アインズ視点。
失って初めて大切さに気付くと言うやつ。
雨が、降っていた。魔導国全土を包むように、冷たく、重たく、静かな雨だった。空は厚い雲に覆われ、太陽の光さえ一切射さない。
窓の外を見つめながら、ふと気づいた。
今日──まだ一度も、ザナックの顔を見ていない。執務室の扉を開けた時も、執務に必要な書類を用意させた時も、昼食時も、誰もその名を口にしなかった。だが、最初に覚えたのは違和感ではなかった。安堵だった。そう、少しだけ、ほっとしていた。あの夜の出来事を思い返さずに済むことに。重なる唇。あの眼差し。震えた小さな体。泣きそうな表情。
(……俺は、間違っていなかった。あれで良かった。これで……)
だが、妙に胸がざわつく。気づけば、時計は日没を告げていた。カリカリと羽根ペンを動かす手が、止まった。紙をめくる音が、妙に遠い。
俺は立ち上がり、部屋を出た。
まずは、いつもの執務補佐室、そして彼の私室。いない。訓練場、書庫、厨房。ザナックが時折顔を出すと言っていた場所を、片っ端から回った。いない。
「……アルベド」
「はい、アインズ様」
静かに、彼女が跪く。
「ザナックの姿を……今日、一度でも見たか?」
「……いえ、申し訳ありません。私は本日、一度も彼を見かけておりません」
「そうか……」
小さく頷いてから、デミウルゴスに尋ねた。
セバスに、プレアデスに。
誰も、彼を見ていない。
(……これは……まずい)
内心に、凍りつくような焦りが走った。
(どこかで倒れている? いや、それならメイドたちが……)
(あるいは、外に……?)
背筋が、ぞわりとした。
冷たい恐怖が、頭の芯を駆け抜ける。
「──アルベド。ナザリック内全域の魔力感知を行え。対象は、ザナック。全階層、全設備、隅々まで。見つからなければ、外部の街にまで広げろ」
「……かしこまりました」
命令を下す声は冷静だった。
だが、内心はそれどころではない。
(俺が……突き放したせいで)
(まさか──)
そこまで考えたところで、ガン、と執務机を拳で打ちつけた。
骨の手がきしむ音。傷はつかない。けれど、それは明らかな自罰の動作だった。
(何が、「完璧な支配者」だ)
(くだらない、自分ひとりを守るために、大事なものを……)
日付が変わった。
深夜二時、四時、そして夜明け前の五時を越えても、俺は探し続けた。自らの足で、ナザリックを何周も回り、彼が行かないだろうと普段は思うところも、隠し通路や使用されていない実験室まで、ひとつ残らず確かめた。
それでも、いなかった。いない。どこにも。
その事実だけが、雪崩のように心を押し潰していく。そして──午前十時。
「アインズ様!」
俺の前で、デミウルゴスが頭を垂れながら告げた。
「魔導国の住宅地にて、複数の元王国民が"ザナック殿下らしき者"に食べ物を渡していたという情報が入りました」
「……っ……!」
雷鳴のような一歩で、俺はその場を飛び出した。ローブの裾が風を切る。転移陣を越えた瞬間、土砂降りの雨が、骨の顔に容赦なく打ちつけた。
激しい雨音。水たまり。濡れた石畳。
だが、そんなものはどうだっていい。ただ、ひたすらに地を這うように、探し続けた。
(ザナック……)
(どうして……どうして、何も言わずに──)
(お願いだ……俺のことを、置いていかないでくれ……)
(君が、君までが居なくなったら…………俺は、どうすればいいんだ)
探し回るその姿は、もはや王のものではなかった。一人の、取り返しのつかない後悔を抱えた、愚かな男の姿だった。
──俺は、魔導国の路地を走っていた。
ビチャビチャと足元の水溜まりが跳ね返り、服を汚していく。泥だらけの地面、排水の匂い、湿った石壁。雨は止まない。
部下たちに命じれば、いくらでも効率的に探せる。魔法を使えば、広範囲の感知も瞬時に可能だ。それでも、自分の足で探したかった。誰かに見つけてもらうのは、駄目だった。違う。自分で見つけたかった。支配者でも、偉大な魔導王でもなく、ただの「鈴木悟」──いや、名前なんかどうでもいい
……ただの、俺が。
(どうして、こんなにも……)
息が詰まりそうだった。
骸骨に喉はない。けれど、心はずっと、張り裂けそうにざわついていた。探しても、どこにもいない。あんなに、小さな体で。あんなに……あったかい存在だったのに。
(何をしてるんだ、俺は……)
足元の水たまりを踏み、濡れた外套が脚にまとわりつく。この国の支配者として、あまりに滑稽な姿。けれど、恥じている余裕はなかった。
必死だった。ただ、会いたかった。その時、だった。細い路地の奥。建物と建物の隙間、誰にも見えないような石壁の下。ぼんやりとした薄明かりの中、小さな影が、そこにあった。壁に寄りかかって、蹲っている。まるで、雨の音さえも届かないように、静かにそこにいた。俺は、無意識に歩を進めた。何も考えられなかった。ただ、視界に入ったものが、どうしようもなく愛おしくて、懐かしくて、痛々しくて。
近づくにつれて、その姿がはっきり見えてきた。肩にかかった、見覚えのある紺のローブ。
水を吸って重たくなっている。フードはかぶっておらず、雨に濡れた金の髪が、無防備に額に貼りついていた。
(……ザナック…)
胸の奥に、鋭く何かが突き刺さった。
(ザナック……ザナック…………)
この姿を、どれだけ探したか。どれだけ、願ったか。やっと、見つけた。でも、彼は気づかない。こちらに顔を向けることもない。その小さな体は、まるで何もかも諦めたように、
雨に打たれても、動こうとしなかった。俺は、ゆっくりと膝を折る。彼のすぐ近くまで寄って、その金の髪にそっと手を伸ばそうとしてやめた。怖かった。触れてしまえば、壊れそうで。声をかければ、拒まれそうで。けれど、黙っていることもできなかった。
俺は、
「……ザナック」
そう呼んだ。小さく、けれど真っ直ぐな声で。
彼の体が、びくりと震えた。そして、ゆっくりと、こちらに顔を向けた。その瞳は、赤く腫れていた。何度も泣いた痕。目元だけでなく、唇も乾いて切れていた。それでも、俺の姿を見ると、僅かに目を見開いて──
「……ア……インズ……さま……?」
雨音が、ふたりの間を満たす。
彼の声は掠れていて、それでも、耳に届いたその瞬間、俺の胸は、ぐちゃぐちゃになった。
(……ああ……ザナック……)
(本当に……ごめん)
次に何を言えばいいのかもわからなかった。
けれど、俺はただ、言葉もなく、
そっと彼の体に手を伸ばした。拒まれるかもしれない。だけど、今度こそ、逃げないと決めた。