乳牛メイドのホルスタイン あの、かけがえのない日々のこと 作:馬門戒明/輪島ライ
今度の長期休暇に海に行こう、と坊ちゃまに言われたのは彼の20歳の誕生日だった。
2年前から上級学校に進学して日夜勉学と研究に励む生活を送っている坊ちゃまは平日は早朝と夜しか私と過ごすことがなくなって、身体のつながりも含めた私との関係は全く薄まってはいなかったけれど坊ちゃまと2人だけで過ごす時間が減ったことは寂しく思っていた。
朝から豪華な料理を準備して坊ちゃまの誕生日を2人だけで祝い、いつものように彼の自室で激しく肌を重ねた後、坊ちゃまは私をたくましい胸板に抱きながらそう提案した。
上級学校に進学する以前から坊ちゃまは勉学や球技の活動で、私は家事で忙しかったのでこれまでは2人で遠出する機会自体それほど多くなくて、ましてや内陸の都市に住んでいる私と坊ちゃまが海岸線の街を訪れて外泊する機会などこれまで一度もなかった。
山奥の村で生まれ育った私にとって海に行くのは幼い頃からの憧れで、坊ちゃまは私の蔵書に海洋の自然風景や沿岸の人々の暮らしを記したものが多いことにかねてより着目していたようだった。
日帰りで行くには大変ですねと答えた私に坊ちゃまはもちろん泊りがけだよと言って、その言葉が意味する所は今の私には容易に理解できた。
それから坊ちゃまは次の週末に一緒に水着を買いに行こうとまで提案してくれて、私はその言葉通り坊ちゃまと街中にある衣料品店を訪れてお互いの水着を入念に試着した上で購入した。
坊ちゃまに喜んでもらおうとあえて刺激的な水着を選ぼうとした私に坊ちゃまはその水着姿は僕の前だけで見せてほしいなと笑って話して、私は少し残念に思いつつも彼の優しい独占欲に胸が温かくなるのを感じていた。
「ホルスタイン、これが本当の海の色だよ。図鑑や旅行記で見るよりずっと綺麗でしょう?」
「ええ、とても感慨深いです。ですが、思ったより人が多いですね」
「ここは観光客にも人気の海岸だからね。好きに泳ぐのは難しいから、軽く水に入って遊ぼうか」
「どちらにせよ私は泳げませんので、それだけで満足です。水着が流されないよう気をつけて参ります」
「あははっ、脱げにくい水着だけどもしそうなったら大変だね。ホルスタインは魅力的だから」
袖はないけれど私の豊満な胸元から腹部までを覆うキャミソール状の上の水着と、腰回りがスカート状になっている下の水着。
私の身体的特徴があまり目立たないようにと坊ちゃまが選んでくれた上下の淡青色の水着は肩まで届く紫色の長髪の私によく似合っていて、黄色の腰巻状の水着だけを来た坊ちゃまは先ほど更衣室で着替えてきた私の水着姿を惚れ惚れとした表情で眺めていた。
美青年に成長した坊ちゃまと並んで歩く半亜人の私はこの海岸線でも衆目を集めていて、沿岸の都市で暮らす人間族は歴史的に亜人への差別意識が薄いこともあってかその視線は内陸の都市でよく感じる侮蔑的なものとは異なるように思えた。
「ホルスタイン、海の水は冷たくないかい? 今年の夏季はちょっと涼しいからね」
「全く問題ございません。ほどよい温かさで寝転んでみたいぐらいです」
「そうかそれは何よりだ。じゃあ、ほらっ!」
「きゃっ! 坊ちゃま、それは流石に冷たいです。では私も……」
水深の深い砂の上に足を着けて、坊ちゃまは私に両手で海水をすくって飛ばした。
温かくも少し冷たい海水が水着の上から私の身体を濡らし、44歳の私は少女の頃に戻ったような気持ちで坊ちゃまに海水をすくって投げた。
2人で一緒に海水をかけ合って、肩が浸からない程度まで砂の上を沖合へと歩いて、身体が冷えてくると砂浜に並んで寝転んで陽の光を浴びた。
周囲には大勢の観光客の姿があるのに、隣り合ってうつ伏せで砂浜に寝転びながら坊ちゃまと見つめ合っていると、まるでこの世界に私たち2人しかいないような幸せな幻想に
このまま、時が止まってしまえばいいのに。
そろそろお腹が空いてきたということで、坊ちゃまは何か歩きながら食べられるものを露店で買ってくるよと提案した。
一旦鍵付きの更衣室まで財布を取りに行くつもりの坊ちゃまに私は付いていこうとしたけれど、どのみちここに帰ってくるから待っていてくれていいよと坊ちゃまは言った。
それなら砂浜を散歩して綺麗な貝殻でも探していようと考えて、私は坊ちゃまと一旦別行動を取ることにした。
人が多い砂浜の貝殻は踏んで怪我をしないようにか地元の管理官にあらかじめ拾われていたけれど、少し離れた砂浜に来ると大きめの貝殻もよく見かけた。
形がいいものがあればお土産にしようと年甲斐もなく砂浜にしゃがみ込んで貝殻を探していた私に、誰かが声をかけてきた。
「よう、お姉さん今一人?」
「えっ?」
顔を上げた私の前には地毛というよりは染髪しているように見える茶色の長髪の男性と彼の友人らしい黒髪を一つ結びにした長身の青年の姿があって、彼らは一人で砂浜を歩く私に目をつけていたらしかった。
「俺とこいつ、上級学校の休みで暇つぶしに来てるんだけど正直やることなくてさ。よかったら向こうの露店で一緒に何か食べない?」
「その、お気持ちはありがたいのですが私は人と待ち合わせをしていまして。それに私は44歳の半亜人ですし……」
「へえっお姉さん半亜人なの? 全然44歳には見えないしおっぱいすごく大きいね、もしかして
茶髪の男性は軽薄そうな表情で私の胸元を見てそう言って、それを聞いた瞬間に私は表情を歪ませて胸元を右手で隠した。
沿岸の都市の人間族は亜人への差別感情は薄いと聞いているし彼自身は私を侮辱しているつもりではないのかも知れないけれど、身体的特徴をそれも男性から指摘されることに私は慣れていない。
私は牛型亜人を父に持つ半亜人だから目の前の人間族2人を腕力で振り払ってここから逃げることは
「おいそんな下品なこと言うなよ、失礼じゃないか。でも本当に綺麗ですよね、お茶だけでもどうですか?」
「ええと……ごめんなさい、本当に今はその……」
「さっきは変なこと言ってすみません! 全然無理に誘うつもりはないんだよ、ただこんな綺麗なお姉さんとちょっとだけご一緒できたらなーって」
黒髪の青年は比較的真面目な人柄らしく茶髪の友人をたしなめていたし、茶髪の男性もその言葉にはっとした様子で先ほどの非礼を謝ってくれた。
上級学校の学生ということもあって目の前の2人は荒くれ者のような存在ではないことはよく分かったけれど、私は彼らの誘いを上手く断れずにいた。
「おい、そこの2人」
その時、私を救ってくれる聞き慣れた声が背後から聞こえた。
「えーと、お知り合い?」
「知り合いなんかじゃないよ、そこのホルスタインは僕の女だ」
「これはすみません、ご主人と一緒に来られていたんですね」
「主人なんて言うな、僕はホルスタインと対等な恋人同士なんだ。早く行こう」
「坊ちゃま……」
見るからに不機嫌そうな坊ちゃまは陳謝する黒髪の青年に強い口調で言うと私の左手を乱暴につかんで歩き出し、茶髪の男性はその様子を呆けた表情で眺めていた。
坊ちゃまは右手で私の左手を引いて歩きながらずっと無言のままで、私は坊ちゃまに何と言って謝ろうと考えていた。
しばらく砂浜を歩くと坊ちゃまは立ち止まり、周囲をきょろきょろと見回すと左手で持っていた大きめの紙袋を砂の上に置いた。
紙袋には先ほど露店で買ったらしい軽食と紙包装された飲み物が入っていたということに私は今更気づいて、そして私に正面から向き合った坊ちゃまを見て緊張が脳裏を走った。
そして……
「っ……」
「ごめん、ごめんねホルスタイン。砂浜に一人にしてしまって本当にごめん。怖かったよね……」
「坊ちゃま……」
坊ちゃまは私を叱りつけるのではなく、涙声を漏らしながら私の身体を正面から抱きしめた。
「大丈夫だった? さっきの男たちに変なことされなかった? ホルスタインが傷つくようなことがあったら、僕は……」
「大丈夫ですよ、先ほどの男性たちは上級学校の学生で、砂浜で偶然見かけた私を食事に誘っていただけです。身体を触れさせなどさせていませんから」
「でも、でもホルスタインは本当に綺麗で魅力的だから。相手が悪党じゃなくて本当によかった、もう絶対に一人になんかさせないからね」
坊ちゃまは自分が目を離している間に私が性被害に遭ったのではないかと本気で心配してくれていて、泣きながら私をぎゅっと抱きしめる坊ちゃまを見て私は彼の深い愛情が身体の中に流れ込んでくるような気持ちを味わった。
公衆の面前で抱き合う私と坊ちゃまを見て周囲の観光客は眉をひそめていたけれど、今はそんなことはどうでもよかった。
私のことをこんなに愛してくれる唯一無二の存在が、今こうして私の
私は幸せだ。この世界のどんな亜人よりも、いやこの世界の誰よりも幸せな存在だ。
坊ちゃまもそう思っていてほしい。坊ちゃまにそう思ってもらえる存在でありたい。
今だけは、今だけはそうあってほしい。