セバツア注意。
ツアレと桃狩り
アインズ・ウール・ゴウンの執務室。
静かな空気が流れるそこには魔導王──アインズがいた。
そしてその大きな膝には小さな補佐官──ザナックが座っている。
いつものことだ。
アインズが命令したことにより、外交等がない場合はアインズの膝の上に乗っているというのがザナックの仕事なのだ。
ザナックが読むべき書類は一枚もない。
最初は大人しく本でも読んでいたが、アインズの仕事も徐々に片付いていく。それにそもそもアインズの執務時間は短い。なので暇な時間の方が多いザナックだった。
「アインズ様」
「何だ」
「仕事をください」
「…………」
アインズは一旦聞こえなかったフリをした。
「アインズ様」
「……何だ?」
「仕事をください」
「ザナック。君は少し働き過ぎる傾向が──」
「ここ数日、俺がした仕事を挙げていただけますか?」
「…………俺の膝に座っていた」
「それは仕事とは言えないと思うのですが」
せっかく蘇らせ、王子という重責から解放されたというのにザナックはまだ働きたがる。行動が体に染み付いているのだろう。
「俺は置物ではありません」
「そんなことは思っていない!」
「愛玩動物でもありません」
「思っていない!」
「では仕事を」
「……」
アインズが困っていると、そこへ、メッセージでセバスから翌日の予定について報告が入る。
魔導国管理の果樹園で、春の収穫作業。
ツアレが手伝いに行く。
ザナックが反応する。
「俺にも手伝わせてください」
「待てザナック、まだ何をやるか説明してな──」
「果物を採るのでしょう。できます」
アインズは考える。ザナックとツアレは同じ人間種同士であり同じナザリックにいるのに、ほとんど面識がない。
人間同士の交流になる。
肉体労働と言っても軽作業。
ザナック本人もすごくやりたがっている。
「……許可しよう」
「……! ありがとうございます!」
「護衛を」
「いりません」
「最低限つけよう」
────
翌朝。
ナザリックを出たザナックを迎えたのは、思っていたよりも柔らかな日差しだった。
春の初め。冬の名残はまだ完全には消えておらず、風が吹けば頬を撫でる空気には僅かな冷たさがある。けれど雲の少ない空から降り注ぐ陽光は暖かく、じっとしていれば背中がじんわりと温まってくるような、そんな日だった。
魔導国の郊外に設けられた果樹園には、低い柵の向こうに整然と木々が並んでいる。
本来ならば桃が実るには随分と早い季節だ。しかしここでは魔法を利用した品種改良や生育管理が試験的に行われているらしく、枝の間には淡い紅色を帯びた実がいくつも顔を覗かせていた。
ザナックは腰に提げた小さな籠を見下ろす。
動きやすさを優先して、今日はいつもの外交補佐官用の制服ではない。簡素なシャツに上着、汚れても構わないズボン。農作業をするには少々上等かもしれないが、少なくとも王子時代の正装とは比べものにならないほど気楽な格好だった。
「……護衛はいらないと言ったのだがな」
ぼそりと呟く。
視界の端。
ずっと遠く。
木々の向こうに、こちらを見ている影があった。
一人。
反対側にも一人。
さらに気配だけなら、もう数人。
最低限とは何だったのだろう。
昨夜のアインズの言葉を思い出して、ザナックは溜息を吐いた。
どうせ自分が何を言ったところで、これ以上減らすつもりはないのだろう。桃を狩っている最中に何者かに襲われる可能性まで真剣に考えているに違いない。
そういうところは過保護なのだ。
もっとも。
──嫌ではない。
そう思ってしまう自分も、随分と変わったものだった。
「ザナック様……でしょうか?」
控えめな声に振り返る。
少し離れた場所に、一人の若い女性が立っていた。
質素ではあるが清潔な服。淡い金色の長い髪を作業の邪魔にならないようまとめ、両手で籠を抱えている。
ツアレ。
話には聞いていた。
ナザリックで暮らしている数少ない人間の一人。そして、セバスに保護された女性。
直接顔を合わせるのは、これがほとんど初めてだった。
ザナックがそちらへ身体を向けた瞬間、ツアレの背筋がぴんと伸びた。
「は、初めまして! ツアレと申します!」
勢いよく頭を下げる。
「あ、はい。初めまして。ザナックです。本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします!」
「……そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「えっ」
ツアレが顔を上げる。
「ですが、その……ザナック様は王子様だったと……」
「元、です」
「あ……」
「それに今は王子としてここへ来たわけでもありません」
ザナックは自分の腰に提げた籠を持ち上げた。
「本日の俺は、貴女と同じ桃狩り係です。同僚ということでお願いします」
数秒。
ツアレがきょとんとする。
やがて、堪えきれなかったように口元が緩んだ。
「……ふふ」
「何かおかしかったですか?」
「い、いえ! 申し訳ありません!」
「謝る必要はありませんよ。笑っていただいた方がこちらとしても助かります」
どうやら第一声で完全に怯えられるという事態だけは避けられたらしい。
ザナックは内心で安堵した。
外交の場で王侯貴族を相手にするより、こういう時の方が何を話せばいいのか分からない。
そもそも、友人と呼べる相手すらほとんどいなかった人生である。
初対面の同年代に近い女性と桃を採れと言われても、正解など知るはずもなかった。
「では、始めましょうか」
「あ、はい。こちらです」
ツアレに案内され、二人は木々の間へ入っていった。
しばらくは、仕事らしい仕事が続いた。
「ザナック様、それはもう少し待った方がいいと思います」
「これですか?」
「はい。まだ少し硬いので」
「では、こちらは?」
「そちらは大丈夫です」
「……違いが分かりませんね」
ザナックは二つの桃を見比べた。
色も大きさも大差がないように見える。
ツアレが隣まで来て、指先でそっと表面を確かめた。
「強く押してはいけませんよ。こうして、ほんの少しだけ」
「なるほど」
真似をしてみる。
柔らかい。
気がする。
「……これは?」
「はい。それなら大丈夫です」
「おお」
思わず声が出た。
枝から丁寧に実を外し、籠へ入れる。
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、不思議と達成感があった。
書類へ署名するのとも、国家の収支を見るのとも、外交文書を読むのとも違う。
自分の手で何か一つを終わらせ、その結果が目の前に残る。
ザナックは籠の中の桃を眺め、僅かに口元を緩めた。
「楽しそうですね」
「え?」
「いえ。先ほどから、少し嬉しそうです」
ツアレに言われて、自分でも気付いていなかったことを指摘されたような気分になる。
「……仕事に飢えていまして」
「お仕事に?」
「ええ。アインズ様が全然させてくださらないので」
「アインズ様が?」
「外交の仕事がない日は、膝に座っていろと」
ツアレの手が止まった。
「……膝、ですか?」
「膝です」
「ずっと?」
「ほぼずっとです」
「…………」
ツアレが何とも言えない顔をする。
「何です?」
「いえ、その……とても、大切にされていらっしゃるのですね」
「……大切というか」
ザナックは一つ桃を採りながら、少しだけ視線を逸らした。
「過保護なんですよ」
そう口にしながら、声にはほとんど不満が乗っていなかった。
ツアレもそれに気付いたのだろう。
何も言わず、ただ柔らかく笑った。
作業を続ける。
少しずつ会話も増えていった。
ツアレは桃の扱い方を教え、ザナックはそれに従う。
最初こそ「ザナック様」と呼ぶたびに身体を固くしていたツアレも、しばらくすると自然に話せるようになっていた。
そして。
ザナックは目の前の枝を見上げた。
ちょうど良さそうな桃がある。
ただし、高い。
腕を伸ばす。
指先が僅かに届かない。
もう一度背伸びをする。
届かない。
「…………」
横からツアレが近付いた。
「あちらですか?」
「ええ」
「では私が」
ツアレも手を伸ばした。
届かない。
二人並んで枝を見上げた。
風が吹いた。
桃のついた枝だけが、二人を嘲笑うかのようにゆらゆら揺れる。
「…………」
「…………」
先にザナックが口を開いた。
「脚立を取りに行きましょうか」
「……そうですね」
二人とも小柄だった。
脚立を持って戻ってきてから、ツアレが先ほどよりも明らかに笑いを堪えていたので、
「笑っても構いませんよ」
と言うと、とうとう吹き出された。
ザナックも釣られて笑った。
自分がこんなふうに、誰かとくだらないことで笑うようになるとは思わなかった。
王国にいた頃なら、あり得なかっただろう。
しばらく働き、籠の底が桃で隠れ始めた頃。
二人は木陰で休憩を取ることにした。
用意されていた果実水を受け取り、ザナックはひと口飲む。
冷たい液体が喉を通る。
遠くでは、春風に枝が揺れていた。
「ザナック様」
「はい?」
隣に座っていたツアレが、少し迷うように口を開いた。
「アインズ様とは……とても仲がよろしいのですね」
「そうですね」
何気なく答える。
「恋人ですから」
「…………」
ツアレの瞬きが止まった。
ザナックも果実水の入った杯を持ったまま、相手を見る。
「……どうしました?」
「こ、恋人……?」
「ええ」
「アインズ様と?」
「はい」
「ザナック様が?」
「そうですが」
ツアレの顔に、驚きがそのまま浮かんでいる。
ザナックは首を傾げた。
婚約までしていることは、ナザリック中の者が知っているものだと思っていたが、どうやらツアレまでは詳しく聞かされていなかったらしい。
「……ああ。まだ聞いていませんでしたか。婚約もしています」
「こ、婚約!?」
今度はさらに大きな声が出た。
「はい」
左手を少し持ち上げる。
薬指。太い金の輪。赤い宝石。
ツアレは指輪とザナックの顔を交互に見る。
「お、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
あまりに真っ直ぐ祝われ、ザナックの方が少し照れた。
左手を下ろす。
そこでふと気付く。
随分前から話としては聞いていた。
ツアレを救った男。
今も彼女を何より気に掛けている者。
ザナックは果実水をもうひと口飲み、
「ところでツアレさん」
「はい?」
「貴女はセバス様と?」
「ぶっ」
今度はツアレが果実水で咽せた。
「だ、大丈夫ですか?」
「だ、だいじょ……っ、げほっ、大丈夫です!」
顔が一瞬で真っ赤になった。
分かりやすすぎる。
ザナックは目を瞬いたあと、少しだけ笑った。
「なるほど」
「な、何がですか!」
「いえ。何でもありません」
「ザナック様!」
「俺も今かなり驚かれましたので、おあいこということで」
「う……」
ツアレが俯く。
しばらくして。
消え入りそうな声。
「……はい」
「はい?」
「その……セバス様と、お付き合いしています」
今度はザナックが目を丸くした。
知っていたわけではない。
ただ仲が良いことは耳にしていたので、そうなのではないかと思っただけだ。
「そうでしたか」
「……はい」
二人とも黙る。
片方は、アンデッド。
片方は、異形種の竜人。
そして今ここにいる二人は、どちらも人間。
ザナックが先に口を開いた。
「……奇妙な偶然ですね」
「え?」
「お互い、人間ではない方を恋人にしている」
ツアレも気付いたらしい。
「あ……」
一拍。
二拍。
今度はどちらからともなく笑った。
「本当ですね」
「同じナザリックに住んでいて、こういう共通点があるとは思いませんでした」
「私もです」
春の風が吹く。
まだ少しだけ冷たい風だった。
ツアレが手の中の杯を見つめながら、ぽつりと言った。
「……ザナック様は、怖くありませんでしたか?」
「何がです?」
「アインズ様が……その、人ではないことが」
ザナックはすぐには答えなかった。
遠くに並ぶ桃の木を見る。
「怖かったですよ」
ツアレが意外そうに顔を上げる。
「最初は」
魔導王。
王国を滅ぼした存在。
目覚めた時、目の前にいたのは肉も皮膚もない骸骨の顔だった。
怖くないはずがなかった。
「ただ……いつの間にか、慣れましたね」
「慣れるものなのでしょうか」
「少なくとも俺は」
少し考える。
「今では、あの顔を見ると安心するくらいです」
自分で言ってから、随分な変化だと思った。
ツアレが微笑む。
ザナックは彼女へ問い返した。
「ツアレさんはどうです? セバス様が人間ではないことを」
「私ですか?」
「はい」
ツアレは考え込んだ。
けれど、長くはかからなかった。
「……あまり、考えたことがありません」
「ない?」
「はい」
そして、本当に不思議そうに。
「セバス様は、セバス様ですから」
ザナックは黙った。
その言葉が、妙に胸へ落ちた。
セバスはセバス。
なら。
アインズはアインズだ。
アンデッドだから愛したわけではない。
王だからでもない。
自分を蘇らせた恩人だからというだけでも、もうない。
あの人だったから。
どうしようもなく臆病で。
妙なところで過保護で。
自分を膝へ乗せたがって。
時折、こちらが驚くほど不器用で。
それでも誰より、自分を大切にしてくれる。
「……確かに」
ザナックは小さく笑った。
「俺も同じですね」
ツアレも嬉しそうに笑う。
しばらくして、ツアレが思い出したように言った。
「セバス様の手って、とても温かいんです」
「手?」
「はい。大きくて、温かくて……触れていただくと、安心します」
言い終わる頃にはまた少し顔が赤い。
ザナックはその様子を眺め、それから自分の頬へ指を当てた。
「それなら、そこだけは正反対ですね」
「正反対ですか?」
「アインズ様の手は冷たいですよ」
骨だ。
当然ながら体温はない。
「……でも」
何度も触れられた。
頭を撫でられた。
頬を包まれた。
涙を拭われた。
抱き締められた。
ザナックの指先が、無意識に自分の頬をなぞる。
「俺は、あの冷たい手に触れていただくと安心します」
ツアレは何も言わなかった。
ただ、優しく笑った。
温かい手と、冷たい手。
まるで正反対なのに。
そこから受け取るものは、きっと同じだった。
「……そろそろ戻りましょうか」
「はい」
二人は立ち上がった。
休憩を終え、再び桃の木々の間へ向かう。
まだ籠には空きがある。
今日はもう少しだけ、仕事ができそうだった。
休憩を終えた二人は、再び桃の木々の間へ入っていった。
先ほどまでとは違い、もうほとんど遠慮はない。ツアレが「あちらは採って大丈夫です」と指差せば、ザナックが「では俺が」と脚立を持っていき、逆にザナックが実の状態を尋ねれば、ツアレがすぐ隣まで来て確かめる。
初対面だったはずなのに、不思議なものだった。
一度共通点を見つけただけで、随分と話しやすくなった気がする。
「これは?」
「大丈夫です」
「こちらは?」
「もう少しですね」
「……だんだん分かってきた気がします」
「本当ですか?」
「恐らく」
「では、それはどうでしょう」
ツアレが少し離れた枝を指差した。
ザナックは桃を眺める。
色を見る。
先ほど教わった通り、指先でごく軽く触れてみる。
「……まだ早い」
「正解です」
「おお」
思わず嬉しくなった。
「俺には桃狩りの才能があるかもしれません」
「まだ三つ目ですけど」
「……随分と言うようになりましたね、ツアレさん」
「あっ」
ツアレの顔が青くなる。
「も、申し訳ありません!」
「冗談ですよ」
「……ザナック様、分かりにくいです」
「よく言われます」
実際には、それほど言われた経験もない。
そもそも、こんな冗談を交わせる相手が王国時代にどれほどいただろう。
父。兄。妹。
貴族。臣下。
誰と話していても、どこかに肩書きが付いて回った。
王子として。
王族として。
政治家として。
けれど今は。
籠を抱えた、ただの桃狩り係だ。
風が通り抜けた。
髪が揺れる。
まだ僅かに冷たい風だったが、日差しに温められた身体にはむしろ心地いい。
ザナックは目を細めた。
「春ですね」
「はい」
「少し寒いですが」
「でも、冬の風とは違いますね」
「……そうですね」
冬とは違う。
まだ冷たいのに。
その冷たさの向こう側に、暖かくなる予感がある。
そんな風だった。
それからしばらくして、二人の籠はようやくいっぱいになった。
ツアレが最後の一つを丁寧に置く。
「これで今日は終わりですね」
「……もうですか?」
心底残念そうな声が出てしまった。
ツアレが目を丸くする。
「結構長くやっていましたよ?」
「そうでしたか?」
「はい」
空を見る。
いつの間にか日は随分と傾いていた。
淡い橙色の光が、木々の隙間から差し込んでいる。
夢中になっていたらしい。
「そうですか……」
ザナックは籠を眺めた。
朝には空だったものが、自分で採った桃で埋まっている。
たったそれだけなのに妙に惜しい。
「明日も来ますか?」
ツアレが冗談めかして尋ねる。
「来てもいいのですか?」
「あ、いえ、私は構いませんけど……」
「ではアインズ様に頼んでみます」
「許してくださるでしょうか」
「…………」
二人とも少し考えた。
ザナックは首を横へ振った。
「難しいでしょうね」
「ですよね」
顔を見合わせ、笑う。
その時だった。
「ザナック」
聞き慣れた声。
ザナックの顔が自然にそちらへ向いた。
果樹園の入り口。
黒いローブ。
見間違えようがない。
アインズが立っていた。
その少し後ろには、背筋を真っ直ぐ伸ばしたセバスもいる。
「アインズ様」
ザナックの声が少し弾んだ。
自分では気付いていない。
けれど、隣にいたツアレには分かった。
先ほどまで自分と話していた時とは、ほんの僅かに表情が違う。
柔らかい。
安心したような。
それはきっと、自分がセバスを見つけた時にも同じなのだろう。
「セバス様!」
ツアレも笑顔になる。
二人はそれぞれ、自分を迎えに来た恋人の元へ向かった。
アインズは歩いてくるザナックを上から下まで確認した。
怪我はない。
服も多少土が付いている程度。
顔色も悪くない。
「どうだった?」
「楽しかったですよ」
ザナックは籠を少し持ち上げる。
「見てください。俺が採りました」
「おお」
アインズは素直に籠を覗き込んだ。
立派な桃が並んでいる。
「随分採ったな」
「ツアレさんに教えていただきました」
「そうか」
そこでアインズの手が伸びる。
ザナックは避けなかった。
冷たい骨の指が、まるで桃のように染まった頬へ触れた。
「……少し冷えているな」
「風がありましたから」
「寒くはなかったか?」
「平気ですよ」
そう答えながら。
ザナックは無意識に、ほんの少しだけその掌へ頬を寄せた。
ツアレがそれを見る。
先ほどの言葉を思い出す。
──アインズ様の手は冷たいですよ。
けれど。
その冷たい手に触れられているザナックの顔は、とても穏やかだった。
その横で。
「ツアレ」
「はい、セバス様」
セバスが僅かに身を屈めた。
「頬に汚れが」
「えっ」
ツアレが自分で拭おうとするより先に、大きな手が触れる。
指先で、頬についた僅かな土を優しく拭った。
「取れました」
「あ、ありがとうございます……」
ツアレの顔が一気に赤くなる。
温かな手。
大きな手。
触れられると安心する手。
ツアレはちらりと隣を見る。
その時、ザナックもこちらを見ていた。
視線が合う。
アインズの冷たい骨の手に頬を包まれたザナック。
セバスの温かな手に頬を撫でられたツアレ。
数秒。
どちらからともなく、ふっと笑った。
アインズが不思議そうに首を傾げる。
「どうした?」
「いえ」
ザナックは笑みを残したまま答える。
「何でもありません」
「そうか?」
「はい」
セバスもツアレを見る。
「何かございましたか?」
「い、いえ!」
ツアレも慌てて首を横へ振った。
「何でもありません」
「左様ですか」
男二人だけが分かっていない。
それがまた少し可笑しくて、ザナックとツアレはもう一度だけ目を合わせた。
アインズは結局最後まで納得できない顔をしていたものの、ザナックの籠を当然のように自分で持とうとした。
「これは私が持とう」
「結構です。俺が持てます」
「重いだろう」
「これくらい持たせてください。俺の仕事の成果なんですから」
「しかし」
「アインズ様」
「……分かった」
渋々手を引く。
代わりにザナックの空いている手を取った。
「これはいいだろう」
「……はい」
それには抵抗しない。
アインズとザナックは手を繋いで歩き出した。
少し離れたところで、ザナックが振り返る。
「ツアレさん」
「はい!」
「今日はありがとうございました。また機会があれば一緒に仕事をしましょう」
ツアレは一瞬驚いた後、嬉しそうに頭を下げた。
「はい! こちらこそありがとうございました!」
「では」
「お気を付けて!」
黒いローブと小さな背中が並んで遠ざかっていく。
その二つが見えなくなるまで見送り、ツアレは息を吐いた。
「……緊張しました」
「そうは見えませんでしたが」
背後からセバスの声。
ツアレが振り返る。
「最初はすごく緊張したんですよ。でも、ザナック様、とても話しやすい方で」
「左様ですか」
「はい。優しい方でした」
「それは何よりです」
セバスが静かに頷く。
「お疲れでしょう。私達も戻りましょう」
「はい」
二人で歩き出す。
帰り道は静かだった。
夕方の光が道を橙色に染めている。
遠くで鳥の鳴き声が聞こえ、春の冷たい風が時折二人の間を通り抜けた。
ツアレは今日あったことを思い返していた。
ザナックと桃を採ったこと。
二人とも高い枝に届かなかったこと。
アインズとの関係を聞いて驚いたこと。
そして。
人ではない恋人について話したこと。
──セバス様は、セバス様ですから。
自分で言った言葉を思い出す。
隣を歩くセバスをちらりと見る。
横顔はいつも通りだった。
穏やかで。
落ち着いていて。
何を考えているのか、時々分からない。
それでも、自分を何より大切にしてくれている。
少しだけ距離を近付ける。
するとセバスが気付いた。
「ツアレ」
「はい?」
足が止まる。
ツアレも立ち止まった。
夕暮れの道。
二人きり。
セバスはツアレを見下ろした。
「愛しています」
「…………」
風が吹いた。
ツアレの髪が揺れる。
「…………え?」
「愛しています」
もう一度。
今度は聞き間違いではない。
ツアレの顔がみるみる赤くなっていく。
「せ、セバス様!?」
「はい」
「ど、どうして……!」
「何がでしょうか」
「どうして二回言うんですか!?」
セバスは少し考えた。
「最初の一度が聞こえていなかった可能性があるかと」
「聞こえていました!」
「そうでしたか」
「そうです!」
耳まで熱い。
心臓がうるさい。
いきなりすぎる。
あまりにも。
普段のセバスは、優しい。
触れてくれる。
守ってくれる。
大事にしてくれる。
けれど、こんなふうに突然言葉にすることは滅多にない。
「どうして突然……?」
ツアレは胸元へ手を当てた。
「私、何かしましたか?」
「いいえ」
「では、どうして」
セバスは僅かに目を伏せた。
答えを探しているようだった。
「……言わなければならないと思ったので」
「え?」
「今日、そう思いました」
「今日……?」
セバスの脳裏には、先ほどの光景が残っていた。
迎えに行ったアインズが、ごく自然にザナックの頬へ触れた。
ザナックもまた、それを当然のように受け入れた。
二人の間には、言葉にせずとも分かるものがあった。
そして。
ふと考えた。
自分は、ツアレにどれほど伝えているのだろう。
守る。
傍にいる。
望むものがあれば可能な限り叶える。
行動ならば、いくらでも示しているつもりだった。
しかし。
それだけでいいのだろうか。
言葉にしなければ伝わらないことも、きっとある。
「ツアレ」
「……はい」
「私は貴女を大切に思っています」
「……」
「貴女と共にいる時間を、私は好ましく思っています」
一つずつ。
決して器用ではない言葉で。
「そして、貴女を愛しています」
三度目。
ツアレはとうとう両手で顔を覆った。
「セバス様……!」
「はい」
「何度言うんですか……!」
「伝えるべきことだと思いましたので」
「一回で十分伝わります……!」
「左様ですか」
「はい……」
「では、今後は一度にいたしましょう」
「そういうことじゃ……」
ツアレは指の隙間からセバスを見る。
本気だ。
ふざけているわけでも。
からかっているわけでもない。
ただ、本当に。
愛しているから。
言わなければならないと思った。
それだけなのだ。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
先ほどまで冷たかった春の風さえ、今は少しだけ暖かく感じた。
「……セバス様」
「はい」
ツアレは顔から手を下ろした。
まだ真っ赤だった。
目を合わせるのも恥ずかしい。
それでも。
言葉にしなければ伝わらないことがあるのなら。
自分も。
「……私もです」
セバスの目が僅かに見開かれる。
「私も、セバス様を……」
そこまで言って、やっぱり恥ずかしくなった。
俯く。
「……愛しています」
小さな声。
けれど。
セバスには十分届いた。
沈黙。
ツアレが恐る恐る顔を上げる。
セバスはほんの僅かに、微笑んでいた。
「ありがとうございます」
「……お礼を言うものなんですか?」
「嬉しかったものですから」
また顔が熱くなる。
セバスが手を差し出す。
ツアレはその手を見た。
大きな手。
温かな手。
昼間、ザナックと話した。
自分が好きな手。
ツアレはそっと、その手を握った。
指が包まれる。
やっぱり温かい。
「帰りましょうか」
「はい」
二人は再び歩き出した。
手を繋いだまま。