ザナック視点。
まだお互い友人だと思ってるのが面白い
君がいるから
「おはよう」という挨拶は、本来なら何気ない日常の一幕にすぎないはずだった。王城にいた頃も、朝には決まって顔を合わせる使用人たちに、形式的な「おはよう」を投げかけていた。そこに深い意味はなかった。ただ、そうするのが当然だったから、口にしていただけ。でも今──目の前の骸骨の王に向けて発したその言葉は、かつてのどの「おはよう」よりもずっと重くて、温かかった。
「……あ、あの……おはようございます」
乾いた喉が震える。声はかすれていたが、それでも言葉にしたかった。アインズ様の眼窩に揺れる赤い光と目が合う。無表情なはずの顔が、なぜだかとても穏やかに見えた。まるで、優しく包み込むように。そして、彼の赤い視線が俺の全てを見通すかのように静かに注がれる。
──きっと、これが本当の「おはよう」なのだろう。あの日、誰かに言いたくて言えなかった。泣きながら夢の中で叫んだ「必要だと言ってほしい」というあの願いが、今ようやく、現実の中で報われたような気がした。
「……どうした? 随分と安心しきった顔だな」
低く響く声。その一言に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。彼は鋭い。見透かしてくる。何もかも──心の底まで。
「え、そう……ですかね……? そうですね……きっと……貴方が、いてくれたからです。ありがとうございます」
言いながら、自分でも少し照れ臭くなった。でも、それが嘘じゃないことだけは確かだった。
俺は、アインズ様がいてくれることに、心底安心していた。アインズ様はほんの少しだけ首を傾げて、赤い光を細く揺らした。困惑、あるいは、照れ……骸骨の顔では読み取れないはずなのに、たしかに、そんな気配がした。
「突然なんだ。……君こそ、そんなことを言って、ここを去ったりするなよ」
その言葉に、胸が跳ねた。
──ああ、俺は、ちゃんと"必要とされている"のかもしれない。代わりなんてなれない。誰かと同じにはなれない。でも、「俺として」そばにいたい。
「ここを離れるなんてしたくありません。離れたくないんです……絶対に」
言葉にするのは、まだ少し恐ろしい。でも、逃げたくなかった。嘘をつきたくなかった。だから、目をそらさずに、アインズ様をまっすぐに見つめた。
ほんの少しの沈黙。空気が静まり返る。──その時、彼の肩が、ほんのわずかに揺れた。
「……君の本心からの言葉が聞けて嬉しいよ」
ゆっくりと返された、からかうようなその言葉が、胸に染み渡る。声はいつもと同じで、冷静で穏やかだった。でも、確かにあたたかかった。
「俺も……言えて良かったです」
気づけば、自然と笑っていた。胸の奥が熱くて、今にも色んな感情が溢れそうだった。そしてその瞬間。アインズ様が、ふと視線を逸らすように立ち上がった。
「……まだ、朝食には少し早いかもしれないな。だが、君が目を覚ましたことが嬉しかったんだ。つい、顔を見に来てしまった」
「そんな……わざわざありがとうございます。でも……俺も、嬉しいです。来てくださって」
アインズ様は言葉を返さず、少しだけ速足で窓際へと歩いていく。朝の光が、黒衣の裾を照らし、荘厳なシルエットを作る。
(ああ──この人の背中を、守りたい)
かつてはただの王子で、何も守れなかった俺が。
今、この場所で、また誰かの役に立ちたいと心から願っている。前のような義務感でもない、褒められたいからでもない。この感情はなんなのだろう。
「……アインズ様」
「ん?」
背を向けたまま返ってきた声に、俺は静かに、でもはっきりと告げた。
「これから、もっと……貴方のことを教えてください。俺は、貴方の力になりたいんです」
ゆっくりと振り返ったアインズ様は、微かに息を呑むような仕草をした──ように見えた。
「……ああ。君になら……そうだな。少しずつ、話していこう」
交わされた約束。それは、まだ始まったばかりの関係が、確かな絆へと変わっていく第一歩。だといいんだがな。
────軽く朝食をとり終えると、アインズ様が静かに口を開いた。
「体調はどうだ? ザナック。……正直に言ってくれ」
その声音は、どこか慎重で──それでいて、心の底から気遣ってくれているのが伝わってくる。まるで、壊れ物に触れるような優しさだった。その優しさがやはりむずがゆい。俺はスプーンを置いて、小さく深呼吸をした。嘘はつきたくなかった。けれど、心配させすぎるのも避けたかった。少し迷いながらも、正直に応える。
「……その、正直に言うと……まだ疲労感は抜けません。ふらつくこともありますけど、歩くくらいはもうできますし……昨日よりは全然、体調が良いですよ」
なるべく前向きな言い方になるように言葉を選んだ。実際、昨日よりは本当に楽だった。けれど、目の前の骸骨の王は誤魔化しを許さない男だった。
彼は、ゆっくりと顎に手を当て、思案するように沈黙する。その仕草は不思議と威圧感はなくて、むしろ慈しみに満ちた静けさがあった。
やがて、彼はぽつりと呟くように言葉を継いだ。
「……本当は今日、階層守護者やプレアデスたちと……軽く顔を合わせてもらうつもりだったが──"心配だから今日も休め"と言ったら、過保護になるかな?」
その言い方は、どこか不器用で、戸惑いすら含んでいた。冗談のようでいて、本心なのだろう。俺の体調を気遣って、本気で予定を取り下げようとしてくれている。胸が、じんと熱くなる。
「……! そうですね、それは……ちょっと過保護です」
思わず笑みがこぼれた。
この人は、どうしてこんなにも優しいのだろう。
「嬉しいんですよ。貴方がそうやって、気にかけてくれること。でも、軽くなら問題はありません!」
ゆっくりと背筋を伸ばして、少しだけ胸を張る。アインズ様に、今の自分を見せたかった。昨日までのような無力な自分ではなく、ちゃんと回復し、立ち上がろうとしている今の自分を。アインズ様は少しだけ、眼窩の赤い光を細めた。言葉はなかったが、その沈黙には安心と、僅かな誇らしさが混ざっていた気がする。
「……分かった。それなら、無理のない範囲で少しだけ顔を出してもらおう。プレアデスたちも……君のことを、ずっと気にしていたからな」
「えっ、そうなんですか……?」
驚きと同時に、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。自分のことなんて、きっと取るに足らない存在だと思っていたのに──このナザリックという桁外れの場所で、誰かが自分を気にかけてくれていた。
「メイドのココルさんから……少し聞きました。階層守護者様たち、プレアデス様たちのお名前だけ……」
本当に名前しか覚えていないので自信がない。俺は小さく呟くように言った。
「階層守護者は皆落ち着いた者が多いのだが……プレアデスたちに会わせるのがどうも不安でな」
アインズ様がわずかに声を低めながら、どこか申し訳なさそうに言った。
その口調に少し不安も混じっているのが伝わる。
「……? 俺は平気ですよ。罵られることは慣れてますから! ちょっとやそっとの蔑みで落ち込むほど心が清い訳でもないですし」
そう言った瞬間、自分の口から飛び出した言葉に少しだけ驚いた。けれど、嘘ではない。本当に、慣れてしまっていたのだ。
ふっと、記憶の底から兄の顔が浮かび上がる。
──「豚面の出来損ない」「無能の象徴」「よく息してるな、逆に感心する」
日替わりメニューのように繰り出される罵倒のレパートリーは、当初こそ若干のバリエーションを持っていたが、しばらくすると同じ言葉ばかりを繰り返すようになった。兄の口調も、どこか感情がこもっていない。俺という玩具に飽きたのか。
(……今思えば、あれって、面倒くさくなっただけだったのかもしれないな)
最初の頃は、それなりに傷ついていた気がする。けれど、次第にそれも薄れていった。"どうせまた、同じことを言われるのだ"という予測が先に立ち、罵倒を受けるたび、心の中で「はいはい、それは昨日も聞いた」と無表情でスルーするようになった。そんなある日のこと。──「ザナック、なんでそんな顔してんだよ。もっとこう、悔しがるとかしろよ!」
まさかの兄本人からクレームが入り、「あっ……すみません、ちょっと別のこと考えてて……」と返したところで、兄が机に頭を打ちつけた音が、今でも懐かしい思い出だ。
(……いや、あれはちょっと笑いそうになった)
そう、ちょっとだけ、滑稽だった。
兄の怒りの矛先が自分の反応の薄さに向けられるなんて思ってもみなかった。
(だけどほんとは、少しだけ、期待してたのかもしれない)
俺が悔しがったり、怒ったり、泣いたりするのをやめれば、何か、兄の反応が変わってくれるんじゃないか。認めてくれるんじゃないかって。子供みたいな、そんな淡い願いを、どこかで捨てきれずにいたのかもしれない。だが結局、兄とは相容れなくて、俺がどんな反応をしても、彼の中の俺は何も変わらなかった。だから、いつからか慣れた。感情を切って、心を守ることを覚えた。
──あれを「慣れ」と呼ぶのは、ちょっと違う気もするけれど。結構早めに飽きてくれたので特に辛い思い出でもない。
「……まあ、そういう環境で育ってきたので。多少きつい言葉をぶつけられても問題ありません」
なるべく明るく笑ってみせる。これから言われるであろう罵詈雑言より過去の記憶の方が色々と厄介だった。このナザリックでまで、過去の暗い話を引きずりたくはなかった。けれどアインズ様は、そんな俺をしばらくじっと見つめて──まるで、俺が無理に笑っていることも、その背後にある過去の痛みも、すべて見通しているかのように───
「……だが、ここではその必要はない。君を罵る者がいたら、私が止める。……君は、ここでは守られる側だ」
と、はっきりと告げた。
その言葉が、胸に深く刺さる。守られる側──そんな人間になれる日が、自分にも来るなんて思っていなかった。ふと、少しだけ視界が滲んだ。
俺、いつの間にこんな涙脆くなったんだろ。