ザナックって美味しそうですよね。白くて丸っこくてふわふわしてそうで小さくて
ソリュシャン・イプシロンは、鏡の中に映る自分の姿を眺めながら、右手の指先を一本ずつ確かめるように動かした。
白く滑らかな肌。細く整えられた指。爪の先まで、人間の女として何ら不自然なところはない。胸元へ流れ落ちる金色の髪も、一房ごとに形を整えられた縦巻きも、青い瞳も、すべて本来の自分には存在しないものだったが、この姿で長く行動してきた彼女にとって、それを維持することに苦労などなかった。
かつて人間の都市へ赴いた際には、セバスの令嬢として振る舞ったこともある。話し方も、仕草も、表情も、相手が何を望んでいるのかさえ察して演じることができる。それに比べれば、今回の役目はずっと単純なもののはずだった。
アインズ様が大切になさっている人間と、親しくなる。
ただ、それだけ。
けれど。
「……さて」
口元へ指を添えながら、ソリュシャンは微かに笑った。
庭園で見た時のことは覚えている。
プレアデスに囲まれた小柄な人間は、明らかに怯えていた。それでもその場から逃げ出すことはなく、何とか礼儀を保ちながらこちらへ言葉を返していた。ユリが頬や腹に触れた際には面白いほど顔を赤くし、その後も何かと反応が分かりやすかった。
ルプスレギナからは「面白いっすよぉ」と聞き、ナーベラルからは何故か「猫か蝶々です」とだけ報告された。
意味はよく分からなかった。
だが三人とも、初めて会った時よりも彼について話す時の声音が柔らかい。
それならば、自分も確かめてみよう。
アインズ様が死者の中からわざわざ拾い上げた人間。
そのザナックという人物が、どのような味をしているのか。
もちろん。
文字通りの意味ではなく。
今のところは。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
静かに声を掛けると、少しだけ間を置いて扉が開いた。
「失礼します」
姿を現したザナックは、部屋の中へ一歩踏み込んだところでソリュシャンを見つけ、僅かに姿勢を正した。
「お待たせしてすみません」
「いいえ。時間通りですわ」
ソリュシャンは椅子から立ち上がると、スカートの裾を摘み、優雅に腰を落とした。
「改めまして。プレアデスの一人、ソリュシャン・イプシロンと申します。どうぞ、ソリュシャンとお呼びくださいませ」
「ザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフです。本日はよろしくお願いします、ソリュシャン様」
丁寧に頭を下げる。
思っていた通り。
元王族という肩書きを聞いた時には、多少なりとも尊大な人間を想像していた。それが実際には、こちらが名乗れば律儀に自分も名乗り、メイドである自分にまで敬称を付けている。
「様など不要ですわ」
「ですが」
「……でしたら、私もザナック様とお呼びしておりますものね。お互い様ということにいたしましょうか」
柔らかく笑ってみせれば、ザナックは少しだけ困ったように眉を下げたあと、「分かりました」と頷いた。
その反応にも、まだ硬さが残っている。
当然だ。
ユリやルプスレギナとは先に交流していると聞いたが、自分とは庭園で顔を合わせた程度である。ましてやプレアデスという存在そのものに対する恐怖が、数日程度で完全に消えるはずもない。
それで構わない。
恐怖とは、無理に取り除くより、少し残っている方が見ていて楽しい。
「こちらへどうぞ。今日はお菓子を用意してみました」
案内した先には、小さな円卓が置かれていた。
白磁の皿には、果実を飾った小さなタルト、砂糖を薄く纏わせた焼き菓子、柔らかなクリームを挟んだ菓子がいくつも並べられている。飲み物については、姉から念を押されていたため紅茶を避け、冷やした果実水を用意していた。
ザナックは席へ着くなり菓子へ視線を向け、それから、少し遠慮するようにソリュシャンを見る。
「召し上がらないのですか?」
「いただいても?」
「そのためにご用意したのですもの」
「ありがとうございます」
一つ取った。
赤い果実の乗った小さなタルト。
一口。
その途端、目尻が僅かに下がった。
ソリュシャンは表情を変えないまま、それを眺める。
二口目は一口目より少し大きい。
三口目を食べる頃には、最初に部屋へ入ってきた時より明らかに肩から力が抜けていた。
なるほど。
甘い物が好きという話は、本当らしい。
「お気に召しました?」
「はい。美味しいです」
先ほどまでよりずっと素直な笑顔だった。
「それは良かったですわ」
「ソリュシャン様は食べないのですか?」
「私は結構です」
「甘い物はお嫌いです?」
「嫌いではございません。ただ、私にはもっと好みのものがありますので」
「そうなんですね」
そこで終わると思った。
ところがザナックは、もう一つ焼き菓子を取ったあと、何気なく問いを続けた。
「ちなみに、どんなものがお好きなんです?」
ソリュシャンは微笑んだ。
「人間ですわ」
ザナックの指が止まった。
焼き菓子を摘んだまま。
数秒。
「…………食べ物の話、ですよね?」
「ええ」
音もなく微笑み続ける。
ザナックはゆっくりと菓子を皿へ戻した。
「そうですか」
「ご安心くださいませ。ザナック様をいただこうとは考えておりませんから」
「ああ、良かっ──」
途中で止まる。
顔を上げた。
「俺は、なんですね?」
「まあ」
気付くのが早い。
「ふふふ」
「笑って誤魔化しました?」
「さあ、どうでしょう」
ザナックは何とも言えない顔をしている。
怖がってはいる、それでも席を立たない。
会話を打ち切ることもない。
むしろ、しばらくこちらを観察したあと、小さく息を吐いた。
「プレアデスの皆さん、一人ずつ違う方向に怖いですね……」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「褒めてはいないです」
はっきり言われた。
思わず笑みが少し深くなる。
これか。
ルプスレギナが面白いと言っていたのは。
怯えている癖に、必要以上には媚びない。
アインズ様の配下だからといって、何でも肯定するつもりもないらしい。
「では、ザナック様は何がお好きですの?」
「食べ物ですか?」
「ええ。今度は、きちんと一般的な意味で」
「肉料理全般と、甘い物ですね。魚も嫌いではないですけど」
「好き嫌いは?」
「苦いものは……少し」
一瞬だけ視線が果実水へ向いた。
ほんの一瞬。
ソリュシャンは、それ以上追わなかった。
ユリが紅茶を避けるよう言った理由と、何か関係があるのだろう。本人が話したがるのであればともかく、わざわざ傷口へ指を差し込んで広げる必要もない。
少なくとも今は。
代わりに、自分の指先を眺めながら問い掛けた。
「ザナック様は、私が何なのかご存じです?」
「スライム、だとは聞いています」
「まあ」
少し意外だった。
「どなたから?」
「アインズ様から、少しだけ。皆さんがどういう種族なのか気になって、尋ねたことがあるので」
「それを聞いて、私と二人で過ごすことに抵抗はありませんでした?」
ザナックは答えを急がなかった。
一度、ソリュシャンの顔を見る。
次に腕。
また顔。
「……少しは」
正直な人。
「怖いですか?」
「はい」
これも迷わない。
けれど、そこで話は終わらなかった。
「ただ、ソリュシャン様が俺を食べないと言うなら、食べないのでしょうし。それに……」
「それに?」
「少し見てみたいです」
「何を?」
「本当の姿を」
今度はソリュシャンが黙る番だった。
人間は、不思議だ。
こちらの正体を知った者の多くは、そこから距離を取りたがる。あるいは人型の擬態だけを見て、美しい女だと勝手に安心する。
この人間は、怖いと口にした直後に、見たいと言った。
「後悔なさいません?」
「するかもしれません」
「それでも?」
「はい」
真面目な顔だった。
無謀なのか、好奇心が強いのか。
あるいはその両方か。
ソリュシャンは椅子から立ち上がった。
「でしたら、全部というわけには参りませんが」
右腕を前へ出す。
白い指先から。
形が崩れた。
皮膚に見えていたものが融けるように輪郭を失い、その下から、澄んだ水を濃くしたような水色の粘体が現れる。手首から先が次第に人の形ではなくなり、半透明の柔らかな塊となって、ゆったりと波打った。
ザナックの身体が強張る。
逃げはしない。
ただ、目だけが大きく開かれている。
「……これが」
「私の一部ですわ」
水色の表面が小さく震える。
形を変えれば、細く伸ばすことも、広げることもできる。もっと多くを解けば、人間の形など跡形もなく消える。
今この場で、その必要はない。
ザナックはしばらく黙って見ていた。
「気味が悪いですか?」
敢えて聞いた。
どう答えるだろう。
「……不思議です」
「不思議?」
「はい。もっと、なんというか……濁ったものを想像していました」
「ふふ。それは残念ですわね」
「でも、綺麗です」
予想していなかった。
ソリュシャンは目を瞬く。
「綺麗?」
「水みたいで。光が通ると、少し色が変わって見えるので」
ザナックは椅子から腰を浮かせた。
完全に恐怖が消えたわけではないらしく、一歩目は慎重だった。それでも円卓を回り込み、こちらの傍まで来る。
近い。
「もう少し近くで見てもいいですか?」
「どうぞ」
顔を寄せる。
水色の粘体へ映る光を、興味深そうに眺めている。
食べてしまおうと思えば、一瞬だ。
腕を伸ばし、その小さな身体を包み込んで内部へ沈める。呼吸を続けさせたまま、時間を掛けてゆっくりと溶かしていくことだって難しくない。
想像はできる。
けれど。
したいとは、今は思わなかった。
それより。
「触ってみます?」
ザナックが勢いよく顔を上げた。
「えっ」
「興味がおありなのでしょう?」
「いや……ありますけど」
視線が粘体とソリュシャンの顔を往復する。
「溶けません?」
思わず口元が緩んだ。
「ザナック様が?」
「はい」
「そんなことをすれば、私がアインズ様にどのような罰を受けることになるか分かりませんわ」
「そこなんです?」
「あら。それ以外にも理由はありますわよ」
「本当ですか?」
「今のところは」
「今のところ」
随分警戒されている。
当然か。
けれど最後には好奇心が勝ったらしく、ザナックはおそるおそる右手を伸ばした。
「……触りますよ」
「どうぞ」
指先が触れる。
水色の表面が小さく凹んだ。
「うわ」
すぐには引かない。
もう少し押す。
指が僅かに沈み込み、それを粘体が柔らかく包む。
「……冷たい」
「温度もある程度は調節できますわ」
「すごい」
今度は指を二本。
それから手のひら。
完全に慣れたわけではないようで、少し深く沈むたびに肩が小さく揺れる。そのくせ離そうとはしない。
「柔らかいですね」
「そうでしょう?」
「何というか……」
「何でしょう」
ザナックは少し迷った。
「……気持ちいいです」
真剣に。真顔だった。
「まあ」
思わず、粘体の表面が揺れた。
ザナックの手が水色の中で包み込まれている。
捕食するためではない。
拘束するためでもない。
ただ触れているだけ。
それが妙に新鮮だった。
「もっと包みましょうか?」
「いや、それは怖いです」
即答された。
「残念ですわ」
「本気で残念そうな顔をしないでください」
「冗談です」
半分ほどは。
ザナックが手を引き抜く。
指先に付着していた水色の粘体も、糸を引くことなく綺麗に本体へ戻った。
彼は自分の手のひらを確認し、それからもう一度こちらを見る。
「本当に何ともない」
「ですから申し上げたでしょう?」
「頭では分かっていても、実際に触るまでは不安だったんです」
「それでも触ったのですね」
「興味が勝ちました」
やはり変な人間だ。
ソリュシャンは腕を再び人の形へ戻した。
白い肌、細い指。
先ほどまで水色の塊だったとは思えない姿へ戻る。
ザナックはそれも面白そうに眺めていた。
「本当に元通りになるんですね」
「こちらの方がお好みですか?」
「え?」
「人間の女の姿と、先ほどの姿。どちらが美しいと思われます?」
少し意地悪な質問だった。
普通ならば迷うまでもない。
ザナックはソリュシャンの顔を見たあと、首を傾げた。
「比べるものなんですか?」
「と、申しますと?」
「どちらもソリュシャン様でしょう」
その返答にほんの僅か。思考が止まった。
「今の姿は人に似ていて綺麗ですし、さっきの姿も光が透けて綺麗でした。俺には、それ以上のことはよく分かりません」
無自覚なのだろう。
そういうことを言えば、相手がどのように受け取るのか。
おそらく考えていない。
「……そうですか」
「変なこと言いました?」
「いいえ」
むしろ。
少々興味深い。
ソリュシャンは席へ戻り、ザナックにも座るよう促した。
時間は思っていたより経っていたらしい。皿の菓子はいつの間にか随分減っており、その大半はザナックの胃へ消えている。
彼は最後に残っていた小さな菓子へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「ソリュシャン様、本当に食べません?」
「では、一つだけ」
意外そうな顔をされた。
菓子を摘まみ、口へ運ぶ。
甘い。
当然、それだけだ。
人間ほど面白い味ではない。
それでも。
「いかがです?」
「悪くありませんわ」
「でしょう?」
何故か得意そうだ。
自分が作ったわけでもないのに。
「ザナック様」
「はい」
「一つ、申し上げても?」
「何でしょう」
「最初にお会いした時は、少し美味しそうだと思っておりました」
菓子を飲み込もうとしていたザナックが咽せた。
「げほっ……い、今言うんですか!?」
「ですが、今は違いますわ」
「本当ですか?」
非常に疑わしそうな顔。
「ええ」
これは嘘ではない。
美味しそうではある。
柔らかそうな頬も、丸みを帯びた身体も、内部へ取り込めばどのような反応をするのか多少の興味はある。
だけど。
「今は、食べてしまうのは少々勿体ないと思っております」
「…………それ、良くなっています?」
「もちろん」
「俺には違いがよく分からないです」
「大きな違いですわ」
食べれば、それで終わる。
溶かしてしまえば、二度と話さない。
怖がりながら水色の腕へ近付いてくることも、菓子を食べて頬を緩ませることも、「どちらもソリュシャン様でしょう」などという妙なことを言うこともなくなる。
それは。確かに、少し勿体ない。
「では、今の俺は何なんです?」
「そうですわね」
ソリュシャンは頬へ指を当てながら考えた。
獲物。
玩具。
アインズ様の御友人。
そのどれも間違いではなく、どれも今の感覚には少し足りない。
視線の先には、甘い菓子の並んだ皿。
そこで一つ思い付いた。
「大切に取っておきたい、綺麗なお菓子でしょうか」
「まだ食べ物から抜けてない!」