ザナック視点から。
壁ドンキスされるザナック
「アインズ様、おはようございます……」
朝、廊下の角を曲がるたびに、期待してしまう。もしかしたら、今日こそは。もしかしたら、笑って返してくれるかもしれない──と。
けれど、アインズ様は今日も、俺の方を見なかった。黒いローブの裾を翻して、無言のまま通り過ぎていく。その姿は、いつもと変わらない威厳に満ちているのに、俺の目にはとても遠く、冷たく映った。
(……それでも、声をかけたい)
(逃げたら、もう一生、会話ができなくなってしまいそうで)
(このまま、嫌われて終わるのは……嫌だ)
怖い。けれど、それでも、背中に向かって言葉を紡ぐ。
「……あの、アインズ様……今日は、少しだけでもお時間、いただけたらと──」
「ザナック」
その声が、鋭かった。いつもより低く、重く、鋭い刃のように、俺の胸に突き刺さった。
足が止まる。目の前のアインズ様の背中が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……これ以上、話しかけないでくれ」
その言葉には、怒りも、悲しみも、何もなかった。ただ、冷たい拒絶だけがあった。胸の奥が、音を立てて崩れていく。何か言わなきゃ、と思った。何故、どうして……と訊きたい。
でも、喉が詰まって、何も出てこなかった。
それでも、どうにか絞り出した言葉は──
「…………申し訳……ございません……」
それだけだった。深く頭を下げたまま、何も考えられなかった。ただ、膝が震えて、顔を上げる勇気もなかった。アインズ様は、それきり何も言わずに背を向けて、去っていった。その背中は、もう二度と振り返らないように思えた。
その夜。自室に戻って、扉を閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。
「……あ……」
声が、勝手に漏れた。嗚咽が喉を裂いた。口を押さえても、涙は止まらなかった。ずっと我慢していた感情が、一気に溢れ出した。
「いやだ……こんなの、嫌だ……」
あんなふうに拒まれるなんて、思ってなかった。傷つくのは覚悟していた。でも……あんな言い方をされるなんて。ただ、話したかった。声を聞きたかった。笑ってほしかっただけなのに。
「……っ、ぐ……ううっ……」
枕に顔をうずめて、声を殺して泣いた。
子供のように。俺は未熟で、いつもいつも……何も守れず、何も届かない。ただただ、悲しみに呑まれて泣いた。アインズ様の手の感触が、頭に残っている。頬に落とされたキス。額に触れたあの温もり。全部、幻だったのか。
俺は、もう用済みなんだ。
「…………こんなに、好きなのに」
その言葉を、声に出したとたん、涙はさらに止まらなくなった。
誰にも聞かれないよう誰にも見られないように。静かに、深く、ひとりきりで泣き続けた夜。アインズ様に、もう一度、触れられる日は来ないかもしれない。そう思うと、胸がぎゅっと締めつけられて、呼吸すら苦しかった。
それでも、明日になれば、また笑わなくちゃいけない。ナザリックの一員として、役目を果たさなきゃいけない。
─────────『アインズ視点』
ザナックを拒絶した日の夜。
執務机に積まれた書類は、すべて手をつけずに放置されたままだった。
(……やってしまった)
思考が、何度も同じ場所をループする。あの細い声。震えた謝罪。決して視線を合わせようとしなかった、彼の伏せたまつ毛。思い出すだけで、胸が痛む。骸骨に胸は無い。心臓も無い。
けれど、確かに苦しい。
(なぜ、あんな言い方を……)
(声を聞けたとき、嬉しかったくせに)
(顔を見たくて、ずっと待ってたくせに)
それなのに、言葉が、口から勝手に出ていた。
拒絶しなければならないと、遠ざけなければならないと、自分に言い聞かせていたから。
なぜなら、あの夢──いや、記憶だ。
忘れることのできない"事実"。あの皮袋の感触。重み。沈黙。そして、貴族たちの命乞いの声。
(……俺が、殺した)
(俺が、殺したんだ)
何度思っても、逃れられない。
どれだけ好意を抱いても、触れたくても、
この手は……一度、あの首を抱えていた。
(だから、もう二度と触れちゃいけない。優しくしちゃいけない)
なのに、今も。この手は、彼を求めて震えている。
「……やめろ」
掌を握りしめて、声に出してみる。
誰もいない部屋に、自分の声が返るだけ。
(もう限界だ)
(このままでは、俺は……)
俺は、きっとザナックを傷つけてしまう。
いつか、彼の優しさに甘えて、依存して、癒されて、それに慣れてしまえば。今度こそ、本当に失うときに、立ち直れなくなる。
(……嫌われなければ)
(突き放すだけでは足りない)
(俺に触れたくなくなるように)
冷えきった意志が、己の心を静かに支配していく。
「……ザナックに会いに行こう」
─────────
夜の廊下は、冷たく静まり返っていた。
ザナックの部屋の扉の前に立ち、数秒だけ躊躇する。けれど、すぐに手を伸ばした。ノックもせず、静かに扉を押す。開いていた。
中には、灯りひとつ。小さな机に向かって座っていたザナックが、こちらを振り返った。
「あ……アインズ様……?」
驚きと喜びが入り混じった、少し潤んだ瞳。
泣いた後なのかもしれない。俺の心が、ほんの一瞬だけ揺れそうになった。だが──もう、止まれなかった。
「ザナック」
一歩、踏み出す。
そしてもう一歩。
「……っ、はい」
彼が立ち上がろうとした瞬間、
俺は壁際まで歩み寄り、
──ドン、と音を立てて手を突いた。
小柄な体が、壁に押しつけられる。
驚いたように、瞳が大きく開かれる。
「アインズ様……?」
その声が震えていた。
けれど、俺の手を振りほどこうとはしなかった。
「……嫌いになってくれ、ザナック」
そう呟くように言って──俺は、彼の唇に、骸骨の口を、深く押し当てた。ごり、と骨の歯が、やわらかな唇にあたる。俺はやめなかった。もう一度、強く押しつけ、もう一度、唇を塞いだ。その無音の行為が、罰のように重い。
「アインズさ──ま……っ」
声を漏らそうとする口を、また塞ぐ。
舌も唇も持たない骸骨が、それでも、繰り返すように彼を塞いだ。ふるふると、ザナックの体が震えていた。でも、彼は……逃げなかった。
(……なぜ、逃げない)
(これほどまでに、汚しているのに)
俺は心の中でつぶやいた。
(これで、諦められる)
(彼を汚して、嫌われて……やっと)
けれど。
(なぜ、こんなにも……痛い)
苦しみの中心に、温かな肌の感触がある。
抱きしめたい気持ちと、壊したい衝動が交差して、その場で心が……音を立てて崩れていくのがわかった。ザナックの瞳には、まだ混乱と戸惑いがあった。けれど、それでも、憎しみの色は浮かんでいなかった。
(やめてくれ……それ以上、優しくしないでくれ)
(嫌いになってくれ──どうか、俺を救ってくれ)