乳牛メイドのホルスタイン あの、かけがえのない日々のこと 作:馬門戒明/輪島ライ
私の名前はアリサ=ランバート・ホルスタイン。
この世界において亜人の純粋な記号は個人名だけで、後は仕えている人間族の名字と種族名だけで区別される。
牛型亜人の父と人間族の母との間に生まれ、山奥の村で暮らしていた半亜人の私が大陸に名を残す貴族「ランバート家」の御曹司に仕える従者として選ばれたのは、生まれつき子宮を持たなかったからだった。
私が生涯を捧げて仕えた彼の名は、リュート・ランバート。
私は彼を死の瞬間まで「坊ちゃま」と呼び続けた。
ランバート家の当主であった祖父の末子の一人息子として生まれた彼は、逃れられない死の宿命を背負っていた。
それが坊ちゃまの人生を決定づけ、彼を死に追いやった難病だった。
罪業病は人間族にのみ男女を問わず突然変異的に発症し、発症した人間族からその子へと確実に遺伝する。
罪業病の患者は20歳頃までは健康な人間族と同様に育つけれどその後に全身の神経と筋肉が徐々に衰弱し、最終的には呼吸筋が完全に停止して死に至る。
治療法はなく、症状の進行を遅らせる方法さえも確立されていない。できることはわずかな生命の火を消さないための延命行為だけ。
だから罪業病を発症した患者は子を作ることを禁じられ、その世代で遺伝子を終わらせることを求められる。
坊ちゃまの父親であったランバート家の末子はその禁忌を犯して町娘と子を作り、その結果この世に生まれてきてしまったのが坊ちゃまだった。
坊ちゃまに、リュートに一体何の罪があったというのだろう。
彼の父親が罪業病でありながら子を成すという罪を犯したとして、なぜ坊ちゃまがその
やがて死すべき運命にある坊ちゃまの身の回りの世話をして、同時にその性欲を発散させるための相手として、私は坊ちゃまの祖父であったランバート家の当主に選ばれた。
私は子宮を持たないから、どれだけ坊ちゃまの精液を膣内に放出されても彼の子を宿すことはない。
生涯で何人もの子を宿し豊富な母乳をもたらす
当主は私に坊ちゃまが幼い頃から私の身体だけに夢中になるよう誘惑せよと厳命し、坊ちゃまが他の
それが、罪業病の遺伝子を坊ちゃまの代で途絶えさせる最良の方法だったから。
私は54年間の人生で、坊ちゃまと過ごせて幸せだった。
いずれ終わりが来ると分かっていても、坊ちゃまの唯一無二の恋人としてかけがえのない幸せな日々を過ごせた。
私のこれからの人生の目標は、天国で坊ちゃまに再会できるよう自らもこの世界に恥じない最期を迎えることだけだ。
坊ちゃまの死を見届けたあの日、私は自宅の電話を手に取ると坊ちゃまの主治医に連絡を取った。
主治医は坊ちゃまの生前の治療団の責任者として病院に併設された研究所から人員を派遣し、坊ちゃまの遺体は研究所の解剖室へと運ばれた。
坊ちゃまの遺体は主治医を含めた研究者たちの手により長時間をかけて解剖され、彼の全身の臓器は薬品に浸けられ半永久的に保存された。
坊ちゃまが解剖を受けている間、遺族の待合室で心を引き裂かれそうな思いで待機しながら、私は坊ちゃまが残した言葉を思い出していた。
僕は死んでしまうけれど、僕の遺体をただ燃やさないでほしい。
僕と同じ病の人をいつか救えるように、残された臓器を研究のために使ってほしい。
そして、僕は研究の
彼の尊い遺志を知った日から、私は家族として坊ちゃまの身体が死後に解剖されることを受け入れていた。
解剖が終わり、坊ちゃまは遺体用の台車に載せられて主治医たちの手で解剖室から搬出された。
全身の臓器を摘出された坊ちゃまの遺体は中に綿を詰められて丁寧に縫合されていて、坊ちゃまは安らかな表情で胸の上で手を組んでいた。
立派なお姿でした、と短く述べて頭を下げた主治医に、私も胸が一杯になって深々と頭を下げた。
坊ちゃまの葬儀を終えた後、私は数年前に当主の座を継承した坊ちゃまの伯父と彼が暮らす大邸宅で話し合った。
新たな当主は坊ちゃまを介護し看取った私の功績を称え、同時にこれまでランバート家が坊ちゃまの世話を全て私一人に押し付けてきた事実を詫びた。
これまで坊ちゃまと過ごせて幸せでしたと話した私に、当主は半年ほど休暇を与えるので旅に出るといいと言ってくれた。
それから私はかつて坊ちゃまと一緒に訪れた場所や旅行先を一人で回り、その際は必ず坊ちゃまの遺骨を小さな壺に入れて持参していた。
左手の薬指にはあの時手渡された坊ちゃまとお揃いの結婚指輪を着けて、坊ちゃまと共に生きた記憶を決して忘れないようにしていた。
坊ちゃまとの思い出を懐かしみ、時には坊ちゃまと触れ合った日々を思い出して涙を流しながら、私は一人旅を終えて自宅に戻った。
旅の間は近所に住む顔見知りの女性に手入れをお願いしていた坊ちゃまの位牌を改めて掃除しながら、私が人生を終える場所はこの家にしかないと私は確信した。
それから私は当主からいくつかの縁談を紹介され、いずれも妻を亡くした親類や知人の貴族が美しく家事に長けた後妻を求めているという話だった。
半亜人である君の人生はまだまだ長いからと言って結婚を勧めた当主に、私は坊ちゃまに
当主は私の気持ちをよく理解してくれていて、縁談はこちらから全て断っておくと話してくれた。
そして私は坊ちゃまを介護し看取った褒美として坊ちゃまと暮らしていた邸宅を与えられ、今は当主から支給される見舞金で細々とした生活を続けている。
一人で暮らすには広い邸宅をいつまでも綺麗に保とうと掃除し、坊ちゃまの位牌に毎日両手を合わせる日々。
坊ちゃまとの暮らしで身につけた学問を少しでも社会に役立てようと、週に何度かは近所の子供たちを家に招いて読み書きや計算を教えている。
ささやかな月謝から坊ちゃまが働いていた学術院に寄付をして、学術院の研究者からは坊ちゃまが生前に発表した論文が今も引用され続けているとの知らせが届く。
そして研究者たちは坊ちゃまの遺体から得られた標本を顕微鏡で観察し、その結果を新たな論文として発表するという。
医学研究の礎として、そしていずれ誰かの生命を救う手がかりとして、坊ちゃまはこの世界に生きた証を残し続ける。
私は幸せだった。
いや、今も幸せなのだろう。
思い出の中で、坊ちゃまは永遠に私の最愛の人でいてくれるから。
読み書きや計算を教えている幼い女の子の母親に出版社で働いている人がいて、彼女は私の噂を聞いて坊ちゃまとの思い出を手記にして出版しませんかと提案してくれた。
本当に世に出せるものになるかは分からないけれど、今の私は寝る前の時間を使って手記を執筆している。
坊ちゃまの名誉を侵害するような内容は避けて、美しい思い出だけを物語として残そうとしている。
「かけがえのない日々のこと」。
そう題された坊ちゃまとの思い出が、いずれ世の中に広く読まれる日が来るのかも知れない。
それでも、坊ちゃまとの本当の思い出は私の心の中だけにそっと秘めておこう。
私と坊ちゃまは、今でも熱く燃えるような愛を交わして生きている。
坊ちゃまが私の中に残した熱は、きっといつか私の中で芽吹いていく。
(完)