ずっと頭の中にあった章
シズ可愛い
ラッキースケベなザナック
ザナックは、その日もナザリックの廊下を歩いていた。
蘇生されてから幾日か経ち、最初の頃に比べれば、この巨大な地下墳墓の中を一人で歩くことにも少しずつ慣れ始めている。もっとも、慣れたと言っても自室とアインズの私室、それから食堂や庭園など、何度か足を運んだ場所への道順を覚え始めた程度であり、少し横道へ入ればすぐに見知らぬ廊下へ出る。王城だって幼い頃には迷子になるほど広いと思っていたが、ここに比べれば随分と可愛らしいものだったのだろう。
今日も目的地へ向かう途中で、見覚えのない場所へ入り込んでしまっていた。
戻った方がいいだろうか。
そう思いながら廊下を進んでいた時、すぐ近くにある扉の向こうから、微かに声が聞こえた。
「……動かないで」
平坦な声だった。
聞き覚えがある。
庭園でプレアデス達と顔を合わせた際、ほとんど表情を動かさずにこちらを見て腹を揉んでいた小柄な少女。確か、シズと呼ばれていたはずだ。
何をしているのだろう。
盗み聞きするつもりはなかった。ただ、扉が僅かに開いていたこともあり、ザナックは足を止めてしまった。
「……逃げない」
また声がする。
誰かいるらしい。見てはいけない。分かっている。
しかし、相手が何故か逃げようとしているらしいことが妙に気になった。
ほんの少しだけ。
そう自分へ言い訳をしながら、ザナックは半開きの扉から恐る恐る中を覗き込んだ。
最初に目へ入ったのは、想像していたものとはまるで違う光景だった。
可愛らしい。
その一言が最も近い。
壁際には大小様々なぬいぐるみが並べられており、棚の上にも小さな人形や装飾品、色とりどりの小箱が整然と置かれている。ナザリックの荘厳で物々しい空気とはかなり異なる、まるで幼い少女が大切なものだけを集めたような部屋だった。
そして、その中央にある大きなベッドの上。
黒と白の丸い何かが、仰向けに転がっていた。
「……ペンギン?」
思わず呟く。
黄色い飾り羽のようなものが頭から伸びている。
ぬいぐるみにしては妙に生々しい。というより、呼吸しているように見える。
ザナックは少しだけ身体を乗り出した。
その瞬間。
「……ザナック様?」
黒白の塊が動いた。
「えっ」
「ザナック様ではありませんか! これはちょうど良いところへ!」
知っている。
アインズから聞いていた。
「エクレア様?」
「はい! 私です! ナザリック地下大墳墓をいずれ支配する──」
そこまで言ったところで、エクレアの身体が何かに引っ張られるようにベッドの奥へずるりと移動した。
「……助けていただけませんか?」
先ほどまでの威勢はどこへ行ったのか。
かなり疲れている。
ザナックは言葉を失った。
エクレアの身体の周囲には、明らかに抱き締められたらしい跡が残っており、ふわふわとした羽毛がところどころ乱れている。本人はどうにか起き上がろうとしているらしいが、身体の構造上、ベッドの上では上手く身動きが取れないようだった。
「何があったんです?」
「私は誘拐されました」
「誘拐」
「しかも理由が、もふもふしているから、です!」
何だそれは。
ザナックが完全に引いた顔でエクレアを見つめていた、その時だった。
「見つけた」
背後。
すぐ近く。
「うわっ!?」
反射的に振り返る。
そこに少女が立っていた。
いつからいたのか分からない。
身長はザナックより僅かに低い程度。赤みがかった金色の長い髪に、片目を覆う眼帯。残された右目には、普通の人間にはない特徴的な意匠が刻まれている。
少女は表情をほとんど変えず、ザナックを見上げた。
「覗いてた」
「す、すみません! 声が聞こえたので、その……!」
「問題ない」
「そうですか……?」
少女は一歩近付いた。
ザナックは無意識に半歩下がる。
すると少女も一歩進む。
「えっと」
「CZ2128・Δ」
「……はい?」
「私の名前」
少女は自分の胸元へ指を向けた。
「CZ2128・Δ。プレアデスの一人」
それから、少しだけ首を傾ける。
「シズ・デルタと呼ぶ」
お願いではなかった。
呼べ、と言っている。
ザナックはその圧に押されるように頷いた。
「分かりました。俺はザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフです。よろしくお願いします、シズ様」
「知ってる」
「あ、はい」
「入る」
「え?」
シズはザナックの袖を掴んだ。
「いや、俺は通りかかっただけで――」
「入る」
「俺の意見は!?」
ずるずると引かれる。
見た目からは想像できない力だった。
抵抗しようと思えばできたのかもしれないが、相手はアインズの配下であり、自分より遥かに強い存在である。何より、乱暴に扱われているわけではない。結局ザナックは引っ張られるまま部屋へ入り、背後で扉が静かに閉まるのを聞くことになった。
エクレアがベッドの上から同情するような目を向けてきた。
「……ザナック様」
「はい」
「ご武運を」
「何が始まるんです!?」
──────
部屋の中へ入って改めて見渡すと、やはり随分と可愛らしかった。
ぬいぐるみだけでもかなりの数がある。動物らしいものもあれば、ザナックには何を模しているのか分からないものまであり、その一つ一つが綺麗に手入れされている。雑然と集めているのではなく、どれも大切にされているらしい。
その中に、エクレアがいた。
生きたぬいぐるみ扱いなのだろう。
「シズ様は、可愛いものがお好きなんですね」
「好き」
即答だった。
シズはベッドへ腰掛ける。
「エクレアも可愛い」
「私はナザリックの次期支配者を目指す者ですよ!」
「もふもふ」
「聞いてください!」
ザナックは思わず口元を押さえた。
まずい。
笑ってはいけない。
しかし、どう見ても威厳より愛玩性の方が勝っている。
「ザナック様も」
「はい?」
シズはこちらを見る。
頭から足元まで。
ゆっくり。
「……」
「何でしょう」
「こっち」
ベッドの空いている場所を軽く叩く。
ザナックの顔が固まった。
「そこ、ですか?」
「うん」
「いや、その……」
ベッド。
女性の部屋。
女性のベッド。
いくら何でもまずいのではないか。
王族として礼儀作法を教え込まれてきた中で、未婚の女性の寝台へ勝手に上がって良いなどと習った覚えはない。
「俺、ここで大丈夫ですよ」
床を指す。
「駄目」
「椅子は?」
「ない」
確かにない。
「では立っています」
「駄目」
シズが手を伸ばした。
嫌な予感。
次の瞬間には、袖を掴まれて引っ張られていた。
「ま、待ってください!」
「問題ない」
「俺には大問題なんです! 女性のベッドに上がるなんて……!」
「私が許可した」
「そういう問題なのでしょうか!?」
「そういう問題」
言い切られた。
結局、ザナックは顔を赤くしたままベッドの端へ座らされた。
すぐ横にはエクレア。
向こう側には大小のぬいぐるみ。
そして正面にはシズ。
何だ、この状況は。
ザナックは両膝の上に手を揃え、妙に姿勢良く座っていた。
「固い」
「緊張しているんです」
「どうして?」
「どうしてって……」
言えるわけがない。
女性の寝台だからです、などと本人へ説明する方が余計に恥ずかしい。
シズはしばらくザナックを見ていた。
そして、視線が少し下がる。
胸。
さらに下。
腹。
止まった。
嫌な予感がした。
非常に。
「……ザナック様」
「はい」
「お腹、揉んでいい?」
何故。
何故プレアデス様達は俺の腹に執着するのだ。ザナックの脳内にユリとルプスレギナの顔が浮かんだ。
本来ならば、ここで少し考えるべきだった。
しかし、シズがあまりにも真っ直ぐこちらを見ているものだから。
「……はい」
答えてしまった。
一秒。
二秒。
「…………あ」
取り消そうとした時には遅かった。
シズの両手が、すでにザナックの腹へ置かれていた。
「シ、シズ様?」
掌越しの圧力が、ゆっくりとかかる。
むに。
「ひゃっ」
思わず声が出た。
シズの手が止まる。ザナックも止まる。
エクレアも止まる。
「……」
「……」
「……今のは忘れてください」
シズは返事をしなかった。
代わりにもう一度、左右から腹を挟む。
むに。
「んひっ……!」
今度は腰まで少し浮いた。
「やわらかい」
「そ、それはどうも……」
褒められているのだろうか。
シズは真剣だった。
指先で腹の柔らかさを確かめるように押し、離す。押された場所が元に戻ると、今度は少し位置をずらしてまた押す。
むに、むに。
「っ、ふ……!」
耐える。
笑ってはいけない。
しかし。くすぐったい。
痛くはない。
むしろ手加減はきちんとされている。それが余計に駄目だった。強く押されれば耐えられるかもしれないのに、絶妙に柔らかい力で揉まれるものだから、皮膚の下からくすぐったさが込み上げてくる。
「シ、シズ様、その……」
「何?」
「もう十分、触ったのでは……?」
「まだ」
即答。
「まだ!?」
シズの両手が下腹ではなく、今度は両脇に近い部分へ移動した。
嫌な場所。本能的に分かった。
「待っ──」
むにっ。
「ひゃあっ!」
肩が跳ねる。
慌てて口元を押さえたが遅い。
シズは僅かに首を傾けた。
「声、変わった」
「そこ、くすぐったいので……!」
「そう」
理解してくれた。
よかった。そう思った。
シズの手がもう一度、まったく同じ場所へ置かれた。
「何でです!?」
「確認」
「確認しなくていいです!」
むにむに。
「んっ、ひゃ……っ、シズ様!」
身体を捩る。
逃げるほどではない。
しかし自然と後ろへ下がってしまう。
その分だけシズも前へ進む。
ベッドの柔らかな布地の上で、ザナックはじりじりと後退していった。
横ではエクレアが静かに顔を逸らしている。
「エクレア様、助けてください!」
「申し訳ありません、ザナック様。私自身が救助を待っている立場ですので」
「そんな!」
シズは無表情のまま、両手を動かし続けている。
しかし楽しんでいないわけではないらしい。
むしろ、ものすごく集中している。
柔らかい場所を探すように指先が沈み、手のひら全体で包むように揉み、それから左右へ軽く揺らす。
「う、うひゃっ……!」
「いい」
「何がです!?」
「触り心地」
「ユリ様と同じこと言ってる!」
「ユリ姉も触った?」
「はい! ルプスレギナ様も!」
シズが止まった。
ようやく解放される。
そう思ったザナックの希望は、次の言葉で消えた。
「ずるい」
「何が!?」
「二人とも先」
「順番の問題なんですか!?」
その瞬間から、何故か揉み方が少しだけ本格的になった。
両手で腹を挟み込まれ、左右から柔らかく押される。
「んぅっ……!」
離される。
安心する間もなく、今度は下から持ち上げるように揉まれた。
「ふぁっ!?」
「……」
「シ、シズ様?」
返事はない。
シズはザナックの腹を見ていた。
完全に夢中だった。
「シズ様、あの、そろそろ……!」
「もう少し」
「さっきからかなり経ってません!?」
「まだ大丈夫」
「俺の大丈夫を俺より先に決めないでください!」
言いながらも笑いが混ざる。
くすぐったさに身体が耐えられなくなってきた。
最初は姿勢を保とうとしていたのに、今では片手をベッドについて身体を支え、もう片方の手で口を押さえている。それでも声は指の隙間から漏れてしまう。
「んっ……ふ、ふふっ……ひゃっ!」
「かわいい」
「かわいくないです!」
「かわいい」
「俺は成人した男ですよ!」
「関係ない」
むに。
「ひぅっ!」
「ほら」
「何がほらなんですか!」
珍しくザナックの声が大きくなった。
シズの指が、今度は腹の中央へ軽く沈む。
押して。
離す。
また押す。
規則的なのが逆に駄目だった。
「ふ……っ、ん、あはっ……!」
ついに笑い声が漏れた。
ザナックは慌てて顔を背けた。
「す、すみません、笑ってるわけでは……!」
「知ってる」
「なら止めてください!」
「嫌」
「嫌!?」
シズにしては珍しく、意思表示がはっきりしていた。
そしてまた揉む。
ザナックの腹は服越しでも分かるほど柔らかく、押せば沈み、離せば戻る。その感触が気に入ったらしい。両手で包むように触れ、たまに指先で軽く押し、それからまた掌全体で揉む。
エクレアが遠い目をしていた。
「ああ……かつての私も、あのように……」
「エクレア様! 過去を振り返ってないで助けてください!」
「無理です!」
「即答しないでください!」
その間にもシズの手は止まらない。
「シズ様、本当に、そろそろ……っ!」
「あと少し」
「その言葉、信用できなくなってきました!」
「大丈夫」
「だから何がですか!」
揉まれる。
笑う。
逃げようとして、ぬいぐるみに背中がぶつかる。
これ以上後ろへ行けない。
ザナックはついにベッドの上で半分寝転がるような姿勢になってしまった。
「ま、待ってください、この体勢はまず──」
シズが横へ移動した。
逃げ道を塞ぐように座る。
「逃げない」
「逃げませんから! というか逃げられません!」
「ならいい」
「良くないです!」
むにむに。
「んぅっ、あは……っ!」
涙が浮かんだ。
痛いわけではない。ひたすらくすぐったい。
それに、長い。本当に長い。
最初はどこかで終わると思っていた。シズも少し触れば満足するだろうと考えていた。
甘かった。
可愛いものを抱き締めたら権限を持つ者に止められるまで離さない少女である。
ザナックの腹も例外ではなかった。
「シ、シズ様ぁ……!」
声が情けなく裏返る。
シズの手が一瞬止まった。
「何?」
「もう……ほんとに、無理です……!」
目元には涙。
頬は赤い。
髪も少し乱れている。
いつの間にか力が抜けきっており、両腕で身体を支えることすら諦め、ぬいぐるみに凭れていた。
シズは数秒間じっと見つめた。
それからようやく手を離した。
「分かった」
解放。
ザナックはその場に沈んだ。
「…………」
「ザナック様?」
「……生きてます……」
「よかった」
「本当にそう思ってます?」
「うん」
疑わしい。
腹を両手で庇いながら、ザナックはゆっくり起き上がった。
揉まれたところが痛むわけではない。ただ、あまりにも長くくすぐられ続けたせいで全身から力が抜けている。
隣を見る。
エクレアと目が合った。
何も言わない。
しかし二人の間には、不思議な連帯感が生まれていた。
「……エクレア様」
「……はい」
「大変ですね」
「分かっていただけましたか」
「はい」
強く頷いた。
その横で、シズだけが満足そうに──とは言っても表情自体はほとんど変わらないまま──ザナックを見ていた。
「やわらかかった」
「……それは何よりです」
「また揉む」
「次はもう少し短めでお願いします……」
拒否ではなかった。
シズの右目が、ほんの僅かに細くなったように見えた。
しばらく休むと、ようやく呼吸も落ち着いてきた。
ザナックはベッドの縁へ座り直し、乱れた服を整えている。その横には相変わらずエクレアが転がっており、シズは棚の前で何かを探していた。
「それにしても……」
ザナックは部屋を見渡した。
「シズ様は、本当に可愛いものがお好きなんですね」
「うん」
「だからエクレア様も?」
「うん」
「私は執事助手です!」
「もふもふ」
「それだけではありません!」
ザナックはまた笑いそうになり、必死に堪えた。
するとシズが戻ってくる。
手には小さな紙片のようなもの。
何だろう。
そう思っているうちに、シズが目の前まで近付いた。
「シズ様?」
「動かないで」
「はい?」
ぺた。
右頬に何かが貼られた。
「……?」
ザナックは瞬きをした。
触ろうとする。
「触らない」
止められた。
「何を貼ったんです?」
シズが小さな鏡を差し出す。
そこに映る自分の頬。
そして。
「……?」
「一円」
銀貨? 意味が分からない。
「これは……値札ですか?」
「違う」
「俺、一円……なんですか?」
「違う」
「良かった……? いや、何も良くないですけど」
シズは小さく首を振った。
「気に入った」
ザナックの動きが止まった。
「……俺を?」
「うん」
あまりにもあっさり言われたため、すぐには意味を理解できなかった。
シズは続ける。
「気に入った」
「……ありがとうございます」
何と返せば正解なのか分からない。
それでも少し嬉しい。
照れ臭そうに頬を掻こうとして、またシールの存在を思い出して手を止める。
「これは、このまま貼っておくんですか?」
「うん」
「えぇ……それは少し困ります。顔はちょっと」
シズは棚から小さな容器を取り出した。
先端には噴射口のようなものが付いている。
「普通には剥がれにくい」
「そんな強力なものを顔に貼ったんですか!?」
「大丈夫」
「最近皆さんの"大丈夫"が信用できなくなってきました」
シズは答えず、ザナックの頬へ顔を近付ける。
「目、閉じる」
「はい」
言われた通りにする。
しゅっ、と小さな音。
冷たい霧が頬へ掛かった。
そのあと、指先がシールの端を慎重に摘まむ。
ゆっくり。
皮膚を引っ張らないように。
ザナックが思っていたよりもずっと丁寧だった。
数秒後。
「取れた」
目を開く。
シズの指先に、一円シールがある。
「それ、どうするんですか?」
シズはシールを眺めた。
先ほどまでザナックの頬に貼られていたもの。
そして平坦な声で、当然のことのように言った。
「大事にする。目立つところに貼ること」
ザナックはぽかんとした。だけど。
「はい、大事にします。でも、何故目立つところに貼らなければならないのですか?」
「ザナック様は私の特別な弟」
「弟」
いつの間にか親族になっていた。
「あ……ありがとうございます」
ようやくそう答える。
シズは一度だけ頷いた。
それからベッドを見る。
ぬいぐるみ。エクレア。
そしてザナック。
「また来る?」
「……誘拐されなければ」
「分かった」
「本当に分かりました?」
「次は普通に呼ぶ」
少し安心した。
「そして揉む」
「そこは継続なんですか」
「うん」
エクレアが深く項垂れる。
この部屋にあるものは、どれも彼女が気に入ったものだった。
ぬいぐるみも。
小物も。
もふもふしたペンギンも。
そして今日、その中に新しいものが増えた。