日の光がステンドグラスを通り抜け、彼女の部屋に至る扉の前を色とりどりの光の粒が舞い散っていた。
昨日の明け方に彼の家を解散してからこの早朝に至るまでまだ一日も経っていない。
それでも心のどこかで寂しさを感じていた彼は、まさかこんなにも早く彼女の部屋を訪ねてしまうとは自分自身でも思っていなかった。
部屋の扉がノックされ、一人座るベッドの上からアンルシアは彼の姿を認めた。
しかし彼女は彼に驚く様子は見せない。
「───。久方ぶりだな、我が導きしアストルティアの子……血族の末裔の盟友にして、光の地と調和を成す大魔王よ。息災なようで、何よりだ」
「!」
次の瞬間、彼の脳裏にある記憶がかすめた。
ごく最近のゼニアスでの冒険で、神であるグランゼニスが彼女に憑依した時の景色。普段のアンルシアの穏やかな口調とは全く違う、確かに彼女の声ではあるが物々しく威厳に満ちた低い色で彼を迎え入れた声。
グランゼニス神が、また乗り移った?
彼の身体は復活したのではなかったのか?
思考をめぐらせる彼の顔を見つめるアンルシア。
「我はそなたを歓迎しよう、盟友───……、ふっ、ふふっ」
アンルシアは彼を見て可笑しくてたまらず吹き出す。
真剣に戸惑う彼の表情を少しの間楽しんだ後、堪えきれずに笑みをこぼした。
「えっとね、ごめんなさい。来てくれるとは思っていたんだけど、こんなに早く会いに来てくれるなら……、少し驚かせてみたくって」
そう言っていつもの優しい声に戻ったアンルシアを前に、彼はようやく騙されたことに気づき安堵と少しの呆れが混じった表情を浮かべた。
そしてベッドから腰を上げ、彼に近づきそっと手を握る。
「たった一日離れただけなのに、もう寂しくなってしまっていたの。だから……こうして会えたのが嬉しくてつい、意地悪なことしちゃった」
アンルシアはそう告げると、彼の家で過ごした時間を思い返し頬を少し赤らめる。
「それに……、少し不謹慎なんだけどね。この前ゼニアスでこんな風にあなたを驚かせてみたらどんな反応をするかしらって、ずっと気になっていたの」
遠い過去、初代勇者アシュレイから続く勇者の血族としての運命。グランゼニス神が彼を盟友として引き合わせてくれた。
その運命に感謝を伝えるかのように、彼女は静かに語りかける。
「ねえ、いつかゼニアスとアストルティア、二つの世界が完全に平和になったら。二人でグランゼニス様に、お礼を言いに行きたいな」
「一緒に感謝を伝えたいの。あなたをただ一番近くで見守る……勇者としての役目から外れた一人の人間───私個人として。どうかな?」
アンルシアの真剣な想いをふわりと包む面持ちに応えるように、彼は深く頷いた。
柔らかい朝の光が差し込むベッドの上に、今度は二人で腰掛ける。
アンルシアの枕元には彼が昨日くれたプクリポの可愛らしいぬいぐるみが置かれている。彼女はそれをそっと手に取り、愛おしそうに撫でた。
「ね……昨日言おうと思ってたんだけどさ。知らないうちに、こんな可愛らしい趣味を見つけてたんだね」
彼女が微笑みながらそう尋ねると彼は少し照れたように頷き、そのきっかけを語る。
ナドラガンドでの冒険を共にした戦友、エステラ。彼女のぬいぐるみ好きな一面、清楚で美しく常に凛とした雰囲気を纏う竜族の神官の姿からは思い浮かばないような趣味に彼自身も驚いたことを伝えた。
「え……ええっ?!あのエステラ様が、ぬいぐるみを」
そう言って驚きを隠せない様子のアンルシアだったが、すぐに指を顎に当てて頷く。
「でも、思い返してみれば納得できるわ。ナドラガンドで共に戦っていた時、確か同行してくれていたラグアス王子に、周りの人たちの何倍も目を惹かれていたわよね?」
その時のエステラの表情を思い出す。
『フワフワで、モフモフ……、いいなぁ。───はっ……な、なんでもありません』
アンルシアはふとあることを思いついた。
「ねぇ私、エステラ様にもちゃんとしたお礼がまだできてない気がする」
ナドラガンドでの初対面から冒険を通しての献身的な助力、魔界での和平交渉。そしてゼニアスでの断罪の剣の復元、それらどれをとってもどれだけ彼女に助けられたことだろう。
その感謝の気持ちをどう伝えれば、喜んでくれるだろうか。
「私、一つ思いついたの───二人で、エステラ様にぬいぐるみを贈るのはどうかな」
彼女はそう提案すると、彼の手に自分の手を重ねぎゅっと握りしめた。
「王宮での生活に、裁縫の機会はあまりなかったけれど……。裁縫が得意なあなたと一緒なら、きっと可愛らしいぬいぐるみが完成するはずだと思う。どうかなっ?」
彼女の青い瞳は希望に満ちて輝き、柔らかな金髪に覗く頬に湛えられた満面の笑みに彼は頷くしか無かった。
♢
並んで座るテーブルの前、壁に立てかけられた鏡が手を取り合いぬいぐるみの制作に取り掛かる二人を映していた。
彼が器用に針を動かす横でアンルシアは少しぎこちなくも真剣な手つきで布を扱う。
「あのね、───」
エステラはぬいぐるみを愛でるだけでなく、それぞれに素敵な名前をつけている。彼から先程伝え聞いたその話がアンルシアの心に強く残っていた。
「凛々しくて、同時に可愛らしい方だとは思っていたけど。エステラ様って……もしかして私が知らないだけで、熱中して周りが見えなくなったりするタイプなのかな」
そう呟きながら、彼女は裁縫の手を一度止めた。
「覚えてる?ポルテがね、私のことを『アンたん』って呼んでくれていたの」
アンルシアはふと自分と彼の間柄について思いを巡らせる。
ただの戦友ではなく、互いに唇を重ね好意と想いを伝え合った仲───恋人以上の関係、と名付けてしまっても差し支えないだろう。
けれど、世間一般に聞くような恋人同士特有の特別な呼び名があるわけではない。
「一度だけでいいんだけど、その。あなたにも試しに、そう呼んでみてほしいなって」
彼女が少し恥ずかしそうに口にすると、彼もまた手を止める。
少しの間言葉をためらった後、アンルシアの真っ直ぐな目に見つめられ観念したようにゆっくりと口を開く。
「───……、アンたん」
その新鮮な響きと、彼の少し照れたような声がアンルシアの心にじんわりと染み渡る。まるで体中に優しい電流が走ったかのような感覚。
彼女は感謝を伝えるように緩めた頬を赤らめながら、再び言葉を続けた。
「あはは、やっぱり……、お互い慣れなさそうだね。今まで通り、名前で呼び合おっか」
そう言って彼の頬を温かく柔らかな指先で縫い止め、再び二人きりの尊い時の中で針と糸を動かし始めた。
♢ ♢
私たちは協力してエステラ様へのぬいぐるみを完成させた。
何がいいか二人で考えた結果出来上がった、裁縫で作ったエステラ様ご自身の可愛らしいぬいぐるみだ。
「ふふ、これならきっと喜んでくれるはず。早速行こっか、彼女のところ」
完成したぬいぐるみを抱え、私たちは部屋を出て王宮のベランダへと向かう。彼が竜笛を吹くと、飛竜が静かに羽を翻して空から舞い降りてくる。私たちがその背中に相乗りすると、再び空へと舞い上がった。
風を切って進む飛竜の上で、私は彼の背中にぎゅっと抱きつく。
「───ね。一つだけ、聞いてもいい?」
「私がどうして、あなたと二人でぬいぐるみを贈ろうと思ったか……わかる?」
私がそう尋ねると、あなたは少し考えてから私の顔を見ず言葉を返してくれた。
「……!!」
あなたが一人で、他の女性に手作りの何かをプレゼントするのが嫌だった。
私の知らないところであなたの優しい心が誰かに向けられることは当然のこと。それに、エステラ様は何処まで行っても信頼する仲間。そんなことは頭では理解している。
しかし私の中の、まだ幼い部分が純な絆の感情に水を差すのだ。
その密かに募っていた私の気持ちを、私の思っていた以上にあなたが汲み取ってくれていたことに気づいてしまった。
「…………うん。わがままな気持ちだって、自分でも分かってる。でも、あなたにそこまで知られちゃってるなら、これ以上隠す必要もないよね」
私は少し気恥ずかしさを感じながら背中を抱きしめる腕にさらに力を込めた。
「私はきっと、───きっと言葉で通じ合う前から、あなたのことが大好きだったんだと思う」
私たち二人で共に過ごした時間以上に、私の気持ちを深く考えてくれていたあなた。私はその背中に顔をうずめつつ本音を告げた。
竜族の里が見えてくる。着いてしまうまでは、二人きりの時間を噛み締めたい。
「ありがとう、…………大好き。これからは、あなたを信じて待つだけの私じゃない」
私は力の限り、愛しい背中を抱き締める。あなたとの間に、もう風の吹き抜ける隙間のひとつも残さないように。
♢
飛竜が竜族の里に舞い降り、私たちはエステラ様の部屋へと向かった。
〈おお!解放者様に勇者姫様。よくぞこんな、山間の辺鄙な集落まで。 エステラ様がお待ちですよ。ささ、奥までご案内します。
道中に里の人々から歓迎を受けながら、目的地へと歩みを進める。
(ここがエステラ様の私室……。なんだか、趣味の話がまだ信じられないような)
里の奥、厳かな雰囲気漂う廊下に黒黒とした装飾が施された扉の前に立つ。
「えっ」
彼がいつもの事かようにノックもせずに扉を静かに開ける。その一連の流れに私は不思議な既視感を覚えたが、何も言わないでおいた。
先程までの緊張感が嘘のように、扉の先には伝え聞いた通り───、いやそれ以上にずらりと並べられ大切そうに安置されているぬいぐるみの数々に彩られたファンシーな雰囲気が広がっていた。
部屋の奥ではエステラ様が夢中で何かをスケッチしている。
「ううー……ん、この可愛らしさを表現するならやはり、練習した腹話術も取り入れるべきかしら。プクリポさん達はもっと幼くて……いやいや、ラグアス王子は」
「───っ!?!」
そう独り言を呟きながら頭を悩ませていたエステラ様が、背中越しに私たちの気配にハッと我に返り驚きに肩を大きく震わせた。
軋むような音を立てて振り返る彼女の悲壮な顔は、尖った耳の先まで真っ赤に染まっている。
「お、お二人ともご、ごきげんよう。そのっ……やっぱり、聞かれてしまいましたよね?あられもない、お恥ずかしいところを」
「い、いえ!そんな、むしろ」
エステラ様によって精巧に描かれたラグアス王子のぬいぐるみ図案を彼とともにむしろ純粋な感心をもって眺めていた。
「すごいですっ!エステラ様が、ここまで画才をお持ちだったなんて」
私は驚愕する。
「私なんて小さい頃にトーマお兄様に犬のスケッチを贈ったら、傷んだオニオーンと間違えられたくらいなのに……」
私の振り返ったその記憶を聞いてエステラ様はくすりと頬を緩める。
そして同時に趣味を見られた恥ずかしさが紛れたのか、改めて私にも正直に打ち明けてくれた。
「わたくし、ぬいぐるみもですけど。モフモフした生き物に触れるのが好きなのです」
そこで私たちは目配せをして互いに頷き、今日は贈り物をしに来たのだということを彼がエステラ様に伝えた。
「!も、もしかしてまた、ぬいぐるみを頂けるのですか?」
わくわくと目を輝かせる彼女に、私たちは二人で作ったエステラ様ご自身の可愛らしいぬいぐるみを差し出した。
その贈り物を一目見た途端、彼女の表情が驚き一色に染まる。
「ま、まさかお二人が、わたくしを模したぬいぐるみをっ?」
そしてまた口元をふるふると緩ませ、両手で桃色に染った頬を覆う。
「わたくしがこんなにも可愛くなって、ぬいぐるみさんたちと一緒にモフモフできるなんて……!?」
(え、エステラ様って───こんなに表情豊かな方だったの……!?)
半ば錯乱気味に大喜びするエステラ様だったが、心から喜んでくれた彼女の反応に私たちは笑顔で目を合わせていた。
しばらくの間エステラ様はそのぬいぐるみを大切そうに抱きしめていたが、やがて少し恥ずかしそうに尋ねた。
「あの、これをお二人で作られたということは。わたくしの趣味を、アンルシア様にもほとんど知られてしまったのですよね?」
私は少し申し訳なくもありつつエステラ様の方へ向き直る。
「その、はい。高貴な神官である貴女にしてこの趣味とは、正直意外でした」
「でも……、彼があなたに影響されて、ぬいぐるみを家に置くようになったのも納得できるくらい、可愛らしい趣味だと思ってます」
私の言葉に、エステラ様は心底安心したように深く頷きながら両手で頬を押さえた。
「!あっ……ありがとうございます。アンルシア様わたくし、とても嬉しいです」
感慨深そうに、エステラ様は私たちの贈ったぬいぐるみを沢山のぬいぐるみが並んだ彼女の棚の真ん中に置いた。
「───しかし……ナドラガンドでも深く通じ合っていたお二人が、力を合わせてこれを作っていた姿を思うと」
エステラ様はまるで祝福するような眼差しで、私たちを見つめる瞼を細めた。
「なんだかわたくしまで、嬉しくなってしまいますね」
「っ?!」
「お二人の絆は、前から気づいておりましたが。ふふっ、……あの日よりもずっと、気づかないうちに、その関係はずっと深くなったのでしょうね」
「あ、あははっ、いえ……深くなったというか、その。ようやく言葉に出来たっていうか」
「!!素敵ですっ、お二人はきっと…………!」
突然エステラ様は食らいつくように身を乗り出し、目を輝かせて私たちを凝視する。
「はっ、───いえっ、何でもないのです。ただもう少し、その甘酸っぱ……コホンっ、尊い関係性について詳しく……!」
「え、ええっ?!」
この場合どうお答えするのが正しいんだろう。
「え、っと、───……!」
たまらず顔を横に向け助けを求めようとすると、不意にあなたと目が合う。
誤魔化そうとするでもなく、ただ照れくさそうに頬を染めているその眼差しに射抜かれて、心が甘い温もりで満たされるような気がした。
「……っ、えへへ。エステラ様にもいつか、二人で言える日が来るかな」
♢
エステラ様の丁寧な見送りを受け、私たちは再び飛竜の背に乗って空へと飛び立つ。
朝に彼が部屋を訪ねてくれてから不慣れだけれど楽しかったぬいぐるみ作りに向き合い、そしてエステラ様と過ごした時間。気づけば太陽はもう西の空に沈みかけている。
私たちは行き先も決めずにただ二人でゆったりと空を飛んでいた。
「───ね。今からどうする?」
私は少し振り向いて首を傾げるあなたに向けて続ける。
「いつもなら、この時間にはお風呂に入っているはずなんだけど」
今日一日の心地よい疲れと少しの汗。それを流すのに、どうすればあなたにも付き合ってもらえるだろう。
ふと私の頭にある場所が浮かんだ。
「あ、そうだっ。今から二人で、モンセロ温泉郷に行ってみるのはどうかな?」
何気なく提案したつもりだった。が、驚いたように飛竜の運転を止め後ろを振り返り、困惑と期待が混じり合ったあなたの表情を見て私は慌てて弁明した。
「!はっ───ち、ちち違うのよっ?決してその……、変な意味ではないの」
いくら恋人とはいえ、王宮のお風呂や彼の家のお風呂に二人で入る勇気はまだ私にはない。
私は努めて真剣に続けた。
「モンセロ温泉郷のような野外の温泉なら、ほどよく人目を避けて二人きりになれると思って。だからその、……よかったらあなたに、付き合ってほしいな」
私の必死な姿に、あなたはいつになく真面目な顔で頷いた。
そして再び飛竜を動かしモンセロ温泉郷へと方向を転換するあなたの、その背中に抱きつきながら私は感じていた。
いつもより少しぎこちなく伸びた背筋が固くなっていることを。
私がそんなあなたの背中にさらに強く抱きつくと、再び背筋を伸ばして応えてくれた。
♢
温泉郷の上空にたどり着くと、天然温泉の湯けむりが私たちを優しく包み込む。
空は夕焼けに染まり山間の小さな温泉がひっそりと輝いている。私たちは飛竜をそこに降り立たせ、飛び去るその姿を二人で見送った。
飛竜の姿が遠く空の彼方へと見えなくなった頃に、思い切って彼へと切り出す。
「ね。少しだけ、後ろを向いていてくれる?」
私が目を伏せながらそう伝えると、あなたは意外なほど素直に頷きゆっくりと服を脱ごうとしてくれた。私の気持ちを汲んでくれたことに嬉しさを感じる。
(…………)
と同時に、少しだけ切なくなる。
私は着替えることなくゆっくりとあなたの後ろに回りそっと抱きしめた。
「!?」
着替えの途中で突然のことに驚き固まるあなたの体温が布越しに伝わってくる。それがあなたの高まった鼓動と同じように、私の心臓を打ち鳴らしていた。
「ありがとう。我慢してくれて、嬉しい」
私は声を振り絞ってそう伝えた。
「あのね。勇気が出たらその時は、……ちゃんと、私から誘うから」
「……!!」
そしてさっと体から離れ、あなたに背を向けて服を一枚一枚脱いでいった。
私の今の顔をあなたに見られないように。
(あなたも…………、私と、同じ気持ちなのかな)
どれくらい時間が経ったかは分からない。
「うん。私の方も、大丈夫」
服を脱ぎ終わった私たちは、湯けむりの中で互いに隣を見ないように半分だけ振り返って手を繋いだ。
そっと湯に足をつけるが、足場が思ったよりも深く私は体勢を崩しかけてしまう。
「きゃっ───」
その瞬間、咄嗟に私を支えたあなたと裸で抱き合う形になってしまった。
あなたの熱い体温が直接私の肌に伝わってくる。私の鼓動は早まり、あなたの胸に抱かれていることを強く感じてしまう。
「あっ、ありがと、えっと…………っ。見てない、よね?」
誓って見ていないと言わんばかりにあなたが肩で頷くのが分かった。
私は、───「私も」と、そう弱々しく返すのが精一杯だった。
本当は支えられる刹那に、見てしまったから。
あなたの身体、私の視界にしっかりと刻み込まれたその景色を、誰にも見られないように心の中に留めるのに必死だった。
♢ ♢
二人は、今度は足元を揃え慎重に湯に身体を沈めていく。
隣り合って胸元まで湯に浸かりながら、アンルシアは再び彼を見てしまわぬよう少しだけ彼の方に顔を向けた。
「ゼニアスにも……、もしかしたらこんな温泉が、どこかにあるのかな」
彼女がそう尋ねると、彼もまた視線に気を配りながら記憶を探る。
ゼニアスの人々から話半分に聞いた、かつて女王が治めていた砂漠の国に輝く沐浴場が存在したらしいという伝承。
その素敵な響きにアンルシアは目を輝かせた。
「あの大陸の外にそんな場所が?そうなのね……、いつかそこにもあなたと行ってみたいな」
その言葉に照れくさそうに笑った彼の声を聞いて、アンルシアはハッと気づく。
「!あっ───あはは……っ。いつの間にか、あなたと二人でお風呂に入る前提で進めちゃってた」
羞恥心に顔が熱くなるのを感じながらそっと隣の彼の肩に頭を乗せる。
「…………、はぁ」
「こんなあなたとの穏やかな時間が……、ずっと続けばいいのに」
夢見心地な心の声をそのまま口から漏らしてしまう。
彼はそんなアンルシアが湯に浸かりすぎてのぼせ始めていないかと心配になり、彼女の背中に手を回し湯から上げようとする。
しかし彼のその手を、彼女は何らかの誘いかのように思ってしまった。
「!───……、ん……」
彼の目に映るのは湯気に赤らんだ頬と普段より艶めかしく見える柔らかな唇を寄せ、青い瞳を薄く閉じ切なそうにただ何かを待つアンルシアの表情。
息を呑み、アンルシアを湯から上げようとしていた手を急停止させる。
「……っ」
そしてこの瞬間を噛み締めるように、そっと自身の唇を重ねた。
周囲の環境音が遠く聞こえるような甘いひととき。やがてその終わりとともに静かに唇が離れ、直後彼の視界を埋めつくしたのは───
夢見心地に蕩けたアンルシアの瞳と、完全にのぼせて上気した彼女の身体。
必死に目を逸らすが、否が応でも目に焼き付いてしまう。
「〜〜……!!」
彼女が我に返り自分の反応を見られる前に、彼は素早くアンルシアの身体を横抱きに抱え上げ布を着せた。
湯から上げられ彼の服を軽く羽織ったアンルシアはまだ惚けた様子の抜けない表情で目の前の彼に微笑みかけた。
「ありがとう。……もう、上がっちゃうの?」
その少し名残惜しそうに緩んだ顔に、彼の中で複雑な感情が浮かぶ。
さっきもだ。彼女の一糸纏わぬ姿を一目見たい欲望を懸命に抑えて後ろを向いた。
しかしそんな所を彼女に抱きつかれ、そして囁かれた甘い期待に保っていた理性の限界を迎えかけていたのだ。
それでも必死に、平静を保とうとしたのに。
「───隣、来てほしいな」
羽織らせた上着がはだけて顕になった胸元にも気づかず、目を合わせ防備の欠けらも無い無垢な身体を向けるアンルシア。
「だめ……?」
彼はそんな少女を責める気にはなれず、ただ黙して頷き隣に座った。
すっかり日が落ち、温泉郷の山間を吹き抜ける夜風が彼女の金髪をふわりと揺らす。風を浴びて少しずつ熱に浮かされていた思考が冷やされていった。
「さっきはごめんね。あなたの前だからって……、少しのぼせすぎちゃってたみたい」
隣の彼をアンルシアの澄んだ碧眼が見つめ、透き通るような声で言った。
「ね。目、閉じて」
彼は覚悟するようにきゅっと目を閉じる。
こんな状態でまたキスをされてしまったら自分の理性は持つだろうか。鼓動を悟られまいと備えていた次の瞬間、彼の頭は柔らかい感触に包まれ───
「っ……!?!」
閉じた瞼を隔てて、恐らく自分の目の前にある肉感的な膨らみと小さく脈打つ心音。そして昨夜の眠りを通して脳裏に焼き付いたアンルシアの温もり。
駆け巡る追憶に重なるその感覚に、自分の頭は控えめながらも確かな質量を持った彼女の胸に今包まれているのだということを瞬時に理解した。
「あのね。……私ね、自信がなかったの」
静かながら高鳴る自分の鼓動を彼に聞かせながら、アンルシアは語りかける。
「ぺったんこだって言われたり……でこっぱち、って言われたり。思えば勇者に覚醒してから、お気に入りの髪飾りだって付けられなくて」
「…………」
彼を抱きしめる力は強かったが、奥底の震えを押しとどめるような強ばりを感じた。
解放者。統治者。英雄。盟友。
勇者として、共に戦う運命。勇者として、その栄光を一番近くで支え合う使命だから。
その道の外側で彼の隣を歩く権利など自分にあるのだろうか、と。
「でもね」
澄んだ夜風に暖かな手の指先を乗せて、見上げる彼の髪をさらりと撫でる。
「あなたが……教えてくれたの。勇者としてだけじゃなくて、一人の女の子として生きていいんだって。私に───『アンルシア』に、新しい勇気をくれたんだよ」
彼女はそっと手を離し、彼の肩に上着をかけ返した。
「本当は、もっと……こうしていたいけど。風邪ひいちゃうよね」
気づけば上気せた二人の体は温泉の効能か、はたまた安堵のためか不思議なほど落ち着きを取り戻していた。
畳まれた服を広げて袖を通しながら彼に問いかける。
「私の部屋……一緒に、来てくれる?」
「…………!」
彼は迷いなく頷き、王宮の方角へと目を向けて竜笛を吹いた。
ゆったりと空を飛びながら、二人は静かに決意する。暗黙の内で交わした約束事とはいえ、身体を見てしまったのだ。
(……部屋に戻ったら絶対、正直に言わなきゃ)
そして相手もまた同じ罪の意識に苛まれているという事に気づいていたのは、アンルシアだけだった。
♢
王宮のバルコニーに着陸し、見慣れた扉の前に並んで立つ。
(いつもならこんな、ドキドキしたりしないんだけど……。自分の部屋だし)
しかしこの夜だけは、皆が寝静まった城に潜入するかのような緊張感を覚えた。
二人は扉を開け、足音を忍ばせて部屋の中へ踏み入る。僅かに床を軋ませる足音さえもがいやに大きく聞こえる。
天蓋付きのベッドにそっと腰掛け、アンルシアは右手で隣を緩く叩き彼を促した。
暗い部屋に流れた刹那の静寂の後、彼が意を決し口を開こうとしたその時。
「見られちゃった、よね」
「!?……、っ」
意表をつかれ肩を竦ませる反応を見逃さず小さく横首を振り、彼女は彼に手を重ねて優しく握った。
「責めるつもりなんてないの。あなただけずるい……って、本当は言いたかったけど。やっぱり、あなたとの間にウソはつきたくなくて」
含羞むその声に彼が目を見開くと、アンルシアと目が合った。
自分だけ気づいていなかったなんて。見られてしまった恥ずかしさよりも、自身の勘の弱さに少し情けなくなった。
アンルシアはそんな彼の身体を抱き寄せるようにベッドへ倒れ込む。
「!」
互いの肩に息遣いが聞こえ、跳ねた鼓動が互いの布越しにより強く伝わる。
そして彼の火照った耳を冷やすように囁き声が響く。
「今日はおあいこさんだから、お互い蒸し返すのはナシ。その代わり───」
紅く染めた頬、細めたままの目で彼を見つめる。
「次にそうなった時は覚悟、しておいてね」
彼はその言葉に心臓が止まったような、しかし不思議な安らぎを覚え頷く。
そう、全て気づかれているのなら今更隠す必要も無い。
抱き締め返し覚悟を表す彼、布越しに触れたその身体が意識の下方で素直な反応を見せている。
「!っ、───」
頬を染める嬉しさを心の奥にしまい込み、それ以上の触れ合いを求めはしない。
「分かってる。今は、……いまじゃ、だめだもんね」
互いに、務めて冷静に。
一時の情の流れに身を任せてはいけない。
「そうだ。一つだけ……おはようってご挨拶するまで、お布団から出ていかないこと」
この時間が気の迷いだなんて、誰にも言わせない。
「ふふ、こうすれば起きるまで一緒……明日も離れずにいられるでしょう?」
互いの熱がいつまでも冷めてしまわぬよう、二人は優しく抱き合ったまま穏やかな夢に落ちていった。