アインズ視点。
……俺は、今、
ザナックに依存しているのかもしれない。ザナックと過ごす時間は、心地良すぎた。言葉を交わすたびに、柔らかな熱が胸に宿り、名前を呼べば、誠実な瞳がこちらを向いてくれる。信頼。献身。無垢な好意。あたたかさ。それらすべてが、俺を……甘やかす。
(……これで、いいのか?)
そんな感情は、
至高の四十一人と呼ばれた、かつての仲間への裏切りではないか。この世界で彼らを探すことを、諦めてなどいない。今もなお、どこかにいる可能性に縋っている。
けれど、同時に──
(ザナックを、手放すなんて……できるわけがない)
失うことが怖い。
もう二度と、あのぬくもりを失いたくないと、
心が勝手にそう叫んでいる。まるで、俺が「恋をしている」かのように。
(……恋?)
そう思った瞬間、心の奥で何かが軋んだ。
俺が? この俺が? アンデッドのくせに、俺が、恋を?
不快感にも似た自己嫌悪が、背骨を這い上がってくる。滑稽だ。馬鹿げている。至高の存在でなければならないはずの自分が、一人の、小さな……だけど愛おしい人間に縋っている。
(……やめろ)
そう思った瞬間だった。
「っ……あ──」
視界が、ふいに歪んだ。
頭の中で、何かが崩れる音がする。
そして。気づけば、俺の手の中には、あの日と、まったく同じ皮袋。重みと、感触と、強く香る鉄の匂い。
「……!」
"また"だ。このところ見る、幻覚のようなもの。皮袋を開けるまでもなかった。知っていた。理解していた。
これが──ザナックの首だと。
「……魔導王陛下に……これを……」
そう言って差し出してきた、王国の貴族達の顔が脳裏に浮かぶ。命乞いの震えた声。血で濡れた手。アインズ・ウール・ゴウンという存在に、媚びるような目。これは、夢ではない。
過去に、確かに起きた、現実の記憶。
随分前の……戦場で。
王国軍の天幕の中へ向かう俺の姿が、意識の中で浮かぶ。幕の中、倒れていた、赤い鎧の男。
ザナック・ヴァルレオン・イガナ・ライル・ヴァイセルフ。
首を失い、仰向けに横たわる、その肉体。
思わず、ゆっくりとその体を抱き上げた。
重いはずなのに、軽かった。
(……そうか……)
彼は、もう──命を失っていたのだ。
なのに、今、俺の元にいる。
ナザリックで、笑っている彼。
(あの時……俺は……)
視界が霞む。骸骨の目には、涙など流れはしないのに。それでも、苦しくて息が詰まりそうだった。ナザリックに戻って、俺はその"過去の彼"の首を、魔法で縫合した。
血に濡れた鎧を脱がせ、まだ温もりの残るシャツと、肌と、首筋を見つめる。無言で、ただ静かに、棺に横たえる。
その姿が──初めて見た、礼儀正しく勇気ある王子と重なって見えた。あの時、交渉に来た彼は、堂々としていた。命の危険を承知で、覚悟を決めた目をしていた。あぁ、もうそこで既に、俺は彼を、
……なのに俺は、
結局、その彼を──殺したのだ。
(俺が、殺した)
俺が殺した、殺した、殺した、殺した、殺した
殺したんだ
何度も、何度も、頭の中で繰り返した。
言葉に出すこともできないまま、胸の奥で呪詛のように。
(触れる資格など……最初から、無いはずだった)
彼を蘇らせ、どれだけ愛したとしても。
俺の手は、最初から彼の命に血塗られている。
それなのに。それでも。彼の笑顔は、俺を赦す。それが、いちばんの地獄だった。気がつけば、俺は執務室に戻っていた。記憶が、また途切れていた。最近、こんなふうに"意識の飛ぶ時間"が増えている。頭を抱える。指先に、骨の冷たさが触れる。
「……ふ、はは……」
声が漏れた。
それは、笑いにも、泣きにも似た、自嘲の声だった。
「……はぁ……」
ため息が、部屋に静かに落ちる。彼に触れる資格は無い。だが、手放すことも、もうできない。それが、俺の罪。
そして、俺が背負った、呪いだ。
翌日の昼頃。俺は、ザナックを膝の上に乗せて執務をこなしていた。この業務形態は俺が命令したものだ。そう、彼はこれに慣れてしまっていた。まだ、少し照れてる部分もあるが。そんな彼を、いつもの流れで、俺も乗せてしまっていた。今更、降りろとは言いづらい……。こう、密着していると、否が応でも彼の匂いが香ってくる。項と、金髪の間から。これがどうにも俺の理性を溶かす。気付けば、彼のお腹に手を回して抱き寄せて金色の髪を鼻で押して、うなじを嗅いでしまっていた。
(汗っぽい匂い……)
「あ……ぅ……んん」
ザナックが腰を跳ねさせたところでハッとした。俺は何をしてるんだ。
「あ、すまない……っ」
「……いいんです、お好きなだけどうぞ」
彼は振り返って、誇らしげに微笑んだ。
翠玉の目が細められた。
ああ。ああ。
なんで、そんな、顔を……
好きだ、ザナック、好きだ。俺は、君を殺したのに……君から何もかも奪って、
当たり前のように恩人の顔をしていたくせに。
君を、好きになんかなって。
なのに、そんな目で、俺を赦さないでくれよ。
好きだ、好きだ、好きだ、好きだ
ザナック、ザナック……
好きだ、大好きだ……愛してる……
「……アインズさまっ? ど、どうですかね」
「すごく、いい匂いだ」
「ふふ、ありがとうございます」
ザナックが薔薇の花が開くように笑った。
かわいい、かわいいかわいい……っ
すうっと上品な甘い香りが、鼻腔を抜けた。
食べて、しまいたい。
「っ……ザナック」
ずっと、この匂いを嗅いでいたい。ザナックを俺のものにしたい。閉じ込めたい。俺だけが彼に触れられるようにしたい。
「んっ、や……あいん、ずさま……」
駄目だ。我慢しなくては。
でもこれが、本当に──最後だから。
だから少しだけ。
(もう少しだけ……っ)
彼の項に鼻先をぐりぐり押し付け、
馬鹿になった頭で、そう言い訳した。
──翌朝。
「アインズ様、おはようございます!」
いつも通りにザナックは明るく笑っていた。
あの柔らかく芯のある声で、挨拶をくれる。
俺の胸の奥に、甘く響く……それは、かつて何よりも心地よいものだった。だが──俺は、
「……ああ、おはよう」
それだけを返して、視線を逸らした。
ほんの、わずかな間だった。だが、それは明らかに"避けた"とわかる仕草だった。
ザナックの笑顔が、ふ、と曇る。
それを見た瞬間、喉の奥が焼けるような痛みに襲われた。けれど──それでも、俺は視線を戻さなかった。触れてしまえば、壊してしまう気がした。彼の手に触れれば、もう二度と離せなくなる。微笑みを返せば、罪の記憶が喉元に込み上げてくる。
(……俺は、君を殺した)
夢ではなかった。幻覚でもなかった。
あの皮袋。赤い鎧。落とされた首。血に染まったシャツ。あれは、確かに現実だった。なのに今、彼は目の前にいて、笑っている。まるでそれを忘れたかのように。まるで、何もなかったかのように。
「アインズ様……? あの、今日は……お膝の……」
「……ああ。今日は執務が立て込んでいる。……会議に先に行っていてくれ」
ザナックの表情に、明らかな戸惑いが浮かんだ。けれど、彼は頷いた。
「……はい。では、行ってきます。アインズ様、気をつけてくださいね……あまり頑張り過ぎずに。」
ああ、その一言さえ。
俺を気遣うその声すら、優しすぎてまるで罰のようだった。
(君にとって、俺は"恩人"なのだろう)
(君を救い、蘇らせ、手を取ってくれた──そう思っている。だが、それは違う)
(本当は俺が君の命を奪った)
その日から、俺は徐々に、ザナックと距離を取るようになった。仕事中は、返事だけで顔を合わせなかった。一緒に食事をする時間も減らした。廊下ですれ違えば、わずかに歩幅を速めた。ただの気まぐれだと、彼は最初そう思っていたのだろう。けれど、三日目についに
「……アインズ様…っ」
背後から、そっと服の袖を引かれた。
「あの……俺、何か……してしまったでしょうか」
その声が震えていた。泣きそうになるのを、堪えているのがわかった。
「……いや。君は何も悪くない」
「でも……アインズ様が、俺のこと……」
「……ザナック、今日は帰って、休んでいてくれ」
口にした瞬間、胸が裂けそうになった。
ザナックが、あんなにも寂しげな表情をするのを初めて見た。目の前で、俺の為にと一生懸命だった青年が、どうしていいか分からず、手を宙に彷徨わせている。
(……触れるな。今ここで、彼を抱きしめてはいけない)
(謝っても、慰めてもいけない。俺には、その資格がない)
それでも、気づけば、手が──
骨の指先が、彼の頬に触れそうになっていた。ザナックが、ぱっ、と目を見開いた。
(やめろ……やめろ……)
俺は、その手を引っ込めた。
「……すまない。……俺には、今、君を……」
最後まで言えなかった。
言葉にならない想いが、喉元にせり上がり、
けれど、声にならずに消えていった。
ザナックは、俯いて、ただ「……はい」とだけ言った。それから、音も立てずに去って行った。
彼の背が、廊下の向こうに小さくなるまで、
俺はただ、立ち尽くしていた。どうして、こんなにも。好きなのに、触れられない。大切なのに、遠ざける。罪を悔やんでも、償っても、
それでも"なかったこと"にはできない。
ならば、いっそ……このまま、彼が俺を嫌ってくれたら、どれほど楽か。けれど、彼はきっと、明日もまた笑ってくるのだ。
「アインズ様、おはようございます」と。
その優しさこそが、最も恐ろしい。