部屋の明かりを点け、鞄をソファに転がすと堅苦しいネクタイを緩めた。
「はあ……」
社会人となってからというもの、ため息がよく出て困る。彩恵と違ってくたびれた顔が映えないため、姿見に映る自分の顔を見たくなくてジャケットを被せて隠した。
お茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、缶ジュースがドアポケットにちょこんと座っていた。
普段甘いものは飲まないが、職場で貰ってここまで連れてきたのをすっかり忘れて放置していた。
味はグレープ。甘ったるそうで飲む気がしない。甘党の彩恵に押し付けよう、なんて考えた時、カラカラ……と窓の外で何かが動く音が聞こえた。
聞き慣れた音に俺は缶ジュース片手に窓を開け、外を覗く。
「お疲れっす。お隣さん」
ベランダの仕切り板の端から、ピンクのショートカットの少女が顔を覗かせた。
◆
日野灯(ひのあかり)は同じマンションのお隣さんだ。
彼女は高校に通うために一人暮らしをしていて、最初こそ顔見知り程度の関係だったが、今ではたまにこうしてベランダ越しに駄弁るぐらいには仲良くなった。
手すりから身を乗り出して顔を出す灯に「危ないぞ」と声を掛けて、ジュースを押し付ける。
「職場の人から貰ったんだけど、飲む?」
「貰えるもんは貰うっす。あざす」
律儀に頭を下げて受け取ると、灯はプルタブを開け、大事そうに両手で持ってゴクゴクと飲み始めた。ハムスターみたいでなんか良い。
お互い手すりに寄りかかりながら、四階から見える夜の住宅地をぼんやり眺めた。
「テストはどうだった?」
「英語以外はなんとか。あとは寝るぐらい暇でした」
「わからなすぎて寝てたとかいうオチじゃないよな?」
「鋭いっすね」
あははっ、と灯は豪快に笑い飛ばす。
「んなつまんないことより、相談乗ってくださいよ」
「今回は自信あるとか言ってたのに」
「そろそろバイト探さないと、お父さんに雷落とされそうで……。なんか良いバイト知りません?」
「親が生活費出してくれてるんじゃなかったっけ」
「そうなんですけど、流石に全部おんぶに抱っこは良くないってことで、働いて食費ぐらいは稼ぎなさいって」
「バイトねえ。俺もあんま通ってこなかったしなあ」
「多少はやったんだ」
「祭りの屋台の手伝いとか、ドラマのエキストラとか、地下バンドのサクラとか」
「特殊だなあ。ある程度長くできて安定、かつセンセーショナルでエキサイティングなものがいいんすけど」
「んなもんあったら全員やってる」
「ですよねー」
苦笑いを浮かべると、灯はもう一度ジュースを飲んだ。
「そういえばお隣さんって、仕事何やってるんすか? 時々帰ってくるの遅い時あるし、土日もスーツ着てる時ありますよね」
「サラリーマン」
「露骨にはぐらかされた……。なーんでいつも教えてくれないの? そっち系の仕事だったりします?」
「流石に反社じゃないって」
「いや、キャバクラのオーナーとかボーイとかそっち系の」
「そっちかよ」
「もしくは芸人さんとか」
「俺のトークが面白かった瞬間あった?」
「ないっすね」
「即答するな」
「えへへ。まあ、言いたくないならこれ以上は聞かないでおきます。代わりに趣味とか教えてくださいよ」
「趣味ねえ。仕事でバタバタしててそれどころじゃないんだよなあ」
「仕事何やってるんですか?」
「聞かないって言ったばかりだぞ」
「気になること言うから……」
「強いて言うなら音楽聴くのは好きだ。つってもミーハーだから有名どころしか知らないけど」
「へー。バンドとか?」
「最近はアイドル系が多い。男性も女性も聴く」
「似合わな」
「失礼な」
「いや、だって。今までそんなこと一度も聞かなかったから、全然イメージと違うなあって」
心底驚いた顔をされる。今まで一体どんなイメージを持たれていたのやら。
「アイドルかあ」
「灯は興味ない?」
「私もテレビで見るような人ぐらいしか知らないっす。ああ、でも、間宮彩恵でしたっけ。最近ちょこちょこ話題になる人」
急に出てきた名前に手すりに乗せていた腕がズルッと滑る。灯に何してんの、と言いたげな目を向けられて、精一杯誤魔化した。
「ま、間宮さんね。うん。俺もちょっと曲は知ってるけど、ファンなのか?」
「いや。割と苦手かも」
「……理由は?」
「なんか、何でも包み込んでくれるお姉様みたいな振る舞い方してるけど、中身はそうでもなさそうって言うか。実際は天使面した悪魔っぽい」
「正解」
「え?」
「いや、なんでもない。……なんでそう思うんだ?」
「んー、似てるからかな。私も外では猫被ったり、自分のこと曝け出すの怖かったりするから、そういう自分を隠してる人見るとビビッとくるんすよね」
「灯が? そんな風には見えないぞ」
「お隣さんぐらいっすよ。こんなに気楽に喋れる相手は」
灯はニッとはにかんで見せた。懐かれているようで嬉しいやら恥ずかしいやらだ。
「灯は趣味とかないのか?」
「私は……」
適当に投げた質問に灯はやけにじっくり考える。たっぷり間を取ったあと、顔色を窺いながらそっと口を開いた。
「コスプレ、とか」
「へー」
「似合わないっすか」
「見てないからなんとも。でも酎ハイにストロー刺して駅前でしゃがんでる女の子の服装は似合いそう」
「なんで地雷系だと思われてんすか」
「しないのか? そういうファッション」
「……たまにします」
「似合ってるよ」
「このタイミングでそれは褒め言葉に聞こえないって」
眉間に皺を寄せ、俺を叩こうと腕を伸ばしてくるが、仕切り板が邪魔で届かず余計不機嫌な顔をする。
謝りながら「でも、そういう子、結構好きだな」とフォローを入れると、「そ、そっすか」と恥ずかしそうに缶を揺らした。
「本当は学校の友達とコスプレとかファッションの話したいけど、引かれそうで言えないんですよね。皆、好きなこと素直に喋れて羨ましいっす」
まあまあなコンプレックスなようで、灯は遠くの景色を眺めた。
年頃の悩みなように思えて、案外大人になっても変わらない悩みでもある。
人によっては他人との話題作り用の趣味と、誰にも言わずに自分だけで楽しむ趣味の両方持っていたりもすると聞くし、そんなに重く捉える必要もないと思う。が、好きなものを誰かと共有したいというのも、よく分かる。
「誰だって灯と同じ気持ちは抱いてると思うよ。本当に好きなこと喋ったら引かれるかもってビクビクしながら周りの顔色を窺ってる。俺だってアイドルの曲聴いてるって言うの、普段なら少し躊躇ったりするし」
「そんなもんすっか」
「でも灯が聞き手だったからか、素直に言えた。そういう相手が一人だけでもいると、多少、人生楽だよな。灯にもそんな相手はいるんじゃない?」
灯は手すりに顎を乗せ、ジッと風を浴びていた。
彼女の言葉を待っていると、しばらくしてようやく灯が顔を上げた。
「明日。コスプレの話聞いてもらって良いですか?」
不安げな顔に笑いを堪えながら頷いて返した。
「気が向いたら」
「そこはもちろんって言うところっす」