らい、木剣を一本持ち出して、誰の真似でもないぎこちない動きで剣を振ってみた。構えはぎくしゃくしていて、手のひらはすぐに擦れて痛んだ。
けれど、どうしても何かを掴みたかった。
褒められたかった。
ただ、それだけだった。
──場面は再び切り替わる。
書庫での時間が増えていた。
最初は意味の分からなかった政治書や軍略書も、少しずつ読めるようになり、知識が繋がっていく喜びを覚えた。ページをめくるたびに、俺の中で何かが形を持ちはじめていた。
でも──。
今度は廊下の角から。ラナーがメイドと共に歩きながら、貴族の来客から優しく頭を撫でられていた。
「聡明でいらっしゃる。王国の宝ですな」
王国の宝。
その言葉に、ラナーは微笑む。まるで祝福された天使のようだった。
一方で、父──ランポッサ三世の間では、バルブロの武勇譚が何度も語られ、その隣で笑っている父の姿があった。
ああ、嫌われているわけじゃない。ただ、興味がないだけなんだ。
そう気づいてしまった俺は、それでもめげずに父の関心を引こうと努力した。笑顔を作って、背筋を伸ばして、愛想よく振る舞って。
「俺、こんなこともできるようになりました」
そう言っても、誰も興味を持ってくれなかった。目を細めてくれる人は、どこにもいなかった。空回りして、どんどん怖くなっていった。
「見てほしい。認めてほしい。必要だと言ってほしい」
心の底からそう願っていたはずなのに、気づけば自分が何をしているのか分からなくなっていた。
そして。気づいたときには、涙がこぼれていた。
これが幼い頃の記憶なのか、それとも今の俺なのか、もう判別がつかない。
「……どうして……なんで……」
声が震える。
嗚咽が混じる。息が詰まりそうになる。
誰かの腕の中に飛び込みたいのに、その「誰か」がもう、思い出せなかった。
嗚咽と共にこぼれた言葉が、書庫の静けさに吸い込まれていく。誰もいないはずの午後の陽だまりの中、ただひとり、膝を抱えて泣く。
高い棚に届かなくて、背伸びしたまま崩れ落ちた本の山の上で、幼い自分と現在の自分の境界がどろりと溶けていく。
「頑張ったのに……ちゃんと……やってたのに……」
言い訳のように呟いた声は震えて、書物よりもずっと脆かった。
「誰か……誰か、俺を……」
必要だと言ってほしい。愛されたい。ただ、それだけだったのに。涙が止まらなかった。
心の底からそう願っていたはずなのに、気づけば自分が何をしているのか分からなくなっていた。
──誰かが呼んでいる気がした。
声が、遠くから響いてくる。けれどどこかあたたかく、包み込むような優しさがあった。
『君ぐらいは、できるだけ優しく殺すとしよう』
……誰の声だろう? なのに、心が強く反応した。
懐かしさにも似た、胸の奥を掻きむしるような感情が湧き上がる。
『……必要だったからだ』
また聞こえる。暗がりの中で、光が差す方へと視線を向ける。
『間違っても……死ぬなんて言うな』
懐かしい。でも、知らない。でも──なぜだ。涙がまた、溢れてくる。
『…綺麗な食べ方だな』
なぜ、その言葉がこんなにも優しく聞こえる?
『死なれては困る』
鼓動が速くなる。何かを思い出しそうで、思い出せない。
『違う。宝物だ』
──俺が?
『撫でているだけだ。知らないのか?』
くすぐったい感覚。誰かが、頭に触れているような。
『……"そういうもの"なんて。そんなのは気持ちを切り捨てた諦めだ』
『君の人生を、そんな言葉で括らないでくれ。そう言うたびに、君が何をどれだけ諦めてきたのかを思って、俺は──胸が痛む』
喉が詰まる。もう、泣いてはいけないのに。
『君は、もう人間の王子ではない。ナザリックの客人であり、友人だ。俺の、大切な……』
息が、止まりそうになる。心が、あたたかいもので満ちていく。
『寂しいなら、我慢せずに素直に言うと良い』
『むしろ、そこが最高に魅力なんだろうが………!』
『君は……私の、友人だ』
その言葉が、胸に深く深く染み込んだ。
──ああ、これは夢じゃない。
『……もう一人にしない。君はもう、諦めなくていい、孤独ではない』
『夢じゃない。ここに君がいて、俺がいる。それが現実だ』
まぶたが震えた。暗闇に、小さな光が見えた気がした。
─────────
翌朝─────。
まぶたの裏に、じんわりと温かな光が差し込んでくる。まどろみの中で目を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を整えた。身体が重く、でもどこかふわりと軽い。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、ベッドの上でもぞりと身じろぎした。そのときだった。
「おはよう」
柔らかく、低く、よく響く声。
その声を耳にした瞬間、夢の余韻がすべて現実へと変わっていく感覚に襲われた。
はっとして、目を開ける。
ゆっくりと体を起こすと、眩しい朝日が差し込む窓辺に立つ、骸骨の王──アインズ・ウール・ゴウンが、ゆるやかに視線を落としていた。
筋肉も、表情もないはずの顔が、どこか穏やかに見える。
「……あ、あの……おはようございます」
喉が乾いていて、声はかすれていた。それでも、アインズ様は小さく頷いた。
まるで──本当に「また会えた」かのように。