アインズ様に蘇生されてから約一ヶ月。ここでの生活は、当初勝手に想定していたものよりもだいぶ好待遇だ。三食とおやつ、寝床付き。しかも街に出かけられて、アインズ様から小遣いを貰ったりできるので私物も買い足せる。各階層守護者様達も、プレアデス様たちも良くしてくれているし、仕事だって一日にちょっとした書類整理をするか、ナザリック内の一部清掃、偶に外交補佐だけだ。というか…それくらいしかやらせて貰えない。暇になったその後は、デミウルゴス様とラナーが政策会議をしているのを盗み聞きしたり、ナザリック内を探索したり、書庫で知識を深めたり、最近はメイドさんに止められるが……ダイエットがてら庭園で花を愛でたり………。毎日、その繰り返し。書庫の本だってまだ全て読み終えたわけではない。ナザリック内にはまだまだ未知の領域がある。そして、俺の脂肪は一向に減る気配が無い。
それでも、何か、何かが足りない。
それは、新鮮味というか、刺激というか。
───そんなことを考えながら俯き、深紅の絨毯をぼーっと見つめて歩いていた。その時。ぽよん。と音がしそうなくらい、柔らかい何かに頭が当たり、跳ね返る。驚いて、顔を上げると、また柔らかい何かぽにょっ、と。それは温かくて、すべすべしていて、ものすごく良い匂い。フローラルな。
「やっと見つけたわ…。」
と、女性の冷たい声がした。
「ん………?」
息苦しくなってきて、急いで離れると、視界の中でふわりと白いそれが揺れた。もしや…と思い、また顔を上げると──そこには、守護者統括のアルベド様が居た。そう、その柔らかいものはアルベド様の豊満な胸元だった。彼女は艶やかな黒髪を揺らし、ふふん、と満足気に微笑むと、俺の腕をグイッと引っ張る。俺はこの丸い体型のせいでだいぶ重いのだが、彼女は左腕一本で俺の体を引きずっていく。
引きずられた先は、応接間。壁に追いやられて、ドンッと彼女の腕が頭の横につく。細長い指が頬に這って、顔を上げさせられる。
「っあ……」
声を出そうとすれば、口を塞がれる。
ギラリと光る金色の瞳に鋭く睨まれる。
(あぁ、完全に平和ボケしていた。)
話し合いで解決出来ることだったなら部屋の鍵も閉められていないし、壁に押し付けられてもいないだろう。ナザリックでは比較的温厚で、いつも絶えず微笑を浮かべているアルベド様が怒りを顕にしている。
(俺は一度死んだ人間…時期が遅れて来ただけだと考えれば…)
二度目の死が、頭を過ぎった───。
「人間風情が」
というつぶやき。俺の全身が危険信号を発している。
「うぐ…」
俺の口を塞ぐ手の力が強まった。アルベド様は荒い息を整えて口を開く。
「貴方、最近図々しいわよ……。アインズ様のご厚意に甘えて、拾われたことを忘れてるんじゃないの」
正論が刺さる。確かに俺は、最近甘え過ぎていた。元王族だからこそ、世話になってる恩は返していかなければならない。
「大した仕事もしてないのに、些細なことでアインズ様のお褒めの言葉を頂いたり、アインズ様と一緒に過ごす時間も多いし……! 貴方、もっとこの環境に感謝すべきよ」
すると、口を塞ぐ手が退かされる。
「申し訳ございません……アルベド様。仰る通りです……俺は、魔導国の恩に報いねばならない立場……にもかかわらず……」
消え入りそうな声でそう言うと、アルベド様の表情がほんの僅かに和らいだ。けれど、それでも黄金の瞳は鋭く、俺の目をじっと射抜くように見据えている。
「……わかっているのなら、いいの。でもね、ザナック」
名前を呼ばれた瞬間、ぞくりと背筋を撫でるような寒気が走った。何故か、彼女の声音が甘やかしにも似た色を帯びる。
「貴方が"無自覚"だから困るのよ。アインズ様は、最近貴方のことばかり気にされている。いつも、貴方の名を口にする。誰と話していても、会議でも──ふふ、信じられないでしょう?」
「……へ?」
思わず間の抜けた声が漏れた。
アインズ様が、俺の……?
「まったく……何故そんな風に可愛がられているのか、本人が一番分かっていないんだから。あの方は……貴方の話になると途端に表情が……ああ、骸骨だから表情というのは変だけれど……声の調子が変わるのよ」
ぎゅ、と頬をつままれる。
「自覚して?」
彼女の指が顎を掴み、強引に顔を上向かされる。
「アインズ様の"特別"になっているのは……貴方だけ。……私でもない。デミウルゴスでも、シャルティアでも、プレアデスでも……誰でもない。『貴方』よ」
静かに、吐息混じりの声が耳元に落ちる。
「それが、どれほど僭越なことか、わかってる……?」
その瞬間、アルベド様の笑みが濃くなった。
「……ふふ。でも、だからと言って殺してしまうのは簡単すぎて、つまらないわ。アインズ様が"壊れる"姿を見るのは、それはそれで素敵だけれど……やはり愛する方が悲しむ姿は見たくないわ」
ぞわり、と背中を冷たいものが這い回るような感覚。
「だから、警告だけ。忘れないで。あなたが"特別"なのは、アインズ様がそう決めたから。勘違いして、図に乗れば……その時は、本当にその首を捻り潰すわ」
喉が、鳴った。生唾を飲み込む音さえ耳に響くほど、恐怖に支配されている。
「……わ、かりました。以後、弁えます……」
ようやく言葉を搾り出すと、アルベド様の目が細くなり、満足そうに微笑んだ。
「いい子」
──そう言って、彼女の手がゆるりと頬から離れる。
「……あの、アルベド様」
去りかけた彼女の背に、思わず声をかけてしまった。
「何?」
振り返ったその瞳は、さっきまでの刺すような鋭さを少しだけ潜めている。俺はふと、前から気になっていたことを思い出した。──この機会を逃せば、聞くこともできないだろう。
「その……アルベド様は、夫婦……なんですよね? アインズ様と」
その瞬間、アルベド様の肩がピクリと動いた。
「……は?」
目を見開く。さっきまでの冷徹な雰囲気が消え、明らかに虚を突かれた顔だった。
「い、いえ、その…並んで居られるとまるで夫婦で……。でも、いつも側にいらっしゃるし、"愛している"と……仰ってましたし……」
慌てて補足する俺の言葉を遮るように、アルベド様は口元に手を当て、ぼそりと呟いた。
「……ふ、夫婦……そうね……まあ、そんな感じというか……そう思われても……当然……よね?」
頬が、ほんのりと赤く染まっていくのが分かった。アルベド様ほどの美貌の持ち主が、まるで年頃の乙女のように目を泳がせている。
「そ、その……正式な儀式は、まだだけど……でも……心は、完全に……伴侶だと、私は……思っている、から……!」
顔を逸らしながら、か細く、それでもどこか誇らしげに言葉を続けた。
(あれ? なんだこの……胸の奥のつっかえは)
別に当然だ。いや、むしろお似合いだ。誰もがそう思っているはずだ。お似合いだからこそ、俺も質問した。──けれど。
(……何でだ……苦しい? いや、違う……変な感じだ……)
胸の真ん中が、じくじくと鈍く疼く。
「何よ……? 変な顔して。そんなに意外だったの?」
少しだけ戻ってきた鋭さと共に、じっと俺の目を見るアルベド様。
「あ、いえ……そういうわけでは……」
言葉がうまく出てこない。喉が苦しくって、つっかえてる。胸の奥がモヤモヤとして……気持ち悪い。
なんだ、この感情。────苛立ち? 焦り? まさか……。いやいや、馬鹿な。俺は下等生物である人間で、彼女は至高の方々に仕える存在。その主であるアインズ様との関係を、どうこう思う筋合いなど……。それでも。それでも、心の中に浮かぶこの苦さは何だ。ふと視線を落とすと、自分の拳が無意識に強く握りしめられていた。
「うふふっ……貴方意外と話の分かる人間なのね……!」
「えぇ……、俺は応援していますよ。」
「じゃあ、特別に私の派閥に入れてあげるわねっ」
アルベド様が目を細め、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。光栄です。」
何だか言葉に感情が乗らなかった。魂が、抜けたような。
「ま、良いわ。今日はこのくらいにしておいてあげる。じゃあね、ザナック」
翻る黒髪。扉の向こうへと消えていくその姿を見送る間も、胸のざらりとした違和感は、消えることなく残り続けていた。
(……なんなんだ、これ)
目を伏せ、そっと胸元に手を当てる。
重い。何かが、心の中に沈んだまま。