ラッキースケベ続きなザナック。
幸せになれよ
「ザナック様ぁ。今日はぁ、ワタシのお友達を紹介しますねぇ」
そう言われた時、ザナックは何の疑いもなく頷いた。
プレアデスとの交流も、これで最後の一人になる。最初に庭園で六人に囲まれた時には、この世の終わりかと思うほど緊張していたものだが、ユリと盤上遊戯をし、ルプスレギナの嘘つき遊びに付き合い、ナーベラルの魔法を見せてもらい、ソリュシャンの身体へ恐る恐る触れ、シズには何故か腹を延々と揉まれた。
こうして思い返してみれば、随分と濃い数日だった。
その最後に自分を待っていたのが、エントマ・ヴァシリッサ・ゼータ。
和装を思わせる意匠のメイド服を纏い、赤紫色の髪を独特の形に纏めた、小柄な少女の姿をしている。もっとも、アインズから簡単な説明を聞いたため、目の前に見えている顔や髪の全てが普通の人間と同じ構造ではないことくらいは知っていた。
それでも声だけを聞けば、少し眠そうな年下の少女と話しているようにしか思えない。
「お友達、ですか?」
「うん。とっても礼儀正しくてぇ、優しい方ですよぉ」
「それなら、ぜひご挨拶したいです」
「よかったぁ」
エントマは嬉しそうに両手を合わせた。
本当に喜んでいるらしい。
その様子を見たザナックも、少しだけ安心した。
「どういう方なんです?」
「偉い方ですよぉ。公爵ですぅ」
「公爵」
思わず姿勢を正した。
元王族として生きてきた人間にとって、公爵という言葉は反射的に身構える程度には馴染み深い。ナザリックにおける爵位が王国のそれと同じ意味を持つとは思わないが、少なくとも粗雑に扱ってよい相手ではないだろう。
「それは失礼のないようにしないと……」
「大丈夫ですよぉ。恐怖公はお話が好きだからぁ」
「恐怖公」
少し不穏な名前だった。
だがデミウルゴスという名の悪魔が礼儀正しかったり、死の支配者であるアインズが想像していた以上に優しかったりする場所である。名前だけで判断するのは良くない。
ザナックはそう自分へ言い聞かせた。
「あとぉ、ご飯もいっぱいありますぅ」
「ああ、お茶か何かを用意してくださっているんですか?」
「んー……似たようなものぉ?」
「似たようなもの?」
「着きましたぁ」
聞き返す暇はなかった。
目の前には、大きな扉。
エントマは慣れた様子でそれを開く。
「恐怖公ぉ。遊びに来ましたよぉ」
奥から、かさり、と小さな音がした。
ザナックは扉の向こうへ目を向けた。
初めに見えたものは、小さかった。
床の中央に立つ、三十センチほどの黒い異形。直立した身体へ、豪奢な赤いマントを羽織り、頭には小さな金色の冠。前肢の一つには、白い宝石の付いた杖まで握られている。
その姿だけを見れば確かに恐ろしい。
恐ろしいのだが。
何故か、とても身なりが良い。
「おやおや、これはエントマ殿。今日はまた随分と珍しいお客様をお連れですな」
声は想像していたより遥かに落ち着いていた。
恐怖公は杖を持ったまま、器用に身体を傾ける。
「お初にお目にかかります。吾輩、この《黒棺》を預かる恐怖公と申す者。アインズ様の御友人たるザナック殿をお迎えできるとは、まこと光栄でございますぞ」
「あ……これはご丁寧に。ザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフです。恐怖公様、本日は突然お邪魔して申し訳ありません」
「いやいや。どうぞお気遣いなく。吾輩、人と談話する機会にはなかなか恵まれませんゆえ、むしろ歓迎しておりますぞ」
いい人だ。
ザナックは素直にそう思った。
見た目についてはまだ少々慣れが必要そうだが、少なくとも話している限りでは、下手な王国貴族よりよほど礼儀正しい。
エントマが言っていた通りだった。
「それでですねぇ、ザナック様ぁ」
「はい」
「恐怖公の子供達もぉ、いっぱいいますよぉ」
「子供達?」
ザナックは何気なく足元へ目を落とした。
床が黒い。
先ほどから薄暗い部屋だとは思っていた。
だが。
床そのものが黒いのではない。
黒いものが。
幾百。
幾千。
いや、数えるという発想そのものが馬鹿らしくなるほど。
蠢いている。
「…………」
ザナックはゆっくり顔を上げた。
壁。天井。部屋の隅。
視線を戻す。
床。
「ザナック様ぁ?」
エントマの可愛らしい声が聞こえた。
遠い。
とても遠くから聞こえる気がした。
恐怖公が心配そうにこちらを見上げている。
「おや。ザナック殿、どうかなされましたかな?」
「あの……」
声が震えた。
「これ、全部……」
「吾輩の可愛い眷属達でございます」
恐怖公は誇らしげだった。
悪意はない。
一切ない。
分かっている。
理解している。
だから耐えろ。
そう自分へ命じた。
黒い絨毯の一部が、一斉にざわりと動いた。
「…………すみません」
それだけは言えた。
ザナックの視界は暗くなった。
──────
柔らかい。
最初に感じたのは、それだった。
後頭部に何かが触れている。
枕だろうか。
それにしては暖かい。
「……ん」
目を開いた。
すぐ近くに、少女の顔。
赤い瞳。
妙に整った、可愛らしい顔。
「起きたぁ?」
「…………エントマ、様?」
「うん」
何故。
目を動かす。
天井は先ほどの黒い部屋ではなかった。明るい照明の灯る、小さな休憩室のような場所である。
それからようやく、自分の頭が何に乗っているのか気付いた。
「…………」
エントマの膝だった。
「うわっ!?」
勢いよく起きようとする。
しかし、額へ小さな手を添えられ、押し戻された。
「まだ駄目ぇ」
「いや、ですが、その、俺……!」
「倒れたからぁ。もうちょっと寝ててくださいねぇ」
「でも膝……!」
「膝ですよぉ」
「それは分かっています!」
ザナックの顔が一気に熱くなる。
女性の膝。
先日はシズのベッドへ上げられ、今日はエントマの膝へ頭を乗せている。
ナザリックへ来てから、自分の人生にそれまでほとんど存在しなかった種類の距離感が、急激に押し寄せている気がする。
しかしエントマは気にした様子もなく、ザナックの髪へそっと指を通した。
「……ごめんなさぁい」
その声がいつもより小さく聞こえた。
ザナックは動きを止めた。
「エントマ様?」
「ワタシ、知らなかったんですぅ。ザナック様があそこ駄目だってぇ」
「いや……」
「恐怖公、優しいしぃ。ワタシ、よく遊びに行くしぃ。だからザナック様も楽しいと思ったんですけどぉ」
髪を撫でていた指が止まった。
「倒れちゃったぁ」
本当に落ち込んでいる。
声だけでも分かる。
ザナックは少し困って、それから膝の上に寝たまま首を僅かに動かした。
「エントマ様が謝る必要はないですよ」
「でもぉ」
「怖がらせようとして連れていったわけではないのでしょう?」
「うん」
「なら、大丈夫です。俺があれほど苦手だということは、俺自身も初めて知りましたから」
「でも、ばたーんってなりましたよぉ」
「再現しなくていいです」
少し笑った。
エントマは黙る。
その顔は仮面状の蟲によるものだと聞いているため、人間と同じ表情の変化を読み取れるのか、ザナックにはまだ分からない。
それでも。
「もう怒ってないですかぁ?」
「最初から怒ってませんよ」
「ほんとぉ?」
「本当です」
エントマは数秒その答えを確かめるように黙ったあと、再びザナックの髪を撫で始めた。
「よかったぁ」
声が少し明るくなった。
その変化にザナックも安心する。
「ところで……恐怖公様は?」
「いるよぉ」
エントマが扉を開けた部屋の反対側を指差した。
かなり遠い位置。
壁際。
そこに恐怖公がいた。
赤いマントを纏い、杖を抱えながら、こちらを見ている。
距離がある。
ものすごくある。
「何故あんなに遠くに?」
「ワタシがいるからぁ」
「……?」
その言葉の意味を理解するより先に、恐怖公が声を上げた。
「ザナック殿! 意識を取り戻されたようで何よりですな!」
「ご心配をお掛けしました!」
「いやいや、こちらこそ申し訳ないことをいたしましたぞ! 吾輩、つい眷属達を紹介できることが嬉しくなりましてな。初めてお越しになる方への配慮を欠いておりました」
「そんな。恐怖公様が謝ることではありません」
ザナックはようやくエントマの膝から身体を起こした。
まだ少しふらつく。
すぐに背中をエントマが支えてくれる。
「俺、その……恐怖公様ご本人を見て倒れたわけではありませんから」
恐怖公が僅かに首を傾けた。
「ほう?」
「数が」
言いにくい。
「……ちょっと、多すぎて」
沈黙。
それから恐怖公が杖を床へ軽く置いた。
「なるほど」
怒った様子はない。
むしろ理解したようだった。
「それは無理もありませんな。吾輩自身、この姿である以上、他者からどう見えるかについては多少理解しているつもりではございましたが……眷属達が一堂に会した光景ともなれば、なおさらでしょう」
「申し訳ありません」
「何故ザナック殿がお謝りになるのですかな?」
恐怖公は穏やかに笑ったように見えた。
「怖いものは怖い。それで吾輩が傷付くようなことはございませんぞ」
ザナックは少し目を丸くした。
やはり。
話している限り、この人物はとても感じが良い。
「でしたら、その……もしよろしければ」
「何でしょうな?」
「次は、もう少し眷属の皆様が少ない場所で、お話ししませんか?」
恐怖公が止まった。
「……吾輩と?」
「はい。恐怖公様ご本人とは、まだほとんどお話しできていませんので」
数秒。
恐怖公は何も言わなかった。
やがて、赤いマントの端が僅かに揺れる。
「これはこれは」
声が明らかに嬉しそうだった。
「是非とも。吾輩、談話を好む身でしてな。ザナック殿さえよろしければ、いつでも喜んでお相手いたしましょうぞ」
「ありがとうございます」
「では今度、ショットバーなどいかがですかな。静かで良い場所でございます」
「ぜひ」
話が纏まった。
エントマがザナックの横から顔を覗き込む。
「よかったねぇ、恐怖公ぉ」
「うむ。感謝いたしますぞ、エントマ殿」
そして恐怖公は一拍置いた。
「それはそれとして、吾輩の眷属をおやつにするのは控えていただけるとありがたいのですがな」
「あ」
エントマの手が止まった。
「……おやつ?」
ザナックが振り向く。
エントマは何も言わない。
「エントマ様?」
「……」
「まさか、さっきの『ご飯がいっぱいある』って」
「美味しいですよぉ」
「やっぱり!」
エントマは袖の中へ手を入れた。
嫌な予感。
取り出されたのは。
小さな黒い蟲。
「どうぞぉ」
ザナックは一秒で答えた。
「お気持ちだけいただきます」
「香ばしいよぉ?」
「お気持ちだけいただきます」
「生でも美味しいよぉ」
「情報を増やさないでください!
恐怖公が遠くから声を上げた。
「エントマ殿! それはもしや吾輩の眷属ではありませんかな!?」
エントマは手の中の蟲を見る。
恐怖公を見る。
また蟲を見る。
「一匹だけぇ」
「一匹なら良いという問題ではございませんぞ!」
「いっぱいいますよぉ?」
「数の問題でもございません!」
ザナックは笑っていいのか分からず、口元を押さえた。
怖かった。
確かに怖かった。
あの部屋へすぐ戻れと言われれば、今でも全力で断るだろう。
しかし今こうして見ると。
巨大な虫の姿をした紳士が、自分の眷属を食べようとする小柄な少女を必死に説教している。
あまりにも妙な光景だった。
「……ふっ」
漏れた。
エントマが振り返る。
「笑ったぁ」
「すみません」
「楽しいですかぁ?」
少し考える。
「……はい。今は」
エントマの声が弾んだ。
「よかったぁ」
恐怖公は眷属を守るため、一度《黒棺》へ戻ることになった。
去り際にも何度も頭を下げ、次は必ず別の場所で茶でも飲もうと約束してくれた。
そうして休憩室には、ザナックとエントマだけが残った。
「エントマ様」
「なぁに?」
「恐怖公様、良い方ですね」
「うん。優しいよぉ」
「……眷属を食べなければ、もっと仲良くできるのでは?」
「それはそれぇ、これはこれぇ」
「そうですか……」
エントマの中では別問題らしい。
ザナックはソファへ深く腰掛け直した。
ふと、隣から視線を感じる。
エントマがこちらを見ている。
「何でしょう?」
「ザナック様ぁ、蟲、嫌い?」
「あ」
質問の意味を理解した。
答えを間違えてはいけないような気がして、少し考える。
「……大量にいるのは、かなり苦手だと思います」
「一匹ならぁ?」
「種類によりますね」
「蜘蛛はぁ?」
「急に出てきたら驚くと思います」
エントマが黙った。
ザナックは慌てて続ける。
「でも、エントマ様が嫌だという意味ではありませんよ」
「ワタシも蟲ですよぉ?」
「そうですね」
「怖くない?」
ザナックはエントマを見た。
赤紫の髪。
動かない赤い瞳。
可愛らしい少女に見える顔。
その下に、本来の彼女がいる。
最初に会った時は、それを聞けば確かに怖いと思ったかもしれない。
今は。
「少し不思議だとは思いますけど、エントマ様はエントマ様でしょう?」
エントマは何も言わなかった。
「大量の蟲を見て倒れることと、エントマ様を嫌うことは別です」
「……別?」
「はい」
ザナックは説明の仕方を探した。
「俺は犬が嫌いではありません。でも、百匹くらいに一斉に囲まれたら怖いと思います」
「ワタシ、犬と同じぃ?」
「違います! 例えです!」
間違えた。
絶対に例えを間違えた。
しかしエントマは怒るどころか、くすくすと笑い出した。
「変なのぉ」
「俺もそう思います……」
「でもぉ」
エントマはソファから少し身体を寄せた。
「嬉しいよぉ」
その声はいつもの間延びしたものだった。
けれど。
少しだけ柔らかい。
ザナックもつられて笑った。
「それなら良かったです」
「あ。そうだぁ」
エントマが突然立ち上がった。
袖の中を探り始める。
ザナックの身体が強張る。
「今度は何を出すんです?」
「食べ物じゃないよぉ」
「良かった……」
何やら細い白い糸のようなものを取り出した。
エントマはそれを指先で器用に扱い始める。
絡めて。結んで。小さな輪を作り。
さらに何度か形を整える。
ザナックは興味深そうに覗き込んだ。
「何を作っているんです?」
「待っててぇ」
数分。
出来上がったものが、ザナックの掌へ乗せられた。
小さな蜘蛛。
白い糸だけで作られた、手のひらに収まるほどの可愛いらしい蜘蛛型の飾りだった。
「……蜘蛛?」
「うん。お守りぃ」
「何から守ってくれるんです?」
エントマは少し考える。
「蟲?」
「蟲から!?」
「蟲には蟲ぃ」
「そういうものなんですか?」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
でも。
可愛い。
よく見れば細かな部分まで丁寧に作られている。
ザナックはそれを壊さないよう慎重に指先で持ち上げた。
「ありがとうございます。大切にします」
「ほんとぉ?」
「はい」
「よかったぁ」
エントマは満足そうだった。
少しの間、その白い蜘蛛を眺めていたザナックは、ふと気付いた。
「そういえば」
「んー?」
「俺、さっきまでエントマ様の膝で寝てましたよね」
「寝てたよぉ」
今さらになって、猛烈に恥ずかしくなってきた。
顔が熱い。
「……すみませんでした」
「どうしてぇ?」
「その、重くありませんでした?」
エントマは首を傾げる。
「全然軽いよぉ」
「そうですか」
「また倒れたら、してあげるねぇ」
「できればもう倒れたくないです!」
「あははぁ」
可愛らしい笑い声。
その声も、厳密にはエントマ自身の生まれ持った声ではないという。
顔も。髪も。声も。
人間から見れば、普通ではないものばかり。
それでも今のザナックにとっては、それらを全部ひっくるめてエントマだった。
「次はぁ」
嫌な予感。
「普通の場所に行こうねぇ」
「……本当に?」
「うん」
安心した。
「恐怖公も一緒にぃ」
「それなら、ぜひ」
「お菓子も持っていくぅ」
「普通のお菓子ですよね?」
エントマが止まった。
「…………」
「エントマ様?」
「考えとくぅ」
「考えるだけですか……」
エントマの楽しそうな笑い声が、休憩室に響いた。
ザナックの手の中には、小さな白い蜘蛛。
ほんの少し前までなら、蜘蛛を模したものを贈られて喜ぶ日が来るとは想像もしなかっただろう。
それでも不思議と嫌ではない。
むしろ、部屋へ戻ったら、なくさないようどこへ置こうか。
そんなことを考えている自分に気付き、ザナックは白い蜘蛛をそっと掌の中へ包んだ。
そしてその隣では。
「今度こそ食べてくれるかなぁ」
「……食べませんよ」
「まだ何も言ってないよぉ?」
「分かります」
また、エントマが笑った。