現実にいるはずなのに、夢を漂っているかのような感覚に陥ることは誰しもが一度は経験したことがあるはずだ。
自分の意思で体を動かし、目の前の情報を処理しているのに、ポカンと惚けているようなあの感覚。スポーツやゲームに熱中して、いわゆるゾーンに入った時がそんな感じかもしれない。
社会人になって体や脳を活発に動かすことが少なくなった俺は、そんなゆめうつつな状態に陥ることも次第に減っていった。間宮彩恵(まみやあやめ)に会うまでは。
観客はシンと静まり返っている。さっきまで横や縦に揺れていたペンライトの波も、今や凪。会場を包むバラードが人々の息を止めていた。
舞台袖のスタッフ達も、自分の仕事を忘れて一人の女性に心奪われている。かくいう俺も、光輪めいたライトに照らされる彼女から目が離せない。
純白のワンピースに身を包み、背中まで真っ直ぐ伸びた銀髪を翻し、女神のように洗練された一挙手一投足で舞う姿に、一人の人類として信仰心まで抱いてしまう。
力強く、儚い存在感。
夢より心地のいい時間だった。このライブが永遠に続いてほしいと本気でそう願った。
だが、悲しいかな、五分ほどのバラードはあっという間にアウトロへ到達する。
ピアノの音が止み、静寂が訪れると人々は現実に引き戻され、会場が割れるほどの拍手が響く。
爆竹のような音に俺はようやくトリップから覚めた。
拍手が止んだ後、彩恵は観客席に優しく微笑みかけた。
「最後まで聴いてくれてありがとう。特別な時間を皆と過ごせて、これ以上ない幸せだったわ。次のライブではもっと輝けるように、笑顔を届けられるように頑張るから、楽しみにしていてほしい。それじゃ、またね」
締めの挨拶を言い終わると、彼女は深々と頭を下げた。もう一度、会場中から拍手が降り注いで、ファン達は思い思いに感謝の言葉を叫んでいた。
手を振りながら舞台袖へ戻ってくる彩恵を記録用のカメラで何枚か撮っていると、彼女はそれに気づいて、くすぐったそうにはにかんだ。
◆
楽屋へ戻ると彩恵は椅子に腰を下ろし、深くため息を吐いた。
「はあ……」
普段はピンと伸びている背中を少し丸め、くたびれた表情を見せる。それでもその横顔は美しかった。顔が良い人間は何をしても綺麗で世の中理不尽だ。
「だいぶ疲れてるな。大丈夫か?」
「ああ……ごめんなさい。終わって早々ため息なんて良くないわね」
「今月はハードスケジュールなんだ。そうなるのも仕方ない。俺達以外誰もいないんだし、我慢する必要ないぞ」
俺がそう言うと、彩恵は悩むそぶりを見せ、少しだけ笑みを作った。
「そうよね。マネージャーと、私だけ。二人っきりだし」
意味深に呟いて彩恵は自分の足元に視線を落とす。
ほんの些細な仕草から滲み出す緊張感に、これから起こることが容易に想像できた。
見合いにも似た空気。俺は特にアクションを起こさず彩恵から動くのを待った。
彩恵はチラリと俺の顔を窺い、ワンピースの膝のあたりをギュッと握り、聞き逃しそうなほど小さな声で言った。
「じゃあ、今日も……甘えていい?」
上目遣いの彼女に頷いてせると、彩恵はひまわりのように笑顔を咲かせて息を吸った。
「あのベテランっぽいスタッフをクビにできないの? 腕は確かなんでしょうけど、新人さん注意する時は皆がいないところでやってほしいわ。おかげで現場の空気最悪で居心地悪いったらありゃしない。ただでさえ音響悪くて嫌な箱なのに、ああいう人がいると余計嫌いになりそう。そうそう、ついでに言っておくけど、大きい箱押さえろなんて言わないから、マイクトラブルは極力なしにしてよ。音が飛んだ瞬間、観客と目が合って気まずいわ。笑顔で返すけど、どんなに精一杯やったって誤魔化してる感は出ちゃうのよ。それと最近のスケジュール、ほんっっっとにしんどい、というかゴミ。ライブ直前に毎日レッスン入れるのは良しとしても、事務所のどうでもいい配信ぐらいは休ませて。私が出ても出なくても、仲良くないアイドル同士で微妙な雑談やって宣伝するだけなんだから、他の子に代役やらせといて。あと、SNSキャンペーン用のチェキ? なんであれってチェキなの。普通のポストカードとかでいいじゃない。画質悪くて写り良くないし、サイズ小さくてサイン書きにくいし、コンカフェのサービス感あって安っぽいしで苦手。あ、この後の打ち上げなんだけど、私行かなきゃダメ? 毎回長引くから嫌なのよ。お行儀良くしてなきゃいけないし」
俺が相槌を打つ間もなく、彩恵はハッキリとした発音で捲し立てた。二人しかいない楽屋では彼女の声はしっかり響いて、一音一音鮮明に俺の耳に入ってくる。スタッフやライブ環境、直近のスケジュールへの文句に、よくもまあそんなに淀なく出てくるなと感心していると、「聞いてる?」彩恵に睨まれた。
「半分は聞いてる」
「ならあと半分は文字に起こすから、明日までに目を通してレポートを提出してね」
「俺が悪かった。全部聞くから宿題は勘弁してくれ」
俺が謝ると彩恵はムッと眉間に皺を寄せ、また一段温度を上げて、思いつくままに日頃の不満を垂れ流し始めた。
俺は一応、彼女の言葉を要約してスマホにメモりながらステージ上とのギャップに他人事のように感心していた。
最近話題沸騰中の二十一歳新人アイドル、間宮彩恵。
彼女は本音を隠さない子だった。俺の前では。