間宮彩恵というアイドルに私はそこまで興味がなかった。
彼女がデビューしたのは三年ほど前。芸能界では新人と呼べる芸歴で、まだ小さなステージで踊っていても不思議じゃない経歴だ。
けれど、ここ二年ぐらいで間宮彩恵の名前は大きく売れた。
テレビや雑誌にしょっちゅう顔を出すようになったし、CDやライブの話題も必ずと言っていいほどネットニュースになる。
アイドルに微塵も興味がない私でさえ、勝手にその顔と名前を覚えてしまうぐらいには彼女は有名人だった。
それでも私の中では、彼女のバズった曲を何曲か聴いたことがあるぐらいの存在でしかなくて、お隣さんが間宮彩恵のマネージャーだと知らなかったら、そのままずっと興味を持たずに過ごしていたに違いない。
彼女がどれだけ凄くても、私にとって間宮彩恵はモブキャラクターだ。
アニメのヒロイン達だって、自分のことをヒロインだと思って生きてるワケじゃない。自分が主人公だと疑わず、主人公を脇役にしてる。
私もそう。今まで自分が主人公だと無意識に信じていた。自分がなぜ呼吸をしているのか疑問に思わないのと同じぐらい、無意識に。
でも、お隣さんの部屋でライブ映像を見た時、初めて主役を取られた気がした。
ずっと彼女から目が離せなくて、強制的に没入させられるような感覚。身勝手に引きずり込まれたのに、間宮彩恵があまりに眩しくて、そのまま全部委ねてしまいたいとまで思わされた。
もう主人公じゃなくてもいいや……なんて思ったのと同時に、悔しさも生まれた。
何か一つでも彼女をギャフンと言わせる会心の一撃をかましてやりたかった。主人公の座を奪い返したかった。勝ちたかった。
だからまず、間宮彩恵を知ろうとお隣さんに無理を言って雇ってもらった。
彼女の裏の顔、苦手なこと、弱点を知るために。
だけど。
――ああ……これは無理だ。勝てない。勝ち目なんかゼロだ。
◆
本番の舞台袖。華麗なステージパフォーマンスを披露する彩恵に、灯はピョンピョンと飛び跳ねて興奮していた。
「かっこいい! なんすかアレ! ドローン飛びまくってますよ、金かけすぎでしょ! うわ、彩恵さん投げキッスした! 羨ましい……私も観客席で見たかった! 見たかったあ!」
「……わかった、わかったからスーツ引っ張るな」
俺の袖を引っ張る灯を宥めようとしたものの、灯の耳に俺の声は届いていない。
記録のため、俺はカメラで彩恵の姿を撮影しているが、灯のせいでブレまくっている。それどころか、灯の腕や頭がカットインしてくる始末だ。
ライブが始まってから、彼女は子供のようにはしゃぎっぱなしだ。リハの時は落ち着いていたのに、いざ本番が始まると人が変わったかのように彩恵に虜になっている。
舞台袖からファンと同じようにレスポンスして、サイリウム代わりにペットボトルを振り回して、目はキラキラと輝いていた。
正直意外だ。灯がここまで彩恵にハマるなんて。
灯のテンションの上がりように、周りのスタッフも若干引いている。俺も普段だったら彩恵の歌声に聴き入っているはずだが、灯が気になりすぎてステージに集中できない。
さすがに少し落ち着けようかと思ったものの。
「……楽しいか?」
「やばいっす! 人生で一番かも!」
曇りのない目でそんなことを言われると忍びなくて、そうか、と相槌だけ打った。
◆
「んでんで、ここのターンがキレッキレなんですよ! ほら、グリュンって。いっかい回るだけなのにこれ見ただけで、あ、ダンス上手そうって素人でもわかっちゃうレベルなんです! ほら、ほら!」
「う、うん。ありがとう……」
「あと、ここ! 髪の翻り方、CMみたい。ふぁさ……って、ふぁさ……ってなってます! アニメでもこんな綺麗に動かないです!」
「そ、そうなんだ……」
「で、間奏のところも――」
灯は高速回転する口を更に加速させ、俺が撮った映像を彩恵に見せながら、ライブの瞬間瞬間について語った。
聞かされている彩恵は彼女の熱量についていけず、苦笑いを浮かべ、助けて、と俺に視線を送ってきた。
「灯。彩恵も疲れてるからその辺で」
「あ。ご、ごめんなさい。つい熱くなって……」
ようやく灯は冷静になってシュンと小さくなった。
帰りの車の中で、灯は彩恵にライブの感想をずっと聞かせていた。バックミラーで時々、後部座席の様子を見ると、疲れ切った彩恵の顔と、興奮の冷めやらない灯の顔とが対照的で姉妹っぽくも見える。
注意された途端、子犬のように大人しくなった灯に彩恵が気を遣って話しかけた。
「灯ちゃんって、ああいうライブ初めて?」
「はい。今まで生ライブは行ったことなくて、彩恵さんのも映像でしか知らなかったです。だからセットのキラキラした感じとか、お客さんの声とか、爆音で流れる音楽とか、そういうの初めてでまだ心臓がバクバクしてます」
「わかるわ。特に音は映像じゃ伝わらない振動があるからね」
「うぅ……正面から見たかったなあ。舞台袖じゃ大きな声も出せないし」
「だいぶうるさかったぞ。スタッフが顔しかめてた」
「余計なこと言わないでください」
ドスっと軽く俺のシートが叩かれた。
「こっから色んな会場回るんですよね?」
「ええ。あと五都市でライブ予定よ」
今日はツアーの初日公演だった。これから県外も含めて五つの都市で公演が開催される。
当然俺は彩恵に付いて回るわけだが、学生の灯はというと……。
「私も行きたい!」
「お前は学校あるだろ」
「ライブ自体は土日開催じゃないですか。行けますって」
「前乗りとかあるんだよ。学校通いながら全通はお前も体力的に大変だぞ」
「できるもん! お願いします。いっぱい働きますから飛行機なり、新幹線なり取ってくださいぃ」
「ゆ、揺らすな! 運転中!」
シートを揺らしてせがまれて、ヒヤリとする。
「……まあ、きちんと学業と両立できるっていうなら考えておく」
「やった!」
喜ぶ灯の隣で、彩恵が小さくため息を吐いたのを俺は見逃さなかった。鬱陶しいのにちょこまかされるのが嫌なのだろう。
それからしばらく運転して彩恵を家まで送り、車内が俺と灯の二人きりになったところで、俺は灯に訊ねた。
「かなりご執心だけど、彩恵への敵対心はどこ行ったんだ?」
「もう、完膚なきまでに叩きのめされました」
敗北宣言を掲げた割に、表情は穏やかで悔しさのひとつも滲んでいない。
「太刀打ちなんかできないって思い知りました。彩恵さんは私の神です。女神様です」
「こっわ。急に目覚めるなよ」
「だってあんなの見せられたらどうもできないっすよ……。生でライブを見てわかった気がします。彩恵さんはたぶん、アイドルなんかやりたくないんだと思う」
「…………」
「ステージに立つ彩恵さんは生き生きとしてなかった。誰よりも輝いてたし、間違いなく世界の中心にいたけど、その中心にいる彩恵さんはどっか楽しくなさそうで、自分自身に没頭しているようには見えなかったです。きっと、あれが彩恵さんの
ジッとカメラの映像を見つめる灯の目は、宝石でも愛でるようなうっとりとしたものだった。
本人は納得しているようだったが、俺には少し寂しい目に見えてスッキリしない。
「文字通り私とはステージが違う。私はずっと観客で、彩恵さんは一生、舞台上に縛りつけられてる。そういうふうに世界はできてる」
「言いたいことはわかるけど、灯に勝ち目がないってことはないと思うよ。確かに彩恵は物覚えが異常に早くて、ストイックで、見た目も性格もいいけど」
表向きの性格は。
「その分、親しみやすさがないっていうのは時々ファンからも言われてる。俺や事務所がそういうブランディングしたせいもあるけど、それを抜きにしても近寄りがたい雰囲気はある。その点で言ったら灯の方がずっと強い。絡みやすいし、生意気だし、可愛げがあるし、顔を正面から見ても別にドキドキしないし」
「褒めてるんすか、それ……」
「だから結局のところ、向き不向きとか、他人にどこを見せるかとか、灯が相手のどこと戦おうとしてるかってだけなんじゃないか?」
「相手のどこと……うーん。絵とかは地味に得意っすけど、勝てますかね」
「彩恵も得意だぞ。高校の時描いた絵がコンクールで賞貰って、美術館に展示されてたはず」
「……自炊するんで料理は出来ます。最近、筑前煮の作り方覚えました」
「去年番組で芸能人の料理対決トーナメントがあったけど、他の演者蹴散らして優勝した。得意料理は春野菜のテリーヌらしい」
「……こ、コスプレ! コスプレならどうっすか。単純な見た目だけなら完敗ですけど、よりアニメキャラに似せられるかっていう点で言ったら私に分があると思うっす。メイク上手いし、衣装も自分で作ったりできるし!」
「雑誌の企画でやった。メイクも衣装も自分で用意してたし、足の太さが違うとか言い出して、ボディメイクから始めてた」
「…………勝機あります?」
「ごめん。ないかも」
泣き出す五秒前みたいな顔で、灯は弱々しく俺を睨む。
「……負け顔は彩恵より強いと思う」
「嬉しくない」