乳牛メイドのホルスタイン あの、かけがえのない日々のこと 作:馬門戒明/輪島ライ
坊ちゃまがもうすぐ30歳の誕生日を迎える日、54歳になった私は坊ちゃまに久々に外に連れ出してほしいと頼まれた。
坊ちゃまは既に寝たきりの状態で、研究所に出入りすることもできず1日中自宅で私の介護を受けていた。
車椅子に乗ってももはや遠出することはできない坊ちゃまを、私は車椅子を押して近所の散歩に連れ出した。
半亜人の腕力があってもなくても、全身の筋肉が衰弱して痩せ衰えた坊ちゃまの身体を車椅子で運ぶのは容易だっただろう。
なだらかな坂道をゆっくりと上って、私は坊ちゃまを少しでも高い場所に連れて行こうとする。
やがて天に召される坊ちゃまが、少しでも新たなる世界に順応できるように。
もうすぐ日が落ちる。茜色に染まっていく空を私は坊ちゃまと共に眺める。
以前は美しいと思えていた日没の風景は、今の私にとっては坊ちゃまの生命を1日1日と削っていく予兆にしか見えなかった。
それでも今の坊ちゃまには、少しでも暗い表情は見せないように。
「坊ちゃま、この丘から見える夕日はいつも綺麗ですね」
「……そう、だね……」
坊ちゃまは必死で言葉を紡ぐ。
最期の時まで私と語り合えるようにと、彼は今も言語聴覚士の訪問診療を受けて訓練を続けている。
神経の機能を次々に喪失しても、それにより全身の筋肉が衰弱しても、聴覚だけは最後まで残る。
主治医は私にそう言っていた。
「今のうちに、この夕日を目に焼き付けておきましょう。……いつか、私が坊ちゃまと再会した時のために」
「……」
車椅子には酸素が充填された大缶が括り付けられている。
その大缶から高流量の酸素を管で吸入していないと、坊ちゃまは既に呼吸もままならない。
私が介護だけに専念できるようにとの主治医の指示を受けた病院の職員が酸素缶を自宅まで運んでくる度に、私はこれを交換できるのはあと何回だろうと考えてしまっていた。
「私、坊ちゃまのことを永遠に忘れませんから。坊ちゃまを天国に迎えに行けるように、立派に生きてみせます」
「……ほるす、たいん……」
「坊ちゃま……」
坊ちゃまは辛うじて動く首で私を見上げ、私は彼の口元に耳を寄せた。
顔を上げただけで坊ちゃまの気道は細くなり、それによる酸素不足で咳き込みながらも坊ちゃまは私に言葉を伝える。
「30さいの、たんじょうびに……」
「……」
「ぼくが、なまえをよんだら……」
「坊ちゃま、分かりました。もう、大丈夫ですから……」
同じことは以前にも坊ちゃまから聞かされていた。
坊ちゃまは既に意識がもうろうとしていて、私に何度も同じことを話してしまう。
それでもいい。それでも坊ちゃまの言葉を聞けるだけで私は嬉しい。
だけど、だけど……
「……帰りましょう。私たちの家に。2人だけの家に……」
「うん……」
私はもはや流れる涙を抑えることもできずに、そのまま車椅子を押して帰路に就いた。
坊ちゃまが車椅子から落ちないように、私は涙を坂道にこぼれ落としながら慎重に車椅子を押していった。
沈む夕日を背に下りる坂道は天の国に背く逃げ道のようにも、あの世へと続く階段のようにも思えた。
そして、坊ちゃまは30歳の誕生日を迎えた。
既に経口摂取が不可能になった坊ちゃまは
もはや坊ちゃまに嗅覚が残っているかは分からないけれど、坊ちゃまは笑顔を浮かべてくれた。
この笑顔に、天使のような坊ちゃまの笑顔に、私は何度救われてきただろうか。
「ほるす、たいん……」
「……」
ついに、その時が来た。
「これまで、ありがとう……」
「坊ちゃま……」
最後の言葉が、坊ちゃまの口から紡がれる。
「さようなら……さようなら……ありさ……」
「っ……」
その時が、来た。
私は意を決すると、透明な合成樹脂の口器で坊ちゃまの口と鼻を覆っている人工呼吸器の管を引き抜いた。
思い残しがないように、坊ちゃまをこの世に引き止めてしまわないために、私は人工呼吸器を管ごと部屋の隅に放り投げた。
生命をつないでいた酸素の供給を絶たれ、全身が機能不全に陥った坊ちゃまは不規則な喘ぎ声を上げ始める。
「はぁ、あ……ありさ……ありさ……」
「さようなら、坊ちゃま。いえ、リュート……」
最後に彼の名を呼んだ私に、坊ちゃまは再び微笑みを浮かべてくれた。
そして全身を引きつらせ、激しく乱れた呼吸を繰り返す。
それはこの世の誰よりも美しく優しかったかつての少年の、壮絶な最期だった。
間もなくして坊ちゃまの呼吸は完全に停止し、坊ちゃまは、リュートは永い眠りに就いた。
「あああ、あ、あっ……リュート、リュート……」
私は坊ちゃまの名を何度も呼びながら、彼の亡骸にすがりついた。
衰弱した身体は残されていたかすかな熱さえも失い、私の温かい右手が触れても坊ちゃまはもう動かない。
宝玉のように美しかった彼の瞳に、光が宿ることはもう二度とない。
坊ちゃまは、立派に生きた。
今日までちょうど30年の人生を、立派に生き抜いた。
これが彼の定めであり、私はこの運命を最初から理解していた。
だけど、だけど……
「坊ちゃま、私を置いていかないでください。私にも後を追わせてください……」
私は泣いた。
このまま全身の水分が蒸発して、あの世に行ってしまえればいいのにと思った。
そして気絶するように眠ってしまった私が目覚めても、坊ちゃまは目を覚まさなかった。
私にとって、彼にとってどれだけ残酷でも、それだけが現実だった。
坊ちゃまは死んだ。
私は彼の人工呼吸器を外し、彼の最期を見届けた。
私のこれまで54年間の人生は、この日のためにあったのだ。
坊ちゃまがいなくなっても、私の人生は続いていく。
最愛の人を失ったこの世界で、私は生きていかなければならない。
僕がいなくなっても、ホルスタインは幸せに生きて。
僕を失った悲しみだけに囚われて、僕と過ごした日々を忘れてしまわないで。
それが、坊ちゃまの最期の願いだったから。