「じゃあね」
通学路で別れるような軽い調子で手を振り、彩恵は俺の部屋から出ていった。
パタンと閉じたドアがどこか寂しい。単に体力を使って冷めてしまったからなのか、俺がただ寂しがりやなだけなのか自分でもよくわからない。多分、どっちもだろう。
彩恵が使っていたマグカップを片付けて、ズレたソファの位置を直し、汚れたシーツを洗濯機に突っ込んだ。
彼女がいた形跡をせっせと消し、壁掛け時計を見上げると二十時を過ぎていた。
まだ夕食も食べていない。外食の予定を捨て、冷蔵庫に手をかけたその時。
ドンッ――。
リビングの窓に何かが当たった音がした。雨はすでに止んでおり、聞き間違いではないのは確かだった。
初めて聞いた音だが、なんとなく隣人の顔が浮かぶ。何事かと窓を開けてベランダへ出ると、案の定、白いパジャマ姿の灯が手すりから身を乗り出していて、ベランダにはクマのぬいぐるみが転がっていた。器用に窓に向かって投げたらしい。
俺はぬいぐるみを拾って灯に渡しながら「呼び出しか?」と、訊ねた。
「そっす。頼み事があって」
「今から飯なんだ。後にしてくれ」
「んにゃ。すぐに済む用事っすよ」
「というと?」
「彩恵さんのCDとかライブ映像とか持ってるっすよね」
先ほどまで部屋に居た彼女の名前を出されて、心臓が縮こまった。
「も、持ってますが何か?」
「何で敬語なんすか……?」
「な、何でもない。……全部持ってるよ」
「そっすよね。いくつか貸してください」
「何でまた。苦手とか言ってたろ」
「まあ、そうなんですけど、やっぱり気になるじゃないですか。隣人が担当してるアイドルがどんな人か」
以前、マネージャーの俺に『苦手』なんて言ってしまったのを後悔してるのか、灯は気まずそうに頬を掻く。
「誰にだって好き嫌いはあるし、俺はそこまで気にしてない」
「……そっか」
「今借りるか?」
「うっす。そっち行きまーす」
灯が小走りで部屋に戻り、俺もライブの円盤やCDを何枚かラックから抜いた。
すぐにインターホンが鳴り、ドアを開けると灯が「おじゃましま」と玄関に踏み入り、スリッパを脱ぎ始めた。
「すまで言え。……てか、何で入ってきてんの」
「私の部屋ビデオプレイヤーとかないんすよ。ノーパソもDVDドライブないタイプだし」
「だからって成人男性の部屋に平然と上がるなよ」
「エロ本と薬物ぐらい目瞑りますから」
必死に止めようとするも灯はスルスルと俺の横を通り抜け、勝手にリビングまで上がってソファに座る。リモコンでテレビをつけながら部屋を見渡し、「意外と綺麗っすね」なんて呑気に感想まで述べた。
「くつろぐな。飯もまだなんだって」
「大人しくライブ見てるだけなんで、気にしないでください。……あ、もしかしてベッドに誰か居たりしま」
「居ないです」
「なんで食い気味……?」
訝しむ灯に俺は寝室のドアを開けて中を見せた。
「ほら誰も居ない」
「そんな堂々と見せられると逆に怪しいんすけど。ま、とにかく私のことは無視して楽に過ごしてください」
灯は俺の手からライブのブルーレイを奪うと、プレイヤーに入れてソファの上であぐらをかく。
完全に鑑賞モードに入った彼女に何を言っても無視されそうで、俺は諦めてキッチンで夕食の準備を始めた。
「ちな、私もご飯まだなんで」
……食器洗いぐらいはやらせよう。
二人分の野菜炒めを作って灯と食べながら、激しいダンスソングを軽々こなす彩恵を観ていた。
灯はアーティストやアイドルのライブには疎いらしく、想像以上に華やかなステージに目を丸くしている。
「こんな規模でやってるんすね」
「この時は五千人ぐらいかな。今なら一万人は平気で集まる」
「スターだなあ。お隣さんがマネージャーだなんて、ますます信じられないっす」
「俺も時々、コイツのマネージャーやってるのかって冷静になる時あるよ」
「彩恵さんって元々ダンスやってたんでしたっけ?」
「ああ。中学からダンス教室に通ってたらしい」
「何きっかけでアイドルに?」
「高校の時、学祭で踊っていたのを生徒が勝手に撮影してSNSに投稿したんだ。それがバズってうちの事務所のスカウトの目に入った」
「現代っすね」
説明しながら俺も怖い怖いと震えた。今の世の中、誰がどこでスマホを向けているかわからない。故に、彩恵との関係性も断ち切らねばならないのだが……もう後戻りできないところまで来ている気がする。
灯はテレビから全く目を逸らさず、瞬きの回数も最小限に抑えていた。彩恵のパフォーマンスに食い入るように見つめている。
「このライブ観終わったら戻れよ」
「はーい」
灯はこっちを一瞥すらせず、パクリと人参を口に放り込んだ。
◆
ピピピッ……ピピピッ……。
アラーム音に意識を起こされ、半ばキレ気味にスマホを止めた。ずっと聞いてるとスマホをかち割りたくなるため、すぐに止めるようにしている。
重い体を起こし、ノロノロとベッドから降りて寝室から出ると、コーヒーとトーストの香りが鼻腔をくすぐった。
一人暮らしの俺の朝食がリビングのローテーブルにすでに用意されていて、育ちのいい空き巣でも入ったかと警戒したが、ソファに体育座りでテレビと対峙するピンク髪に肩の力が抜けた。
寝室から出てきた俺に気づいた彼女は、ピッとライブ映像を止める。
「おはようございます。勝手にキッチン使ったんすけど、朝ごはん用意してるんで食べてください」
「灯……」
「はい。灯です」
「何でまだいんの」
「とりま円盤は全部網羅したんすけど、一回じゃ物足りなくて。三周目入ってるところっす」
何食わぬ顔で言う灯に、呆れを通り越して恐怖すら覚える。
結局、灯は昨日の夕食の後も決して帰ろうとせず、そのままずっと部屋に居座った。円盤やCDどころか、写真集やインタビュー記事まで目を通し始めた灯に、俺はもう知らんと、寝室に引っ込んだわけだが、まさかそのまま徹夜されるなんて思いもしなかった。
「お前、今日学校だろ」
「出席率いいし、一日くらいサボっても大丈夫っすよ。そんなことより」
勝手に一泊されたことを『そんなこと』のひとことで片付けられた。コイツ図太すぎないか。
灯はようやくテレビを消すと、ソファの上で正座して真面目な顔で俺に向き直る。
「お隣さん」
「な、何だ。急にかしこまって」
思わず身構えた俺に、灯はひと息吸い込んで言った。
「私を、彩恵さんのマネージャーにしてください」