夕暮れ時の麻帆良学園中等部女子寮。
ネギの部屋――正確には神楽坂明日菜と近衛木乃香の部屋のロフトスペースで、小さな密談が行われていた。
「へっへっへ。兄貴、ご注文の品が揃いましたぜ」
オコジョの妖精、カモミールが鼻をひくつかせながら報告する。
彼の足元には、いくつかの魔法具や、怪しげな小瓶が並べられていた。
「ご苦労。……手回しがいいな」
「商売道具ですからねぇ。で、どうするんです? 早速今夜やりやすか?」
「ああ。木乃香ちゃんは今日は図書館探検部の活動で帰りが遅い。……狙うなら、今しかない」
ネギは眼鏡の奥で冷徹に計算していた。
ターゲットは神楽坂明日菜。
彼女を最初の『従者(パートナー)』として、そして『絶対服従の愛玩人形』として手に入れる。
そのための舞台装置は整った。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
明日菜が帰ってきたのだ。
「カモ、手筈通りに頼むぞ」
「合点承知!」
カモは素早く物陰に隠れる。
ネギは鏡で表情を確認した。
そこに映るのは、変態教師ではなく、強大な敵に怯える等身大の少年の顔だ。
「ただいまー。……あれ、木乃香は?」
「おかえりなさい、明日菜さん。木乃香さんは今日は部活で遅くなるそうですよ」
リビングに入ってきた明日菜を、ネギが出迎える。
明日菜は鞄をソファに放り投げ、大きく伸びをした。
「そっかー。じゃあ夕飯どうしよっかなー」
「……あの、明日菜さん」
ネギは少し沈んだ声色で呼びかけた。
「ん? どしたのネギ、暗い顔して」
「少し……お話してもいいでしょうか。真剣な相談があるんです」
いつになく深刻なネギの様子に、明日菜も表情を引き締めた。
彼女はソファに座り直し、ネギに向き合った。
「……何よ、改まって。エヴァのこと?」
鋭い。
だが、それも想定内だ。
ネギは小さく頷き、ポツリポツリと語り始めた。
「……はい。先日、あなたが『一人で戦わせない』と言ってくれたこと、本当に嬉しかったです。教師として、男として、気丈に振る舞ってはいましたが……本当は、不安で仕方なかった」
「ネギ……」
「相手は最強の吸血鬼です。僕のような未熟な魔法使いが勝てる相手なのか……夜も眠れないほどなんです」
ネギは拳を握りしめ、震える演技を見せる。
明日菜の瞳が揺れるのがわかった。彼女は根が優しく、困っている人間や弱音を吐く仲間を放っておけない姉御肌だ。
「それに、魔法使いには本来、『従者(ミニステル・マギ)』と呼ばれるパートナーがいます。エヴァンジェリンさんには茶々丸さんがいる。でも、僕には……背中を預けられるパートナーがいません」
「……」
「一人で立ち向かうには、あまりにも孤独すぎるんです」
ネギが顔を上げると、明日菜は痛ましげな表情をしていた。
まだ幼さの残る少年(に見える)教師が、命懸けの戦いを前に震えている。
彼女の正義感と母性本能を刺激するには十分だった。
「……バカね。アンタにはアタシがいるじゃない」
明日菜はネギの手をギュッと握った。
「言ったでしょ? 協力するって。アタシで良かったら、いくらでも背中預けなさいよ!」
「明日菜さん……」
ネギは感極まったように明日菜を見つめ、そして、核心への問いを投げかけた。
「……僕を、助けてくれますか?」
「もちろん!」
即答だった。
網にかかった。ネギは内心で舌なめずりしながら、次の段階へと進む。
「……実は、明日菜さんには『魔法を防ぐ特殊な才能』があるんです」
「え? 才能? アタシに?」
「はい。信じられないかもしれませんが……少し、試してみましょう」
ネギは人差し指を立て、極小の魔力で電気を発生させた。
バチッ、と青白い火花が散る。
「見てください。触ると少しビリッとします」
「うわ、ホントに電気だ……」
「自分はこれを防げる、弾けると思ってください。……いいですか?」
ネギはゆっくりと帯電した指を明日菜の手の甲に近づける。
明日菜は少し身構え、「防げる」と念じたようだ。
指先が肌に触れる直前。
フッ、と電気が消失した。
「えっ? 消えた?」
「そうです。これが明日菜さんの力、『魔法無効化』です」
「凄っ! アタシ、そんな力あったんだ!」
明日菜は自分の手を見てはしゃいでいる。
だが、ここからが重要な論理のすり替えだ。
「凄い力です。……だからこそ、明日菜さんに僕を助けてもらうには、あなたの『協力』が不可欠なんです」
「協力?」
「はい。本来、魔法使いの従者は、契約を通じて主人から魔力の供給を受けて戦います。身体能力を強化したり、武器を具現化したりするために」
「ふんふん」
「ですが、あなたの力が強すぎると、僕が送る魔力すらも弾いてしまうんです。さっきの電気のように」
ネギは真摯な眼差しで明日菜を見据えた。
「明日菜さん。僕を助けるために……僕の魔力を『受け入れて』くれますか?」
「受け入れる……?」
「はい。あなたが心の底から僕を受け入れようとしてくれないと、魔力のパスが繋がらない。……そうなれば、僕は戦場で孤立し、明日菜さんに助けてもらう事もできなくなる」
ネギは懇願するように明日菜の手を握り返した。
「僕を助けてくれるんですよね? 明日菜さん」
逃げ道はない。
「助ける」という目的のためには、「受け入れる」しかないという論理構造。
明日菜は一瞬戸惑ったようだが、すぐに力強く頷いた。
「……わかったわよ。アンタの魔力でも何でも、受け入れてやるわ! 任せなさい!」
「ありがとうございます、明日菜さん!」
(……チョロい。そして、いい子だ)
ネギは心の中で邪悪に笑い、物陰のカモに目配せをした。
「では、仮契約(パクティオー)を行います。……じっとしていてくださいね」
ネギが呟くと同時に、リビングの絨毯の下に隠されていた魔法陣が淡く発光を始めた。
部屋の照明を少し落とし、雰囲気を高める。
どこからともなく、静かでゆったりとした環境音楽のような旋律が流れ始め、微かに甘いアロマのような香りが漂っていた。
「う、うん……なんか、ドキドキするわね」
明日菜が頬を染める。
魔法陣の効果により、周囲の魔力密度が高まっている。
魔力に敏感な彼女は、肌を撫でられるような不思議な高揚感を感じているはずだ。
それが「ネギの下心」や「術式の影響」だとは気づかずに。
「リラックスしてください。……大事なのは、受け入れる心です」
ネギは明日菜の顔に近づく。
至近距離で見つめ合う。
明日菜の瞳が潤み、呼吸が少し浅くなっているのがわかった。
「……キスしますね、明日菜さん」
「えっ!? キ、キス!?」
「はい。魔力を送るための、一番効率的な粘膜接触です。……僕を助けるためです、明日菜さん」
「助けるため」という免罪符。
明日菜は顔を真っ赤にして視線を泳がせたが、やがて覚悟を決めたように目を閉じた。
「……わ、わかったわよ。……一回だけだからね」
「ええ、約束します」
ネギはそっと明日菜の唇に自分の唇を重ねた。
柔らかく、温かい感触。
触れた瞬間、ネギは意図的に魔力を流し込んだ。
「んっ……!」
明日菜の身体がビクリと跳ねる。
魔力の流入は、神経を直接刺激する快感を伴う。
拒絶しようとする無意識の防衛本能が働くが、明日菜は「受け入れなきゃ」という理性でそれを抑え込む。
その葛藤が、防御の壁をさらに脆くしていく。
部屋に満ちる安らかな空気、思考を鈍らせるような心地よい音色。
それらが明日菜の緊張を解きほぐし、ネギへの警戒心を溶かしていく。
ネギは唇の角度を変え、より深く押し当てた。
明日菜の唇が、自然と開く。
「……ん、ぁ……」
舌先を滑り込ませる。
明日菜の舌と絡め合う。
驚いて身を引こうとする明日菜の背中に手を回し、逃がさない。
(受け入れて。もっと、深く)
魔力と共に、強制的な「好意」と「従属」の信号を送り込む。
明日菜の抵抗が弱まっていく。
最初は固く閉じていた拳が、やがてネギの服を掴み、すがりつくような力に変わった。
チュ、クチュ……と、唾液と魔力が混ざり合う水音が、静かな部屋に響く。
長い、長いキス。
明日菜の頭の中は、蕩けるような快感と、ネギへの愛おしさで真っ白になっていた。
そして、ネギが唇を離した瞬間。
明日菜は惚けたような表情で、とろんとした目をネギに向けていた。
防御は完全に解かれている。
(今だ)
ネギは明日菜の瞳を覗き込み、練り上げていた魔法を放った。
『強制催眠』
「明日菜さん……眠ってください」
「……あ……」
抵抗はなかった。
明日菜の瞳から光が消え、深い闇へと落ちていく。
その身体がガクンと力を失い、ネギの腕の中に崩れ落ちた。