麻帆良学園都市の夜は、表向きの静寂とは裏腹に、常に得体の知れない熱と魔力を孕んでいる。
女子寮のの一室、出席番号21番の那波千鶴、28番の村上夏美、そして29番の雪広あやかが共同生活を送るその部屋は、今宵、予期せぬ闖入者によって日常を大きく狂わされようとしていた。
「ただいま戻りましたわ、千鶴さん、夏美さん。今日は馬術部のミーティングが長引いてしまって……って、あら?」
豪奢な装飾が施されたドアを開け、雪広財閥の令嬢である雪広あやかが優雅に部屋へと足を踏み入れた瞬間、彼女の言葉はピタリと止まった。
あやかの視線の先、部屋の絨毯の上には、怪我の手当てを受け、不満げにあぐらをかいている見知らぬ少年の姿があった。先ほどまで小さな狼の姿をしていた小太郎は、千鶴たちの手当てを受けた後、本来の人間の姿――犬耳と尻尾を隠した、野生味あふれる少年の姿へと戻っていたのである。
「……えっと、あやかちゃん、おかえりなさい。実は、この子がベランダに倒れていて……」
夏美がおろおろと事情を説明しようとするが、あやかの視線は小太郎を値踏みするように細められていた。
あやかは自他共に認める「純真無垢な少年」を愛好する趣味、いわゆるショタコンである。美しい少年を見ると母性や愛情が暴走しがちな彼女だが、目の前の小太郎に対しては、その端麗な顔に一切の熱がこもっていなかった。
「……千鶴さん、夏美さん。わたくし、純真で可愛らしい少年は愛しておりますけれど、このような……見るからに躾の行き届いていない、野生の獣のような粗野なガキには、一切の興味が湧きませんわ」
「な、なんだとこの女! 誰が粗野なガキだ!」
「あら、言葉遣いも全くなっていませんのね。雪広家の屋敷に迷い込んだ野良犬でも、もう少し愛嬌がありますわよ。千鶴さん、手当てが終わったのなら、早々に保健所なり孤児院なりへ引き渡すべきですわ」
「あらあら、あやかさんったら。怪我人を追い出すなんて、そんな薄情なこと言わないでちょうだい」
千鶴がいつものおっとりとした笑顔で場をとりなす。だが、その和やかな(あるいは険悪な)空気は、部屋のドアを叩く、極めて紳士的で落ち着いたノックの音によって破られた。
コン、コン。
「――夜分遅くに、大変失礼いたします」
ドアの向こうから響いたのは、深く、心地よいバリトンの声だった。警戒する小太郎をよそに、千鶴がゆっくりとドアを開けると、そこには仕立ての良いスーツを身に纏った、見事な髭を蓄えた初老の男が立っていた。男――ヘルマンは、胸に手を当てて深く一礼する。
「突然の訪問をお許しください、麗しきレディたち。私はヘルマンと申す者。実は、そちらに迷い込んでいる家出人の坊っちゃんを迎えに上がりましてね」
その極めて紳士的な口調と、滲み出る大人の男の色気(イケオジとしての魅力)に、夏美がわずかに顔を赤らめる。しかし、小太郎は牙を剥き出しにして、ヘルマンめがけて一直線に飛びかかった。
「ふざけんな! 誰が家出人だ! 俺は絶対に捕まらねえぞ!」
小太郎の拳が、空気を切り裂きヘルマンの顔面へと迫る。しかし、ヘルマンは焦る様子すら見せず、上品な笑みを浮かべたまま、その拳を手のひらでふわりと受け止めた。
「おやおや、相変わらず元気の良いことで。ですが、レディたちの前で暴れるのは感心しませんね」
ヘルマンの動きは洗練されており、無駄がなかった。小太郎は次々と鋭い蹴りや拳を繰り出すが、それらは全て、ヘルマンの流麗な体術と見えない魔法の障壁によっていとも容易く弾き返されていく。
それなりに善戦を見せる小太郎だったが、圧倒的な実力差は歴然としていた。
「くそっ……! こんなところで……っ!」
「少し、頭を冷やしなさい」
ヘルマンの重く鋭い手刀が、小太郎の首筋に正確に叩き込まれる。小太郎は白目を剥き、そのまま絨毯の上へと崩れ落ち、完全に気絶してしまった。
「キャアッ!?」
「……なんて乱暴な真似を。紳士を気取っておりますけれど、やっていることは野蛮な誘拐犯と同じですわね」
夏美が悲鳴を上げ、あやかが鋭く睨みつける。ヘルマンは気絶した小太郎を片手で持ち上げようとした。
だが、その前に、豊満な胸を揺らしながら、那波千鶴が静かに立ち塞がった。
「お待ちになって。その子を連れて行くことは、許しませんわ」
千鶴の口調はいつも通りおっとりとしていたが、その瞳には決して退かないという強い意志が宿っていた。人間は、そう簡単には屈服しない。目の前で傷ついた子供が連れ去られようとしているのに、見過ごすことなど彼女の母性が許さなかったのだ。
「……ほう。それはどういう意味かな、お嬢さん」
「言葉通りの意味ですわ。あなたのような得体の知れない方に、この子を渡すわけにはいきませんわ。あなたがどれほど強大な力を持っていようとも、この部屋から無理やり連れ出すというのなら、わたくしが相手になります」
千鶴の凛とした態度に、ヘルマンの目がわずかに細められる。彼は小太郎を下ろし、顎に手を当てて千鶴の豊かな肢体と、その強靭な精神を値踏みするように見つめた。
「……素晴らしい。その高潔な精神。ただの小娘かと思っていましたが、あなたは実に価値のあるレディのようだ。予定を変更しましょう」
次の瞬間、ヘルマンの姿がブレた。
千鶴が瞬きをする間もなく、彼女の背後に回り込んだヘルマンの強靭な腕が、千鶴の腰と口元をふさいでいた。
「んっ……!? あなた、何を……っ!」
「ちづ姉!?」
「千鶴さん!」
暴れる千鶴を軽々と抱え上げ、ヘルマンはニヤリと笑う。
「この素晴らしいレディは、私が頂戴していく。追ってくるのなら歓迎しますよ」
ヘルマンが窓を蹴破り、夜の闇へと飛び出そうとしたその時。
廊下の奥から、静かな、しかし圧倒的な威圧感を伴う足音が近づいてきた。
「……おや。僕の可愛い生徒の部屋が随分と騒がしいと思ったら。夜這いにしては、随分と強引ですね」
そこに立っていたのは、端正な顔に冷たい笑みを浮かべたネギだった。彼の瞳には、自分の支配下にある(あるいはこれから支配する予定の)玩具に手を出されたことへの、静かな怒りが渦巻いている。
「ほう……あなたが噂の。なるほど、只者ではない魔力を感じます」
「その人を下ろしなさい。彼女は、僕の生徒です。他人が勝手に触れていいものではない」
ネギの言葉には、紳士的な響きの中に絶対零度の殺意が混じっていた。
ヘルマンは抱えた千鶴の感触を確かめるように抱き直し、余裕の笑みを崩さない。
「お断りします。このレディは私の目的のための、素晴らしい人質になりそうだ。……そこの坊っちゃんは置いていきましょう。もしこの美しいレディを取り戻したければ、麻帆良学園の中央付近にあるステージ……決闘場まで来なさい。逃げも隠れもしませんよ」
「……」
ネギが詠唱を始めるよりも早く、ヘルマンは風のように窓枠を蹴り、千鶴を抱えたまま夜の闇へと姿を消した。残されたのは、気絶した小太郎と、呆然とするあやか、そしてへたり込む夏美だけだった。
「……チッ。面倒なことになりましたね」
ネギは舌打ちをし、気絶している小太郎を見下ろした。
***
その頃。ヘルマンが千鶴を攫うという強硬手段に出たのと時を同じくして、学園のあちこちで、ヘルマンの配下である三匹のスライム――『あめこ』『すらむい』『ぷりん』による、恐るべき無音の誘拐劇が幕を開けていた。
女子寮の広々とした大浴場。
湯気が立ち込める中、綾瀬夕映、宮崎のどか、古菲、そして朝倉和美の四人は、一日の疲れを癒すべく、完全に無防備な全裸の姿で湯船に浸かっていた。18歳を過ぎた彼女たちの身体は、それぞれに美しく成熟している。のどかの白い肌、夕映の小柄ながらも均整の取れた肢体、古菲の鍛え上げられたしなやかな肉体、そして朝倉の豊満なFカップの胸が、お湯の中で揺れている。
「ふぅ……極楽アル。修行の後の風呂は最高アルな」
「そうね。今日は特ダネもなかったし、ゆっくり休ませてもらうわ」
「夕映ちゃん、のぼせないようにね……」
「大丈夫するです。……ん?」
夕映が、排水溝のあたりから、奇妙な透明の粘体が這い出してくるのに気づいたのは、それが彼女たちの足首に絡みついた直後だった。
それは、一切の殺気も魔力も発散させず、ただの「水」のように擬態して彼女たちに忍び寄っていたのだ。
「な、何これ!? 体が……動かな……っ!」
「んっ……!? 声が……出ないアル!」
スライムたちは瞬時に膨張し、全裸の少女たちの口を塞ぎ、四肢を拘束した。悲鳴を上げる間もなく、彼女たちは粘液の中に完全に飲み込まれ、湯気の中に音もなく引きずり込まれていった。浴場には、彼女たちが直前までそこにいたという波紋だけが残されていた。
一方、別の区画の廊下。
京都神鳴流の剣士、桜咲刹那は、主である近衛木乃香の護衛のために夜の巡回を行っていた。彼女の歩みは隙がなく、どんな刺客であろうと斬り伏せる覚悟に満ちている。
「……異常なし、ですね。木乃香お嬢様は、お部屋でお休みになられているはず」
刹那が木乃香の部屋の前に差し掛かった時、廊下の角から、不意に一つの影が現れた。
「せっちゃん……」
「っ!? 木乃香お嬢様!? どうしてこのような所に……しかも、お召し物を……!?」
刹那は激しく動揺した。目の前に現れたのは、愛する主である木乃香。しかし、なぜか彼女は一糸纏わぬ全裸の姿で、恥じらうように身体をくねらせていたのだ。
「せっちゃん……私、なんだか体が熱くて……抱きしめて……?」
「お、お嬢様……! いけません、そんなお姿で……っ! しかし、その、とてもお美しくて……」
刹那の顔が爆発するほどに赤く染まり、剣士としての隙が完全に生まれた。彼女の目は、木乃香の柔らかな胸元や、なだらかな腰のラインに釘付けになってしまっている。
――その瞬間だった。
全裸の木乃香の姿をとっていたスライムが、ドロリと形を崩し、見惚れて硬直していた刹那の身体に勢いよく飛びかかったのだ。
「なっ!? しまっ……んぐぅっ!!」
剣を抜く暇さえ与えられず、刹那は粘体に取り込まれ、廊下の闇へと消え去った。
そして、自室のベッドで無防備に眠っていた神楽坂明日菜、近衛木乃香の二人もまた、それぞれの部屋に侵入したスライムたちによって、一切の抵抗を許されずに静かに攫われていった。
***
「……う、ううん……っ、痛てぇ……」
あやかたちの部屋。絨毯の上で気を失っていた小太郎が、首筋を押さえながら重い瞼を開けた。視界が晴れると、目の前には腕を組み、極めて冷ややかな目で見下ろしてくる男の姿があった。
端正な顔立ちに、丸眼鏡。見覚えのある――いや、忘れるはずもない顔だ。
「てめぇ……! 京都の時の、あの野郎か!」
小太郎は瞬時に立ち上がり、牙を剥いて身構えた。京都では、ろくな会話も交わすことなく、圧倒的な暴力で一方的に叩きのめされた記憶しかない。だが、小太郎の目に恐怖の色は一切なかった。あるのは、その時の借りをきっちり全額返してやるというギラギラとした闘争心だけだ。
「ちょうどいいぜ! あの時はやられっぱなしだったがな、今ここでぶっ飛ばしてやる!」
小太郎が拳を握り込んで飛びかかろうとしたが、ネギは小太郎の威嚇などそよ風のように受け流し、冷酷な声で告げた。
「起きましたか、駄犬。相変わらずキャンキャンと騒々しいですね」
「なんだと!?」
「勘違いしないでください。僕も君のような小石をいちいち相手にする趣味はないんです。……あの髭の男は、君をここに置いていきました。代わりに、僕の生徒である千鶴さんを攫ってね」
「なっ……!? あのオッサン、千鶴って姉ちゃんを……!?」
「麻帆良学園の中央、ステージ。そこで待っていると言い残して逃げました。……僕の所有物に勝手に手を出したこと、骨の髄まで後悔させてやらなければなりません」
ネギの言葉には、紳士的な響きの奥に絶対零度の殺意が混じっていた。
「……チッ。あのオッサン、関係ねぇ奴まで巻き込みやがって!」
小太郎は拳を強く握りしめ、舌打ちをした。目の前のネギへの借りを返すのは後回しだ。まずは、自分を庇って攫われたあの女を助け出し、あの髭のオッサンをぶっ飛ばすのが先決である。
「おい! 俺も行くぞ! あのおっさんには俺も用がある。千鶴って姉ちゃんは俺が助け出す!」
ネギは小さくため息をつき、スーツの埃を払いながら背を向けた。
「足手まといにならないなら、勝手についてきなさい。さあ、行きましょうか。夜の散歩には、少し血生臭いステージのようですがね」
決して相容れないはずの二人は、攫われた千鶴を取り戻すため、夜の決闘場へと歩みを進めた。